第4話 比例する四かけらほどの真心

 翌日、俺はなぜだか小学校レベルの算数を学び直していた。


「おや、比例と反比例ですか。随分とまた数学の原点に帰ったものですねえ」

「うおお、古泉。お前、いつの間にそこにいたんだ」

「んふ。いつも何も、あなたより先にここにいましたが」

「なんだって?」

「そそっかしい、あなたのことです。ボクが静かにチェス盤に向き合う姿なんて見てもいなかったのでしょう。それだけのことです」


 ハチマキでも巻きそうな勢いで中学受験の参考書を読みふける俺のありさまを、古泉のヤツ、実に冷静に指摘しやがるものだ。

 もっとも、いつになくだなと思うのは古泉の髪型だ。


「寝癖、付いてっぞ」

「おや、このボクとしたことが。申し訳ありませんが、差し支えないようでしたらどの辺りに寝癖があるのか教えてはいただけませんか?」

「そうだな。なんとも言いがたい微妙なところにある、としか」

「おやおや。なんとも言いがたいのでは、直しようがない厄介な寝癖ということになってしまいますね。困ったものです」

「困れ、困れ。幸い、今は放課後だ。誰にも気付かれることなく乗りきってきたっていうなら、大した寝癖じゃなかった。つまりはそういうこったよ」


 とまあ、こんなふうにいつになくいつものように俺と古泉が、いわゆるグダつきを隠さない陳腐なやりとりをしているところに介入する女が1人、現れた。


「ねえ、バカキョン。古泉くんの髪型なんて、いつだってそこそこしっかりしているでしょ。そんな揚げ足とりの権化みたいな茶番なんてしてないで、やるべきことをおやりなさい」

「揚げ足とりの権化で悪かったな、ハルヒ」

「何よ。今の流れは、完ッ全絶ッ対究ぅ極にアンタがお間抜けそのものな役回りを買って出てしまったという拒絶不可避の事実を認めた上での、古泉くんへの陳謝の時間とすべきタイミングを作った最高なアタシというメークドラマでしょうに。本当、空気を読みなさい。いつになったら、アタシが言わんとすることの一を知り三百をなせる人材になるわけ?」

「あのな、言わせてもらうが、一を知り三百を知ることが出来る人材を確保していけるのは現代社会では国土地理院の職人か造幣局の役人のどちらかだと相場が決まってる。第一、ハルヒは俺にそこまで期待していたんだったかな。俺は半ば、この古泉というレトロ思考愛好家との人付き合いに徹するのがここでの役目だ。それ以上を期待するなんて、言うなればベーブ・ルースにブラッド・ピットの20倍の演技をして、まじめくさった国連が中心になって突き付けてくる環境や人権にまつわる国際問題を棚上げしてくれと懇願しているようなものだぞ」

「はああ。ねえ。アンタ、バカ?」

「何がだ涼宮ハルヒ」

「あのう、やめてあげてくださ~い」

「みくるちゃん。あなたが首を突っ込む局面だと思うのは勝手よ。ただ、それはそれ。アタシは今、誰と会話しているか分かった上で、よくよく考えてから発言をしてちょうだい」

「ひいいん。涼宮さん、私はこれでも先輩ですう」


 朝比奈さんにはありがちな泣き顔を和らげる人はいない。

 強いて言うなら長門がそうだが、彼女の体調不良は相変わらず。本日も変わらぬ健康優先により、この場にいるはずもない。


「ははっ。良くも悪くも各々のいつも通りを見ることが叶ったことを僥倖と致しましょうか。ところで、あなたは何が楽しくて比例と反比例などを学び直しているのです?」

「ん、なんてこたぁねえよ。新入部員へのテスト製作を微妙に担当することになっちまったから、誰でも歓迎を意味する比例・反比例の総ざらいをする準備をしていただけだ」

「アンタなんかに任せたアタシがバカだったわ。ねえ。どうしてキョンは一度こうだと決めたら人の助言に耳を貸さなくなってしまうの。比例・反比例なんて白々しすぎる。新入部員どころか、ふざけすぎだとか何とかクレームという名のイチャモンがどこからともなく飛んで来て、SOS団が活動停止に追いやられてしまうかもしれないんだからね?」

