魔術師の棺
立花
或る少女の棺
ずっと、泣いている声が聞こえていた。
私は急に大きくなり始めたその声がどうにも気になって、揺蕩っていた意識をゆっくりとすくい上げる。
まるで数年間も目を開けていなかったみたいに光が眩しくて、視点が定まらない。
しかしぼんやりとした視界の隅に、それでもなお鮮やかな夜色が映った。
そちらへ僅かに顔を傾けると驚いたようにそれが揺れた後、暖かい温度に強く身体を締め付けられる。
そうしてようやく、自分が誰かの腕の中にいて、抱きしめられたのだとわかった。
おかしい。
思考が回り出すにつれて認識し始めた自分の状況があまりにありえなくて、おかしい、おかしいと頭の中で言葉を繰り返す。
触れるあたたかさが私の混乱を増長させ、けれど同時に不安を柔らかく溶かしてもいった。
誰かの腕は身じろぎもできないほどの力にも関わらず痛みも、苦しみも与えてはこなくて、私は混乱と安堵という不思議な感覚に包まれながら、視界が定まるにつれそれが誰のものだったのかを知る。
そしてその事実は私をさらなる混沌に陥れた。
おかしい。
なぜ、シン・ノーヴェリックーー魔王の懐刀だった、敵であったこの男が私の傍にいる?
なぜ、彼の腕は……こんなにもあたたかいのだろう?
私、リーシャ・ラズモールはただの村娘だった。
一度だって英雄になどなれたことはない。
しかし私は栄えある勇者パーティーの一員に選ばれた。
それはなぜか。
まあなんてことはない。
単に勇者と幼馴染で、多少魔法の素養があった。
ただそれだけだった。
それだけの理由で、私は魔王討伐と言う名の戦争に駆り出された。
一部では聖戦とも名付けられたその戦いは、実際は決して人だけが悪いわけでも、魔族だけが悪いわけでもなかった。
けれども戦で被害を被る民は、どれだけ国としてみれば利益があろうとわかりやすい大義名分がなければ不満を募らせてしまう。
そこで国は魔王の強力な魔力に対抗できる聖剣を扱える者を集い、その者を救国の英雄と持て囃すことで、“悪”である魔族を“正義”である勇者が討つという勧善懲悪の構図で民を煽った。
つまるところ私の存在は“勇者のために共に旅に出た健気な幼馴染”として物語に華を添えるためのものだったわけだ。
そんなふうに“救国の英雄”である勇者のパーティーは国から支援は受けていたが、それでも魔王に対抗できるのが聖剣を扱える勇者しかいないのだから前線には立たなければならない。
正義も悪もない戦場で、私は生き残るために必死で魔術を編み上げた。
中の上がいいところだった私の才能は国が支給した最上級の装備で上にまで押し上げられ、それでも最上にはなれないまま足りない才能を気力で補って戦ってきた。
何人も殺した。
何度も自分の放った魔術で人が焼けた匂いに吐いた。
戦場は凡人であった私には地獄だった。
そんな地獄で出会ったのがシンだ。
初めて彼に会った時、私は魔術を放つこともできず呆然とした。
彼の扱った魔術は最早文献にしか存在しない古の魔術で、もし人間の生命エネルギーを全て魔力に変換できたとしても足りないほどの魔力を消費して奇跡を起こす、かつて“魔法”と呼ばれていたものだった。
圧倒的な力量差だった。
もしかすると魔王と聖剣を持った勇者の2人がかりでも彼には敵わないかもしれないとどこか他人事のように思う。
そして彼が魔族側に付いているなら魔王討伐など万が一にでも無理だったのだと、今までの自分の戦いの無意味さを悟った。
しかし彼は魔王の強大な魔力も、それを封じられる聖剣の破魔の力をも凌ぐ能力を持ちながら、碌に戦おうとしなかった。
いつだってふらりと現れては絶妙に手を抜きながら勇者たちと相対し、ある程度撃ち合うと義理は果たしたとばかりに消える。
魔法も初めて出会った日に使った一度きりで、他は(最上級の魔術師が行使するような精度ではあったが)凡庸な魔術ばかり用いていた。
彼の魔力量の絶大さがわかっていたのは唯一の魔術師であった私だけだったが、どれだけ訴えても危険性が理解してもらえなかったのは彼がそのような態度だったせいもあると思う。
それでも2度、3度と襲撃を受ける内に私は彼と戦うことに恐怖ではなく安堵を覚えるようになった。
彼と戦っているうちは傷つけられる恐ろしさも、傷つける恐ろしさも感じなくて済む。
“魔法”には及ばないけれど、息を呑むほど美しい魔術の数々に私も精一杯のそれで応えた。
勝てはしない相手なのだからと割り切って放つ魔術は、形だけは攻撃に用いていたものの殺意はなく、その応酬は宛ら会話のようだった。
