第4話 〈10〉


〈10〉


「だから! 引き金を引き続ければ銃口はどんどん上がっていくのよ!」容赦のない所長の怒声が飛んでくる。「最初からそんなところ狙ってどうするの。もっと腰に引きつけて。肩に力を入れ過ぎない! どうして引き金を落としっぱなしにするの。すぐに弾切れするじゃない。何度言ったらわかるの。下手ねぇ」

 遮光に揺らめく屋上にはボクと所長、そしてヒナコの影が細長く伸びていた。きっとヒート・ミール前の坂道に落ちている教会の尖塔も同じ形をしているだろう。

 ボクは平べったくて四角い銃を肩ベルトに預けて嘆息する。

『解放の子供たち』が有するたくさんの武器の中から朝月が選んでくれたものだ。小さいくせに五十五発も連射できるらしい。肩ベルトにかかる殺意の重みは制圧戦に駆り出される出稼ぎ軍人になったようで、背筋がぞわぞわとした。

「包帯が邪魔なんだよ」

『解放の子供たち』のメンバーとともに摂った賑やかな昼食とたっぷりの昼寝のお陰で、今のボクに損傷はない。陥没した右眼も引っ掛かり気味にしか動かなかった腕も、全てきれいに再生している。

 けれど急に包帯をとって、なにも知らない他のメンバーに怪しまれることは避けたかった。拒絶反応はいつだって恐ろしい早さで伝染するものだ。協力どころじゃなくなってしまう。

 それが怖くて、ボクは左右そろった眼の片方を包帯で塞いだままにしていた。

 そう広くもない屋上では『解放の子供たち』のメンバーが思いおもいに持ち寄った的に向かっていろんな種類の銃を構えている。稀人の敵である『解放の子供たち』が、同じく稀人の敵でありさらには人間社会に君臨している教会を攻めるための訓練をしている。実に不思議な光景だ。

 金属製の丸いゴミ箱を的にして銃を構えていたヒナコが、未知の生命体を発見したようにボクを窺っているのがわかる。ゴミ箱の中央に弾を集中させているヒナコとしては、どうしてボクの弾がゴミ箱を避けて通りの向こうにある建物の壁に吸い込まれていくのか、わからないのだろう。

 もっとも、ボクらが放っているのは壁を抉る弾じゃなくて、レーザーポインタの赤い光だ。弾倉は空っぽだからボクがどれほど下手でも実害はない。

 それにしたって、かれこれ二時間も銃を構えているのに一向に及第点をもらえないというのは少しばかり悲しい事態だ。

 初めてヒナコと会ったときに彼女のレーザーポインタのブレを嘲笑ったことを今さら反省してみたけれど、やっぱりボクのレーザーポインタはゴミ箱を掠めもせずに空に吸い込まれていく。

「絶望的ね」所長が呆れ顔で銃を下げた。「こんなに使えないとは思わなかったわ」

「無茶言わないでよ。こんなもの、初めて触るんだから」

「軍事目的以外で造られた稀人なんて」言ってから、所長は一呼吸を呑み込んで周りの仲間たちを見回した。誰かに今の言葉をきかれやしなかっただろうか、と慌てたようだ。続いたのは随分と小さな声だった。「初めて見るのよ」

「ヘレブではみんなが実験用か、誰かの願いで生き返った一般人だったんだ。武器を扱える奴なんていないよ」

「接近戦は? 今まで、人間に襲われたことがないとは言わせないわよ。ナイフくらい使えるんじゃない?」

「昔、朝月が貸してくれた本に、面倒事が起こったら逃げるほうが賢い、って書いてあったから忠実に実行してきたんだ」

「それはなんについて書かれた本かしら?」

「戦争の仕方について、だよ。母星の歴史でも古い時代に属する書物だ」

「その本を書いた人の国は、早々に滅びたんでしょうね」

 所長は肩を竦めて階段室の壁際に座り込む。ボクへの射撃指導は諦めたらしく、開いた脚の間に銃を立てている。

 ボクからはその短いスカートの中が見えないけれど、きっとヒナコが振り返れば見えるだろう。所長の所作には端々に彼女の肉体と精神の狭間で不安定に揺れる性別が滲んでいるようだ。

