〈11〉

〈11〉


 陽が沈む間際になって、この町では珍しい曇天になった。天からもたらされる恵みの水はとても貴重だから、空に雲が集まり始めると町の人たちは総出で貯水タンクの確認を始める。

 この事務所も例外ではなく、町中から教会に喧嘩を売るために集まったはずの人間たちはそそくさと自分たちのアジトへと散っていってしまった。

 なんとなく『解放の子供たち』を自称する彼らの本気度が垣間見えた気がする。

 結局、事務所に残ったのは行き場のないボクらとシュン、ここの主である所長とヒナコ、そして朝月だけだ。

 黄色いスポンジをはみ出させたソファーが据えられた事務所の隣、給湯室だと教えられた部屋には広いカウンターを持つキッチンと四人掛けのダイニングテーブルがあった。朝月と向かい合ってテーブルに着いたボクの前には、けれど黄金に輝く銃弾と漆黒に照る弾倉とが並べられている。

 所長に教えられた通り、ボクは弾倉に弾を一発ずつ押し込む作業に没頭する。ちなみに銃弾を押し付けた所長は、早々に退室してしまっていた。ボクは金色の弾頭の反射に目を眇めつつ、キッチンでヒナコと一緒にパイ生地を捏ねるシュンを盗み見る。

 キヨカさんがバンズを仕込んでいるのを見学したことはあっても、シュンが自分の手で粉に触れるのは初めてのはずだ。腕や頬だけでなく額まで真っ白にしている。

 その汚れを拭ってやるヒナコの頬はキヨカさんほど膨らんでいるわけではないけれど、同じくらい甘ったるい笑みを宿していた。

 キキン、と指先から銃弾が逃げる音でボクは視線を戻す。

 テーブルに跳ねた弾は、きれいに整列させた銃弾を巻き込んでキッチンへと転がっていく。薄暗い弾倉に押し込まれるより、楽しい料理教室に加わりたい、と主張するようだ。

 ボクの代弁者気取りの銃弾がテーブルから逃亡する寸前で、朝月の指が止めてくれた。

「錆弾か?」

 朝月はそれを手元の空き箱に投げ入れかけ、けれど不思議そうに片眉を上げてから自分の弾倉に押し込んだ。そして同じ指で、弾を失って空っぽになったボクの掌に触れる。

「指、動かないのか?」

「違うよ」と軽く答えてしまうには彼の声音が本気の色を帯びていたので、ボクは首を振って自分の手をとり戻す。朝月の視線が指先に絡まりつくのを感じながら、滑らかな動作を意識して次の弾をこめた。

 もう限界近くまで弾を呑み込んだ弾倉の抵抗を、無理矢理押さえ付ける。キン、と拒まれた弾がまた跳ねる。

「ボクには銃を扱う才能がないのかもしれない」

「そんなもん必要ない」転がった弾を拾った朝月が鼻を鳴らす。「弾なんか足元に撒いときゃいいんだよ」

「足元? 胴を狙えって言われたよ」

「所長に、だろ。いいんだよ。相手の戦意を奪えればそれでじゅうぶんなんだ。いいか、足元を狙え。跳弾して適当に被害が拡大してく」

「チョウダン?」

「床や壁にあたった弾が割れて跳ねるんだ。撃ち合いになったら壁には張り付くなよ。最低でも拳二つ分は離れろ」

「そんなに離れたら撃たれるんじゃないの?」

「撃たれるほどには出るな。まあ、お前は俺の後ろにいればいい」

 銃弾とボクとの間に身を置く彼を、なんの違和感もなく想像してしまったことにひどい吐き気を覚えた。

 ついさっき、焦の言葉を聞いたばかりのくせに。

「ねえ、朝月」キッチンから届く笑いに、声を潜める。「君はボクのなに?」

「なにって……逆なら答えられるが、お前にとっての俺がなにか、なんてお前にしかわからないだろ。それとも」

 朝月の視線が窓辺に逃げる。そこに渦巻く夜の足音を三呼吸睨んで、彼は眉を寄せる。

「俺自身に俺の立ち位置を決めさせたいのか?」

 そうかもしれない。斜光に染まる屋上でヒナコに答えたように、ボクの存在は石の心臓と死に損なった体と死体の中で育った意識を複雑に足したり掛けたりした計算結果のようなものだ。その計算式を立てたのが朝月であればよかった、なんてバカなことを半ば以上本気で思っていたりもする。

