白紙のカレンダー
葦元狐雪
白紙のカレンダー
青空に黒煙がたちのぼっていた。
たくさんの人がアパートの前に集まり、消防車の赤いランプが明滅している。
僕は野次馬を遠目に足を止めた。
まもなく二階の一部からすすにまみれた男が両脇を抱えられながら運び出され、すぐさま別の消防士たちがホースを持って突入していく。どよめきや拍手、カメラのシャッター音がけたたましい。
こんなことをしている場合だろうか。
僕は来年に大学の受験を控えている。あと三ヶ月もない。ボヤ騒ぎの見物に充てる暇があるなら、帰って勉強をするべきだ。余裕で受かるとは思うが、油断は禁物。
僕は喧騒を後にした。
その時の僕は、まさか受験に失敗し、火災を起こした男と隣人になるとは露も知らない。
⁂
絶対の自信があった。高校に入学した時から大学受験を見据え、部活動や遊びをそっちのけで勉強に徹したのだ。
なのに落ちた。当日に限って風邪を引くとは。
前日に合格を祈願して、滝行をやったせいだ。まったく思考は働かず、文字が滑った。
すでにポール・スミスのスーツを前祝いで買ってもらっている。一人暮らしには慣れておくべきと母親を説得し、ワンルームの賃貸なんて契約しなければよかった。
引っ越しが終わり、「ここなら勉強に専念できるな」と言って笑う父親の目は死んでいた。
静かな部屋に初めて夜の訪れた日、僕の何かがポキっと折れた。
⁂
僕はポール・スミスのスーツを毎日欠かさずに着ている。
おかげで外へ行く度に「ポールが出た!」と近所の子供に揶揄されようとも、決してほかの服を着るつもりはない。公園のブランコに座り、子供たちに囲まれながら誓った。自らを戒めるためだ。が、勉強は一切しなかった。
似非浪人生活も三ヶ月が経つころ、空き家だった右隣に誰かが引っ越してきた。角部屋だったので、初めての隣人だ。
せき払いの声からして、男性と思われる。女性がよかった。
幾千の運命的な妄想が砕かれ、数日は枕を濡らす夜が続いた。
⁂
ある朝、焦げ臭さに目が覚める。
誰か朝食を焦がしたのか。そうかと思いきや、どうも違う。
嗅いだことのある匂いだった。一昨年、あの煙立つアパートの前で感じたものと同じ......。
僕は隣人のチャイムを連打した。ドアを何度も叩く。名前は知らないから思いつく限りの苗字を連呼するも、暖簾に腕押し。
よって強行手段をとることにした。
少し助走をつけて、渾身の力をもってドアに突撃をする。
結果、弾き返された。
「あんた、何やってるん」
死んだセミのように仰向けているであろう僕に女性が問いかける。細身の金髪に派手な服装。ギャルだ。
「火事、火事!」
僕はドアを指で示して怒鳴る。
「やりやがったな」
そしてギャルは鍵を使い、あっさりと家に入っていく。
しばらく騒々しい音がした後、すすをまだらに付けたギャルが出てきてこう言った。
「あたし今日からここに住むんで。よろしく」
また枕がぬれそうだ。
迷い込んだ野良猫が僕のお腹に飛び乗り、ナーンと鳴いた。
⁂
仕送りは月に五万円。家賃を負担してもらい、そこから水道光熱費と通信費とが引かれた残額で生活をする。
だいたい三万円くらいしか残らないので、すっかり使い切ってしまう。
むしろ足らん。とはいえアルバイトはできない。『働く者、浪人にあらず』という観念に基づくためだ。
