事故物件に入居してしまった俺の話

乃木重獏久

第1話

 その話は本当だったのだ。家賃の安さに目がくらみ、事故物件に入居した自分が恨めしい。砂嵐を映すテレビからの不気味なノイズを聞くまいと、布団をかぶりながら俺は恐怖に怯えていた。




 来年度からの転勤を命じられ、異動先の地方都市で急遽賃貸物件を探すことになった俺は、業務引継の出張を利用して、転勤先の総務担当から紹介された不動産屋を訪れた。


 年季が入った小さな店舗の窓口で、応対に出てきた顔色の悪い中年の男に、事前にウェブで調べた手頃な物件を示すと、それはもう決まりましたと、にべもない。

 大手不動産チェーンならいざ知らず、個人営業の零細不動産業者が立ち上げたホームページの物件数などたかが知れており、事前の調査では他にめぼしいものが見当たらなかった。


 総務から紹介されたとはいえ、この店に周旋を依頼する義理も無いだろうと席を立ったとき、事務所カウンターの隅に隠すように立てかけられていた物件パネルに、ふと目がとまった。


 ――月額家賃八千円、間取り1DK、二階角部屋、築五年、最寄り駅徒歩八分、心理的瑕疵しんりてきかしあり――


 心理的瑕疵あり。過去に事件や事故等で人死にが出たなどの、いわゆる“事故物件”であろう。店主に聞くと、渋い表情をしながら首肯する。新築以来、その部屋のほとんどの入居者が、一週間も経たないうちに退去し、それより長く入居したものは、必ず入居十二日後に、死因不明の遺体となって室内で発見されているらしい。先月も住人が、取るものも取りあえずといった体で逃げ出したとのことで、以降は部屋貸しを行っていないという。


 全く霊感の無い、というよりも心霊的なものを全く信じていない俺にとって、願ったり叶ったりの物件だ。万が一それが事実だったとしても、十二日以内に退去すればよいだけのこと。会社から出る補助手当の上限額を大きく下回る家賃に加え、その所在地が赴任先のすぐ近くでもあったことから、「皆さん、そう仰りはするんですけどねえ」と渋る店主を押し切って、内見もせずに決めてしまった。


 赴任二日前の午後、引っ越しの手伝いに来てくれた、新たに部下となる数名の若手社員達に事故物件の話をすると、意外そうな表情だった。この周辺地域で事故物件やオカルト的な話は聞かないという。地元紙の記事で、近所での連続不審死について読んだ記憶はあるそうだが、この部屋で起こったことだとは知らなかったらしい。社員の一人が“非常に霊感が強い”ということで、くまなく室内を見て回ってくれたが、「何も憑いていないようですよ」とのことだった。


 浴室とトイレが独立し、全てが真新しげな内装。玄関を入ってすぐの板張りのキッチンと、過去に何名かが不審死したという六畳の和室。畳は交換したばかりのようで、い草の香りが芳しい。空調機器も完備なその部屋の家賃を聞き、若手達は羨みの声をあげていた。


 日が暮れてから、若者連中に食べ放題の焼き肉屋で食事を振る舞い、久しぶりのうたげに機嫌良く帰宅すると、既に深夜の一時を過ぎていた。

 コンビニで買った缶ビールと牛乳を冷蔵庫に収め、今日はシャワーも浴びずにもう寝ようと、押し入れから布団を取り出して畳に広げる。


 彼らの手伝いのおかげで、とても今日引っ越してきたばかりとは思えない、すっかり生活空間に変貌した部屋に満足しながら灯りを消す。明日は日曜日だ。近所の有名な観光地を巡ったあと、市の指定ゴミ袋や、荷物になるので捨ててきた生活用品を買い揃えに行こうか、などと思いながら眠りの淵を降りてゆく。


 不意に目が覚め、時計を見ると三時だった。あれから二時間も寝ていない。疲れ切っているはずなのにと思いながら再び目をつむる俺の耳に、それは聞こえてきた。


 和室とキッチンを隔てるガラス障子の向こうから、ぺたりぺたりとスリッパで歩くような音が聞こえてくる。驚いて布団を跳ね上げた俺は曇りガラスを見つめるが、姿らしきものは何も見えない。ガス漏れ警報器の緑のLEDがぼんやり滲んでいるだけだ。しかし、依然としてスリッパ音はペタペタと、キッチンを周回しているかのように、床の軋む音とともに響いてきた。脂汗が滲んでくる。暗い部屋の中、瞳孔が開ききっているのがわかる。


 このままじっとしていても仕方が無いと、勇気を振り絞りながら立ち上がり、ガラス障子をおもむろに開け放ち、キッチンの灯りをつけた。そこには普通のキッチンがあるはずだったし、そう期待をしていた。しかし、キッチンの明るいベージュ色をした床板には、一面にびっしりと真っ黒な足跡が残っていた。