「所長に言わせると、君は白ネコなんだって」

 朝月は黙って壁を、その向こうにある事務所を振り返る。地図や銃が積み上げられた事務机の上で、ブックエンドに拘束されている絵本を透視しているのだろう。斜視気味にボクらを観察する海賊帽の黒ネコの存在を、壁越しに探る。

「ねえ、朝月。あの黒ネコの名前を知っている?」

「名前なんか」浅い息継ぎを挟んで、朝月は首を戻す。「ないだろ」

「うん、名前なんかなかった」ボクは顔を伏せて唇を歪めた。「でも、ボクはずっとあのネコに名前があると思っていたんだ。ヘレブで最後の見学者に撃たれたときも、ずっとあのネコの名前を思い出そうとしていた」

 甲高いシュンの笑い声がボクらの間を駆け抜けた。弾倉を埋めた弾丸の真鍮色が滲んでいる。

 ヘレブで朝月が淹れてくれた紅茶に浮かんでいた光の色だ。世界で一番優しい飲み物の輝きが、人を殺す道具の中に宿っていた。それがひどく悲しい。

「きっとボクも同じなんだ。君がボクを『ケイ』と呼んでくれたから、自分に名前があるんだと錯覚した。人間のように、君と同じ時間を過ごせるんじゃないかと夢を見てしまった。本当は名前もないただの、死体だったのに」

 爆発的に朝月を包む大気が膨れた。

 彼の手が、ボクの首に触れる。そう思ったときには襟元をつかまれていた。激しく揺さぶられる。

 恐ろしく近くに朝月の顔があった。目元を引きつらせて、唇を戦慄かせて、ボクを睨んでいる。

 キコン、とテーブルから落ちた銃弾が床に跳ねる。一つ、二つ、あとはもう後を追うように整列していた銃弾の列は雪崩を起こす。遅れて、朝月の椅子が床を擦る鈍い音がした。

「お前は」

 朝月の低い呻きが、尾を引く銃弾の嬌声に沈む。怯えたネコのように震えた呼吸が、ボクらの間で溺れかけていた。

 また、シュンの笑い声が鼓膜を裂いた。

 咄嗟にボクは朝月から眼を逸らす。シュンとヒナコが笑うキッチンへ、床の黄金へ。そして、逃げきれずに朝月の口元へ舞い戻る。

三つ子月を空につなぎ留めているこの惑星のように、きっと彼にも引力めいたものがあるのだろう。それがボクにだけ作用する力ならいいのに、とこの期に及んでボクはまだ、愚かな夢を見る。

 朝月の手が僅かに緩む。強張っていた肩が落ちて、やっぱり床に散った真鍮の輝きを睨む。

「お前は」朝月の掠れ声が、遠かった。「そんな風に思ってたのか。俺が……一度でもを」

 言葉と呼吸を強引に呑み込んで、彼はボクを手放す。表情を隠すように俯いて、「ユエさん?」と首を傾げるヒナコに一瞥もくれることなく、手荒く扉を開けて薄暗い廊下に消えて行った。

 足早に出て行った朝月を見送った扉が、穏やかに口を閉ざす。朝月の残り香がボクを煽る。

「どうしたんですか?」

「どうも、しないよ。ちょっとした意見の相異。ボクが見ていた夢の正体が、彼には許せなかったらしい」

「追わなくていいんですか?」

「君が追えばいい。君が行って」ボクはヒナコの首元に、そこに巻かれた漆黒のリボンが臭わせる死の女神の存在に、笑いかける。「彼を人間の世界に引き戻してあげるといい。アララトの惨劇は稀人に感化された人間への天罰なんだろう?」

