後編



 その日は水を汲み出すために祈りの間が閉じられたので、温かいお風呂を楽しんだアッシラは、午後に長い自由時間を手に入れました。


 早速図書室へ忍び込んだ彼女は、せっせと棚から本を運び下ろし、積み上げたそれを一冊ずつ丁寧に、廊下に並べて立ててゆきます。神殿の端から端までずらりと列を作り終わると、最後の一冊に特別大判の本──百年前に手書きで写本された貴重な神典でした──を置いて、柱の後ろに隠れました。


 しばらくすると、ギイッと音がして祈りの間の大きな扉が開きました。空の桶をいくつも積み重ねて抱えたウリが、扉に押されて倒れる本を見てきょとんとします。


「え? ……えっ、えっ!?」


 初めの本がその次の本を倒し、それがまたその次の本を倒し──とまるで湖の岸辺に波が打ち寄せるように本が倒れてゆく様をウリはぽかんとして眺め、そして大慌てで桶を放り出し、流れを止めようと走り出しました。


「うわっ、なんですこれ、うわっ、どうしよう!」


 廊下を疾走して本の波に追いついたは良いものの、両手がびしょ濡れなことに気づいたウリは、青くなってその場で足踏みしました。祈りの間から丁度出てきたアギを見つけて、大きな声で「アギ様!」と呼びかけます。


「なんじゃこれは! 早う止めんか!」


 アギの叫び声を聞いた神官達が、次々に飛び出してきては倒れてゆく本を追いかけ始めます。足の速い一人が先回りして一冊の本を支えることに成功しましたが、勢い余って次の本を肘で倒してしまい、また続きが始まります。


 それを笑い転げながら見ていると、アッシラの後ろにぬっと大きな影が落ちました。振り返ると、困った顔のアギです。


「聖女様……お遊びもほどほどになさいませ」


 彼はそう言って苦笑すると、倒れた本を一冊ずつ丁寧に拾い始めます。


「えっ……それだけ?」


 アッシラが尋ねると、アギは振り返って「詩歌のお勉強の時間ですぞ、聖女様」と言いました。


「ここ……片付けなくていいの?」

「我らがやっておきますから」


 アッシラはそれを聞いて、なぜか喉が詰まったようになって声が出せなくなりました。無言で頷くと、とぼとぼと部屋への道を戻ります。少しも意地悪をされていないのに、どうしてかとてもとても寂しいような気持ちになったのです。


 けれど次の日になると、アッシラは再び花の咲くような笑顔を取り戻していました。いえ、単に花というにはちょっと毒のある、楽しそうな笑顔です。


「おはよう! 機織りのおばさま!」


 アッシラは祈りの間に入るなり分厚いカーテンの層をかき分けると、朝一番にやってきた機織りのご婦人に向かって手を振りました。布の隙間からひょこっと顔を出した女の子を見たご婦人が目を丸くして、神官達が慌てて彼女を連れ戻そうと駆け寄ってきます。


「……おはようございます、聖女様」

おずおずと、ご婦人が応えました。


「聖女様じゃないわ、私はアッシラよ!」

 にっこり笑って言うと、ご婦人はますます目を丸くして「アッシラ様」と小さく呟きました。アッシラはその声を聞いて、なぜだか胸の奥がほかほかにあたたまるような不思議な心地になります。


「なりませぬ、聖女様。あなたは神秘の存在でなければならないのです」


 アッシラをカーテンの向こうへ連れ戻しながら、アギが言いました。すると本当に驚いたことに、アッシラが言い返そうと口を開くよりも先に、機織りのご婦人が声を上げます。


「なんとお美しいのでしょう。まるで金糸を紡いだような金の髪に、物語に伝え聞く海のようにきらめく青緑の瞳、真っ白な肌。お顔立ちも、妖精のように整っていらっしゃいます。お姿を拝見して、私はますます信仰が深まりましたわ」


 その言葉にアギが動きを止め、目が合ったご婦人がアッシラに向かって楽しげにぱちりとウインクしました。すると突然涙が出そうになって、アッシラはそっと目を伏せます。ご婦人が、その様子を真剣な顔でじいっと見つめていました。