 ぴたりとゴミ箱の中央にレーザーポインタを当てたヒナコが振り返り、慌てた様子で雑多な街並みの上に顔を戻した。

「昔のユエさんって」唐突な、ヒナコの話題転換だ。「どんな人だったんですか?」

「朝月? 昔って、ヘレブ時代の? そうだなぁ……」

 ボクは数秒、考え込むふりをする。本当は瞬きの必要すらなく、彼との過去は思い出せるのに。

「朝月は……ボクより、たぶん指の数本くらいだけど、背が低かったよ。女性研究者にも人気があってよく食事に誘われていた。でも彼は人付き合いよりも仕事の方が好きだったから、いつもデートコースは社員食堂だったね。そのせいか、同じ女性から二度誘われたことはなかったはずだよ。少なくともボクは知らない」

ヒナコの視線を追って朱色に染まった人間の町を見下ろす。帰路を急ぐ人間たちのざわめきが、ヘレブでの勤務を終えた研究員たちと同じく浮ついていた。

 でも朝月は、ヘレブで勤務しているときのほうが楽しそうだった。退勤時間が近付くと憂鬱そうなため息を繰り返して、やけに夜勤を引き受けたがっていた。「だって、家に帰ったって誰もいないし」といつだったか朝月がどこか拗ねた口調で言っていたのを、思い出す。

 ここにいれば、少なくともあんたには会える。そう言ってくれた彼の声音が、ボクの鼓膜の内側で反響する。

「夜、ボクが部屋を抜け出して制御室に行くと大抵居残っていて、コーヒーがダメなボクのためにわざわざ紅茶を入れてくれた。ボクにお菓子を食べさせたことを儀大人に咎められたときは素直に謝っていたくせに、その日の夜にはまたお茶会をしたり……」

 ヘカトンケイルの制御室の壁際に二人で座り込んで、朝月が貸してくれた本についての感想や意見を交換し合ったりもした。あのとき、あの小さくて仄暗い部屋でボクが抱いた熱を、きっと彼は知らないだろう。知られたくもない、と唇を歪める。

「優しかったよ、とても。本当はボクも彼と同じ人間なんじゃないかと錯覚するくらい。それに、そう、あのころの彼はボクを『お前』とは呼ばなかった。年齢という概念を持たないボクとの距離をつかめなくて闇雲に、そのくせおっかなびっくり手を伸ばす子供みたいに『あんた』って呼んでくれた。少し、くすぐったかったよ」

 ヒナコの顔がゆっくりとボクに戻ってくる。

 困惑と少しの嫉妬が絡み合った視線を頬に感じた。だから、ボクは彼女を見ないまま吐息だけで言葉を紡ぐ。

「ボクが『解放の子供たち』としての朝月を知らないように、君はヘレブの社員だったころの朝月を知らない。それに腹を立てても仕方がないよ」

「腹なんか立ててません」

「そう?」

「そうです」

 幼さの香るヒナコの顔は心外そうに歪んでいたけれど、どの辺りまで本気なのかわからなかった。稀人とは違って、人間は演技がとても上手な生き物だから。

「ケイは」と不意に所長の声が背中にあたった。

 驚いたけれど、ボクは努めてゆっくりと振り返る。

「そうなる前の記憶はないのよね? でも、稀人は何度死んでも生き返る、その度に記憶を失うの?」

「まさか」ボクは短く息を漏らした。「そんなことをしていたら、ボクはとっくに朝月を忘れているよ。それに、何度死んでも生き返るっていうのは人間が造り出したおとぎ話の中でだけだ。言っただろ? ボクらは不老だけど不死じゃない。体の機能が完全に失われる寸前で再生しているだけで、完全な死からは戻れないよ。だからみんな、ボクらの心臓を狙ってくるんだ」