 ヒナコは手を汚す粉をカウンターに叩きつけると、大股にカウンターを回り込んでボクの前に立つ。

 冷たい眼だ、と思ってから、その瞳の奥に揺らめく苛立ちと怒りに気が付いた。

 彼女の仄白い手に眼を落す。死体の色とは違う、健全な小麦粉の白だ。爪の先には粘土状になったものも挟まっている。

 その手がやおら上がり、教会列車を思わせる速度で振り下ろされた。乾いた破裂音と視界の点滅が同時にきた。一拍遅れて頬が痺れる。

「ツキ姉!」

「いじめたわけじゃないわよ!」

 シュンの悲鳴とヒナコの鋭い釈明が絡み合う。

 じんわりと熱が広がる頬に触れて、ようやくヒナコに叩かれたことを悟る。彼女に平手で打たれるのは、二度目だ。

 ヘレブでは散々切り刻まれていたけれど、平手で打たれることなんてなかった。衝撃にどう対応すればいいのか戸惑った血液が、鼓膜の内側で騒ぎ立てる。

「卑屈になってる人には、これくらいしないとダメなのよ」

ヒナコの声は硬くて、意外にも嘲りや呆れといった感情は読み取れなかった。

「全部を、わたしたちに押し付けないで。ユエさんを追い出したのはあなたでしょ。わたしが行ってどうすればいいんです。聞いてもいなかったあなたの暴言を代りに謝れと? いい加減にしてください。稀人だろうと人間だろうと、人を傷付けたら傷付けた本人がなんとかするべきなんです。いい歳して、そんなこともわからないんですか」

「いい歳って……」

 間抜けにも、ボクはぽかんと口を開けて彼女を見上げる。それ以外の反応が思い付かなかった。

 ヒナコに八つ当たり気味の言葉を投げた自覚はあった。反駁されるかもしれないとも思っていた。けれど、まさか諭されるなんて予想もしていなかった。

 そんなボクの反応に焦れたのか、ヒナコは粉まみれの手でボクの腕を引っ張る。白い手形がシャツに残ったけれど、ヒナコもボクも気に留めない。

「ほら、さっさと行ってください」

 背中を突かれてよろめくように一歩を踏み出す。シュンの不安そうな顔を横目に出した二歩目が、銃弾を蹴り飛ばす。三歩目はもう、扉しか見ていなかった。

 ボクは走り出る。二階の廊下を踏み鳴らして、事務所の扉をノックもせずに引き開ける。

 奥のデスクで、所長がぎょっと顔を上げた。彼女の腕が素早く引出の中へ入れられるのが見えた。銃を、取ったのだろう。

 彼女を無視して、ボロソファーへと歩み寄る。

肩を落とした朝月が、雨に打たれた野良ネコみたいに背を丸めて座っていた。組み合わせた両手を額につけて、床ばかりを見ている。

「悪いけど」とボクは朝月を見下ろしたまま、所長に詫びる。「席を外してくれないかな? 二人で話したいんだ」

 所長はボクの真意を図るように目を眇めてから、なにも言わずに席を立つ。右手には、やっぱり大きな回転式拳銃が提げられていた。彼女は物騒な武器を引出に戻しもせず、ボクと朝月を残して扉を閉めてくれる。

 細く開いた窓から三輪トラックの苦しげな喘ぎが忍び入る。化石燃料の不味さを黒煙で訴えながら、それでも健気に坂道を上って行くやつだ。

「さっき、ボクのことを『あんた』って言ったね」

 朝月の息遣いが、少しだけ乱れた。

 数秒迷ってから、彼の隣に腰を下ろす。頼りないスプリングがボクらを揺らした。仄かに朝月の体温を感ずる、懐かしい距離だ。

 ヘレブにいたころ、ヘカトンケイレスの制御室の壁際にいつも二人して膝を抱えて座っていた。そこが、廊下からもヘカトンケイレスのキャットウォークからも死角になる位置だったからだ。廊下から朝月たち技術者の働きっぷりを監視しては小言を降らせる儀大人や、切り刻まれるか見学者を案内するかの仕事に飽きた仲間たちが寄越す好奇の眼を厭った結果、そこに落ち着いた。

