魔術師の棺

シン・ノーヴェリックは感情というものがわからなかった。

幼い頃に黒い髪や瞳を厭われて親に捨てられ、逆にその容姿の美しさに心を奪われた魔族に鑑賞物として拾われても、魔術が使えることを奇貨に魔族側についた人間として王国軍への揺さぶりのため戦場に出されることになっても、さして何か思ったわけでもなかった。

生まれてすぐの頃から決して幸福とは言えない環境に晒された心はいつの間にか痛みに酷く鈍くなっていって、ついには碌な温度も感じられなくなった。

そんな訳だから元から全くわからなかったというより、徐々に心が凍てつくにつれわからなくなったという方が正しいかもしれない。過去のことは彼自身よく思い出せないので、本当のところがどうだったのかは解らないが。

とにかく、彼は10年以上に渡り冷たく無感情な生活を送っていた。


リーシャ・ラズモールに初めて会った、というか見かけたその時も特に心が動くことはなかった。

遠目に見ただけでは、茶色い髪に若葉色の瞳と特別目立つ容姿でもないリーシャは黄金のように豪奢なブロンドを持ち絶世の美女と持て囃される聖女や、圧倒的な存在感を放つ聖剣を携えた勇者と比べあまりに地味だった。

目に入っても見過ごしてしまう存在ーーそんなリーシャが彼の中に色付いたのは、戦場でのことだった。


その場所が気になったきっかけは些細なものだ。

勇者側の情報を手に入れてくるよう命じられて潜り込んだそこで、視界の端に派手な火の手が映ったから。

それだけだった。


屍の中に、彼女は佇んでいた。

一緒に戦っていた兵や仲間たちは撤退したのだろう。

シンがリーシャに近づいても気付く者はいない。

いつ襲われてもおかしくない場所で、無防備にも立ち尽くした彼女の視線はずっと、未だ燻る焼け跡に注がれていた。


「……大丈夫。」


服の裾を握りしめて彼女は呟く。

力の入れ過ぎで腕は震え、色は真っ白だ。


「きっと、痛みを感じる暇もなかった…だから、大丈夫……だいじょうぶ……。」


繰り返される“大丈夫”は小さな声にも関わらず、まるで悲鳴のように響く。

その声が酷く頭に焼き付いた。

古傷が開いたような痛みを覚えると同時に、彼女の存在がシンの中で小さな根を張る。

彼はそれが何なのかわからないまま、それでも胸の痛みと共に思い出す少女の姿と声に引き寄せられるように彼女のいる戦場に赴くようになった。


リーシャの魔術はシンの言葉で表すなら“祈り”だった。

客観的に見れば無駄の多い魔術であったに違いない。

彼女の編むそれは人を瞬きの間に死に至らしめる。

魔術単体で見れば非常に無駄の少ない優秀な術式だが、問題は人を殺すのに過分過ぎる威力だ。

リーシャの魔力の保有量は決して多くない。

杖やローブで補ってはいるが、それでもそんな無駄が許されるほど余裕がある訳ではなかった。

しかしリーシャは魔術を使い続けた。

身を削り心を削り悲鳴をあげながら。

“祈り”が神やそれ以外の何かに縋ることなら、彼女の魔術はまさしくそうだった。

そしてその戦場の中で一際輝く美しさは、シンを捉えてやまなかった。


初めは見ているだけでも我慢が利いた。

けれど日が経つにつれ彼女が視線を向ける先に自分がいないことが許し難くなった。

彼女が他の人間の為に心を割いている時のことを思いだすと、心臓の代わりにドロドロとした何かが胸一杯に満ちたかのような感覚に襲われる。

それは彼にかつてない不快さを齎したが、そんなものは初めて“魔法”を見せた日に彼女の若葉色の瞳が驚いたように此方を向いた瞬間、どうでもよくなった。

“魔法”を誰かに見せたのは初めてだった。知られれば魔族や人間に利用されるだろうと幼いながらにわかっての自制だったが、気付けばリーシャの視線を攫う、そのためだけに長年の制約を簡単に解いた自分がいた。


彼女の敵に向き合う姿勢はいつだって真摯だったが、戦場で向き合う回数が増えるにつれその中でも雰囲気が段々と柔らかくなっていくのがわかった。

リーシャと出会うたびに僅かな胸の痛みと、それ以上に鮮烈に世界が色付くのを感じる。

例えば食事の味だとか、例えば陽だまりの暖かさだとか、幼い頃に凍てつかせた感覚は彼女が溶かした部分を中心にして急速に戻っていく。

彼女の中ににシンが根付く度、さらに深く鮮やかにリーシャの存在が彼の中に根付いた。

久しい温度はもはや初めての経験に等しく、しばしば困惑させられることはあった。

それでもシンはもう、それを手離したいとは思えない。

彼女の元へ向かった回数が両手の指では足りなくなったころには、あの日彼女の視線を攫う為だけに“魔法”を行使したことを自分が後悔することはないだろうという確信があった。