「生前のことは」ヒナコの声が思いの外近い。「自分のことも本当の家族のことも、全部忘れちゃってるんですか?」

「心臓が生身だったころの記憶ならないよ」

 ヒナコと所長の顔が奇妙な形に歪んだ。同情と呼ばれる表情なのだろう、とボクは苦笑する。

「それにもう、稀人としての人生のほうがきっと長い。本当の家族なんて、稀人にでもなっていない限りとっくに寿命が尽きているはずだ」

「寂しくないんですか?」

 なにを訊かれたのかわからなくて、ボクは首を傾げる。

「自分がどんな人から生まれて、どんな生活をして、誰から愛されていたのか、知りたくならないんですか?」

「知って、どうするの? 今のボクが変わる? だいたい、ボクが愛されていたかどうかなんてわからない。ヘレブの実験体はそこら中から集められていたんだ」

 ヒナコは「そういうことじゃなくて」とひび割れた屋上のタイルに呟いた。

「わたしはナミコの、姉のことを忘れることはできません」

「なら忘れなきゃいい。ボクらの場合は忘れたくないとか生き返りたくないとかって意思を伝える前に死体になって、問答無用で回収されていたはずだから」

 ヒナコは傷付いたようにも腹を立てたようにも見える仏頂面で「そういうことでもなくて」と上目にボクを睨む。

「あなたは卑怯です。自分は稀人だと言ってるくせに、いざとなったら人間だったときのことを持ち出す。なら、稀人なんて建前を捨ててしまえばいいのに、それもしない。自分の都合で人間だったり稀人だったりフラフラと立場や意見を変えてる。人間のふりをしてわたしたちを責めるかと思えば、稀人だからと言って人間と対立する。いったいあなたはどっちなんですか」

「どっちって……」ボクは二呼吸迷う。そんなことを問われたのは初めてだ。「そんなこと、わからないよ。ボクの体は人間のものだったけれど、ボクという今の意識は稀人として構築されたものだ。そこに君たち人間の妄想や希望が付加されている。きっと朝月のやる複雑な計算や薬液の調合みたいなものなんだよ。いろいろな要素が組み合わさって、それこそ人間だったり稀人だったり、不安定で誤差の多い存在なんだ。……でも、そうだね。立ち位置を変えて君たちを責めたことは謝るよ。ごめん。ボクにとって、君たちは『解放の子供たち』という以外のなにものでもないんだ。こんなに平和な距離を保っていたって警戒してしまう。そう簡単に本心を明かす気にはなれないよ」

 ヒナコは唇を噛んで銃を睨んだ。銃弾の入っていない空っぽの凶器だ。それじゃあボクは殺せない。

 所長は興味深気にボクらのやり取りを見ていたけれど、ヒナコが再び的に向き合ったのを確認してからゆったりと立ち上がり、ボクらの隣に並ぶ。

「あなたたちの敵、だものね」ふふ、と笑って所長はボクの銃に触れた。肩ベルトに預けているので腹の辺りで頼りなく揺れている。「ユエくんも最初は絶望的に下手くそだったのよ。まあ、今でも上手とはいえないけど」

「そんなことないです」ヒナコが銃を構えたまま反論する。「わたしよりユエさんのほうが上手です」

「それは経験値の差よ。あなたより先に練習し始めたんだもの」

「朝月はいつ『解放の子供たち』に入ったの?」

「四年くらい前かしら」

 アララト教会の惨劇よりも前だ。ぞくりと悪寒が背筋を駆け抜けた。

 そんなボクから眼を逸らして、所長は人間の町並に呟く。

「ユエくんがあの作戦に参加していたら、結果は違ったでしょうね」誰かに聞かせる気があるとは思えない、明確な形を失った不思議な抑揚だった。「でも、参加してなくてよかったのよ。あのころのユエくんは子供だったから、きっと後先考えずに過激派のメンバーと衝突して……」

 続く言葉を、所長は呑み込んだ。それでもボクにはわかる。

 アララトに朝月が来ていたら、彼は殺されていただろう。『解放の子供たち』は、少なくともアララトを襲撃したメンバーはそういう――稀人の存在を忌むことなく暮らしてきた朝月とは相容れない人種だった。きっと、彼もそれを自覚している。それなのに。

「どうして朝月は『解放の子供たち』なんかにいるんだろう」

「あなたのためじゃないの? ユエくんを『解放の子供たち』に誘ったのはアタシだけど、ユエくんはたった一つの条件で応じてくれたわ。あなたを傷付けない。たったそれだけのために銃を握れる男はなかなかいないのよ」

 男、という言葉をボクは舌の上で転がす。苦い響きだ。だって、ボクの知る朝月は男というよりも少年だった。肉体的には少年よりも青年に近かったけれど、ボクに向けられる優しさは拙かった。