ボクはその狭くて温かいあの場所が、気に入っていた。

「君が怒ったのは」

「怒ったわけじゃない」朝月が素早く、けれど弱い声でボクを遮る。「自分に腹が立っただけだ。俺は無自覚に、お前にそういう態度を……お前に、自分は死体だと思わせる態度をとってたか」

「違うよ」と紡ぐはずの息が、出てこなかった。

アララト教会から出てくる星大哥が、神さまの像の前で胸を裂かれたナミコの無惨な最期が、その惨劇を前に立ち竦むホタルとシュンの顔が、瞬間的に脳裏を過る。

 ボクは慎重に「君は」と呟く。

「君だけが、いつもボクを人間のように扱ってくれた。ボクが勘違いしそうになるくらい優しかった」

「勘違い?」

 両手に額をつけたまま、朝月は視線だけを寄越す。

 勘違いの内容を知られることが恥ずかしくて、ボクはただ微笑を浮かべる。

 そんなボクをどう思ったのか、朝月は唇を噛んだ。問い質したいのに正しい言葉が見当たらない、といったもどかし気な表情だ。彼はボクの口元を睨んでから、そっと目を伏せる。

「お前は……」

 意を決したように、朝月は組んでいた両手を解いた。水中を漂う落ち葉や所長のデスクで身をくねらせているコーヒーの湯気のように、きれいで優美な軌跡だ。緩く曲げられた指の関節まで、彼は美しい。生きている人間の逡巡が宿る曲線だ。

「俺の勘違いなら謝る。笑ってくれても構わない」

 その前置きだけで、彼がなにを言おうとしているのかわかった。

「お前、俺が好きなのか?」

 ほら、とボクは頬を緩める。あのときと同じセリフだ。だからボクも、あの夜の再現に協力する。

「脳波を計測してみればいい。得意だろ?」

「俺はっ」

 少しだけ声を高めて、けれど朝月は凍りついた。完全な停止が二呼吸。彼の眉が険しく寄って、尖った眼が電光を閃かせて、舌打ちが一つ。

「あのときと同じ会話ってか」

 ボクは声を上げずに、笑った。嬉しかったんだ。彼があの夜を、ボクと朝月が共有した最後の夜を覚えていてくれたことが、本当に嬉しくて仕方がなかった。


 あの日、ヘレブ社が教会の武力によって解体される前夜、ボクはいつもの制御室じゃなくて、ヘカトンケイレスの淡い発光と蜘蛛の巣を思わせるキャットウォークが見下ろせる廊下で朝月の退勤を待っていた。天井を這うパイプからは相変わらず『彼ら』の噂話が姦しく降っていたのを覚えている。

 儀大人が早退したのは女性研究員とのデートのためだ、とか、受付のロボットが暴走してお客に手を上げた、あれはもう廃棄処分になるんじゃないか、とか、好き勝手に妄想を繰り広げる『彼ら』の声の中から一つだけ有益な情報を得て、ボクは凭れていた壁から背を離した。

『彼ら』の情報通り、すぐに廊下の角から朝月が出て来た。

 見慣れた白衣じゃなくて、茶褐色のジャケット姿だった。いつものスニーカーではなく使いこまれて艶を帯びた革のワークブーツを履いていたせいで、ほんの僅かにだけど、ボクは彼を見上げるハメになった。

「びっくりした」朝月は大して驚いた様子もなく笑う。「あんた、今日来なかったから実験棟に行ってるのかと思ってた」

「行ってたよ」ボクはシャツの裾を捲って、生白い脇腹の再生痕を見せる。「臓器をいくつか抜かれた」

 朝月は礼儀正しく顔を横に向けて、ボクの手ごとシャツの裾を引き下ろした。

「なら、さっさと部屋に戻って休めよ」

「うん。でも、読み終えたから返そうと思って」

 ボクは一冊の本を差し出す。この言い訳のために食事をしながら本を読むなんて行儀の悪いことをしたんだ。もっとも初めからこの施設には、誰一人としてボクのマナー違反を咎める人間なんて存在しない。朝月以外は。

