第10話 鎖
誰もいない教室はとても静かだ。
俺の言葉を聞いて固まってしまった先生は、どうしたものかと戸惑いの表情を浮かべている。
言葉はなく、外から聞こえる運動部の活発な声が聞こえてくる。
俺と先生は一つの机を挟んで向かい合う。夕陽が差し込む教室は昼間と違う景色で、まるで異世界のような幻想さを思わせた。
沈黙が続く。
俺は間違えたのか?
違う。
正しくはなくとも、間違ってはいない。
人生は妥協だ。
諦めの連続なのだ。
ずっとそう言い聞かせてきた。
好きだったのに。
その思いは胸の中に長い間あったというのに、これはダメだどうせ無理だと最初から諦めていています何もしなかった。
それじゃいけないのだ。
正しいとか間違いとか、そんなことを考えて一歩踏み出すことをしないことこそが間違いだ。
自分の未来を歪ませ、可能性を狭める。
未来のために今するべきことは、今やりたいことなのだ。
やりたいことがあって、それができるのならば、それはやるべきだ。
「……えっと」
長い長い沈黙を破ったのは先生だ。
しかし、その次の言葉が出てこない。何かを言おうとしては喉に詰まらせ空気だけが口から漏れる。
口を開いたかと思えば目を伏せ俯く。
「先生はどう思いますか?」
彼女があまりにも苦しそうだったから。
結局、言葉を紡いだのは俺だった。
俺の言った意味を理解できなかったのか、先生は戸惑う顔を俺に向けてくる。
「生徒と教師が二人でイタリアン」
返事はない。
その行為がどういうことなのかを考えれば、答えを出すのを躊躇うのも分かる。
生徒が言うのとはわけが違うのだ。
教師は生徒の見本であるべき。それは教師の誰もが思い、そうあるべきだという気持ちを胸に日々を生きている。
それでも、そうして間違える教師もいる。本能というのは、時に思考を狂わせるのだ。その人が悪いのではない、人間がそういう生き物なのだ。
だからこの世界から犯罪は消えない。
痴漢も万引も窃盗も、少し違うが不倫や浮気だってそうだ。結局、いざというとき人間は本能に抗えない。
「……どう、なんだろ」
言って。
先生はまた口を噤んだ。
「実際のところどうなんですかね」
きっと、その沈黙が全てを語っている。
ダメだと思っているなら即答すればそれで終わりだ。けれどそうしない。それはつまりそういうことなのだろう。
ただその気持ちを、常識や良識が縛り抑え込んでいるのだ。
「え?」
「世間的にはやっぱりダメなことでしょ。不倫とは違うけど、やっぱり誰もが認めていない」
だから俺は、その気持ちを縛る枷を一つずつ解いていく。
「でも、どうしても好きになることはあるわけじゃないですか。ダメだと分かっていても、その愛は抑えられない。そんなとき、人はその気持ちを抑え込むのか。それとも……」
イケナイことだと分かっていても、それでもその愛を信じるのか。だれもが認めないその関係を、受け入れるのか。
「好き……だけど、でもやっぱりダメなものはダメなんだと、思うな。いい大人なんだし、間違ったことはしちゃいけないよ」
「みんなそう思ってますよ。誰もが口を揃えてそんなことを言う。でも、事実隠れて裏側ではダメなことをしてる人は多い」
「……」
俺が言うと、先生は視線を逸らす。
何かを言いたげに、微かに口を開くがすぐにそれを閉じる。
「間違えないからいい大人、ていうのも違うような気がしますけど。ともあれ、そうやって自分の気持ちを押し殺して生きていくと、いつか凄まじい後悔が押し寄せる。そうなったときにはもう遅いんですよね。どうしようもないから」
「間宮、くん……?」
「たぶん、今ここで本当の気持ちを言わないと後悔する。そんな後悔をこれから先もずっと残して生きていくのは、嫌じゃないですか?」
「それは……」
「俺は嫌ですよ。あんな思いはもうごめんだ。いつかどこかで後悔しないために、俺は今できることをやる」
俺は先生の瞳をじっと見つめる。
まるで俺の気持ちに応えるように先生もその目を離さない。目と目を合わすだけで全てを分かり合っているような、そんな気持ちになる。
そんなの気のせいなんだけど。
「もう一度聞きますね」
「え」
俺の言葉に先生はまたしても、困ったように表情を歪ませた。それでも決して目は逸らさない。
「先生は、どう思いますか?」
心臓の音が高まる。
先生の頬が朱色に染まって見えるのは差し込む夕陽のせいだろうか。
俺は机に手をつき、腰を浮かせ前屈みになる。
「わ、わたし……は」
確信した。
先生も俺と同じ気持ちだ。
だったら、俺はあの日の後悔を二度と味わないためにやることをやる。
俺はゆっくりと、先生に顔を近づける。その行動の意味を先生も理解したのだろう。少しだけ顔を遠ざけた。
「だ、だめだよ。わたしと間宮くんは、先生と生徒で……」
言いながらも、それ以上の抵抗は見せない。
「そんな、ことは……」
俺の顔が近づくにつれ、慌てた表情を見せる先生は口元をわななかせる。
「だめ、だよ」
しかし俺は止まらない。
後僅か数センチ、互いの吐息さえも感じるほどの距離まで接近すると先生はついに目を瞑る。
その行為が受け入れたことを意味していることは明白だ。
「……」
だからこそ、俺はそこで止まる。
必死に自分に言い聞かせていたのだろう。自分は抗った、でも生徒が無理やりしてきた、などと言い訳をしてきたのだろう。
それでは意味がない。
それでは本当の意味で、俺と先生の気持ちは重ならない。
俺は、先生を縛る常識という名の鎖を引きちぎりたいのだ。あの日酒に酔った先生が見せた姿のように、彼女の本能を解放したい。
だから、俺はここで自分からはいかない。
ここからは先生を待つ。
「…………」
覚悟して受け入れて目を瞑った先生は違和感を覚えて、片目をうっすらと開けてこちらを見てきた。
いつまで経ってもやってこない、でもさっきと変わらず距離は近い。
俺と目が合うと、再び目を瞑る。
無駄だよ。
何をしても、俺からはこれ以上は何もしない。あとは先生が一歩踏み出してくれれば全てが終わり、そして始まるのだ。
「ま、みや、くん?」
先生は目を瞑りながら、俺の名前を呼ぶ。
「自分がどうするのか、自分で決めてください」
俺は短く言う。
少しの沈黙。
先生の吐息を感じながら、葛藤の中をさまよう先生の答えをただひたすらに待つ。
「どうなっても、知らないから」
言って、ゆっくりと目を開く。
まつ毛の奥の瞳は揺れている。こちらをじっと見つめる瞳が綺麗で、俺もそれを見つめ返す。
さっきの言葉は俺に向けられたものなのか。それとも、自分に言ったものなのか。
分からない。
ただ、一つだけ確かなのは。
「……」
「……」
先生が、答えを出したということ。
夕陽が差し込む静かな教室の中で、俺と先生は唇を重ねた。
タイムリープしたから当時好きだった先生といちゃいちゃしたい。 白玉ぜんざい @hu__go
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます