中編



 次の日の朝、アッシラはいつもと違って意気揚々と祈りの間へ向かいました。お付きをしている十五歳の少年神官ウリが、訝しそうに「今日はどうしたんですか、聖女様」と尋ねます。


「別に、何もないわ」


 いけない、いつも通りにしていなくちゃ。アッシラは小さく肩を竦めると、不機嫌そうに少し足を引きずって廊下を歩き始めました。ウリはうわっという顔をして、たぶん「何も言わなければよかった」と思いながら、いつも通りご機嫌斜めの聖女様の少し後ろをついて歩きます。


 アッシラがカーテンの奥の椅子に座ると、重く軋む音を立てながら祈りの間の正面の扉が開き、次いでぺたぺたと裸足で歩く足音が聞こえてきます。街の人がお祈りに来たのです。彼らはいつも布や革でできたサンダルで外を歩いていますが、神殿の中は履き物を脱ぐものと決められているのです。だから、アッシラは靴を履いたことがありません。


「神様、今日も──」

「サッラ=ファロよ、雨の女神よ、我が祈りを聞き届け、どうか閉ざされ乾いた世界に雨を」


 祈り文句の最初のところが聞こえた瞬間、アッシラは天に向かって手を差し伸べ、自分の中の力を部屋いっぱいにぶちまけました。青い光が渦を巻くように広がってゆき、次の瞬間、祈りの間に天井から土砂降りの雨が降り始めます。


「うわっ!」

「何だ!?」


 人々が慌てふためく声が聞こえ始めました。アッシラは快心の笑みを浮かべて更に指先をピンと伸ばし、雨の勢いをもっと強めます。ざあざあという音で人の声が全てかき消され、世界は雨でいっぱいになりました。神官達は全員ずぶ濡れで、カーテンは重くなってだらんと垂れ下がり、絨毯は踏むとぐちゅぐちゅ音がします。


「聖女様」


 声をかけられて、アッシラは「来たわ、私を追い出すのね!」と思いながら振り返りました。そこには激しい雨で目があんまり開いていないウリが立っていて、彼はアッシラのすぐ横までやってくると、羽織っている青い神官服のマントを広げてハヤブサが雛鳥を守るように彼女をその中に入れました。


「ウリ、聖女様に失礼だぞ」


 誰かの声が布の向こうから聞こえてきます。するとウリは「あまり長く雨に当たるとお体を冷やしますから」と言い返しました。アッシラはその間、男の子にこんなに近づくのは初めてだわと思って、ちょっとだけドキドキしていました。胸の前で指先を捻り合わせながらもじもじしていると、気が逸れて雨が止んでしまいます。


「あ……」


 ぽつぽつと小降りになってしまった雨を見てアッシラは唇を尖らせ、さっと手を振ると魔法を終わりにしました。部屋に腰まで水が溜まるくらい続けようと思っていたのですが、水面は足首のあたりでちゃぷちゃぷしています。


「ウリのせいよ」


 文句を言うと、マントの中を見下ろしたウリが「え? すみません……」と理由もわからないまま謝りました。彼はとても気弱なのです。


 とその時、濡れそぼったカーテンの向こうから誰かが咽び泣くような声が聞こえてきて、二人は振り返りました。アッシラは知らんぷりをしようとしましたが、内心ではとても焦っています。


 えっ……泣くほど嫌だったの?


 アッシラはそう思って、カーテンの向こうの声に耳を澄ましました。たぶん、これは街の肉屋のご主人の声です。もしかして、何か濡らしてはいけない大事なものを持っていたのでしょうか。誰かを泣かせようとまでは思っていなかった彼女の顔が、少しずつ青褪めてゆきます。


「どうされました」


 誰かが泣いているご主人に声をかけました。彼は涙で声を詰まらせながら答えます。


「奇跡を……私は奇跡を見ました。神殿の屋根の内側に雨が降るなんて、雨の女神の奇跡に違いない。すぐに街へ帰って、皆に伝えねば」

「それは良い心がけですね」


 アギの声です。神殿長の役目を担う彼にそう言われ、ご主人は「すぐに!」とまるで神のお告げでも受けたかのようにかしこまって返事をしました。バシャバシャと足音が遠ざかっていって、神殿の中は濡れた天井から水滴が静かに滴る、ぽちゃんぽちゃんという小さな音が響くだけになりました。まだ近くには神官達が大勢いましたが、彼らは普段から音を立てずに生活することに慣れているのです。


 アッシラが頬を膨らませながらウリのマントから出てくると、いつの間にかカーテンの内側にアギが戻ってきていました。私を追い出すのね! とアッシラが挑戦的な眼差しで彼を見つめると、老神殿長は乾いた布を差し出しながらこう言いました。


「聖女様、なぜ彼に祝福を?」

「祝福?」


 意味がわからなかったアッシラが、布でごしごし髪を拭きながら眉を寄せます。後ろでウリが「聖女様! そんなにしたら御髪おぐしが!」と慌てていましたが、放っておきました。


「我ら砂漠の民にとって、雨を浴びることは神からの祝福です。ご自覚なく、恵みを与えられたのですか?」

「一度やってみたかったの」


 祝福なんかではなく自分のわがままだ、という意味でアッシラは言い返しましたが、アギはそう思わなかったようです。彼は心配そうに眉を下げて言いました。


「あまりご無理をなさいますな。慈悲深いのは素晴らしいことですが、あれほど大きく澄んだ湖で水を汲めるだけで、我らは十分な贅沢をさせていただいております」

「慈悲とか、そんなんじゃないわ!」


 アッシラが今にも癇癪かんしゃくを起こしそうなことに気づいたウリが、「聖女様、落ち着いて」と彼女の肩にそっと触れました。途端にアギが視線を鋭くして「みだりに聖女様へ触れるでない!」と彼を叱りましたが、男の子に触れられたことのなかったアッシラはものすごく恥ずかしくなって、すっかり不愉快な気分を忘れてしまいました。


「申し訳ございません」


 ウリがシュンとして謝るのに、アッシラは少しうわずった声で「ううん、私は気にしないわ」と答えました。それを聞いたアギが「聖女様のお慈悲に甘えるでないぞ」と厳しく言い、ウリが「はい」と神妙に頭を垂れます。


 落ち込んだ様子の彼を少し心配していると、アギが「聖女様はお部屋へ。湯浴みで体を温められませ」と優しく言いました。渾身のいたずらがすっかり祝福とやらに置き換えられてしまったのが気に食わないアッシラは、目一杯顔をしかめて負け惜しみを言います。


「でも、祝福はこれで最後よ。次は全然違うやつにするんだから」


 そう言うと、アギが「勿論ですとも」と微笑みました。「言ったわね」とアッシラは満面の笑みを浮かべます。


 じゃあお言葉通り、良い子でいようと我慢なんかしないで、すごいことしてやるわ! ほんとにすごいやつよ!


 アッシラは心の中で拳を突き上げてそう宣言しました。神官達は急に楽しそうになった彼女が一体何を考えているのだろうと不思議そうにしましたが、誰一人としてその真相に気づく者はいませんでした。

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