第5話 家族ごっこをしてもいいかい?

マンションを出て、桜ノ宮駅さくらのみやえきに乗ると自宅へ帰る人で道はごった返していた。自分たちとは反対方向に向かって行く人々の波に飲まれながら、琳音の手を引いて藍はそのまま構内に入る。初めて見る券売機に琳音は目を輝かせ、それが何をするものなのかを尋ねる。


「ブルール……、にいちゃん。それは何をするの?」


 慌てている時に聞かれた質問に困惑しながらも、藍は微笑んで琳音を振り返って答える。


「これで切符っていうものを買うんだ。切符がないと電車に乗れない」


「切符ってなあに?」


「……それは友達の家に着いたら教えるよ」


「にいちゃんの友達の家に行くんだ! やったあ!」


 両腕を上げて喜ぶ琳音をよそに、券売機で大阪駅行きの切符を買って、出てきた子供用の切符を琳音に渡す。


「これ、琳音くんの分」


 そう渡された琳音の切符は少し温かった。それに驚いた様子の琳音に改札を教えながら一番線に向かうと、人々が自分と同じように大阪という街を出るために進んでいく。自分たちと同じように電車を待つ人たちは自分たちを知らない。そう考えると、琳音の膝が笑って彼は床に崩れ落ちる。


「どうした?」


「……なんか疲れたみたい、あははは……」


 琳音が笑って誤魔化すと、藍は琳音を抱き上げてそのまま駅に着いた電車に乗る。電車の中は人波でいっぱいで、琳音を疲れさせるには十分だったようだ。


「いいか琳音くん、この街には毎日この電車に乗って学校や会社に向かう人たちがいるんだ。ちょっと頑張れば怖くないから、あと二十分の辛抱だ。ちょっと頑張れば友達の家だ」


「うん」


 そして人波に飲まれ、大阪の街を行くと、大阪梅田の阪急線に乗り換える。そこで十七時五十分発の特急に乗って、西宮北口に着いたのは十八時四分のことだった。


 それから駅を出ると唯が藍を見つけて、おーいと手を振っていた。真冬なのにショートパンツにタイツ姿の彼女は元気そうに笑って挨拶した。


「こんばんは、坊や」


「こ、こんばんは……」


 藍の体にその身を預けて抱きつくその姿に困惑する彼だが、唯は笑顔で近くのマンションに連れて行ってくれた。そこは分譲マンションで、新築の木の匂いがした。


「ここが私の部屋よ」


 そう言われて、玄関で藍の体から降りた琳音は喜んでリビングへ向かう。


「おい琳音くん、あまり唯さんに迷惑はかけないでくれよ」


「いいのよ。私たちの子供だと思えば」


 そう言って微笑む唯はどこか寂しそうな顔をしていた。部屋は映画のDVDや文庫本が山ほど積まれていて、藍は唯の金銭面での余裕というものを見せつけられる。

 自分はいま、資産家の娘と付き合っていてこうして彼女の家で、子供を連れてデートをしているのだ。そう考えると、どこか自慢したくなってきたようにも思えたし、同時に彼女に頼りきりな自分が恥ずかしく思えた。


「ねえ、坊やは何ていう名前なの? 私は唯っていうの。『お姉さん』って呼んでね」


 そうテレビを見て初めてニュースを見た琳音に話しかける唯はもうすぐで三十歳のアラサーという存在だった。実家からは「早く結婚しろ」、「子供はまだか」とよく言われる年齢だ。だが唯はそんなことを気にせずに、自分なりの人生を歩んでいた。


 好きな映画を撮り、賞をもらって有名になる。これが彼女の歩む道。それに、最近は海外の映画祭で新人賞を受賞して今まで彼女を馬鹿にしていた評論家たちにあっと驚かせて、それまでの論評で掌を変えさせたばかりだ。


 やっと独立して、西宮の高級住宅街にある分譲マンションを買った彼女が藍は羨ましかった。そういえば、彼女が賞をもらった映画はどんなものなのだろうか。最近忙しくてずっと電話での会話だけだったから、二人でこうして会うのは本当に珍しかった。


「遅くなったけど……新人賞獲得おめでとう。俺はなにも贈り物ができない上に頼ってばかりだけど」


「なに言ってんのよ。こうして藍くんに会えるのが一番の贈り物よ。新居にようこそ、ダーリン」


 そう言ってテレビに夢中な琳音をよそに唯は藍を抱きしめる。彼女の胸の高鳴りが大きくて、耳朶の熱さまでよく藍の体に伝わってくる。ヤバい。久しぶりに琳音以外で人肌に触れたことがなかったから、なんだか寂しさが融解していくような気がして、さっきのことが妙に思い出される。