街で出会った時もやはり彼女は様々に彼を色付けていった。

初めて聞いた穏やかな声は日向のようだったし、怒った顔は彼の心をざわつかせる。


「……っ魔族も人間も勝手すぎる…!」


シンの生い立ちを聞いた彼女は怒りに満ちた表情で吐き捨てた。


「皆、身勝手に利用して身勝手に奪うばかり……!」


言葉を切って、リーシャは唇を噛んで自分の掌を見つめる。

何度か開いて、きつく閉じることを繰り返す。

そこにこびりついたものをきっと彼女はいつだって意識しているのだろう。


「……けど、私だってそんな身勝手な人間の1人だ…。」


ごめんなさい、と小さく呟いた彼女は顔を歪めた。

その表情は初めて戦場で見たものよりもっと辛そうで、彼は咄嗟に彼女を腕の中に囲ってしまいたいような衝動に駆られる。

甘やかなような、痛くて引き攣るような不思議なこの感覚がなんなのか、シンにはやはりわからなかった。

確かなのは遠い昔に殺した幼い自分を、彼女がまたひとつ掬い上げてくれたということだ。

リーシャが自分の世界を形作っているということに、もはや疑いの余地はない。

怒りも、暖かさも、痛みも、世界とシンをつなぐ全ての糸を彼女の声が、瞳が、感情が結んでいた。


だから、リーシャが消えた世界は灰色にすら染まらない。


彼女が死んだという場所には、血の一滴すら残っていなかった。

僅かに彼女の罪が、悲鳴が、祈りが、跡となって残るだけだった。

しかしそれは“英雄”たる彼女の全てで、他の何よりも確かに彼女を失ったことを伝えていた。


その場所を訪れた後からのことを彼はよく覚えていない。

ただひたすら身体が彼女を求めて動いた。

それは願いですらなく、呼吸をするように禁忌に手を伸ばした。

乗り越えるのが不可能に近い障害にぶつかっても、おぞましい罪を重ねても、これといった感慨はなく泥の中に沈んだように全てが鈍い。

禁忌を求める彼を諌めた声があった気がする。過酷な境遇に心を寄せた声があった気がする。犯した罪を責めた声があった気がする。

もしもまともな人間が彼と同じ道を歩いたならどこかで気が触れたに違いなかったが、彼にとっては全てが無価値だった。


痛覚が戻ったのは彼女をようやく死から奪い返した瞬間。

腕の中で彼女が目覚めたその時には、既に5年が経っていた。


「……シン。」


瞳はあの柔らかい若葉色ではなく。

声は陽というよりは涼やかな水を連想させた。

それでも。

それでも、不思議と“彼女”がリーシャであるとわかった。


「リーシャ。」


初めて呼んだ彼女の名前。

1度口に出せば後はもう止まらなかった。

何度も壊れたようにリーシャを呼んで、抱き寄せその温度を確かめる。

頬に雫が伝ってようやく、自分が泣いていることに気がついた。

彼女を喪っていた間についた傷の痛みが今ごろ津波のように襲ってきて堪らない。

きっとずっと、シンは泣いていた。リーシャが死んだ、あの瞬間からずっと。



「よいしょ。」


2人で一頻り泣いていたのがようやく落ち着いた頃、シンの腕をすり抜けてリーシャが立ち上がった。

突然触れていた熱を失った腕が酷く空虚に思えてシンが顔を伏せると、頭上から彼女の笑う声がした。

つられて顔を上げると数歩ほど離れた場所で少し目を赤くしたリーシャが笑っている。

笑って、いる。

眩しさに目を細めると、眦に溜まっていた涙がまた一筋溢れた。


「シン。」


彼女が彼に手を伸ばす。

その手を掴んだ時、長い夜が明けたような気がした。


「行こう。」



シン・ノーヴェリックは感情というものがわからない。

泣き出したくなるほどの胸の痛みを、満たされたような飢えているような感覚を齎すこれが、なんという感情なのかわからない。


けれどリーシャの手だけは。

この温度は離してはいけないと、それだけはわかっていた。



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魔術師の棺 立花 @suono421

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