彼は今日も

 一体、何の用事だろう。私は足早にダンジョンの中を進む。シゥインが『すぐに来てほしい』と手紙を書いてくるなんて、何かあったに違いない。しかもダンジョンの中に呼び出すなんて。

 ダンジョンに入るのは久しぶりだった。でも怖さよりも焦りが勝る。ランタンの明かりを頼りに、どんどん進んでいく。モンスター除けの粉を入れた袋を手に握りしめて、体が汗ばむのを感じながら進む。

 そして私の鼻が異常な匂いを感じた。


(なにこれ? 血なまぐさい)


 鼻を押さえて、足の歩みを遅くする。ランタンを持つ腕を伸ばして正面を照らす。

 暗くてゴツゴツした地面に、粉の山が見えた。


(なんだろう……?)


 恐る恐る近づくと、大きな粒が混じる粉だった。見覚えがある。これはスライムの餌だ。私は目をらして眺める。


「ひっ」


思わず声が出た。粉の中に、人の顔が見えた。全く動かない見開いた瞳。死んでいる。


「だ、だれか……」


 悲鳴がうまく上げられない。かすれた声しか出ない。とにかく出口まで逃げよう。振り返ろうとした。

 突然、背中の傍から声が聞こえた。


「動くな」


 体が凍る。魔法を使われたように、指先まで動かない。


「あ、あなたは――」

「喋るな」


 地の底から湧き出た声で、私は何もできなくなる。息をするのも満足にできず、奥歯がカチカチと鳴る。


「俺の正体を知ったら」


 男は淡々と言う。


「お前も殺さねばならなくなる」


 目の前が白くなりかける。目の前には死体。そして後ろには恐らく殺人者。彼の言葉は嘘ではないだろう。

 私は全ての能力をかき出して、その場で踏みとどまる。ここで気絶でもしたら本当に殺される。感じたことのない恐怖に襲われ、私は十数年ぶりに失禁した。ズボンが温かく濡れた。

 男はその様子に何も反応しない。冷えた声で話かけてくる。


「こいつらはスライムが食べて消える。お前は何も見ていない。それでだ」


 股間から尿の匂いが上がってくる。ようやく私は落ち着いてきた。そしてある噂を思い出す。


「“影”」


 無秩序なダンジョンの守り手。もしくは残酷な暗殺者。一切の痕跡を残さず、悪人を消す。誰も悪いことをしないように、噂だけが広まる謎の存在。

 間違いない。私はそう感じた。


「目をつむれ」


 見てみたい。ギルドで働く私たちにとって、伝説として語られる彼を。

 でも、彼は許さないだろう。


「姿を見たら……」

「…………」


 呟きに何も返してくれない。私の本能がこれ以上の深入りを禁じた。大人しく目をつむる。


「十秒、声を出して数えろ。その後、ダンジョンの出口まで走れ」

「それで、いいの……?」

「このこと誰にも話すな。話したら……俺の仕事が増える」


 彼の命令に従うしかない。私は大きな声で数えだす。


「一、二、三」


 彼の息遣いはもう聞こえない。でも去った足音も聞こえない。静かなダンジョンで、私の声だが響く。


「四、五、六」


 彼は何者なのだろうか。声は下から聞こえた。私より背が低いのかもしれない。あの声を、私はどこかで聞いたことがある。


「七、八、九」


 もしかしたら“彼”なのかもしれない。でも、その詮索も許されないのだろう。私の脳裏に足音が無い印象だけが残り、誰にも言えない秘密が胸の中にたまった。


「十…………」


 恐々と目を開ける。ゆっくりと振り返っても、誰もいなかった。

 それでも誰かの視線を感じる。私は青ざめた顔のまま、一目散に出口へと走った。

 私の荒い息と騒がしい足音が、ダンジョンの冷たい岩肌に響いていた。


 ――*――


 ダンジョンから出た私を待っていたのは、傷だらけのシゥインだった。彼は涙を流して謝りながら、事情を洗いざらい話してくれた。私は勿論、彼をぶん殴った。さようなら!

 その後、マーホンたちが消えたと噂になった。


「どこに行ったんだろうね」


 リアがカウンターに肘をついて呟く。忽然こつぜんと消えたのは借金取りから逃げるためか、それともモンスターにやられたのか。誰も、私以外は、知らない。

 でも、彼は知っている。


「リアさん、計量終わりましたよ」


 小柄な少年が呼ぶ。リアが半笑いで答える。


「あんたは良かったね。もっとひどい目に会わされる前に、消えちまったんだから」

「へへへ」


 チョウは軽く笑って、リアから薬草の代金を受け取る。あんなに暴力を受けたはずなのに、もうほとんど治っている。

 でも、リアは気にしない。誰も彼を気にしない。


「ねえ、チョウ」


 私は思わず呼びかけた。ギルドから出て行こうとする彼が振り返る。


「あなたは一体……」


 私は次の言葉を出せなかった。彼の瞳から愛想が消えて、ガラス玉のような冷えた感情が現れる。まるであの時のように。

 チョウはゆっくりと言った。


「なにか、ありましたか」


 私は首を振った。何も言っていない。誰にも言ってない。そう意思表示する。


「そうですか」


 チョウはお辞儀して、外へと出ていく。ゆっくりとした足取り。誰にも気づかれない。彼の存在は空気に溶ける。


(ああ、今日も――)


 彼の足音が、聞こえない。

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辺境ダンジョンの【裏】稼業 河杜隆楽 @tacsM

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