「朝月の眼は、もっと不安定だったよ。ボクとの関係に戸惑いながら、それでも真っすぐにボクを見るあの瞳が好きだった」数秒、ボクの呼吸は砂漠風の隙間に落ちていく。「たった五年離れていただけなのに、ボクの知らない彼ばかりが増えていく。たぶん、これからも、増えていく」

 早く離れなきゃ、と続けようとしたのに、ボクの喉と舌はその決意を拒絶して、沈黙を選んだ。

「仕方ないわ。もう自分はココまでだ、これ以上の成長はないんだって高をくくって死んだように生きているあなたたちとは違うもの。年上の女性に追いつこうと努力して、隣に並べるくらいイイ男になろうと必死で背伸びをしている男の子は、あっという間に成長するのよ」

「年上の女性って、誰のこと?」

 嗤ったのに、所長は応えてくれなかった。静かな視線が一度だけボクを撫でて、人間を殺す道具の練習をしている人間たちへと流れていく。

 息苦しい思いで所長の言葉を反芻する。

 背伸びをしている男の子はあっという間に成長する。

 確かに朝月の成長は凄まじい。恐怖すら感ずるほどに、彼は大人になった。

 同じ性別を有していてもシュンは違う。小さな体に似合いの幼い凶暴性と無謀さで生きている。

 ならばホタルはどうだろう? と彼方にそびえる教会の尖塔を見やる。ひょろりと頼りない体に宿っているのは、どんな精神だろう。

強靭ではない、けれど軟弱でもない。病気を抱えながらも生き続ける彼女の精神を形にするならば、水のようなものかもしれない。捉えどころもなく流れるままかと思えば、大気に溶け込んだり氷の塊になったりもする。あの子たちとはたった三年の付き合いだけど、出会ったときから今まで、朝月のような成長を感じたことは一度もなかった。

「戻るわ」という所長の宣言で、ボクは思考の海から引き上げられる。

「そろそろみんなを解散させてちょうだい。今日の食事当番はヒナコよね?」

「ええ。なにがいいですか?」

「そうね。シュンくんの気が紛れるような食事がいいわ。きっと退屈しているでしょうから」

「退屈、ですか」

「大人の血腥い話は、子供にとっては退屈なものよ」

 斜光に表情を隠して、所長はゆっくりと階段室の闇へと呑み込まれていった。

 その背に警告するように、ヒナコは詰る口調で「あなたが」とボクを睨む。

「あなたが来てから、みんな変。稀人を受け入れ始めてる。まるで襲撃される直前の、アララト教会みたい」

 ボクは黙って踵を返す。アララトの話を聞きたくなかったからじゃない。ヒナコが過去に浸ってしまうことが怖かったんだ。

 ナミコを失った激情のままに銃を向けられたら、今のボクは全てを、シュンもホタルも朝月さえも放り出してヒナコの殺意を受け入れてしまいそうな気がした。


 電灯のない廊下は薄暗く、湿った土の臭いが漂っていた。突きあたりにぽかりと開いた窓の鎧戸から射しこむ光りの帯が、埃で煌めいて場違いに美しい。墓場に彷徨う月光のようだ。

 壁に整列した扉の一つが、開いたままになっていた。もぞもぞと言葉の破片が廊下に染み出している。

 朝月と、焦の声だ。ボクは足音を殺して慎重に扉に近付く。

「お前がヘレブにいたのは知ってる」焦の甲高く上擦った声がした。「お前が稀人の管理に携わってたことも、あの稀人とどういう関係なのかも、この際どうでもいい。お前が稀人を殺せないなら俺が殺してやる。だがな、俺に銃を向けるのはどういう料簡だ」

 朝月の声は聞こえなかった。応えなかったのかもしれない。焦の声だけが、廊下の薄闇を歪ませる。

「いいか、明日にはシン・タークオが来る」

 シン・タークオという音を、ボクは瞬時に星大哥と変換する。肌が粟立った。その名を再び耳にするとは思っていなかった。

「作戦が終り次第、問題にしてやる。元ヘレブの技術者だかなんだか知らないが、人間に銃を向けて無事で済むと思うなよ」

 いい気になりやがって、と唾棄する声がはっきりとした発音で廊下に転がって来た。さらに「あんたもだ」ともう一人を糾弾し始める。

「なにが所長だ、偉そうに。稀人の腕を持った奴がしれっと『解放の子供たち』を指揮してたってわけか。星大哥が合流したらすぐに指揮権を渡せ。その後は、その腕を切り落とすか、腕と一緒に灰になるか選ばせてやる」