「……どうしたの、ダーリン。そんなに泣いちゃって」


 気分のいい唯とは対照的に、藍は涙を流してしっかりと彼女を抱きしめ続ける。どんなに唯が「キツいわ」と言ってもやめることはなかった。


「……唯、俺が男に犯されたって言ったらどうする? 別れるか?」


「えっ、冗談よね?」


「…………」


 なにが起きたか理解できていない様子の唯に、藍は泣きながらなにが起きたかを話した。


「冗談じゃないよ。事実だ。そして目が覚めたら琳音も父親にイラマチオをされていたから一緒に逃げてきたんだ」


 こんな男、嫌だよな? そう弱気になって話す藍に、唯は彼の背中に腕を回して優しく鼓動がなるテンポで背中を叩く。


「むしろ偉いじゃない。男としての尊厳を傷つけられたのでしょう? それでも傷ついた子を助けてここまで来た。傷だらけのヒーローはカッコいいわよ。ここで少し休んでいきなさい」


「でも……俺、誘拐したんだぜ?」


「私も共犯者よ」


 はっきりとそう口にする彼女は藍をひとりの男性として尊敬していて、彼のしたことも尊重してくれているようだ。誘拐がバレれば、映画祭での新人賞獲得監督としてのキャリアも終わるのに。


「ねえ、今日は何か温かいものを作るわ。琳音くんでも食べられるものをね」


「……ああ」


 それから唯は藍の頭を撫でると、そのまま冷蔵庫から何か野菜を取り出してそのまま台所へ向かう。きっと明日も仕事で忙しいだろうに。申し訳なさに後ろ髪を引かれながら、蘭はテレビに夢中の琳音に声をかける。


「よお、琳音くん」


「なあに? にいちゃん」


 あの事件を経て、琳音は藍に対して日本語で『にいちゃん』と呼ぶようになっていた。気づかなかったが、少しずつ距離が近づいている気がする。


 大阪のマンションに残した日記に書いた『俺と琳音は分かり合えない』という言葉がただの杞憂きゆうなのではないかと思えるほどに、琳音は藍に懐いているようだ。藍の上に座って、ちょこんと小さくなりながら藍の腕に自身の体を抱かせる姿には、藍自身驚かざるを得なかった。


「琳音くん、僕と仲良くなりたいんだね」


「まっ、まあ……。助けてもらったし、にいちゃんもサバイバーだから……」


 琳音はそれからなにも言わず、ただひたすらに藍の体温を感じながらぬくぬくとその体温を感じてよがっている。その光景に、藍は悟ったのだ。琳音は人肌が恋しかったのだと。

 まあ、藍はペドファイルではないので特に性的だとは感じなかったが、お互い同じ男に犯されて境を越えて西宮まで逃げてきた。いわば逃亡したわけだ。


 テレビにはドラえもんがジャイアンを成敗するところが映っていた。それを見て、琳音は聞く。


「このキャラクターが『ドラえもん』?」


 指さされた先にいた青い猫型ロボットのキャラクターを不思議そうに見つめる琳音に、藍は富山出身の身である存在として一瞬誇らしく感じた。


「そうだよ。唯ねえちゃんもドラえもんが好きなんだよ」


「ドラえもんってどんな話なの?」


「うーん、説明しづらいなあ。自分で漫画を読んでごらん。唯ねえちゃんがコレクションしてるから」


「ふーん……」


 そう反応だけしてテレビに夢中になる琳音は気づいていないようだが、なにやら美味しそうな匂いが漂ってくる。藍が振り向くと、唯がポトフの入った鍋を机の上に敷いた鍋敷きの上に置いて皿に盛り付けをしていた。


「あら、ダーリン。ちょうどよかったわ。ご飯ができたから、呼ぼうと思ってたの」


「琳音くん、ご飯だぞ」


「はあい」


 それから藍と琳音はキッチンへ向かって用意された新米のご飯も盛り付けされているのに驚いて、ふたりで腹の虫を鳴らした。


「今日はお疲れ様。ゆっくり休んでいってね!」


 そう親しげに話す唯に、琳音が「はい」と小さな声をあげながらも反応してご飯を食べる。それから藍が唯にドラえもんの話をする。


「琳音がドラえもんの漫画を読みたいんだとよ」


「あら!」


 唯は驚いた表情をしつつも、琳音に近づいて頭を撫でた。 


「ご飯食べ終わったら貸してあげるね」


「あっ、ありがとうございます……」


 それから琳音は、赤い顔をして唯から目をそらした。


「うまいなあ、唯の作るご飯は!」


 そういえば朝からなにも食べていなかった。そう気づいた藍は唯の作ったポトフに口をつけると、その美味しさが身にしみて特別なものに感じられたのだ。


「あら! そう言ってもらえて嬉しいわ」


 唯が嬉しそうに笑う。その顔を見られただけでも満足だ。琳音も藍の笑顔を見て、僅かに口角を上げて微笑んでいる。唯の家に逃げてきてよかった。久しぶりに再会できてよかった。そう藍が心の底から声をあげたくなるほど嬉しさと喜びに満ちた夜だった。

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