「速かったな」

朝月は肩から斜めにかけた布バッグにボクから回収した本を放り込んで、しばらくその中を探る。

 彼はいろんな国の言葉の本を貸してくれる。少しずつ難しい言葉が増やしながら、ボクが無理なく学習できるように気を配ってくれている。彼が教えてくれなければ、ボクはこの惑星にはたくさんの言語があり、言語や文化によって生活グループが形成されているなんて、知らずにいただろう。

ヘレブにあるのはヘレブの規則と、この惑星の公用語だけだ。

今日返したのは、彼の祖先が母星で使っていた言語で書かれたものだった。

「悪い。新しい本、持ってきてない。まさかこんなに早く戻ってくるとは予想してなかった。面白かったのか?」

「よくわからない」ボクは素直に白状する。「でも興味深いところはあったよ。ほら、美しい建造物に執着するあまり火を着けて燃やしてしまうところ。あの気持ちは、少しわかる気がする。独占欲ってやつだよね?」

「そこかよ」はは、と朝月は声を上げて笑う。「あんたはその手のタイプじゃないと思ってたが」

「そういう行動にでられるほど強い感情に興味はあるよ。ボクはなにかに執着したりはできないから」

 朝月は唇を解いて、薬品臭ごと空気を吸っただけで黙り込む。

 その戸惑いを嘲うかのようにヘカトンケイレスが明滅した。反射的な動きで朝月は廊下の窓からヘカトンケイレスに眼を走らせる。

 優秀な技術者である彼はすぐに、それが『彼ら』の悪戯だと気付いたらしい。忌々し気に嘆息した。

「『彼ら』も」とボクは擁護を口にする。「ただタンクに浮いているだけじゃ、暇なんだよ」

人間で遊ばれたって迷惑だ」

「君が、はっきりしないからだよ」

「俺?」と不本意そうに片眉を上げた朝月は、「ああ」と思い至ったように首を掻いた。「そうか、忘れてた。……あのな、ちょっと訊きたいんだが」

 ボクの鼓膜を『彼ら』の好奇が掻き乱す。朝月のきまり悪気にしかめられた表情や掠れた声音すらさらっていきそうなほどに、うるさい。

「あのな、俺の勘違いなら謝る。笑ってくれてもいい」

 そう前置きして、彼はボクではなくヘカトンケイレスの拍動を睨んだ。

「あんた、俺が好きなのか?」

 その質問を受けるためにここにいたはずなのに、一瞬、けれど記憶している人生の中で一番激しく動揺した。

 それを知られないために、笑う。朝月がボクを見ていなくてよかった、と思ったのは後にも先にもこのときだけだ。そっと唇を舐めて、笑みが引きつらないように細心の注意を払う。

「脳波を計測してみればいい。得意だろ?」

「俺は研究員じゃない。脳波なんか、どうでもいい。それに、あんたの気持ちは数値に出るのか」

「好き嫌いはわかるって噂だよ」

「それは食い物の好き嫌いと同じ次元に限った話だ」

「ボクらの関係は別の次元なの? おかしいよ。でも、まあ、どっちにしたってそれが君に与えられた仕事なんだろう? 気にせず実行すればいい」

 朝月は黙って首を傾げた。主人の命令が理解できなかった仔イヌのようだ。もっともイヌなんて生物は見たことがないので朝月が貸してくれた写真集からの想像だ。

 そんな彼に、ボクは優しさってものを意識した顔を向ける。

「『脳波を調べてみよう、アレが君をどの程度好いているかわかる。もしそれが恋愛感情を示していれば脳を破壊してみよう。再生した脳が君のことを覚えているかどうかも興味深いが、なによりも稀人がそんな感情を持つとすればこれまでにない発見だ』か。その後の文句は……なんだっけ。忘れたよ」

 朝月が、瞠目した。ヘカトンケイレスの仄明りが、絵本で見た星屑のように映り込んでいて、ぞくりとするくらい美しい。

 半ば見惚れながら、ボクは注意深く平坦な声を作る。

「儀大人の、新しい実験だ」

 穏やかな速度で朝月の唇が震えて、言葉にならない風音を漏らした。

 ――なんで知ってるんだ。

「『彼ら』は」ボクは廊下の窓に手を突いて、青白く輝く三百のタンクを見下ろす。「早耳でお喋りだから気を付けたほうがいい。『彼ら』を生かすあの薬液は、同時に『彼ら』の目であり耳でもあるんだ。この会話も」天井のパイプを指す。「聞かれているよ」

