冬晴れ、熱に溶け出す

ミドリ

冬晴れ、熱に溶け出す


 友人に誘われて参加した飲み会に彼女も来ていた。


 彼女というのは、つまり『彼女』のことだ。いわゆる代名詞ではなくって、ガールフレンド。


 一ノ瀬月葉を、僕は遠巻きに盗み見ていた。珍しい。居酒屋でビールの入ったグラスをちびちび傾ける彼女なんて。


 飲み会のメンバーは十八人。全員が大学の軽音楽サークルに所属している。個室に招かれ、当初はみんな行儀よく席についていたが、時間がたつにつれふらふらと歩き回るものが出始めた。


 一ノ瀬の対面に座っていた男子は早々に気になっている女子のところへ行った。一ノ瀬の隣の女子は、仲の良い友達と好きなロックバンドについて会話している。


 一ノ瀬月葉は独りぼっちだった。けれどそれを恥じることはなかった。さも当然であるかのように、視線の先の虚空を眺めながら、グラスを時折傾ける。ほっそりした指先でつと唇を拭い、指先をおしぼりで拭う。すましているようで、その実、この空間で最も色気のある景色だった。


 心臓が淡くも激しい情動を訴える。僕は必死に無視を決め込んで、男友達と適度に言葉を交わしていた。


「先輩」


 月葉のグラスの中身が半分になったころ、僕の隣に後輩の女子が座った。ショートカットの、艶のある頬が印象的な子だ。たしかベースを弾いていた、と思う。軽音楽サークルは40人を超えているので、正確に一人一人のことを思い出すのは難しい。


「隣いいですか」


 僕が頷くのと、彼女が腰掛けるのは同時だった。断らないことなどお見通しだったのかもしれない。


「さっきからお酒進んでませんよ?」

「飲むときによって体の反応が違うんだ。今日は気分じゃないみたい」

「なんですかその体質」


 彼女はあどけなく笑い、自分が持っていたグラスを差し出した。中身は青の鮮やかなアルコール。


「こっちのお酒試してみません? おいしいですよ」

「どう、しようかな」


 僕は無意識に月葉の方をうかがった。これは浮気に入るだろうか。


 けれど月葉は、立てた片膝に顔を置き、そっぽを向いていた。ストレートロングが表情を隠している。


 見ないでおいてあげる。そう言っているみたいだった。


「……一口だけ、ね」

「やった。どうぞ」


 何が「やった」なのか。僕は青を飲み込んだ。あまりおいしいとは感じなかった。


「悪くないけど、やっぱり今日は気分じゃないみたい」

「え~、残念。じゃあ二次会も来ないんですか」

「二次会あるの?」

「はい、さっき部長がそれとなく言ってました。お酒飲まなくていいですから、行きましょうよ」

「いやぁ、別に僕はいいかな」


 割り勘の頭数に加えられるのは癪だ。それに、二次会に行ったら後輩も一緒に来るのだろう。できれば早く彼女から離れたい。


 さっきから彼女はことごとくパーソナルスペースを割ってくる。距離感がはかれないのか、意図的にそうしているのか。いずれにせよ、一緒にいたいと思える人間は、もっと他にいる。


 ちらとそっちをうかがって、僕は心臓が止まるかと思った。

 さっきまで向こう側を向いていた月葉が、こっちを向いていた。片膝に預けた頭からはらりと髪が垂れる。瞳はじっとりといやな熱を帯びていた。


「先輩がいかないならあたしもお暇しようかなぁ」


 僕と月葉の言外のやり取りもつゆ知らず後輩は言う。僕は行った方がいいよとたしなめた。


「部長について行けば新しく組むバンドに誘ってもらえるかもしれないし」

「先輩とバンド組んでみたいんですよ」

「……嬉しいけど、私生活の方が忙しくて当分ライブには参加できないから」

「私生活って?」


 後輩は小悪魔じみた笑みを浮かべて顔を近づけてきた。アルコールとたばこの立ちこめる店内ですら薄くラベンダーの香水が香る距離だ。あと数ミリで顔がくっついてしまう。


 僕は顔をわずかに引いて、

「私生活は、私生活」

 言外に壁を張った。ここから先には入ってくるな。


 後輩はきっと感情の機微に敏いのだろう。「ちぇっ」とわざとらしく鳴いて、


「じゃあまた今度誘いますから。覚えておいてくださいね」

 と引き下がった。


 後輩が席を立ったのを契機に、僕は再び月葉を見る。

 壁にもたれた彼女が退屈そうに一つ息をついた。






「じゃあ、またな」

「うん、また」


「先輩、ばいばい」

「うん」


 二次会には当然行かず、僕は駅の方に歩き始めた。乗り継ぎを一つ越して帰る手間を考えると、憂鬱になる。にぎやかな空気から一転。帰り際の電車ほど気分を低下させるものがほかにあるだろうか。高架の上を過ぎていく各駅停車を眺め、足取りは重い。