僕は『目指せ二浪』と書いた紙を壁に貼った。その横では、コーラの瓶に差した紫陽花がドライフラワーと化している。
⁂
僕は青臭い河川敷で缶ビールを喉に流し込み、盛大に吹き出した。
暑さの中でいただくのが美味いらしいが、あれはたぶん嘘だ。
気づくと小学生ぐらいの男の子が僕の前に立っている。
「ねえ、くさい虹、もう一回やって」
誰に頼まれようと、二度とビールを吹くものか。
僕は口をすぼませ、ゆっくりと首を横に振ってやった。
⁂
扇風機ではとても耐えられない猛暑日だった。額に乗せた氷は、瞬時にお湯と化した。
きっと室温は四十度を越えているはずだ。汗が止まらず、熱で頭がぼんやりする。
とろけそうだ。エアコンを使いたいが、とんでもなく高額な電気代を請求されてしまう。
プールで涼むか。いや、入場料がかかる。人も多い。
図書館は行き過ぎて飽きた。
——どうせ、ここに留まっては死ぬ。
僕は決意した。
小銭を握り電車に乗って、駅から三十分ほどを歩き、僕は人気のない浜に来た。
やたら漂流物と岩が多い。砂浜は狭いけれど、眼前に広がる海原はきらきらと光って綺麗だ。
来てよかった。
ひとしきり潮の香りと海水浴を楽しみ、フナムシを追いかけたりして遊んだ。
日も暮れてそろそろ帰ろうかという折、ふと岩場の隅の白っぽい塊に目がとまった。
近づくに連れて魚の腐ったみたいな臭気が強まり、鼻が曲がりそうになる。大きさは六十センチほどの石だった。十キロの米袋を彷彿とさせる重さで、なおかつ触るとぬるぬるする。
それらの特徴に、見憶えがあった。
僕は石を持ってきたバックパックに躊躇なく詰め込み、急いで帰宅をした。
⁂
調べてみると、まさしく
マッコウクジラの腸内に生じる結石で、巨大なものは億を超える金額で売れるため、『浮かぶ金塊』とも云われる貴重な排泄物だ。
以前、海外のニュースサイトに取り上げられていた。
「おお、
僕は快哉を叫んだ。
その夜、ATMに行って残りの預金をすべて引き出し、回転寿司で好物のあん肝をたらふく食べた。次いで神棚を買い、竜涎香を祀りあげた。
熱帯夜のワンルームにたちこめる異臭の中、僕はベッドの上でかつてない幸福を感じている。
大金の使い道を夢想しているうち、なぜか隣のギャルのことを考えていた。
このあいだ、彼女と邂逅した日を思い出す。
⁂
冷凍食品半額セールの日だった。
一日一食を餃子と白米のみでしのいでいる僕は、時々、近くのスーパーで冷凍餃子をしこたま買う。毎日食べても飽きないくらいに美味しく、安上がりで最高だ。
ビニール袋ははちきれんばかりにふくらみ、歩行を難儀にさせた。しかも西陽が眩しい。大量に汗をかき、腕がふるえた。
限界だ。
公園のベンチでひと休みしていると、横に誰かの座る気配がした。
見ればとなりのギャルだ。あいかわらず、露出度の高い服を着ている。
「おっすポール、買い出しかな? え、待って。餃子買いすぎでしょ。ウケる」
それから僕達はお互いについて話した。
ギャルはブロガーを生業にそこそこ稼いでおり、同居の男はどうやら実の兄妹らしく、彼の悪癖を止めるべく監視をしているという。
「これ、兄貴が描いたんだ」
携帯電話のディスプレイを見せられる。
揺らめく炎の絵。キャンバスに本物と見間違うほど写実的なものや、抽象的な絵がいくつもあった。
