第6話 線路に沿って歩き続ければ
「ヴィジランテ・キラーって知ってる?」
六月坂唯が藍の隣で肩を預け、うとうとしている琳音を見つめながら突如聞いてきた。彼女の深刻そうな面持ちに、普段の明るさとのギャップから思わずウッと藍の口から言葉が漏れる。
「ヴィジランテ……『自警団』のことか? それになんだよ『キラー』って……気色悪い言葉だなあ」
藍の引きつった顔に、唯はふふふと微笑みながら、微かに笑い声を立てながら水を飲む。こくんと水を嚥下する音がしてから、彼女はそのまま藍に言った。
「まあそれもあるんだろうけど、要は自分を『正義の味方』というか、正義感に駆られて殺人を犯す人のことを指すのよ。例えば罰の軽かったレイプ魔が刑務所から出てきて、泣き寝入りした被害者の代わりに制裁を下す第三者って言った方が分かりやすいかしら?」
レイプ魔。その言葉を聞いた藍の脳裏に浮かんだのは、悪魔に魂を売った人間のような表情をした琳音の父だった。彼はその
その人間の頭部にある器官を全て付けた
「藍くん! ちょっと待ってて」
向かい側に座っていた唯が立ち上がって彼のもとへ駆け寄る。藍の背中をさすりながら、彼女は彼に立ち上がるよう言った。
「トイレに行きましょう」
その言葉に従いながら、藍は唯の体に身を預けてトイレへと向かう。だが胃から迫り上がってくるものはもはや手では押さえきれず、とうとう床にこぼれ落ちてしまった。
恋人の部屋を汚してしまった罪悪感を感じながら、藍はチラリと床の吐瀉物を見た。すると、逆流する速度は速くなってそのまま床に何度も吐いてしまった。こんな出来事になったのはいつぶりたろう、家族が死んだ時も、腕を傷つけて自殺を図った時も、こんなことはなかったのに。
自分はいつでも恋人に頼りきりだ。情けない。そんなことを思いながら、藍は床に崩れ落ちた。
「大丈夫?」
「あ……」
嘔吐も落ち着いてきて、体を丸めたままの藍に視線を合わせる唯は明らかに心配している。いかにも顔に「心配しています」と書いているわけではなく、本当に恋人を思う、不安と愛情が織り交ぜられたような表情をしていた。
「救急車呼ぶ?」
彼女の言葉に、藍は首を横に振ってただ一言「大丈夫だから」とだけ答えた。すると、それを聞いて彼女は微笑みながら彼に伝えた。
「床は私が掃除するから、落ち着いたら戻っておいでね」
「お、おう……」
そのままよろめきながら立ち上がった藍は、トイレの中に入って鍵を静かに閉めた。ドアに体を預けて立つ力を失って崩れ落ちると、そのまま泣き出した。
いったいどうして泣いてしまうのか、分からないままの藍は子供のように突っ伏して、今日起きたことを思い出しながら、傷だらけの琳音が横になって寝ていたのを思い出した。あの強姦の後、自分と同じ扱いを受けた琳音をさらってここまで来た。
途中、琳音が人混みに疲れて立てなくなってしまったが、それでも幼い子供を抱いてこの家まできた自分を褒めてやりたいと思った。だが、自分のしたことは誘拐だ。もし光場が警察に通報していればこのまま自分と唯はお縄につく羽目になるだろう。いや、これは好機だ。自分と琳音への性的暴行を訴えないと、そのまま琳音がずっと悲惨な目に遭い続ける。
同じ男から強姦を受けた男同士、離れてもどこかできっと受けた呪いに苦しみ続けるのだ。それを思うと、逆に自分の義務について考えさせられる。強姦は親告罪だ。不幸にも体はあのあと拭かれて汚れが拭き取られ、服装も整えられていた。残念ながら生々しい部分の証拠は消されたが、幸いにも自分の部屋にはあの男が触ったカツラや制服が残っている。
恵おばさんが洗濯していなかったらそれこそ物的証拠になるだろう。
「ふふふ……」
心の中でどす黒いものが迫り上がってくる。だが、それは同時に藍を動かす原動力にもなる。何がおかしいのかさえわからないまま、口から笑い声が溢れてしまう。笑っていると、ドアがノックされる。
「どうしたの、藍くん! 大丈夫? 開けて!」
テンポよくドアをドンドンと叩きながら叫ぶ唯の声が聞こえる。その声は焦っていて、藍を心配しているようだ。
鍵を開けてドアを開けると、そこには警官と唯がただ呆然と立ち尽くしていた。
「柚木藍さんですね?