私と彼は戦場でなんともいえない不思議な関係を築き上げていった。
が、実際に話をしたのは一度きりだ。
斥候として潜り込んだ魔族の街で、私は彼に見つかった。
敵地で敵に見つかるという絶望的な状況にも関わらず、相手が彼であったからやっぱり焦りはなくて、事実最後まで彼も私を害することはなかった。
それどころかなぜか終始私にぴったり寄り添うので、視線が彼の方ばかりに集中する。おかげで私は目立たずに済んだ。
道中、彼との沈黙が苦という訳ではなかったが意外にもちゃんと返事をしてもらえるのが嬉しく、私はつい何度も話しかけてしまう。
魔術の代わりに言葉で語り合うのも楽しかった。
彼の低い声がとても心地良くて、雰囲気もいつもより幾分柔らかくて、月並みな言葉だがこんな時間がずっと続けばいいと願いながら歩いた。
初めて、お互いの名前を知った。
お互いの好きなものを知った。
お互いの嫌いなものを知った。
お互いの生い立ちを知ってーー酷く憤った私は、つい彼に感情をぶつけてしまった。
それが、最後だ。
私と彼が話したのは、それが最後だった。
「……シン。」
掠れた声で名前を呼ぶと、シンの身体はびくりと震え、腕の力が強くなる。
もう立てるよと身振りで示しても決して離そうとしない。
ずっと離れない温度を諌めることは諦めてシンの胸に顔を埋めるようにして抱きしめ返せば、またひとつ震えが伝わってきた。
ああ、おかしいな。
なんでシンの服が濡れるのだろう。
なんで喉が痛いのだろう。
ああ、ああ、やっぱりおかしい。
なんでシンがいるのだろう。
なんでこんなにあったかいのだろう。
おかしいな。
おかしい。
おかしいじゃないか。
私は、確かに、死んだはずなのに。
************
胸騒ぎはしていたのだ。
だから賢者が策の裏をかかれ、王国軍と交戦中のはずの魔王軍が現れた時、パニックになりながらもなんとか頭が働いていた。
逃げないと!
直感が囁く。
逃げなければ!
思考が怒鳴った。
地を黒々と埋める魔王軍に息ができないほどの緊張が襲ってきていたが、素直に頭に従えばきっと逃げられた。
でも、私は、足を止めてしまった。
他人の、勇者の言葉が届く隙を与えてしまった。
「……頼む。」
目を合わせることなく呟かれた声に、身体を縫い止められる。
わかっていたことだった。
戦闘能力を持たない賢者や聖女はもちろん、数を減らすことではなく時間稼ぎが目的なのだ、剣士などの前衛職を1人2人残したところで意味がない。
かといって殿もなく全員で撤退するとなれば少なくとも数名、下手をすれば半分以上は犠牲になるだろう。
そして何より、ただの凡百な魔術師である私は替えがきく。
私が残るのが最善である。
それが誰よりわかっていて、だから何も言わなかった。
嫌だ、と。
思う本能が決定的な状況になることを必死に避けようとした。
彼のその一言がなければ私は逃げたに違いなかった。
それでも幾多の死を生み出して、到底凡人には背負いきれない期待を背負わされて、ねじ曲げられた私の在りようがその場に私を留めた。
そうして私はひとり、地獄に置き去りになった。
それからのことはよく覚えている。
ひとつ、放った魔術で遠くの魔族が溶け。
ひとつ、放った魔術で遠くの首が飛んだのが見えた。
……ほら、死が一歩一歩近づいてきた。
その瞬間の私の感情までもが酷く鮮やかだ。
ひとつ、放った魔術で凍った人の顔がわかる。
ああ、もう、
ひとつ、放った魔術で燃えた炎が私の肌のすぐそばで弾けた時。
わたしは、ばらばらに、なった。
「シン。」
掠れていた声が今ははっきりと出る。
それでようやくわかった。
これは“私”の声じゃない。
「死者の蘇生……。」
呟いた言葉にシンの頭が驚いたように上がる。
ようやく彼と目があった。
じっと黒曜石のような美しい瞳を見つめていると泣きたいような気持ちになってきてしまったので、私……の、手に視線を移す。
少し細すぎる感じはあるが、白くて綺麗な手だ。
“私”の手は村にいた時は水仕事で、勇者パーティーの一員だった時は握っていた杖が擦れてぼろぼろだった。
髪も煤けたような茶色から透き通るような金髪になっている。
中に入っているのは“私”でも身体は“私”のものではない。
死者蘇生ーー最も高名な魔法のひとつ。
誰だって一度は夢見て、そして諦めたその奇跡は理論こそ確立されたと言われているものの、誰かが成し得たという記録は残っていない。