「プロの画家ですか?」
「ううん、趣味。かなり上手でしょ。小さい頃からずっと好きなんだ」
「へえ。よっぽど火が好きなんですね」
「どうかなあ」
ギャルはちょっと悲しそうな表情を示して語る。
「両親が医者でさ。兄貴は期待に応えるために一生懸命勉強してたんだよね。けど、三浪しても医大には受からなくて」
彼の描いてきた作品は目の前で火にくべられ、父親に罵詈雑言を浴びせられた。こんなものにうつつを抜かしているからダメなんだ。二度と筆をとるな、と。
「だんだん兄貴は勉強をしなくなって、かわりに炎の絵をひたすら描き始めたの。起きてる間ずっと。ご飯を食べるのも忘れてさ」
ついに、男はキャンバスに火を灯す。
家を転々とし、出火騒動をかならず起こした。身内に犯罪者を出さないため、両親の財力によってもみ消してはいるが、次はどうなるか分からない。
気の毒な兄をなんとか救えないか。その一心でギャルは実家を飛び出し、彼の元へ転がり込んだのだった。
「心配されているのでは」
と僕はたずねた。
「あんまりしてないかなあ。うち達はもう何も期待されてないし」
「そうでしょうか。やっぱり人の親ですから、案じていないはずは......。それより、お兄さんはいま大丈夫なんですか」
ギャルはかんじと笑い、僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「優しいんだねえ。兄貴は緊縛してるから丈夫だよ」
緊縛? 兄弟でどんなプレイをしているんだ。
「ちょっと喉乾いてきちゃったね。どっか休憩出来るとこないかな〜」
ギャルが目配せをする。本来ならその方向には象の形をした赤い滑り台があるはずだが、なぜかシンデレラ城もかくやと思われる建造物がそびえ立つ。大きな看板に休憩と宿泊、それぞれの料金が表示され、派手な電飾に彩られている。
「行こっか」
ギャルに手を引かれた。子供たちが集まってきて、異口同音にヒューヒューと囃し立てる。
「なあポール。お前、行っちまうのかよ。夢の国でスプラッシュマウンテンしちゃうのかよ」
小学生くらいの男の子が寂しそうに言う。
「はしたないぞ」
僕がたしなめると、男の子は「くぅ〜」と言って下唇を噛んだ。
はたしてこんな記憶だったか。
しかし、どうでもよかった。さあ、僕の魔法の杖が夢のドビラを開くのだ。
アブラカタブラ!
お城に入る間際、ガチャりと鍵の開く音がした。
それをきっかけに視界は暗転し、いつもの白い天井に変わる。
あれは夢か。どうりで事実と異なるわけだ。
実際は「兄貴のご飯を作らないと行けないから、またね〜」と告げられ別離した。子供たちには「ポール、あれは恋人か。お前振られたのか」などと心配をされた。
不思議と寝覚めは良い。
洗顔をして一杯の水を飲み、神棚に拝む。
ふと、違和感を覚える。
拝んでは神棚を見るを繰り返す。信じられず、自分の眼と鼻を疑った。部屋中をくまなく探し回る。全身の血の引いていく感覚がした。
竜涎香がない。
⁂
神棚に『合同会社石川五右衛門』と書かれた名刺と、一枚の手紙を発見した。
そこには民草を助けるべく、富の再分配に協力を強いる内容が記されていた。
義賊のつもりか。盗人猛々しい。もっと金持ちから盗れ。かならず見つけだし、大釜で煎ってやる!