「光場さんに押し倒されて、抵抗した時に拳で頬をやられたんです。それから履いていたスカートのチャックが引きちぎられて、下着もビリビリって音が鳴って、慣らされないまま一気に入れられました。肛門に」
藍はペラペラ話している間、自分がどこを向いているのか分からなかった。恋人の顔も、初めて強姦の話を聞く警官の表情も、琳音がそばにいるかもしれない可能性も全て忘れて、意識が宙ぶらりんのまま話していた。
「……それは、それは強制わいせつ罪にあたるのですが残念ながら助けることができない。さて、琳音くん誘拐の件でお話があります。警察に……」
「琳音くんも被害者です! 彼も殴られて、あざが出来てるんです」
イラマチオされてるのも、泣きながらペニスを咥えられているのも知っています! 藍は思わず琳音に何が起きたかを叫んでしまった。表情が固まったままの警官と、唖然とした様子の唯を何気なく見つめていると、琳音の声が聞こえた。
「イラマチオ、なあに?」
そこにはまだ何も知らない、純真な目をした琳音が立っていた。警官が琳音の顔を見る。琳音の左頬には青あざが確かに出来ていた。
「……光場さんが自分のお子さんに性的虐待をしていたのはわかりました。ですが私たちは彼を裁くことができない」
途端、何か大事なものが藍の中で大きな音を立てて崩れる音がした。何もできない。警察なのに。その言葉を聞いて、藍はただ茫然と立ち尽くしているだけだった。
「柚木さんのことは不問にしますから、どうか今夜のことは内密にしてください」
そう一言いって、警官は琳音さえも放っておいて帰っていった。予想外の展開に、藍はずっと何も考えられずにいた。
「光場也彦……。警察にも顔がきくのね」
そう唯がぼそっと言うと、琳音が藍に抱きついてくる。彼はどこか藍を心配しているようで、その様子が哀れに感じられてしまうほど、藍は自分が惨めだった。
「ごめん、ごめんな……」
ああ、また涙が流れてくる。そのまま琳音を抱きしめると藍はひたすら謝って、自分ができなかったことを悔い続けた。
「にいちゃん、もういいよ。おれなんかのために……」
つられて泣き出した琳音はとうとう諦めの言葉を吐いてお互いを憐れみあった。情けない自分と昔の自分のような琳音。抜け出せない琳音と可哀想なにいちゃん。お互いがお互いをそう定義づけてはこれからの境遇をかなしみあった。
そしてふたりは眠くなって、唯が準備してくれた布団で一緒に横になって眠った。藍は暗闇の中、泣き疲れてすっかり眠った様子の琳音の手を握る。その手は暖房で暖かい部屋にずっといたのに、氷のように冷たくて小さな手をしていた。
自分にもこんな時期があったのだと思いながら、見えなくなった未来に進んでいく船に乗ったような気分で藍は瞳をつぶった。琳音の体温をたよりに。
光がさす。目を開けると、その光が自分に集中してまぶしい。あまりの眩しさに目を閉じようとした刹那、琳音が藍を呼ぶ声がした。
「……ちゃん」
今日は何月何日だ? 何年の、何月何日何曜日だろう? そんなことも思い出せないまま、ぼうっとした意識の中で汽笛のなる音がした。
「ああ琳音、わるい」
「ここではその名前を言うなよ。
そう微笑みながら口角を上げる琳音はいつのまにか成長していた。十歳の小学四年生。あの夜の後に光場がやってきて、藍は口止め料と共にベビーシッターを解雇された。
琳音がうつむきながら父親についていく姿を遠くで見守ることしかできないまま、唯が突然別れを切り出してきた。本人曰く、「もう授業料のために酷い目に遭う藍は見たくない、お金で関係が壊れるなら、お金が絡む前に関係を壊して仕舞えばいい」とのことで、愛想が尽きたわけではないようだった。
それからはバイトを辞め、唯の家から大学に通うようになって無事教員免許を取得、卒業まで漕ぎ着けた。その年から二年間、大阪の学校で中学受験塾の教師をした後で、その塾に通っていた教え子の親に誘われ、レッテと健常者が混ざって教育を受ける学校に赴任することになった。そこで孤児となり、左目を失った琳音と再会したのだ。
その琳音がレッテ社会を統括する団体に命を狙われ、こうして岡山の駆け込み寺に向かって逃げている。今はどこだろう。
「にいちゃん、お腹すいた」
「そうだな、俺もだ。……あっ、じゃあ弁当でも買って行こうか」
「うん」
藍と琳音は立ち上がると、電車を降りて駅に立った。
「
藍が驚いていると、琳音が彼の手を引いて言った。
「ここの駅ビルにセボラってレストランがあるみたいだから行ってみようよ」
「なあ呉羽、お財布事情を考えようぜ。今は我慢だ。我慢」
「えー! けちぃ!」
そう
「どうしたの、にいちゃん?」
「いいや、なんでもない」
「そういえばにいちゃんは食わないの?」
「いいんだ。減ってないから」
「そう」
正直言うとお腹は減っていない。琳音の笑顔が隣にあればそれでいい。そんな気さえして、彼はスマホで寺のある
藍の人生と運命の存在ども 夏山茂樹 @minakolan
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