 不覚にも気を失ってしまった俺が意識を取り戻したのは、既に夕方になってからだった。あらためて床を見ると、やはりスリッパで歩いたとみられる黒い足跡が、時計回りの方向に円弧を描くように、いくつも重なっている。俺のスリッパは和室の入り口に揃えたまま置いてあったが、それにも何者かに踏まれた跡が残っていた。


 冷蔵庫の脇に、見覚えの無いスリッパが乱暴に脱ぎ捨てられている。おそるおそる手にとってみると、使い古されたような茶色いビニール製のもので、アッパー部分には剥げかけた金文字で「来客用」と記されていた。既に乾いてはいたが、底面には何か黒い液体が一面に塗りつけられていたようだ。少しばかり膠のような匂いがすることから、どうやら墨らしい。触れたくはなかったがそうも言ってはおれず、不気味なスリッパをゴミ袋に入れ、濡れ雑巾で床を拭き終わった頃には、既にとっぷりと日が暮れていた。


 いきなり心霊現象の洗礼を受け、この部屋から出たいという誘惑に駆られたが、ネットで調べる限り付近のホテルは、訪日外国人旅行客に押さえられているようで、軒並み満室だった。顔合わせは済んでいるとはいえ、新しい職場への赴任前に、若手社員の元に転がり込むわけにもいくまい。また、出勤の前日をネットカフェで過ごす気にもなれず、昨日の出来事は何かの間違いなのだと自分に言い聞かせ、この部屋で朝を迎えることにした。


 明日の出勤準備を整えて、シャワーを浴びたあと、缶ビールをあおりながらテレビを眺める。部屋の壁に空虚に響くローカル番組の音声が、なぜか不安をかき立てた。


 明日は年度初めで、課長としての初出勤の日だ。決して遅刻は許されない。少し早いがテレビと照明を消し、昨夜から敷きっぱなしの布団に入った。しばらくはなかなか寝付けなかったが、いつの間にやら眠り込んでいた。


 部屋の中の、妙な光に目が覚める。朝が来たのかと思い時計を見るが、まだ三時だった。三時だと? 昨夜の出来事が脳裏に浮かぶ。掛け布団をずらして室内を窺うと、暗闇の中で液晶テレビだけが砂嵐と雑音を放っている。おかしい。テレビは間違いなく消したはずだし、この機種はオンタイマー機能の付いていない安物だ。勝手に映るはずが無い。そもそも、地デジで砂嵐などあり得ない。


 恐怖のあまり布団の中で身動きのできなくなった俺の聴覚は、意に反してあらゆる音を聞き逃すまいと、これ以上は無いほど鋭くなっていた。


 誰もいないはずのキッチンを、見えない何かが這いずっている様子が、ガラス障子越しにわかる。ベランダの窓越しにも、何か得体の知れない存在を感じた。突然ガラス障子が激しく叩かれる。驚いて跳ね起きた布団の足下に、大きな髪の毛の塊が蠢いている。


 入居二日目にしてこれかよ……。恐怖に囚われた心の片隅で、半ばあきれている俺がいた。キッチンで水道が出しっぱなしになっているような音がする。押し入れの襖が開き、何かがこぼれ落ちてくる気配。そしてテレビから流れでるノイズの中に、その言葉が聞こえた。


『おまえがどこにいようとも、十日後に必ず殺してやる……』


 暗い水の底から響いてくるかのような女の声。そのとき、俺は自分のミスに気づいた。入居し続けた奴は死んだ。ならば、退居した奴らはどうなのだ。そいつらのその後の消息を確認するべきではなかったのか。先月逃げるように退居したという 前の住人も、恐らく今頃は……。


 もうこれ以上は耐えられない。幸いなことに身体の自由のきく俺は、枕元のスマートフォンを手にとり、一一〇番を呼び出す。いたずらと思われてもいい。犯罪者を騙ってでも、とにかく警察に来てもらえれば……。しかし、圏外表示でも無く、電波状況は良好と画面の隅で主張するスマートフォンからは、話し中の音が虚しく流れるだけだった。


 絶望感に襲われた俺が、スマートフォンをあらぬ方向へ投げつけると、リモコンにでも当たったのか、不意にテレビ画面が変わった。画面の光が、押し入れからこぼれ落ちてくる、おびただしい数の日本人形を青く染める。しかし、なぜか部屋の異常事態よりもテレビ画面の方が異様に思えた。


 テレビの中でフラッシュを浴びながら桐花紋の付いた演台に立ち、何かを説明する初老の男は、内閣総理大臣その人だった。画面の上部には『内閣総理大臣緊急会見 首相官邸 生中継』とのテロップがある。


『――繰り返し申し上げます。本日午前一時に、アメリカ合衆国大統領からのホットラインにて得た情報によりますと、明日、四月二日午前三時五十四分に、複数の大型小惑星が地球に衝突する見込みだとのことであります。直径約三百キロメートルの大型のものが二つと、五十キロメートルほどの小型のものが一つの計三個の小惑星が、縦列状態で次々に衝突してくるものと思われます』