僕は近くの交番に駆けた。しかし憤るあまり「僕の排泄物が盗まれました」と訴えてしまい、警察官を困惑させてしまう。
僕は強烈な羞恥心にたまらず逃げ出し、不審者と勘違いをされたのか、警官やパトカーに追われたが、なんとか撒いた。
幾千の恣意的な妄想が砕かれ、しばしもやしを茹でるばかりの日々が続いた。
⁂
木々の葉の色付きはじめる頃、早朝に散歩へ出かけようと家を出た途端、つま先になにかが当たった。
白い小石である。猫が遊びに来たのかもしれない。
可愛いと思ったのもつかの間、各部屋の前に同じ色の小石が整然と置かれる光景にぞっとした。
子供のイタズラだろうか。その石を点検する。鋭利な刃でスパッと切られたかのような断面。ぬるぬるとした手触りに、ひどく生臭い。
まさかこれは。
「波邇夜須毘古様!」
僕は切り刻まれた竜涎香に頬ずりした。
「何事?」
ギャルの声が問いかける。ドアポストから覗いているらしい。
「ウンコ様が戻ってきたんです! 神!」
「よくわかんないけど、よかったね。でもちょっと静かにしてね」
「あああ!」
嗚咽の漏れるほど泣いた。
ややあってカチカチと肩を叩かれる。涙を拭いて確認すると、怪訝そうな顔をした大家さんが立っていた。火バサミとゴミ袋を持っている。
「朝からやかましいね。誰だか知らないけど、人様の家にクソを捨てていくなんて、まったく許せないじゃないか。あんたもそう思うだろ」
「いえ、これは」
「あら。その汚いの寄越しな」
大家さんはそう言うと、火バサミで僕の掌からミニ竜涎香を奪い取り、ゴミ袋に放り入れた。
「ウンコオオオ!」
「なに騒いでるんだい。そういやあんた、もうすぐ受験じゃなかった? こんなところで油売ってていいのかい」
受験。
僕は雷に打たれたような衝撃をうけた。
「どうなろうが知ったこっちゃないけど、まあ頑張りな〜」
そうして大家は去っていった。
どうしよう。最初は似非浪人生活を貫き通す覚悟があったけれど、いざ本番が迫るとさすがに焦る。竜涎香の売却益を元に投資家になる予定だったのに。
今から勉強をはじめて間に合うだろうか。いっそ開き直って、似非二浪生活をしようかしら。
色々と考えを巡らせている最中、携帯電話に着信が入る。
父親からだ。嫌な予感がした。
「もしもし」
「久しぶりだな。どうだ、調子は? ちゃんと飯食ってるか」
「まあ、ぼちぼちです」
「そうか、ならいい。ちなみに一浪は許すが、二度目はないぞ。心して挑みなさい」
「え?」
「健闘を祈る。滝行だけはするなよ、またな」
「ちょっと待ってよ! 父さあん!」
通話は切られていた。
死ぬ気でやるしかない。どうして今日に限って抜けるような青空なんだ。
ぼんやり空を眺めていると、心が落ち着く。
遊びにきた野良猫が僕のスネに頭を擦りつけて、ナーンと鳴いた。
⁂
勉強の勘を取り戻そうと躍起になっているところ、滅多にならないチャイムの音が響きわたる。
たいてい訪れるのは宗教の勧誘かセールスくらいだが、今回はめずらしく宅配便だった。
両腕に抱えるほどの四角い箱。粗品と書されたのし紙がかけてある。差出人は『合同会社石川五右衛門』だ。
中には手紙と二つ折りの大きな白い厚紙が入っている。
まず厚紙を開いてみると、『年 月 日』の三文字があるのみだった。
これがほんとの粗品か。差出人への苛立ちが増した。
しぶしぶ手紙を読む。富の再分配への白々しい感謝の言葉が書き連なり、おわりに粗品の使い方が記されている。
『お望みの年月日を書いていただきますと、たちまちタイムワープが叶います。使い切りタイプです。ご留意くださいませ』
