家庭内完全犯罪

黄黒真直

家庭内完全犯罪

 母が急逝してもなんら動揺を見せなかった支倉はせくら秋雄あきおが激しい怒りを露わにしたのは、自分がその遺産を継げないと知ったときだった。母の持っていた少なくない財産は、すべて父が相続してしまった。

「なんで俺には、あの女の遺産が一円も入ってこないんだよ!」

 ある晩、遅くに帰ってきた父に、秋雄は「おかえり」も言わずにそう詰め寄った。父は新品の高価なジャケットを脱ぎながら、面倒くさそうに答えた。

「お前は今、三十を過ぎて引きこもりの身だ。今まで俺と母さんでお前を養ってきたが、これからは俺一人で養わないといけない。そこで、お前が今後使う光熱費や食費は、母さんの遺産で賄うことにした。だからお前は、法的には遺産を継いでいることになるんだ」

 そんな話は聞いたことがない。秋雄が反論しても、父は取り付く島もなかった。

「お前が知らないだけだ。過去に、そういう判例がある。ネットじゃそこまで出てこないだろうがな」

 ふざけるな、いいから寄越せ――秋雄がいくら詰っても父は眉ひとつ動かさず、秋雄の主張をことごとく論破した。弁護士である父に、秋雄は知識でも口論でも勝てたことはなかった。

 父が風呂に入ってしまったので、秋雄は渋々自室に戻った。パソコンの前に座ると、イライラと貧乏ゆすりを始めた。

 秋雄は昔から引き込もりだったわけではない。大学を卒業後、しばらくは働いていた。だが数年で辞め、それから一歩も外へ出ていない。

 秋雄はその頃の貯金を遊ぶ金に回していたが、それも底をついている。当然、両親は遊ぶ金などくれはしない。秋雄には、どうしても金が必要だった。


 母が死んだのは一か月ほど前だった。ある晩、家に救急車と警察がやってきた。秋雄が部屋から顔を出すと、ちょうど母が風呂場から運び出されたところだった。ぐったりとした母に、救急隊員がタオルをかける。救命措置を施す様子はない。既に死んでいたのだ。

「我々が到着したとき、お母様は既に亡くなってました」

 騒ぎから少しして、秋雄の部屋に複数の刑事が来た。一番若い刑事が秋雄に説明する。清潔感があり、秋雄と同い年くらいに見えた。

 彼以外の刑事が、無遠慮に秋雄の部屋に入る。

「おい、なに勝手に……」

 止めようとする秋雄の腕を、若い刑事がつかんだ。

「お父様の許可は頂いています」

「俺の部屋だぞ」

「お父様の家です」

 刑事たちは部屋の物を勝手に動かし始めた。何かを探している。

 若い刑事は秋雄の文句も意に介さず、質問をし始めた。

「お母様が亡くなったのは、三、四時間前と考えられます。その時間、あなたはどこで何をしていましたか?」

「疑ってるのか?」

「この部屋にいたんですか?」

 刑事は押し通そうとする。秋雄は渋々答えた。

「この部屋で動画見てただけだ」

「ずっと?」

「ああ」

「停電などは起きませんでしたか?」

「停電? いや」

 そうですか、と刑事は言った。

「実はですね、お母様は感電死したようなんですよ」

 風呂場にスマホを持ち込み、充電しながら使っていたようだ。それをうっかり浴槽に落とすか何かして、感電した。

「ですからそのときに、停電などが起こっていないとおかしいのですが……本当に起こらなかったんですか?」

 刑事は秋雄を疑っていた。引きこもりの三十代。父との仲が険悪なのは、見てすぐにわかった。母とも仲が悪かったに違いない。何かのはずみで殺していても不思議はない。

「何も起こってねえよ」

「そうですか。では、不審な物音を聞いたりとかは?」

「それもねえよ」

「……」

 刑事は、チッ、と舌打ちした。

「引きこもりのくせに役立たないな」

「は?」

「いえ、なんでも」

 刑事は愛想笑いすら見せない。

「工具の類はないな」部屋を調べていた刑事の一人が報告に来た。「スタンガンとかもない」

「じゃあやっぱり充電ケーブルですか」

「かもな」

「おい」秋雄が二人の会話を遮る。「さっきからなんなんだよ、疑ってるのか?」

 二人は秋雄を睥睨すると、鼻で笑った。


 警察はその後、事件と事故の両面から捜査を進めた。すぐに、自殺はなさそうだと判断された。公認会計士だった母は仕事も順調で、父との仲も良好だった。遺書もなく、自殺する要因はなさそうだった。

 殺人の可能性は残った。秋雄はその後も繰り返し、刑事から尋問を受けた。しかし動機も証拠も、はっきりしたものは何も出なかった。そもそも、殺人の可能性を示す証拠も薄かった。