 焦が出てくる気配に、慌てて踵を返す。足音を殺す余裕もなく階段を駆け下りた。冷たく硬いはずの心臓が、憤りと戸惑いと怯えに激しく拍動している。

 事務所の扉を開ける。ほぼ同時に腕をつかまれた。

 ぎょっとして、けれど振り向きたくなくて相手の靴だけを睨む。逞しい筋肉を剥き出しにした足先に黒いヒールがはまっていた。

 追ってきた相手が所長であることに安堵の息を吐きながら、ひどく失望もしていた。誤魔化すために長くて深い呼吸を繰り返す。

「どこから聞いてたの?」所長は曖昧な笑みを浮かべる。「ケイ、いいのよ。あなたが気にすることじゃないわ」

 ボクは俯いたまま首を振る。所長の立場がどうなろうと、その腕をどうしようと、どうでもよかった。

「どうして星大哥が来るの?」

 そのたった一言が、怖くて訊けない。

 所長は促すように首を傾げたけれど、それ以上の追求は諦めたようだ。ボクを放して事務所に入ると、冷たく淀んだコーヒーが待つテーブルにホルスターから抜いた銃を投げ出した。

 すぐにでも朝月と焦が入ってくるんじゃないか、という恐怖に追い立てられるようにボクも部屋の中央まで進んで、ソファーに座る。

 中途半端に分解された銃の部品が恨めし気にテーブルを彩っていた。屍になった銃からも所長からも扉口に揺らめく朝月の幻影からも眼を逸らして、朝月のデスクにいきついた。

 彼の大きな軍用拳銃が置かれている。

 投げ出された形のままテントを張った地図に書き込まれた赤いバツ印は『解放の子供たち』の未来を予言しているのだろう。教会に歯向かって無事ですむわけがない。きっと死人が出る。

 でもボクにとってはどうでもいい。ボクにとって重要なことは、彼のデスクでブックエンドに身を任せている絵本が修復されていることと、ホタルが戻ってくること。

 そして朝月が、生きていてくれること。それだけだ。それだけなのに、とボクは拳を握る。

 明日には星大哥が来る。

 星大哥。その名を舌の上で転がす。音にはしない。不吉だからだ。

「ねえ、ケイ」

 不意に呼ばれて、大げさなくらい肩が跳ねた。呼吸が浅くなるのを自覚する。ボクの心臓を停止させる気だろうかと勘繰るくらい、絶妙なタイミングだ。

 声が震えることが怖くて、黙って顔を上げる。重たい鉛色の尖塔を背負った所長が、赤銅色の太陽に表情を隠していた。

「ユエくんが好きなの?」

「……どういう意味?」

「あなたにとってシュンくんやホタルちゃんは、家族のような存在よね? 同じくらいユエくんのことも大切?」

「朝月は……」

 目を細めて夕の光を透かす。昼を司る時間の女神が、にじり寄る死の女神から逃げ去る色だ。所長の表情を取り違えないように背筋を伸ばして、自分の裡に答を探す。

 朝月はボクにとって、なんだろう? ボクにとっての朝月と、朝月にとってのボク。考えていることや抱いている想いの方向や大きさが同じだとは思わない。それでも一つだけ確かなことがある。過去、という固定された事実だ。

「朝月は……ボクを生き物として扱ってくれた唯一の人間だ。儀大人も研究員も他のどの技術者も、今みたいに稀人を無闇に恐れて殺そうとはしなかったけれど、誰もがボクを実験体として切り刻むことばかりに興味を持っていた」

 所長は黙って首を傾げた。そのまま二呼吸の沈黙が白々しく流れる。

仕方なく、ボクは「彼が」と白状する。

「大切だよ。誰よりも幸せでいてほしいと、願ってる。でも、あなたが期待するような感情じゃない。人間たちが神さまを信仰するのと似ているのかもしれない。朝月は、ボクの世界そのものだ」

「黒ネコみたいね」所長は酷薄に唇を歪めた。「ユエくんが持っているあの絵本の、死なない黒ネコの話よ。さしずめユエくんは白ネコかしら?」

「あなたも」朝月の雑多なデスクの上で場違いなまでに毅然と佇む絵本を見る。「あの本を読んだの」

「最終ページはなかったけど、結末はわかるわ。ねえ、ケイ。ユエくんが死んだら」

 所長の狙い通りだとわかっていたのに、反射的に顔を上げてしまった。目元が引きつっているのを自覚する。仮定の話しだと理解しているのに、本能が『それだけはダメだ』と叫んでいた。

「あなたも後を追うの?」

 口を開く。声が出ない。注意深く空気を吸って、バカみたいに長い時間をかけて吐く。舌先で唇の内側を舐めると、かすかに砂の味がした。

「美しい提案だけど」想像していたより硬い声になった。「ボクも朝月も、まだ生きている」

「死を想像したことはないの?」

「体感したことなら何度もあるよ」

 ボクの皮肉に、所長は緩やかに息を吐く。嗤われたのかと思ったけれど、彼女は両手で包んだマグカップの中に視線を泳がせていた。

 ボクも視線を落とす。テーブルに朝月のマグカップがあった。冷めたコーヒーが半分ほど残っている。地獄まで墜ちて逝けそうな漆黒の穴だ。ここに飛び込めば朝月の死なんてものを考える必要もなく、全てを終わらせることができるのかもしれない。

「生き返るとわかっていても、死ぬのは怖いのかしら」

 ボクは黙って顔を上げる。

「ヘレブ社にいたあなたにはわからないでしょうね。世界が、稀人と関わった人間をどう見るか」

 稀人が世界にとってどういう存在なのかは、身をもって知っている。『稀人だって人間と変わらないじゃないか』と言った青年が、数時間後には軍人を連れて来たのは記憶に新しい。車に轢かれかけた子供を庇ったら、その母親に止めを刺されかけたこともあった。シュンやホタルを引き取りたいと申し出た老夫婦には、鉈で首の半分を削がれたっけ? 「怖い」と怯えようが「悲しい」と嘆こうが人間たちは容赦なくボクらを殺しに来る。

 今ボクがいる世界は、稀人と稀人にかかわる人しかいなかったヘレブとは別世界だ。稀人はその名の響き自体が危険なもののように扱われていて、稀石に触れたことがあると知らてしまえばそれだけで世間から排斥されてしまう。

 そんな世界の筆頭たる男の名を、噛みしめる。

シン・大哥タークオ

「え?」と所長の肩が大きく震えた。

「星大哥も、そういう人間だった? だからアララト教会にいた子供たちを、ナミコを、殺したの?」

「彼は……」

「『解放の子供たち』の名を知らしめた彼は昇格したの?」

「昇格……? 昇格なんて、誰も許さないわ。あの事件は、一部の過激派が引き起こしたことよ。他の支部の誰も、勿論アタシたちにだって知らされてなかったわ」

「知っていたら?」

 いつか、ボクとヒナコがした問答を繰り返している。

 あのときは過去に仮定を持ち込む彼女に小さな苛立ちを抱いたけれど、今ならわかる。無意味なことだと理解しているのに、ボクらはそこに今とは違う結末があったかもしれないという夢を見たいんだ。

 音を恐れる所作で所長が立ち上がる。夕の輝度を捨てて薄暗い室内に顔を晒して、ボクの前まで朝靄のように滑る。そして膝を折った。両膝でにじった彼女の視線が、低い。

「止めたわ」春雷のようにも音のない稲光のようにも思える声だった。「どんな手を使ってでも止めた。人間を巻き込むからじゃないわ、場所が教会だからでもない。すでに生き返った稀人から心臓をとることは、人間を殺すことと同じだからよ」

「まるでボクらが生きている人間のように言うんだね」

「生きてるでしょう?」

「『解放の子供たち』の言葉とは思えない、ボクの首を絞めたくせに」

「あなたがヒナコを傷付けるかと思ったのよ。殺すつもりはなかったわ」

 それはわかっていた。たとえ朝月がボクの殺し方を教えていなかったとしても、稀人が石の心臓で生かされていることは誰でも知っている。

 それでも簡単に信用するわけにはいかない。稀人の腕を持っていたって、所長は人間なのだから。

 ボクはテーブルからバラバラ死体と化していた銃の部品をとり上げる。

「それで? ボクらを殺さないあなたは、どうやってこの世界から稀人を葬る気なの?」

「なにもしないわ。時間が全てを解決してくれる。アタシたちがやるべきは、これ以上稀人を増やさないことだけよ」

 なるほど、とボクは浅く笑った。実に平和で利巧で、残酷なやり口だ。彼女は老いないボクらと死に逝く人間との差異を見せつけて、ボクらが自ら心臓を抉り出すのを待っている。実に、人間らしい。