現代に蘇ったこの石川五右衛門は、どこまで僕をおちょくるのか。
こんな胡散くさいタイムマシーンを信じられるわけがない。
馬鹿らしくなり、勉強に取りかかる。が、ちっとも身が入らない。
——もし、本物だったら。
いかん。集中出来ん。
暮れなずむ外に僕は出かけた。
河川敷は青春カップルや草野球をする少年少女、犬に散歩をされる老人たちでにぎわしい。
川べりに腰掛ける。
ポケットをまさぐり、白い小石を取りだす。道中、落ちているのを偶然見つけたのだった。
夕陽に透かしてしばらく眺めた。
やっぱり臭いので石切りに使ってやる。十三回も跳ねた。
とても爽快な気分だ。
いつの間に現れたのか、小学生ぐらいの男の子が目の前に立っている。
「ねえ、くさい石切り、もう一回やって」
僕はポケットに手を突っ込み、竜涎香の欠片を二つ取り出した。
「一緒にやるか」
男の子は口をすぼませ、ゆっくりと首を横に振った。
⁂
氷雨の降る中、長い時間ためらわれたチャイムをようやく押した。
ギャルが出てくる。
「なに。どうしたの」
「あの、おたずねしたいことがありまして」
「そっか。でも、ちょうどこれから飯なんだ。おでん、食べてく?」
そういえば腹が減っている。
なるべく男の前で話はしたくなかったが、無碍に断るのもわるい気がした。
「ぜひ、いただきます」
「よかった。じゃあ、あがって。味の保証はしないけど」
結果的に、もてなしを受けたのは正解だった。男の容姿をあらためて確認しておきたかったし、なによりギャルの手料理を食べられる機会なんてそうそうないと思う。
——エプロン姿のギャルが作るなら味はどうでもいい。
はじめて隣人のアトリエに入る。数多のキャンバスが所狭しと置かれ、油絵の具の匂いがただよう。テーブルには大鍋にたっぷりのおでんと小皿。首輪をつけられた毛むくじゃらで肥満の男が既に座っている。挨拶をしたら、伏し目がちに首を小さく動かして返事をされた。
「兄貴と会うの初めてだっけ? 仲良くしてあげてね。さ、食べよっか」
ギャルにすすめられ、席に着く。
大根を黙々と口にはこぶ男。目に生気がない。生けるしかばねのようだ。
「それで、何が知りたいの?」
ギャルが問いかける。
僕は用意していた質問を投げた。
「お兄さんが受験に落ちた理由です」
男が吹き出す。むせたのか、おおいに咳き込んでいる。
僕は申し訳ない気持ちになった。
「すいません」
ギャルが笑いながら男の背中をさする。
「てっきりうちのことかと思ってたわ。受験前にね、滝に打たれて風邪ひいたんだよ」
「え」
「願掛け。夜通しこっそりやってたみたい」
僕と同じだ。訊けば場所も合致する。
というか絵は全然関係ないじゃないか! それなら、わざわざ絵を燃やす理由はなんだ。
この際だから、本人に直接たずねた。
「どうして絵を燃やすのですか?」
男の動きがピタリと止まった。
口をわずかに動かしている。
「......だ」
「え、なんですか?」
「......んだ」
「ワンモア」
「なかったことにしたかったんだ!」
唐突に男は立ち上がり、物凄い勢いでキャンバスに筆をはしらせた。全身を使って躍動する。爆発する炎の絵だ。
そしてマッチはどこだと叫び、暴れはじめた。棚をひっくり返し、おでんを床にぶちまける。場は一瞬にして波乱の様相を呈した。
「落ち着け兄貴!」
妹の呼びかけも虚しく、壁に穴が空く。
うおお賃貸! とギャルが嘆いた。
「大丈夫です」
と僕が言う。
「なんで」
とギャルが怒鳴る。
「お任せください。僕がお兄さんを救ってみせます」
お邪魔しました!
