リトルプレア

パドル

One candle

 きりりと張りつめる冬の朝、大河の下流にかかる橋を少女がひとり渡り終えた。十四、五歳ほどの華奢な少女だ。こわばった表情は寒さによるものだけではないだろう。河の西岸から、東岸へ。振り返ると高くそびえた寺院が圧迫してくるのを感じる。対照して平伏するように背の低い雑居が連なるこの東の街では、少女の身なりはひどく目立った。単調に仕立てられていても、布地が高級な服は艶でわかる。風に揺れて金の粉が落ちるようなきらきらと光る髪も、河の東岸で生まれた人間ではないことを示していた。けれどそんな洞察を必要とすることもなく、東の人々の中にも少女の身分が神官の家系にあることを知っている者もいただろう。とりわけこの美しい少女は名前も顔も知られていた。政治的な勢力図の書き換えがなければ、将来の指導者層になりうる地位にいるのだから、当然と言えば当然なのだけれど。支配するものと、されるもの。支配は神の権能のことだ。炎の恩寵を宿した一族が神官として国を治める。少女はのどに異物を感じたみたいに眉をしかめた。わたしはこの橋を渡れるし、帰ってくることもできる。けれど東の街の人々は赦免なく西側に、つまり国に住むすべての人の聖域であるはずの寺院を訪れることはできない。彼らは一生この橋を渡ることがない。自分たちが信じている神のその腕に抱かれることすらないというのは、いったいどういうことなんだろう。そういう一方的な決まりごとに、少女はどうしようもなく違和感を覚えた。


「メリア様。われわれは『聖なる炎』から生まれた特別な人間なのです。神の恩寵そのものがこの世界に顕現した存在です。河の向こうにいるのは、その恩寵にわずかにあずかっているに過ぎない人々です。炎がなければ彼らの生活はままなりません。われわれは彼らを照らし、彼らはその庇護の下にあります。決して我々と彼らが同じなどと思ってはなりませんよ」

 じゃぁ神さまってわたしたちのことなの?

「大いなる神の一部が形をとったものが我々です。われわれ神官は神の声を聴き、神に代わり民を導きます」

 でもわたしはそんな声を聴いたことがないよ…。

「あなたの胸に宿る、恩寵の炎を見るのです。それが奇跡の業です」


 メリアはそう教わってきたけれど、よく理解できなかった。わたしの胸には炎があって、それが神さまのちから?遠い昔の先祖には、炎のを使えた者もいたそうだ。それが奇跡?じゃあ、今のわたしたちにはそんな力はないんだよね?いくつも湧いてくる疑問に、まともに答えてくれる大人はひとりもいなかった。誰も説明なんてしてくれなかった。説明なんてできないのだ。だって、そうじゃないか。炎の恩寵があるのなら、の冷たい心は何なんだろう?熱を感じられたことなんて、一度としてない。あの人たちはいつだって誰かを嘲っているじゃないか。東の街に暮らす人々は『薪炭しんたん』のようなものと言い募った冗談が、彼女には忘れられない。


 今日は特別な日だった。新年のはじまりなのだ。新しい人生の、最初の日だ。変わらぬ安寧の祈りを捧げ、より多くの繁栄を願う日だ。人々は健やかな日々を、病の退くことを、願いの成就を神にあずける。この日の朝は、みんな静寂に時を過ごす。今ごろ寺院では大がかりな儀式を、大人数で執り行っているのだろう。炎を信仰するこの国では、昨日の夜のうちから聖火が煌々と光っている。厳かなふりをしている家族、兄弟や神官たちと同じ顔でとりすまして列席すれば、一日をまるごと取り上げられてしまう。他の日ならいつだって、どれだけの時間でも惜しまずかなぐり捨ててもいい。けれどメリアは今日、籠の外にいる必要がある。今日でなければ意味がない。東の街では、午後からにぎやかな祝祭がある。音楽があり、演劇がある。大いに食べて、歌って、踊る。寺院の中ではなく、そこで時を過ごしたかった。

 午後からの露天商の準備をする人や、火を灯した燭台を持っている人々と何度もすれ違う。彼らは新年の挨拶や祈りの文句を交わしていた。メリアはなんとなく立ち止まって彼らを見た。人々はメリアを横目で見ると何かを言いかけて迷っていたが、結局何も言わずにそれぞれの作業に戻った。もしかしたらメリアにも、同じように祝福を贈ってくれるつもりだったのかもしれない。メリアは祭に使う楽器を持ち運ぶ人や、聖なる炎の神と打ち倒された悪鬼の仮装をする人の間をすり抜けて、足早にその場を離れた。神の名前を口にしてはいけないのに、神と悪鬼との戦いの再現で演劇にするのはかまわないのもおかしな話だなぁ、とメリアは思った。そんなのぜんぶウソなんだよと言ってしまいたいのに、それを言ってしまえば自分に返ってくるのが怖くて、メリアは押し黙った。わたしはまだ、世界を否定しても自分の足では立てない。いろんな黒い毒を胸の中にしまいこんで吐き出すこともできずに、それでも都合よく世界にぶら下がっているだけの心もとない卑小な人間なんだ。それに誰かをわざわざ傷つけたくもなかった。貧しい人も、忘れられた人も、罪科人つみとがびとでさえ、今日だけは祝福の中にいられるはずだ。神さまがなんて言うかはわからないけれど、わたしはそう思う。それが耳を澄ませて聴こえてくる、わたしの燭光しょっこうだ。