 窓の奥にぼんやりと朝月の影が映り込んでいる。表情は見えない。見たくもない。

 ボクは天井に向けていた指先で自分の頭を叩く。

「壊してみる?」

 彼の手でなら、彼の手でこそ、ボクの全てを葬ってほしい。そう本気で、懇願に近い望みを抱く。

 けれど朝月は、するりとボクの前から消える。ボクの傍をすり抜けた彼が寄越した風圧の中に、甘苦いコーヒーの香りが取り残されていた。

 ヘカトンケイレスの明かりを見下ろす。『彼ら』の声が一際甲高く響いている。

 制御室に駆け込んだ。

 狭苦しい部屋に複雑な機械の輪郭が浮き上がる。ヘカトンケイレスの拍動、死者たちを生かす心臓部。

 噂好きな『彼ら』のさえいなければ、ボクはなにも知らずにいられた。朝月とこの部屋で過ごしていられた。

 凶暴な衝動が喉元を圧迫する。ヘカトンケイレスの制御室を、『彼ら』を生かす装置を、壊してしまいたい。全部を終りにして、ヘレブの存在を揺るがせて壊してしまいた。

 朝月がいないヘレブなんて、必要ないだろ。

 強く歯を食いしばり過ぎて、顎が痺れていた。苦労して頬の筋肉を弛めて、口を開ける。気持ちを落ち着かせるために、いつもの壁際まで後退った。

 デスクから、海賊帽をかぶった黒ネコがボクを睨んでいた。卑怯な手で朝月を暴いたボクを責めているのかもしれない。もしくは、八つ当たり気味な殺意を抱くボクを軽蔑しているんだ。

デスクの傍まで歩んで、黒ネコを撫でる。

「そんな目で見ないでよ。ボクにどうしろっていうの。他の方法なんて知らないのに」

 ページを捲って黒ネコの死と生と死を眺める。どれもこれも自由で幸せな人生だった。好きな相手ばかりを仲間に選んで、身勝手に生きて、白ネコに出逢って――。ふっと胎に灯った感情がボクを煽った。

 最後のページに指をかける。

 そこにある幸せが許せなかった。だからボクは、黒ネコの最後の時間を盗む。黒ネコが幸せに長い人生を終えるその瞬間を破り取って、ポケットに押し込めて、ボクは制御室をあとにした。もうここに来ることはないだろう、と思いながら。

 自分の部屋でボクは何度も何度も、夜明けまで黒ネコから奪った幸せを眺めていた。


   九十九回 生き返った黒ネコは

   初めて死んだ白ネコを抱いて

   百回目の死を迎えました。


   それきり黒ネコは動かなくなって

   百回目に生き返ることはありませんでした。


 そして、幸せそうに寄り添った二つの影を胸に忍ばせたまま、ボクは最後の見学者を出迎えた。


 鮮明に、ボクらはその夜を覚えていた。

 けれど今の朝月は目を逸らすことも逃げ出すこともせず、ボクの隣に座っている。控えめに香りを放つコーヒーは所長のデスクに載っているし、壁の向こうに感じるのはシュンとヒナコの気配だけだ。

「あのとき」朝月の低い声音が心地好い周波数でボクの心臓を揺らす。「お前から逃げたことは謝る、悪かった。けど、俺はウェイの実験に協力する気はなかった。お前に知られてたことに動揺したんだ。咄嗟に言い訳を考えた自分にも腹が立った。お前が平気な顔で再生実験を話すのも嫌いだった。俺は最初からお前を、稀人を、人間と区別したことはない」