 テレビには、にわかには信じられないことを淡々と話す首相が映っていた。足下にあった髪の毛の塊が、掛け布団の上を這いあがってきているようだが、もうどうでもよかった。


『この情報に基づき、我が国の専門機関による観測を行ったところ、間違いの無い事実であることが確認できました。落下予想地点は小型のものが米国フロリダ半島東方約千二百キロメートルの海上、大型のうち一つがアフリカのニジェール共和国ニアメー東方約五百キロメートルの地点。そして、もう一つが千島列島付近の海上と予想されます』


 上半身を起こしたまま何の反応も見せず、テレビに見入る俺にしびれを切らしたのか、いきなりガラス障子が勢いよく開け放たれ、はめ込まれた曇りガラスが弾け飛ぶ。キッチンから魚の腐ったような臭いが和室に流れ込んできた。


『大統領によりますと、この事実が判明しましたのは、日本時間の三月三十日未明とのことであります。NASAからの報告を精査し、昨日三十一日に間違いの無い事実であることが確認され、ホワイトハウスにおいて事態の重大さを鑑み熟慮した結果、各国の首脳に伝達されたわけであります』


 俺は腕ににじり寄ってきた髪の束を引っ掴み、部屋の隅へ投げ捨てる。頭の皮が付いていたのだろうか、それとも生首だったのだろうか。思ったよりも重かったそれは、ドスンと音を立てて転がった。手を見ると血のようなものが付いていたが、冷め切った俺の心は何も感じなかった。


『誠に遺憾ながら、我々人類の積み重ねてきた文明は、明日をもって終わりを迎えることとなってしまいました。我々には、この運命に抗う術が一切ありません。このたびの小惑星衝突は、過去の恐竜絶滅をもたらしたという隕石衝突とは、全く比較にならない規模のものであります。全大陸が津波に襲われ、巻き上げられた砂塵に覆われた世界は氷河期を迎えることでしょう。地球は現在の公転軌道を外れ、自転が停止するかも知れません。しかし、そのときは既に、我々は存在してはいないでしょう』


 部屋の様子は静かになっていた。髪塊は投げ捨てた場所から動かず、ベランダの窓を叩く音もいつの間にか止んでいた。


『国際宇宙ステーションの諸君には、可能な限り人類史の終わりを観測し続けていただき、遠い将来、異星からの訪問者に、我々が存在したという証しを残せるよう、辛いでしょうが最期まで尽力いただきたい。また、誠に不本意ながら、法令根拠はございませんが、このあと午前四時をもちまして戒厳令を発効いたします。国民各位におかれましては、最後の瞬間まで理性のある人間として、道徳的に行動いただきますよう、切に願う次第であります。私の最後の会見が、このようなものになってしまい誠に無念ではありますが、これまで我が国の円滑な国政運営にご協力下さいました国民の皆様には、感謝してもしきれません。ここに厚く御礼申し上げます。本当に、本当にありがとうございました』


『総理、なぜ、もっと前からそんな巨大な小惑星を発見できなかったんですか? それとも、わかっていながら隠していたんですか?』

『核保有国のミサイルによる迎撃作戦などは行われないのですか?』

『まさか、エイプリルフールのジョークではないですよね』

『総理、ちょっと待ってくださいよ! 総理!!』

『総理! 総理!!』


 涙を浮かべながら演台を降りる首相に、報道陣から様々な質問が投げられるが、内閣総理大臣はそのまま退場していった。


 テレビ画面は報道特別番組のスタジオに変わり、緊張した面持ちのキャスターが、視聴者に対して自暴自棄にならず、道徳的に行動するよう呼びかけており、それはどの局に変えても同じだった。


 部屋の中はテレビの音以外、何も聞こえなかった。日本人形の集団はもう動いていない。ただ、腐臭と髪塊の蠢きだけが、未だにこの部屋が超常現象下にあることを示していたが、もう気にはならなかった。


 俺はおもむろに立ち上がると声を張り上げた。


「おい、どこの誰だか知らんがよく聞きやがれ! 聞いてのとおり、人類は明日滅亡することになった。どうせ死ぬんだ。こうなりゃ、とことん付き合って正体を暴いてやる。それに貴様、さっき俺にこう言いやがったな。『十日後に必ず殺してやる』と。ああまで見得を切ったんだ、俺を約束の十日後まで生かしてみせてみろよ、この野郎!!」


 朝日がカーテンの隙間から射してくる。戒厳令はもう発効していることだろう。今日は出勤してはいけないのだろうかと思いながら、裸足のまま髪塊を踏みつけて冷蔵庫に向かうと、数え切れない足跡で黒くなったキッチンの隅に、青白い、得体の知れない何かがうずくまっていた。そいつの恨めしげな目と視線が合うが、フンと鼻をならして冷えた牛乳を取り出す。背後のぺたりという音に振り返ると、来客用スリッパが落ちていた。俺はそれを青白い奴に向かって、思い切り蹴飛ばしてやった。

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