「ねえ」


 背後からかけられた声に肩が震える。必然足が止まった。いくつかの町明かりを背に、一ノ瀬月葉が立っていた。


「先輩」と僕は言った。一ノ瀬月葉は三年生。僕の一学年上だ。

「どうしたんです」

「別に、どうもこうもないけど」

「はあ」

「私の家で飲み直さない?」


 僕の視線は彼女の唇に吸い込まれる。きょうは気分じゃないはずなのに、気が付くと頷いていた。






 月葉は古ぼけたアパートの二階に住んでいる。どうにも彼女の雰囲気に似合わない気もするが、近くにスーパーがあり、学校まではバス一本で、駅に行くにも徒歩十分以内。立地の良さを求めた結果らしかった。


 彼女はコンビニで買ったお酒類を左手にぶら下げて、右手でカギを開けた。慣れたものだ。


「ん」と彼女は玄関を抑えた。入れ、という意思表示だ。それを推し量れるぐらいには、僕も彼女の家に慣れて来ている。


 リビングの座卓に座り、自分の分の缶ビールを置く。その間、月葉は着ていたロングコートを脱いで、冷蔵庫に予備のビールを入れた。彼女が向かいに座るまで、僕は窓際の観葉植物を眺めていた。モノクロを基調にまとめられた家具の中に緑色があるだけで部屋の空気が新鮮になっている気がする。


「お待たせ」


 戻ってきた彼女は灰色のニットを着ていた。柔らかい生地が張り付くように体を包んでいる。胸の稜線がくっきりと明らかで、目に毒だ。


 炭酸の音が二つ鳴った。どちらからともなく缶を差し出してぶつける。数十分ぶりに飲み下すアルコールは、やはり居酒屋で飲むものよりも数倍おいしい。他人の目を気にしないでいいからだろう。


 物憂げな息をつく月葉の目がじっとこっちを見ていた。何か言うことがあるのではないかと心当たりを探す。が、見当たらない。僕は気づまりで話を切り出した。


「そういえば、どうして今日は飲み会に? 普段サークルにも参加しないのに」

「そういう気分だっただけ。特別な理由は特に」


 月葉は居酒屋でそうしていたように頬杖をつくと、僕の顔を真正面からのぞき込んできた。気恥ずかしさで目をそらしそうになるが、なんとなく負けた気持ちになるのでじっと彼女を見つめ返した。


 改めて彼女の顔がよく観察できた。右目の下の泣きぼくろ。張りのあるきめ細やかな肌。端正な輪郭に通った鼻筋。一目で知性的とわかる物憂げな表情。意地になって見返しているうちに、彼女の容姿が持つ引力に捕らわれてしまう。取り繕うように、僕はどうかしましたかとシラを切った。


白瀬しらせ」彼女はわざわざ僕の名前を呼んだ。「私たちはいわゆる彼氏と彼女の関係にあるでしょう」

「はい、まぁ」


 そう直球で言われると戸惑ってしまうけれど。

 月葉はじっと僕を見続ける。


「あまり面倒な女にはなりたくないから、これ以降は言わないけれど」

「はい」

「私も」彼女はわずかに顔を背けて、「嫉妬くらいするわ」

 と言った。


 恥じらいを含んだその表情が彼女らしくなくて、僕はそれが同一人物だと思えなかった。次の瞬間胸の内に湧き上がったのはいつにも増していじらしい彼女への愛おしさだ。


 ぷっと吹き出してしまった僕を、月葉はキッと睨んだ。そんな表情も恥じらいの後ではかわいらしい告白になっている。


「色々不安になってくれてるってことですか? それはそれで、彼氏として嬉しいというか」

「白瀬はガードが緩すぎるの。だから後輩にあんな接近される」


 明らかに速いペースでビールをあおると、彼女は座卓のこちら側に回ってきた。


「あの、先輩?」

「うるさい」


 彼女の両手が肩に延び、そのまま押し倒される。凄艶な笑みが近づき、真上からむさぼるように口づけされた。息が苦しくなるまで舌を弄ばれ、ようやく離れると、彼女は起き上がって僕の手を引いた。


「どうにも、抑えが利かないの。一人の人間として誠実に付き合いたいって思う反面、所有物にしてしまいたいって気持ちが先走ってしまう」

「相手が先輩だったら全然嫌じゃ──」


 その瞬間月葉が僕をベッドに組み伏した。ほとんど叩きつけるような勢いに、彼女のスイッチが入ったことを知る。


「発言には責任が伴うと思うのだけど」


 耳元でささやかれる言葉にぞっと背筋の震えを感じつつ、甘い胸の痺れと、これから訪れる放蕩に身を委ねる。覚悟して、と耳朶を舐められた。熱くなまめかしい感触に意識が解けるのを感じる。僕は月葉の背中にそっと腕を回した。






     *






 目を覚ました。部屋中に昨夜の熱気の残り香が漂っている。吸い込むと体の芯が熱を帯びてしまいそうで、意図的に呼吸を浅くした。窓を開けようと思って体を起こすと、月葉の頭が僕の腕から滑り落ちた。低い声で彼女が唸る。布団の隙間から覗く首筋には、まだ赤い痕が残っていた。ちょっとした喜びに浮かれつつ布団をかけて隠す。