 知っている。ずっと前から知っていた。彼に握られた指先がひどく熱い。火傷しそうなほど、皮膚の内側が痛んでいる。

「朝月、君は死体の管理者だ。だからこそボクらを人間として見ていられたんだよ。根元から切断された脚が数日で再生するのを見たら、君だって」

「顔が半分吹き飛んだお前を誰が介抱したと思ってるんだ」

 完全に修復し終えて傷痕すら残っていない右眼に触れる。

 そうだ、すでに彼はボクが稀人である証を見ている。

 それを認識した途端、指先に宿っていた彼の熱がボクの深いところで弾ける。指先の交叉を深めて、少し湿った朝月の掌を胸元に引き寄せた。冷たいはずの石の心臓で爆ぜる脈動が伝わればいい、とさえ思う。

「ボクの時間は、きっとあの黒ネコよりも長い。百回目の死なんてとっくに過ぎているはずだ。君の寿命が尽きるときも、ボクは今の姿のまま生きているかもしれない」

「ヘレブで働いてた俺に言うことか」微かに語尾を上げて、朝月は短い息を漏らす。

「あの絵本の黒ネコは何度も生き返っていたけれど、いつも他のネコとともに老化していた」

「お前たちは不老だろう。だから人間に排斥されるんだ」

「そうだね」

 ボクは彼と絡めた手を意識する。

 温かく湿った掌に、砂漠から飛んできた砂の破片が埋もれている。きっと、ボクもこの砂のような存在だ。仲間ばかりの変化のない荒野にいればいいのに、寂しくてどうしようもなくなって人間を、自分以外の誰かを求めてしまう。朝月だったりホタルだったりシュンだったり、いざとなればヒナコとだって親しくなれる気がする。

 けれど、とボクは朝月の手に額を寄せる。

「ボクはね、朝月。君を失いたくないんだ。君だけは、失いたくない。君がボクに執着するってことは、君が人間から離れるってことだ。『解放の子供たち』だけじゃない、稀人を排斥しようとする人間の全てから疎まれるってことなんだよ」

「そんなこと、どうでもいい」

「稀人に加担する人間を、人間たちは赦さない」

「アララトのように俺も殺されるって? 起こってない未来を勝手に想像して、今を否定するのか。バカらしい」

 そうだろうね、とボクは呼吸を緩める。予想していた答えの一つだ。けれど、ボクは最悪の事態を想像してしまう。野生動物が本能的に危機を察知して竦んでしまうのと同じだ。

 ボクは彼の手を放す。すぐに朝月は追ってくる。それでもボクは、自分の手を握りこんで、彼を拒む。

「ボクは君に訪れる時間が、怖い」

「俺だって、お前が時間から取り残されてるのを見るのは怖い」

「君が死ぬところなんか、見たくない」

「俺だって、お前が死ぬとこなんざ」

「君は!」声が尖ったことを自覚した。「本当の意味では、ボクの死を意識していないんだよ、朝月。君はどこかで、ボクが不死だと錯覚してる」

 一瞬、けれど確かに朝月は動揺した。それを握り潰すように拳を作って、彼は俯く。

「ボクは、いつも君を想う」

朝月の視線を頬に感じた。ボクは自分の爪だけを睨んで続ける。

「何度死んだって、どんな最期を迎えたって、君を想う」

「俺は……」

「ねえ、朝月」

 ボクは手を伸ばして、彼の拳に触れて、彼の手の甲に自分の掌を擦りつける。

「君を失ったら、ボクはどう生きて、誰を想って死ねばいいの?」

 応えは、なかった。最初から、期待していない。これはボクの告白で懺悔で、ひどい八つ当たりだ。

「ボクは、最後の死の瞬間には、君を想っていたいんだよ」

 朝月の低い唸り声がした。それが彼の返事だったのかは、判然とない。それでよかった。ボクらは互いを怖れていた。同じくらい、互いを求めていた。拮抗する感情が深すぎて身動きがとれない。

 朝月の拳が解けた。お互いの柔らかな皮膚を貪るように強く、ボクらは掌を合わせて、指を絡めて、祈るように手をつなぐ。

 言葉はなかった。ボクらの正しいカタチが、足元に横たわっている。屍になって、床に倒れている。そんな気がしていた。

 つないだ指先が冷たく冷えいく。二人ともが屍になりつつあるようだ。非生物的な沈黙が滞留する部屋で、ボクらは互いの最期を夢に溺れていく。


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