 そんなことがあってから、アッシラはすっかりいたずらに身が入らなくなっていまいました。彼女は神殿の壁に黒いチョークで花の絵を描いて回ったり、中庭で見つけた大きな蜘蛛をウリの背中にくっつけたりしましたが──ウリは女の子のような悲鳴を上げて飛び上がりました──どれもちっとも楽しくありませんでした。アギが「壁に落書きをしてはなりませぬ」と困り顔になっても、アッシラは自分の名を呼ぶご婦人の優しい声ばかり思い出して、他に何も考えられませんでした。


 けれどアッシラは、それでも悪戯をやめませんでした。何度も神殿のあちこちを水浸しにし、早朝に祈りの間へ忍び込むと、タイルの隙間に中庭の木から取ってきた種を押し込んで祈りの言葉を唱えます。


「大地の神テファルよ、水の神オヴァよ──我に光を、自由を、家族を、友を」


 とても小さな声だったので、誰にもアッシラの言葉は届きませんでした。けれど小さな種はぱかりと二つに割れて芽吹き、ぐんぐん伸びて、あっという間に大木になると、石でできた祈りの間の天井を突き破って大空に枝葉を広げました。


 ガラガラと天井が崩れて岩の塊が落ちてくるのを、駆けつけた神官達が口を大きく開けたまま間抜けな顔で見ています。大きな音に街の人々も集まってきて、木の下に佇むアッシラを見つめます。


「奇跡だ」


 誰かが言いました。


「女神様の奇跡だ。やっぱり聖女様は、神の娘だったんだ」

「──奇跡なんかじゃないさ!」


 とその時、皆の声を遮って大きく女性の声が響きました。群衆をかき分けて出てきたのは、機織りのご婦人です。


「それに神の娘でもない! アッシラ様は十年前にお産で死んだアリーシアの娘だよ。移民で魔法使いだった母親の血を継いでるだけさ」

「神の御業みわざの顕現を魔法なんかと一緒にするなんて」


 誰かが反論する声がしましたが、ご婦人は「お黙り!」と言ってツンと顎を上げました。


「神殿で大事にされて幸せに暮らしてるならそれでいいと思ってたけどね、顔を見てみれば、閉じ込められて苦しい、自由になりたくてたまらないって、今にも泣きそうな目をしてるじゃないか。先代の聖女様が亡くなったからってこんな小さな子を狭い土地に押し込めて、恥ずかしいとは思わないのかい!」


 しぃんと静まり返ったなかで、驚いた顔をしたウリがアッシラの目を覗き込んできました。なんとなく居心地悪くて俯くと、彼は「そうか」と呟いて何か納得したように何度も頷きます。


「彼女に世界を見せて差し上げるなら、僕が同行しますよ。僕は隊商の出身で、砂漠の旅には慣れていますから」

「えっ」


 それは二人っきりで旅をするとか、そういう話なのかしら。アッシラがちょっぴり顔を赤くしていると、それをじっと見ていたアギが静かに口を開きました。


「……そうじゃな」

「神殿長様!」


 数人が責めるように叫びましたが、アギは緩やかに首を振って言いました。


「……どんなに良い暮らしであっても、それが一人の小さな女の子を犠牲に成り立っているならば、決して豊かとは言えぬよ」


 彼の言葉に反論する者はいませんでした。それから数日、アッシラがまだ少し呆然としている間に、みるみる旅の準備が整えられてゆきます。立派な砂竜さりゅうく美しいそりに、テントや食料、様々な道具が詰め込まれました。アッシラとウリには薄い布地の神殿の服ではなく、しっかりと日光を遮って砂漠の夜の寒さを防ぐ厚手の服が着せられました。綺麗な赤色のサンダルにアッシラが夢中になっていると、そんな彼女にアギが優しく微笑みかけます。


「アッシラ様、どうかお元気で。北に向かって、真っ直ぐお行きなさい。決して振り返ってはなりませぬ」

「また、なりませぬって言ったわ」


 唇を尖らせると、アギは「これで最後です」と寂しげに笑った。


「そんな顔しないで。あちこち見たらすぐに帰ってくるわ。私の故郷はここだもの」


 そう言うアッシラの隣で、ウリも頷きます。アギはそんな二人を見て「そうですな」とにっこりしました。彼がいつも通りの笑顔に戻ったことに安心して、二人は橇に乗り込み、ウリが手綱を握ります。