「どこからともなくって、どこからなんでしょう……」

「みくるちゃん。あなたは黙っておいしくなりそう止まりのお茶を汲んでちょうだい。もちろん、精一杯のねぎらいと感謝こそ態度で示すから。ね?」

「うっ。は、はいぃ」

「いつものように、イヤそうだと心底から言い出せないさまのようです」

「言ってやるな、古泉よ。何より、朝比奈さんにお茶汲みより数段難しい作業を頼んで、ろくなことにならなかったことしかないのを、まさか忘れたんじゃあるまいな?」

「んふ、確かに。ある日などは、SOS団に届いた差し入れのスルメが入った段ボールから薫るわずかな芳香を不審だと決めてかかって警察が来ましたね。今でこそ語り草ですが、そういうものでした。反省を禁じ得ません」

「それはそれで、ちと言い過ぎだ。朝比奈さんは、これでも先輩なんだぞ」

「ふえ~ん。さっき私は、自分でそう言いましたよう」

「……あっ」

「んふふ。失礼千万なのは、どうやらお互い様のようです。嘆かわしいことです」


 おもに古泉のせいで停滞し始めた、穏やかな会話を楽しむ空気。

 俺はおもむろに口笛を吹きたくなったが、ぐっと堪えて比例と反比例の学び直しに取りかかることにした。


「さと、と。なあ、古泉。反比例の式に出てくる定数には何があったか覚えてるか?」

「侮らないでください。比例定数ですね。比例だから比例定数というミスリードなどに引っ掛かるボクではありませんよ」

「ほう。す、少しはやるじゃねえか」

「おや、もしやあなたはお忘れでしたか?」

「もう。キョンったら、もしかして小学校からやり直したいっていう駄々っ子もびっくり仰天の願望を惜しげもなく披露してしまっていないかしら。比例・反比例なんて、せいぜい中学校の初めごろまでに大体の子どもがマスターする初等教養でしょう」

「あ、あのお。私も忘れてました。反比例だから、反比例定数だと思っていました。てへへ、へ」

「てへへ、へ、じゃないわよ。もう、誰も彼もノンキなものね。そりゃ新入部員のことも大切よ。でも、限りある時間の中で私たちがやるべきことは何だったか覚えていてもらわなくちゃ、話にならないってば。キョン、新入部員のこと以外に、目下のところSOS団がやることは何か、今すぐ答えなさい。さあ、はっきりと回答しなさい」

「ラジオだろ。イナゴと、ええと、何を特集するんだっけか」

「まだ決まってないわよ。やっぱりバカね、キョンったら。いっそのこと、あなたのバカさ加減を特集することにしたいほどね。ねえ、みくるちゃん?」

「そ、そそそ、そんなことないですう。キョンくんはバカじゃないと思いますし、ラジオの特集についてはゆっくりと時間をかけて考えていけばいいと思います」

「ゆっくりと、ね。分かってない。私たちは限りある時間を有効に使わないとならないわけ。限りあるから、時には計画的にね。とは言っても、まあ所詮はたまたま放送枠を借り入れただけのことだから、ぶっちゃけイナゴじゃないほうの企画は北高の紹介程度にしていってもいいわよ」

「ふはは。ハルヒよ。そうなるとイナゴの特集が浮くだろう。どうだ、流石に新入部員をないがしろにするより、ラジオは北高の特集だけにしておいて新入部員勧誘に集中することにしたらいいんじゃないか?」


 俺がもっともなことを言うと、ハルヒはにわかに目に涙をたたえ始めた。


「おわっ、すまんハルヒ。俺としたことが、ちょっとばかしデリカシーに欠けていて、なおかつ高圧的な態度だったに違いない。だからどうか頼む。出来れば泣くのは勘弁してくれないか」

「勘弁って何よ。しかも、ざまあないわね。このアタシがアンタのほんのわずかな毒舌に屈するとでも思ったのかしら。この涙は、あくびを我慢したから出ただけの出涸らし涙よ。本当、人間性に比例する四かけらほどの真心さえないアンタならではの早とちりって罪よね」


 ハルヒはそこまで一息に言い切ると、我慢しきれなかったのか、あくびをひとつした。

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涼宮ハルヒの完璧 桐谷瑞浪 @AkiramGodfleet2088

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