腸詰の叫び

青空邸

腸詰の叫び

 一、

 

 鯨が打ち上げられていた。既に朽ちかけた死骸からは腐臭が漂い、黒々とした肉が溶け、砂浜より白い骨が、剥き出しになっていた。

 十メートルを超すその巨体は、体内に溜まったガスによる爆発が危惧され、その日のうちに専門家の手によって解体された。早朝、毎日のように散歩をする老人によって見つけられたその鯨は、日が沈む頃には跡形も無くなっていたのだった。


 ニュースでは、あまり見ない鯨の漂着と共に、専門家がその死因について考察して発表し、話題になった。その体内から出てきたのは、主にポリ袋やペットボトルといった数キロにも及ぶ大量のプラスチックごみ。その後、海洋汚染や、各国や企業の環境への取組みが討論され、連日テレビで放送されることとなった。


 

 二、

 

 背中を撫でる、いやな冷たさを感じて飛び起きた。

 目が焼ける。容赦無く照らす太陽は灼熱の光線だった。遮るものがない、見渡す限りの海は日の光を照り返し、無限の砂漠にも見えた。

 足から尻へ、冷たい波がなぞる。俺は知らない砂浜に座っていた。知らない、のかも判断がつかない。見渡す限りの砂浜。振り返ると黒々と鬱蒼とした森。

 目眩がする。ここは、どこだ。

 

 船に乗っていた。沖合でイルカと並走する観光用の小船だった。

 最後に覚えているのは、うねる海面に黒い塊。遠くに巨大なハート型の尾びれが突如として現れ、その荘厳さに感動したことだ。尾びれは海面を叩き、大きな水柱を上げた。遅れて霧雨を浴びた。それから、黒影は大きな波を引き連れて、こちらへ迫ってきたのだった。

 俺だけじゃない。二人の友人と、知らない家族にカップル、ガイドと船員と、十人はいたはずだ。だめだ、頭が痛い。信じ難い。こんなこと、本当にあってたまるものか。

 

 身震いがした。海水に浸けられた服がシンまで冷やす。全部脱ぎ、波の届かないところで広げて干した。

 生い茂る枝葉に遮られ光の届かない森は、まるで巨大な壁のようだった。鳥と虫の声、背後からさざ波の音。冗談ではなく、どこかへ流れ着いたようだ。


 声の限り叫んだ。助けを、仲間を、誰でも良いから返事が欲しかった。

 

 息は切れ、喉は枯れた。

 剥き出しになった肌を焼く太陽と、油断して足を止めると地獄へ引き摺らんと伸びてくる業火の手が、現実を叩きつける。

 人のにおいが全くしなかった。海の際に朽ち果てた流木と、よく見るパッケージのペットボトルとが延々と連なる砂浜に、広がる闇。


 ただ砂浜を彷徨った。人生で見たことないような広い海は、空との境で真っ二つに切られている。

 そんな折、視界の端に小さな影が見えた。海面から顔を出すそれは、誰かの鞄のようだった。俺は夢中で海に飛び込んだ。波に押し戻され辛い海水を飲み込もうと、水をかく。手を伸ばす。

 ああ、どこの誰かわからないが、これに限っては許してほしい。


 口を開け、叩きつけるように鞄を振る。ブランドものの財布と、携帯電話、手帳が出てきた。

 携帯電話。ある限りのボタンを力の限り押し続けるが、画面は光を跳ね返すだけだった。水の染み込んだ財布は数枚のお札と、カード類。ここでは使いようがない。手帳を開く。最近までの仕事のスケジュールがびっしりと書かれたものだった。

 何かが落ちた。光を浴びて輝くそれは、ボールペンだった。

 これしかない。どうなるかわからないが他にもう考えられなかった。


 ペンと手帳を放っぽり出し、駆ける。そして目に付く限りのペットボトルを集めた。蓋がないものもいくつかあった。

 手帳を手に取る。水を吸い込んだ紙に触れる。膝を折って祈るようにしゃがみ込み、ボールペンの先を紙にゆっくり当てがう。黒いインクが、針に刺された皮膚から漏れる血のように、小さな点を書いた。


 それから、何度も名前を書いた。俺は生きている。助けてくれ。悲痛な叫びを書き連ねる。同じ言葉をひたすら並べる。紙が黒で染まり、次第にインクが灰色になり、それでも書き続ける。孤独を絶望を飲み込んで、書き続ける。


 使い物にならなくなったボールペンを海に投げ捨てた。そして、文字のびっしり書かれたメモ帳をちぎる。それをひたすらペットボトルに入れる。ありったけのペットボトルに、命を懸けた言葉を預ける。

 果てしない作業を延々と繰り返し、白い紙片が散るペットボトルが山のようにできた。

 そして、海に投げ込んだ。目一杯投げ込んだ。あっちにこっちに、砂浜を駆け回り、投げた。波に戻されたものはすぐに拾い上げ、また投げた。

 息を吐く。膝に手をあてがい、水平線を見る。俺の名前を飲み込んだ小船が小さな点となっている。


 揺らめく水面の彼方に、山のような、一際大きなうねりが見えた。それを割るように、黒い影が飛び出した。黒い影は、こちらに大きく手を振っているようだった。

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