そう言って僕は足早に退去し、粗品の『年 月 日』に数字を書き込んだ。
⁂
真夜中に滝行をしている人物がいる。
僕はそいつをめがけて全力で走って行き、力いっぱいビンタをかました。
「ポールちゃん、久しぶりね」
カウンター越しにママが言う。裸エプロンに筋骨隆々。丁寧にグラスを磨く様は、五年前に僕を助けてくれた頃とさして変わらない。いささか化粧が濃くなったくらいか。
「青島ビールを」
「やだ、チンなんて。いやらしい」
そう言って、ママは冷蔵庫から瓶の青島ビールとグラスを選び、小皿に盛られたナッツと一緒に出してくれた。
「ちょっと老けたんじゃない?」
ママが言った。
「仕事のせいだね。大変な現場ばかり行かされたよ」
僕は青島ビールをグラスに注ぎながらこたえる。
「オジキさん、陰でポールちゃんのこと褒めてたわよ。あいつ、ようやくできるようになってきたって」
オジキさんは建設会社の社長だ。従業員はみな「オジキ」と呼んで親しむ。僕がこの『ボンテージ明美』で暖をとっていたところに偶然居合わせたのがオジキだった。
「家も仕事も戸籍もない? だったら、うちに来ればいい」
僕の返事も待たず、オジキは誰かに電話をかけた。
翌日、僕に新しい家と仕事と『ポール・スミス』の名前が与えられた。誰か曰く、ポール・スミスのスーツを着ていたのが理由だ。
「ところで、もう一人のポールちゃんはどうしてるか知ってる?」
とママがたずねる。
「さあ、どこか適当に暮らしてるんじゃないかな」
僕は冷たいビールを喉に流し込む。火照った身体にしみて美味い。
——もう一人の自分か。
僕はグラスに残った泡が消えてゆくのを眺めながら回想する。
あの日、過去の自分はベッドに眠っていた。ホームを通過する特急列車に近づけないような、漠然とした死の予感。僕は帰る場所を失った。
深夜の冷たい町をさまよった挙句、場末のスナックにたどり着く。店先でタバコを吸っている巨漢がいる。
「そんな薄着で馬鹿ねえ」
と裸エプロンの姿で言われたのだった。
「そういえば。店の看板、電気消えてたよ」
「やだ〜! ちょっと勝手に閉店しないで〜」
ママが店を出て行く。よく逮捕されないなと思いながら、僕はナッツを噛んだ。そして過去の自分の行く末を、程なくして知る。
⁂
ある早朝のニュースで強盗未遂の事件が報じられる。容疑者の見てくれは、僕と瓜二つ。テレビ画面にかじりついて観る。犯行場所はママの店の近所だ。テロップに犯人の名前が表示される。僕の旧名じゃないか!
「事業の資金繰りに困り、衝動的に行ったと容疑を認め......」
アナウンサーが淡々と原稿を読み上げる。
手錠のかけられた僕がパトカーに乗せられる映像は終わり、占いのコーナーにかわった。
「僕がどうかしている」
テレビの電源を消す。そして、僕は電話をかける。
⁂
※この手紙は水につけると本文が見える仕組みです。一分以内に読み終えてください。それを経過すると完全に溶けてしまうのでご注意を。
はーい、久しぶりだ。
先日は連絡をくれてありがとう。
新しい名前はさすがに慣れたかな。
別に悪ふざけでつけた訳じゃない。君にピッタリ似合うと思ったからだ。
直接話が出来なくてすまない。実は君の電話に応対してくれたのは秘書でね。身を守るためだ。許してくれ。
さて。依頼してくれた件だけど、彼は堕ちるるべくして堕ちたって感じだ。
大学を卒業してすぐに竜涎香を売却し、それを元手に勧められるままに色々な商材に手を出し、ことごとく失敗をした。
損失を取り戻そうと躍起になったのがまずい。詐欺師に騙された。彼は巨額の負債に平静を失い、強盗事件を起こしたのが事の結末。
若さゆえの過ちだね。
竜涎香さえ拾わなければ、また違う未来があったかもしれない。
幸運かと思いきや、それがあとから見れば不幸だったりすることはよくある。
君も気をつけなよ。
それと、『合同会社石川五右衛門』という会社は存在しない。
以上だ。
報酬は指定の口座によろしく。秘書から聞いているだろう?