 結局、母の死は事故だと結論された。

 無能な刑事どもめ、と秋雄は内心で罵った。疑われ損だ。あんなもの、見れば事故だとすぐにわかるじゃないか。

 風呂場でスマホを使って感電死したというニュースは、秋雄も時々ネットで見かけて知っていた。だから、刑事から状況を聞いたとき、すぐにその手の事故だと気付いたのだ。

 あの刑事たちは、そのことを知らなかったに違いない。なんて無能なんだ。

 秋雄はイライラしていた。刑事に疑われただけでなく、母の遺産までもらえない。それが秋雄にとって、なにより苦痛だった。

 秋雄には法律の知識がない。父に渡った遺産をどうすれば受け取れるのか、まるでわからない。

 イライラしながらパソコンのスリープ状態を解除する。動画でも見ようとしたとき、ふと動きを止めた。

 父を殺せばいい。

 天啓のように閃いた。殺せばいいのだ。父が死ねば、秋雄にその遺産が舞い降りる。

 普段の秋雄なら、思いつかないことだった。しかしひと月前に母を亡くした秋雄にとって、死は卑近なものだった。人は簡単に死ぬ。そして、死ねば遺産が手に入る。

 父を殺そう。秋雄はその考えを自然に受け入れていた。法知識のない秋雄でも、殺人が犯罪行為であることは知っていた。それでも、殺すことにためらいはなかった。

 どうせ、バレるはずがない。あの無能な刑事どもを出し抜くなんて、簡単だ。

 そう考えていたからだ。


 殺害方法は決まっていた。感電死だ。父が風呂に入っているときに、浴槽にスマホの充電ケーブルを投げ込む。母が死んだときと同じ状況を作るのだ。警察はまた、事故死だと断定するだろう。

 秋雄は、刑事の話を覚えていた。

 母の使っていたスマホの充電ケーブルに、浴室のドアの跡があった。母は、充電ケーブルをドアに何度も挟んでいたのだ。そこから、母が日常的に浴室でスマホを使っていたと推測され、事故だと判断された。

 ならば、父の充電ケーブルにも、同じ跡をつけておけばいい。そうすれば、警察は事故だと疑わないだろう。

 秋雄は高揚していた。自分を疑っていたあの刑事ども。あいつらの会話のおかげで、俺は完全犯罪を成し遂げられるのだ。

 翌日から、父が不在となる昼に、秋雄は父の書斎に忍び込んでは充電ケーブルを持ち出した。それを何度も何度も、浴室のドアに挟む。中の導線が切れてしまわないように、注意深く軽く挟む。表面の樹脂だけに、ドアで挟まれた跡をつける。

 そんなことを、数日続けた。

 もういいだろうかと、秋雄は気持ちをはやらせた。ケーブルにはすっかり跡がついている。

 早く遺産を手に入れたい。見たい映画もやりたいゲームも、たくさんあるのだ。

 父も母も、高給取りだった。それはこの立派な家を見ればわかる。しかも父に兄弟はいない。祖父母も他界している。父が死ねば、莫大な遺産が全部秋雄に入るだろう。もしかしたら、一生遊んで暮らせるかもしれない……。

 父が入浴する音が聞こえた。秋雄は静かに部屋を出た。書斎から充電ケーブルを持ち出す。

 洗面台のコンセントにケーブルを差す。ここから浴槽までケーブルが届くことは確認済みだ。

 秋雄は一呼吸置くと、一息で浴室のドアを開け、父のいる浴槽へケーブルを投げ入れた。

 聞こえてきたのは、断末魔――ではなかった。

 水音。顔を覆う高温。右腕に走る激痛。そして全く動かせない上半身。

「こんなことだろうと思った」

 父の声がする。

 秋雄の体は父に拘束されていた。

 髪を掴まれ、湯の中に頭を沈められている。ケーブルを持っていた右腕は父に取られ、背中で固められていた。唯一動かせる左腕で抵抗を試みるが、ただ空を切るだけだった。

「俺に似ず馬鹿な息子が育ったもんだと思っていたが、まさか、人を殺す方法が似るとは思わなかった」

 秋雄の耳に、父の声はほとんど届いていなかった。だが、父が何を言おうとしているかは察した。

「お前が俺の充電ケーブルに細工をしていることは、とっくに気付いていた。。だから俺は、そのケーブルを断線させておいた」

 もがく左手が、浴槽の淵を掴んだ。しめた、と力を込める。だが父が秋雄の頭をさらに押し下げると、左手が滑り、上半身が浴槽に逆さまに沈んだ。

「お前が悪いんだ。お前が立派に育っていれば、お前まで殺す必要はなかった。……いや、どうだろうな。エミは自分だけを見てもらいたがるからな」

 わずかに、聞いたことのない人の名が聞こえた。それだけで、秋雄は父の動機を理解した。

「エミというのは、俺の恋人だ。大学生なんだがな、俺はエミと結婚するつもりでいる。彼女も俺と結婚したがっている。そのためには、母さんも、お前も、邪魔なんだ」

 秋雄はすべてを理解した。だがそれが、いったい何になるだろう。今の秋雄には、父に対抗することも、真相を誰かに伝えることもできない。

「安心しろ、秋雄。母さんのときはうまくいったんだ。今度も、俺は完全犯罪を遂げる。無能な刑事どもに、俺の犯行は絶対に見抜けない」

 秋雄は意識が混濁してきた。肺に水が溜まっていくのを感じる。

 淀んでいく意識の中、秋雄はただただ必死に、警察の優秀さを祈っていた。

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