「メリア様」目付役の神官に言われた言葉がよみがえる。

「自覚をお持ちになるように。あなたが自由に外を出歩くのも、すべてご両親の寛大さに許されていることなのです。しかし、あなたがどこかでをするたび、お二方は深く心を痛めているのですよ。それがわからないのですか?」


 メリアは走った。ふいに涙ぐんでしまったのを、誰かに見咎められまいとするように。ばかだな、泣くことなんかないのに。ただの言葉だよ。そんなに弱くてどうするんだ。強くならなくちゃ。笑って友達に会わなくちゃ。だけど走って、走って、胸に刺さったのようなそんな言葉が、風に溶けて消えてくれるならいいのに。


 気がつくと見知らぬ場所にいた。でたらめに道を選んで走ってしまったのかな。祝祭の中心からずいぶん遠い。メリアは大きく息を吸って呼吸を整えると辺りを見回した。しんと静まり返った土の家々はところ狭しと立ち並び、方々に路地が伸びている。祭の準備やら何やらで、家人はみんな出払っているのだろうか?不自然なほど何の気配もしなかった。あなたは何をやっているのよ。メリアは呆れて、狭く切り取られた青空を見上げるとふふふと笑った。じぶんのふがいなさが心地よかった。迷子になるのは嫌いではないのだ。外には道があり、道はどこかに通じている。河が必ず海へ流れるように。(そうだ、わたしはまだ海を見たことがない、とメリアは思った。それはわたしが伝え聞いて期待するのと同じくらい、ちゃんと青く広いのだろうか?)新しい不安に行き当るかもしれないけど、まったく予想しないものにも出会えるのかもしれない。わたしにはもっと嫌いなものがあって、それは広くてがらんとした寂しい所に閉じ込められることだよ。そうやって少しづつ体が冷えていくと、希望や生きて行こうとする気持ちまでしぼんでいくような気がするんだ。少なくとも自分の足で歩くことができるなら、その方がいい。そうだよね?


 落ち着いて大通りへの道へ戻ろうとしたとき、かすかに声が聴こえてきた。ちいさな子供の泣き声だろうか?誰かが泣いている。メリアは吸い寄せられるように声を探して歩いた。階段状になった狭い道を下りると、大きな荷車の車輪のかげに男の子が隠れているのを見つけた。五つにもならないだろう男の子は大声を上げるでもなく、しくしくと泣いていた。泣き疲れてしまったのだろうか。

「どうしたの?」

 男の子がメリアを見上げた。

「お父さんか、お母さんはいっしょじゃないの?」

 男の子は、おかあさん、としぼるように言うとまぶたをぎゅっと閉じて黙った。はぐれてしまったの?返答はない。

「泣かないで。いっしょにお母さんを探そう。ほら、おいで」

 男の子はかぶりを振った。

「じゃあ、ちょっと休もうか。元気が出るまで。お祭りに行く途中だったの?」

「わたしもそうなんだ。友達といっしょにお祭りに行くつもりだったんだけど…」

「迷っちゃったんだ。待ってるかな、待たせちゃってるかな」

「あっ、ごめんね。いまのは急かしたんじゃなくてね……」

 男の子は聞いているのかいないのか、顔を伏せたままじっとしていた。

「今日は昨日までの嫌なこととか、だめだったこととか、ぜんぶ関係なくなる日なんだって。知ってるかな?お母さんから聞いた?そのためのお祝いなの。新しい人生がはじまる日。神さまがみんなにそういうチャンスをくれるって。ほんとうかな?ほんとうだと思う?そうだったらいいね…」

 男の子が泣き腫らした赤い目でメリアを見た。心の痛みをこらえるために、表情はひどく歪んでいた。

 メリアはズボンのポケットから小さな護符を取り出した。

「ほら見て、お守りだよ。わたしが作ったんだ。中に祈りを込めた宝石を入れて、古い印を書いて封をしたの」

「…手を出して。しっかり持ってね」

 メリアは男の子に宝石を握らせると、目を閉じてしっかりと男の子を抱き寄せた。

「神さまの灯し火が、暗闇を照らして守ってくれますように。悪いものが、どこか遠くに飛んでいってくれますように。優しさがあなたのそばにいて、体をあたためてくれますように」