 朝月ならそんなことはしない、と確信する。彼はそんな残酷な手段を選ばない。

「ボクの死は、きっと朝月がもたらしてくれる」

 所長は困惑したように眉を寄せた。ボクを探すために『解放の子供たち』に入った彼がどうしてボクの死とつながるのか、理解できないって顔だ。もしくは、間接的にでもボクが彼女の質問に答えたということに小さな驚きを覚えたのかもしれない。

「朝月なら、ボクを殺せる」

 空に昇る三つ子月に願い事をする子供のような声で、ボクは再び呟いた。けれど、これは願い事じゃない。確信だ。朝月はボクとの過去をつぶさに覚えている。だからこそボクは、彼が選択する未来を予想できるんだ。

「ユエくんは……あなたを傷付けないわ」

 ボクは黙って微笑んでやった。所長には見えていないとわかっていて、それでも彼女の信じる人間の表面的な美しさというものに憧れているふりをして、声もなく笑ってあげる。

「あなたは……」

所長が数呼吸、迷う。両手を丁寧に組み合わせて、彼女自身が嘲笑った神さまに縋るように額に擦りつける。

「ユエくんに殺されたいの?」

 殺されたい? そんな妄想をしたことはなかった。

 シャツの胸元を握る。掌に刺さった冷たい銃の部品と、生温い布地の奥で拍動する石の存在を感ずる。研究者たちが躍起になって解明しようとしている膨大なエネルギーが、ここにある。これさえなければボクの人生は朝月に逢う前に終わっていた。

 これさえなければ朝月は、ボクに逢わずにすんだ。

「朝月の人生を狂わせたのは、ボクだ」

彼と初めて逢った日を、とても鮮明に覚えている。

「あのとき彼に触れなければ、あんなことを言わなければ、きっと朝月の人生はもっと平穏なものだった。ボクの一生だって、こんなに長くはなかったかもしれない」

「起こらなかった未来は誰にもわからないわ。もっと辛い人生だったかもしれないじゃない」

 所長はボクの指先をそっと握り、銃の部品を奪い去った。ふっと鼻腔を掠めた臭いは確かにボクと同じものだったのに、触れた指先は朝月と同じ熱を帯びていた。

「ボクらはお互いの人生に、たぶんなんらかの責任を持たなきゃいけない」

「ねえ、ケイ。稀人だって望みを持っていいのよ?」

「そんなことっ!」一瞬の激情で所長の手を振り解いた。けれど、爆発的に高まった感情は二呼吸で収束していく。「簡単に、言わないで。数えることすら忘れるほどの生と死の中で、ボクがいくつの望みを抱いたかも知らないくせに。ボクの望みだって? 朝月は叶えてくれるだろうね。あなたは自惚れだと言うかもしれない、そう思ってくれてもかまわない。でもボクにはわかる。朝月はボクの望みを叶えてくれる。叶えようとしてくれる。それが朝月自身にどんな苦痛を背負わせるものだとしても。彼はきっと、そうする」

「どうして」

 断言できるの? と続けるつもりだったのか、そこまでしてくれるの? と続けるつもりだったのかはわからない。所長はボクから視線を逸らす。

「どうして? そんなこと、ボクが訊きたい。どうしてそこまでボクに構うのか、放っておいてくれていいのに、放っておいてくれたほうが楽なのに、どうしてっ!」

 悲鳴のように語尾が掠れて解けていく。でも、ボクはその続きを追わなかった。目の前にいるのが所長だとわかっているのに、まるで朝月を詰っているような気分に襲われる。

 ボクは自分の両手を見下ろす。どちらの同じ色だ。正常に代謝を繰り返した人間と同じ色の掌が、震えている。

「ようやく諦められると思っていたんだ」

 どうして彼女にこんな話をしているのかわからなくて顔を覆う。溢れ出ようとする感情ごとこの手で押し込められるなら、どんなに楽だろう。

「ボクにとってはなんてことのない時間だった。でも、朝月は人間だ。彼にとっての五年は決して短くない。だから、もう彼はボクのことなんか忘れていると思っていた。だからボクも彼を諦められると……。でも、違った。彼はまだ、ボクを覚えていた。こんな関係はおかしい。こんなのは、人間と稀人の関係じゃない」