残っていないのではなく消されたのではないか、と囁かれるのはこの魔法が神の領域に足を踏み入れる禁忌とされるが故だ。
「リーシャ。」
「……うん。」
「っ……リーシャ。」
「ここに、いるよ……っいる、よ、いるよ、シン。」
けれど禁忌に踏み入った魔法使いは神などにはならなくて、むしろ迷子のように声を揺らしている。
応じる私の声も気付けば揺れていて、ああ、先程からずっと泣いていたのはシンで、私だったのだとわかった。
身を寄せ合って嗚咽をあげる姿は外から見たらやっぱり子供みたいだったろうけれど、ふたりきりの世界にそれを咎める人はいなかったから、私たちはいつまでも泣いた。
「姿は」
「うん。」
「前と同じように見せることもできる。」
一頻りお互いに縋ったあと、シンがぼそりと言った。
小さい声だからか以前話した時より数段声が低いのに、彼の声は不思議といつだって耳に馴染む。
彼が言っているのは幻惑の魔術の1つだろう。
通常であれば一刻も保たないものだし、技量次第では杜撰なものになってしまうが、彼なら完璧に“私”を再現できるはずだ。
でもーー
「このままが、いいな。」
思わずちょっと困ったような顔になる。
「この身体の持ち主だった子は嫌がると思う?」
「自由に使っていい、と。」
「この子は、病気だったの?」
「……心の病だった。」
理論上人体を作り出すことは可能だけれど、人工的に作り出した肉体には魂が入る場所がないのだと文献には書いてあった。
かといって魂が宿る場所などわからないから、結局死者の蘇生に使えるのは生きていた人間の肉体しかないのだという。
したがってこの身体も誰かのものに違いないと思ったのだが、そうか。
……優しい子だったのだろう。
世界に絶望して、死ぬことを望んでも、その死の間際でさえ見知らぬ私のことを想えるような。
だからこの身体は私を少しも拒絶しない。
指先から髪の先まで、どこまでも優しく私は受け入れられていて、彼女が本当に心から見ず知らずの私に全てを“譲って”くれたのがわかる。
私は、そんな風にはなれなかった。
死の淵で、私は全てを妬んだ。
パーティーの皆、特に勇者はきっと私の死を悲しんでくれるだろう。
だけどそんな風に思ってもらえるのは彼らの長い人生のひとかけらだけで、悲しみは生きていれば癒える。
心を占める寂寥が残ったとしても、いつか笑えるようになる。
勇者だって想いを寄せている聖女に慰められて、いつか立ち直るだろう。
だけど私にはその時間が与えられないのだ、ひとりここに置いてけぼりになるのだ、と。
終わってしまう。
悔しくて苦しくて悲しくて妬ましくて、たまらなかった。
まだやりたいことがあったのに。
まだ話したいことがあったのに。
まだ終わりたくないのに!!
最後の意地で終わりまで戦場に足を縛り付けてはいたが、頭を過ったのは自分の無念さばかり。
だから、私は“私”が嫌いだ。
人生の最後の瞬間さえ、英雄になれなかった、ただのちっぽけな存在でしかいられなかった“私”が大嫌いだ。
私も“私”も私である以上本質は変わらなくて、多分いつか自分の矮小さには向き合わなければならないけれど。
今は目を背けていよう。
血塗れの手も、絶望も、仮初めの英雄も少しの間置き去りにして、“私”とはちょっとだけ違う私として歩き出そう。
あの時焦がれて止まなかった一歩は、私の知らない優しい少女のくれたこの身体と、死の先まで私を追いかけてきてくれたシンと踏み出す一歩はやっぱり笑顔でいたいから。
「よいしょ。」
わざと明るい声を出して、一瞬緩んだ腕からするりと抜け出した。
立ち上がってからシンの方を見ると驚きながらも凄く寂しそうな顔をしていて、大げさなと笑ってしまう。
だってずっと膝の上にいたのでは一緒に歩けないじゃないか。
「シン。」
私は彼に手を差し出す。
「行こう。」
手を繋ごう。
それでまずはここを出よう。
太陽の下で改めてシンと彼女にありがとうと、それからシンにはごめんなさいを言おう。
彼女のお墓はあるんだろうか。
なかったらつくろう。
景色がとびきり綺麗なところがいい。
彼女の趣味に合わなかったら申し訳ないけれど。
それで、
それから、
そうして、
生きよう。
先のことなんてひとつもわからないけれど、精一杯泣いて怒って笑って、生きよう。
もう一度。
差し出した手に恐るおそる重ねられた体温を握り返した私は、さっそく思いきり笑って、一歩を踏み出した。
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