 メリアは彼の手を引いて歩き出した。

「泣かないで。いっしょにいてあげるから。いっしょにいるから…………」


 男の子の母親はすぐに見つかった。母親は彼を見つけるとメリアの手から乱暴に引き離して彼に怒鳴った。ちゃんとついてくるように言ったのに、なぜ困らせるようなことするばかりするのか。そんなにわたしが気に入らないのか。わたしは必死にやっているのに。メリアはそれを見て、彼女の嘆きを聴いていた。男の子もうつむいて黙って聴いていた。雨に打たれたまま、しのぐ方法を見つけられないみたいに。母親はメリアを一瞥すると手がかかる子なんだと早口で言った。わたしは心配でたまらないんだ。そしてそのままふたりは街に消えてしまった。


 メリアは護符を男の子に渡したままなのを気付いていたし、彼らの去り際に返してもらうよう言うこともできた。けれど言い出さなかった。どうしてだろう?自分でもわからなかった。特別に祈りを込めた贈り物だったのに。彼女はいま、この子供のためにそれが必要だと思ったのだった。お腹をすかせた子に急いでなにかを食べさせてあげるみたいに、メリアはほとんど強迫に近い気持ちでこの子供を祝福したかった。


 力なく歩いていると、今度は猫が鳴いた。広場のすみに置かれた籠の中から茶色い猫が顔を出してメリアを呼び止めた。なんだろう、今日はやけにいろんなものに出会うなぁ。

「おまえも迷子?」

 笑いかけてたずねる。編み籠に紙切れが一緒に入っている。捨て主の言付けだった。

「…捨てられちゃったのか」

 猫はまた短く鳴くと、うすく青みがかった大きな瞳でメリアをじっと見つめた。まだほんの仔猫だ。ごめんね。おまえにもなにか、あげられるものがあればいいんだけど。あいにく手持ちがないんだ。メリアは仔猫を抱き上げると、いよいよ途方に暮れたような気持になった。もうすぐ午前が終わる。まだ一日は半分以上残っているのに、ひどく疲れたのを感じる。


 にあげられるものは何だろう。きみのために、わたしには何ができるだろう。それにしても、わたしはなんて頼りない存在なんだ?神さま、わたしにはあなたがいるともいないとも言い切れない。あなたを信じたり、侮ったりする。どっちつかずで、いろんなものから逃げている。今にも消えそうな蝋燭ろうそくひとつきりで、どうしてわたしはえらそうに虚勢を張っているんだろう。わたしの胸の蝋燭ろうそく一本分の光がなにかに吹き消されてしまったら、わたしの中に貴方にあげられるものが他にはなくなってしまったら、わたしはどうなるんだろう?わたしは、どうしたらいいだろう。


 メリアは仔猫を抱いたまま幼い日を思い出していた。もっとずっと小さく、幼かった日を。それが何だったのかもう思い出せない。大切にしていたものを蔑ろにされたとか、約束を軽んじられたとか、たぶんそういった類のことだ。たまりかねる嫌なことがあって、彼女ははじめて橋を渡って東の街に入った。今になれば一笑に付せるけれど、そのときは天地が引っくり返るような一大事だったに違いない。彼女はこの世界から抜け出たかった。暗闇の穴ぐらから。あの橋を渡って外の世界に行きたかった。だけど現実は、国を出るどころか街を出ることすらかなわなかった。雨が降ってきて、体が濡れて体温が奪われていた。そして巨大な迷路の片隅でメリアはうずくまって泣いたのだ。そこへ彼女がやってきた。泣いていたわたしを見つけて、はげましてくれた。


「メリア?」

 聞き覚えのある声が降る。メリアは顔をあげた。

「ラピス………」

 豊かな黒い髪の少女が驚いたように目を見開いている。メリアはとっさに、どこかに隠れてしまいたいと思った。逃げて、隠れて、閉じこもり、消えてなくなりたいと思った。


「なんだ、泣かなくてもいいんだよそんなことで」

 メリアが事情を説明するとラピスは屈託なく笑った。メリアはまぶしそうに目を細めた。


 だけどわたしは、あなたにあげる祈りを手放してしまったんだよ。



「同じことをしたよ」

「ぼくもその子に同じことをした。きっと。だからいいんだよ」

 メリアはそれを聞いてとても安心した。ほっと息を吐いた。友達がそう言って赦してくれたことが、同じようにあの子を祝福すると言ってくれたことが、なにより嬉しかった。

「代わりのお祝いを用意するから、待っててね」

「楽しみにしてるよ。ね、ところでそいつなに?」

 抱きかかえられた仔猫はラピスに短く鳴いて挨拶した。

「捨てられちゃったの…」

「どうする気?」

「………飼う」

「きみの家じゃ飼えないだろ」

「……」

 ラピスはメリアから仔猫を抱き上げると言った。

「メリア、新年おめでとう」

「……ラピス。………誕生日おめでとう!」



 Happy New Year & Happy Birthday



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リトルプレア パドル @aganai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