「では、行って参ります」


 ウリが挨拶をして、ちょっと泣きそうになっていたアッシラがその後ろで小さく皆に手を振ると、橇が進み始めました。手を振り返したアギが前を向きなさいと目で合図したので、頷いて真っ直ぐに前を見つめます。夕暮れ時の砂漠は、深い赤と青が混じり合うとても幻想的な色をしていました。


「街に着くまでは昼夜逆転しますけど、アッシラ様は眠っていてくださって大丈夫ですから」


 竜達を巧みに操りながら、ウリが言います。その旅慣れている感じが神殿にいる時の彼と全く違って見えて、アッシラは胸を高鳴らせました。夕日に頬を染めながら、このくらい離れればアギにもバレないだろうと、こっそり街の方を振り返ります。十年暮らした神殿の姿をもう一目見ておきたかったのです。


「──ウリ! ウリ、戻って!」


 そして目をまん丸にしたアッシラは、ウリの肩を掴んでそう叫びました。不思議そうに振り返ったウリが息を呑んで手綱を振るい、橇は街の方へ引き返し始めます。


「何です、あれ?」

「わからない、わからないわ!」


 二人が目にしたのは、青々とした美しいオアシスの木々がみるみるうちに茶色くしぼんで、湖が枯れてゆくところでした。けれど少しずつ大きくなってきた皆の影は動揺する様子もなく、ただ静かに二人を見送った時のまま、佇んでいます。


「アギ! アギ!」


 アッシラは叫んで、まだ速度を落としきれていない橇から転げ落ちるように降りると、干上がった街に向かって駆けました。彼女の走るその足元から次々に草木が芽吹き、湖にコポコポと澄んだ水が湧き始めます。アッシラは目を見開いて立ち尽くし、故郷が蘇ってゆく光景を言葉もなく見つめました。


「……どうして言ってくれなかったの?」


 アッシラが言うと、アギは困った顔で「あなたには幸せになっていただきたかった」と言います。


「誰かを犠牲にしても豊かにはなれないって、あなたが言ったのよ」

「ですから、決して振り返らぬようにと申し上げましたでしょう」

「私が見てなくたって、神々はご覧になっているわ!」


 アッシラが泣き喚くと、街の皆が困った顔になりました。神官の一人が「我々とて、これ以上あなたを犠牲にし続けるのは苦しいのです」と言う。それを聞いてアッシラは頭にカッと血が上り、全身からゆらゆらと青い霊気を立ち昇らせながら叫ぶように言いました。


「そもそもね、世界には豊かな地がたくさんあるのに、どうして私がいないと干上がってしまうようなところに住んでいるのよ!」

「はて」


 アッシラの言葉にアギがきょとんとなって「生まれた時から、この地に住んでおりましたからな」と言った。


「いいこと、ようくお聞きなさい! 私、犠牲になるつもりなんて微塵もないわ。私がいるところがオアシスになるなら、みんな私と一緒に来ればいいのよ」


 アッシラの言葉を聞いた街の人々が、揃って唖然とした顔になりました。それをいい気味だと思いながら彼女は続けます。


「私は澄んだ川が流れていて、湖があって、湿った土の匂いがする土地を探すわ。みんな、それについて来るの。私を神の娘だって崇めるなら、それくらいできるはずよ」


「そりゃあ、すてきだな」


 誰かがぽつりと言いました。「うん、面白そうだよ」と機織りのご婦人がにっこり笑い、それに勇気づけられたアッシラは高らかに宣言しました。


「みんなで水の豊かな美しい土地に住んで、神殿なんかなくしてしまって、それで……ウリは私と結婚するのよ!」

「えっ!」


 後ろで竜の頭を撫でてやっていたウリが慌てて振り返り、アッシラの顔を見てもう一度「えっ」と言うと頬を真っ赤にしました。


 こうして砂漠の民達は、三十頭の竜にテントと食料を積んで旅する遊牧民になったのでした。「歩くオアシス」の伝説はその後千年、世界中の旅人の間で語り継がれましたとさ。

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オアシスの聖女さま 綿野 明 @aki_wata

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