 ベッドから足を降ろし、窓を開けた。街を満たす冬の空気が部屋に流れ込んでくる。からりとした山茶花さざんかの香り。


「……寒い」


 思わずつぶやいて、自分がろくに服を着ていないことに気がつく。昨日着ていた衣服は月葉に脱がされ、ベッドの脇に落ちている。拾い上げると煙草のにおいがした。昨日の飲み会のせいだ。お気に入りのパーカーだったのに。居酒屋なんて場所に着て行った迂闊な自分を呪いつつ、着るのを断念する。月葉の温める布団にもう一度潜り込む。


 すると、彼女がぱっちりと目を開ける。驚いたまもなく、華奢な腕で上半身をホールドされた。


「もう一回?」


 低い声で言われ、とっさに首を振った。


「どっちかの骨が折れるまでするつもりですか」

「大袈裟……とも言い難いね」

「ええ」


 月葉が名残惜しそうに腕を外す。

 風で冷えた体を温めながら、ゆるゆると腹に触れてくる彼女の手を握る。すると手を引かれた。半強制的に寝返りを打つ形になり、月葉と向かい合う。


「ずいぶん強引ですね」

「窓なんか開けるから。寒くて仕方ないの」


 正面から抱きすくめられた。自分の乏しい筋肉の上で形を変える柔肌の感触に、それだけで体が熱を持つ。彼女の背中に手を回す。足が絡まる。うめくような、喘ぐような、どっちつかずの彼女の声。布団にこもった温みに体が解かされているようだった。互いの境界が曖昧になる。まどろみに吸い込まれそうな。


「本日は、なにかご予定は?」


 おどけた敬語で彼女が言う。


「特に。休日ですから」

「そ。私も」

「そうですか」

「そう。一日こうしていても誰も咎めない」

「空腹と喉の渇きを除いて、ですけどね」

「そうね。──コーヒーでも淹れましょうか?」

「僕が淹れますよ。昨日あれだけ動いたんだから、体痛いでしょうし」

「ええ。お願い」

「砂糖はスプーン一杯ですね?」

「ええ」


 会話が終わってからも、僕はしばらく布団の中にいた。月葉の体温が冬の冷たさを押しのけてくれるまで、しばらく時間が必要だった。


 二杯のコーヒーをベッドまで運ぶ。月葉が体を起こしていた。自然と隣に座った。


 頭の冴える香りで胸が満ちる。口に含むとまだ熱くて、甘い。


「これだけ寒いと、他者の体温にありがたみが増すと思わない?」


 右肩に触れる彼女を感じつつ、言った。

「過剰な熱は、おおむね気だるさを招きますけど」


 まさに今の僕らのように。


「あんまり減らず口を利くなら、溶かす」

「ごめんなさい」

「ん」


 彼女は体を交えることを溶かす、溶ける、と表現する。強引に責め立てられるにしろ、互いの同意の上にしろ、上り詰めた快楽が果てる際の感触をよく言い表している。言いえて妙、というべきか。


 再び彼女のスイッチが入らないとも限らず、僕は戦々恐々コーヒーをすすった。


「朝、何食べよう」

「パンでも買いに行きます?」

「外に出たくないのだけど」

「僕が買ってきましょうか」

「白瀬、あなたそんなに察しが悪かった?」


 マグカップを口から外し、どういうことですと尋ねる。


「いらないってこと」


 月葉の手が僕の持っていたマグを強引に手放させる。二つ分のコップを机の上に置くと、昨日のように再び押し倒してくる。


「え、ちょっと」

「暖を取るだけ」

「窓閉めたほうが……」

「暖を取るだけ」


 布団の中で絡みつく手足は収まりかけていた情欲をあおるのに十分で。慌てて押し返そうとしたけれど時すでに遅し。自分にまたがる彼女の裸身は驚くほどに火照っていた。外と同じ気温まで下がった室内で、うっすらと汗をかいた肌が生々しい。


「……本気ですか。本当に骨が折れますよ」

「どっちの意味で?」

「どっちもです」

「骨折って意味なら、安心して。私の家の砂糖、カルシウム入りのいいやつだから」

「気休めにもほどがありま……ッ」


 自身に触れられ、半強制的に滾らされる。蛇のような自在さをもってしなやかな指が辺りをなぞる。腿の内側に走るざわりとした快楽が疲れを段々に押しのけていく。


「せめて、窓」


 もはや空間を締め切る目的は温度の確保ではなくなっていて、それを知っていながら月葉は舌打ちをこぼす。手早く窓を閉めると、起き上がろうとする僕に再びまたがった。


 爛れた、歪な、部屋。


 こんな狂気の気配の中にいたら観葉植物ですら枯れそうだ。


「時間があると、ダメ。際限なくなっちゃう」


 月葉が唇を舐めた。

 危険な表情で見下ろされる自分は被捕食者なのかもしれない。


 ──当分家には帰れそうにないな。


 そう思いつつ、どろりと流れる時間に期待を寄せた。

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