「ケイ」と宥める所長の声音につられて、そっと呼吸の速度を落とした。その延長が言葉を掠める。

「朝月が……怖いんだ」

 言ってから、ああそうだったのか、と納得する。ボクは、彼が怖いんだ。五年という歳月に擦り切れることもなく、空白の時間を糧に肥大すらした彼の思慕が、怖くて仕方がない。

「ボクは朝月が全てだ。今のボクは朝月が造り上げたと言ってもいい。でも彼は違う。彼の周りには彼と同じ時間を過ごせる人間がたくさんいる。彼がボクに固執する理由なんてこれっぽっちもないんだ。なのに彼はボクに手を伸ばす」

 みっともなく声の震えが治まらない。呼吸だって巧くできない。鼻の奥がツンと痛んだ。こんな感情は初めてだ。それでも、ここで全てを吐露しておかなければ、ボク自身がこの不安に押し潰されてしまう気がした。

「朝月の気持ちがボクにあるのか稀人にあるのか、わからない」

「ユエくんの気持ちは彼にしかわからないわ。だから、あなたには言葉と声があるんでしょう。不安なら直接訊いてみればいいのよ。あなたたちは再会できたんだから」

「そんなことわかってる! わかっているから怖いんだ。朝月の気持ちなんて知りたくない。矛盾していると自分でもわかっている。でも、じゃあ稀人としてのボクに価値があると言われたらどうしたらいいの。他の誰に否定されたっていい。でも、彼にだけは……」

 不意に、ガラス越しにボクらを観察していたヘレブの研究員たちを思い出した。硬質で、かすかに嫌悪と畏怖を含んだ瞳が、儀大人の愉悦に歪んだ唇が、鮮烈に甦る。

 その残像を消し去りたくて、掌を強く瞼に押し付ける。

「彼らの言葉はどこまでも無意味で残酷だった。もし、今の朝月に彼らの片鱗でも見えたら……。こんなことなら、会わなきゃよかった。あのとき最後の見学者に、アララトから追って来た人間たちに、ヒナコにだっていい、殺されておけばよかったんだ」

「そんなこと言わないで、ユエくんが悲しむわ」

 ああ、とボクはため息をつく。悲しむ? 彼はボクの死を悲しんでくれるだろうか?

「ねえ、ケイ。ただの実験体のために人を殺したりはしないわ。ユエくんがどうして『解放の子供たち』に入ったのか考えてあげて。ユエくんのために、怖がらないで訊いてあげて」

 強く圧迫し続けた視界が白く瞬いている。朝月の、白衣の色だ。

「あなたが」所長の声がヘカトンケイレスの中から響く『彼ら』の声のように濁って聞こえる。「もっと稀人らしい稀人ならよかったのに」

 ボクは声を挙げて短く笑う。稀人らしい稀人? それはどんなものだろう。人を食べる化け物? 理性のない腐臭を放つ死体? それとも、人間が思い描く稀人にはもっと間抜けで残酷ななにかが付加されているのだろうか。本当に、そんなものであればよかったのに。

 そっと掌を退かす。白く濁った光がボクの足元を染めていた。母星から逃げ出した移民船を拒んだ大地も、こんな色をしていたのだろうか。

 ボクは窓枠に切り取られた空に突き刺さる中央教会の尖塔を仰ぐ。三又の、墜落した移民船の噴射口を模した戒めの塔だ。

 遮るように、所長が立ち上がる。楽園を追放される罪人のように重たい動作だった。その体を廻る血は濃度こそ違えどボクと同じものなのに、彼女は人間のようにひどくくたびれた様子で窓までの短い距離を歩む。

 ぎちり、とボクの胸の中で淡く瞬く石が軋んだ気がした。

「もっと……そう、教会が造ろうとしている稀人兵士のように、人間の敵らしい存在ならよかった」

 本当に、と言葉の最後をため息で押し流し、所長は鎧戸の隙間から外の世界を見下ろした。三輪トラックの排気ガスと人の猥雑な会話が光りに紛れて滲んでいる。まだ昼の熱を満たした事務所の中で、所長は両腕を擦った。


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