そのうち会えるといいね。
では、健闘を祈る。
⁂
僕は飛んだ。
南の島に身を潜め、簡易的タイムマシーンの作り方を模索した。
不幸な自分を放っておけるか! 絶対に助けてやる! あの胡散くさい幽霊会社が作れたのだから、再現は可能だ。
今頃、全国のオジキの兄弟が血眼になって捜索しているはず。見つかったら折檻では済まされない。
朽ちかけの古家を安く借りて、隠れ家(研究所)にした。
されど試行錯誤を重ねて発明しようとするも、はかばかしくない。そもそも理論的に不明だ。
歳月は流れ、貯蓄が底を尽き、もはやダメかと思われた時、痩身の眼鏡をかけた男に出会う。寂れた食堂でタコライスを食べていた僕に声をかけてきた。
「失礼ですが、どこかでお会いしませんでしたか?」
「いえ、人違いでは」
僕は帽子を目深に被り直す。オジキの関係者かもしれない。
「うん、やっぱり。私、あなたに殴られていますよ」
「そんな人に見えます?」
「その節はありがとうございました」
男は深々と頭を下げる。
妄想ストーカー型のドMかと思った。
「あ」
たしか、僕がこれまでに人を打ったのは一度だけだ。
ずいぶん痩せて分からなかったけれど、放火の男の面影がある。
後で聞くと、彼は医師になったがアーティストの道をどうしても諦めきれず、知り合いの仕事を手伝う方々、絵を描いているという。
「いつかお礼をしたいと思っていましたが、まさか今日、こんなところで会えるとは。私にできることならぜひ、なんでもおっしゃって下さい。あれ、でもこの前捕まっ——」
「よろしく」
僕は立ち上がり、彼の手を強く握る。
ぽかんとした顔をする男。
「タイムマシーンを作るんです。よろしく」
男は口を開いたまま、こきざみに首を縦に振った。
それから、彼とその知人達の協力の甲斐あって、開発は大いに進んだ。
僕は何遍時を渡っただろう。いつ簡易的タイムマシーンは開発されたのか、もはや曖昧だ。
竜涎香を手にするのがきっかけで、僕は必ず悪い事態に陥る。助けれども拾ってしまう。旅先のお土産屋に臭い石として売っているや、新居の庭に転がっているのを見つけたり、外国で人を助けた謝礼にもらうなど、枚挙にいとまが無い。
手に入れては没収を繰り返す。目的なんてとうに忘れた。僕はただ、時空を越えてあらゆる自分自身から竜涎香を盗み、簡易的タイムマシーンをさずける謎の使命感に動かされている。
あるとき、僕は鏡に写る自らの姿に驚く。白髪にシワシワの肌。まるでおじいちゃんだ。
「これは誰なんだ。僕の存在は、いったい......」
僕は急いで裃をこしらえ、百日かつらをかぶり、顔に白粉を施す。
「浜の竜涎香は尽きるとも、世にポール・スミスの種は尽きまじ」
——義賊的に生きるのだ。富(竜涎香)の再分配をし、貧困者に救いを!
かくして、僕は『合同会社石川五右衛門』を勝手に設立した。
⁂
「さむ......」
雪のちらつく、濡れた公園のベンチに歌舞伎が独り。灯油屋の音楽が遠ざかっていく。「あれ、エビゾーじゃない?」と子供たちがいぶかしげに見てくる。
「絶景かなあ!」
僕が大声を発すると、子供たちは悲鳴を上げて逃げていった。
笑いがこみあげてくる。ひとしきり大笑した後、どういう理由か涙が出てきた。
——こんなはずじゃなかった。
突然、後悔の念に襲われる。僕は果たして、正しい生き方をしているだろうか。本当の名前さえ忘れ、隣に誰もおらず、ひたすら臭い石を配って回る。世界でもっとも哀れな人間に思われた。
「あ、ポール!」
つと懐かしい響きが聞こえる。知っている声だった。
「この寒いのに歌舞伎役者の格好なんかして! いきなり出て行くから心配したんだぞ。兄貴落ち着かせるのマジしんどかったし。......あれ、泣いてる?」
細身の金髪に派手な服装。
「絶景かな」
と僕は言った。
—了—
白紙のカレンダー 葦元狐雪 @ashimotokoyuki
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