第4話 同じ傷を抱えた男とばけもの

 翌日の朝、いつものように仕事先のベルを鳴らして住人がドアを開けてくれるのを待つ藍だが、この日はいつもと違っていた。だがドアは何度ベルを鳴らしても閉じられたまま。藍は正直、仕方ないと思っていたが、早く中に入りたくてたまらなかった。


「光場さん、おはようございます。柚木です、柚木藍です」


 声で気づいたのだろうか。扉がゆっくりと開かれると、そこには目を丸くした琳音が唖然あぜんとして立っていた。シッターがいつもとは違う姿でやってきたものだから、驚きのあまり声も出ないようだ。


「……ブルール?」


 小さな琳音に視線を合わせて、肺呼吸で無理矢理高い声を出しながら微笑んで藍はその頭を昨日と同じように撫でる。これでどうだ? そんな藍の心の声が琳音には聞こえてくるような気がしたのだろうか。


「かっ、かわいいなんて言わないから」


 そう言いながらも、彼は藍を抱きしめてカツラの髪をすいてくれる。いつもとは違う姿だし近所の人に見られるのは恥ずかしいが、藍は琳音が自分からその意思を持って抱きしめてくれるのに嬉しさを感じていた。


「いやあ、知らない女子高生かと思ったら藍くんだったのか! それにしてもどうしたんだい? 今日はそんな格好をして」


 光場がやってきて、チーズのような体臭を持って藍を部屋へ招いてくれる。いつもなら琳音を藍に任せてすぐ仕事場に消えてしまう彼だが、その日の彼は携帯を手に持って写真を撮りながら笑っていた。


 イメクラに勤める女性の気持ちがなんとなく分かった気がした藍は、光場への嫌悪感を隠してそのまま玄関に立ちながら笑ってピースサインをする。


「いいねえ。恥ずかしがりながらピースサインをするメガネ女子高生。いい。とってもいいよ!」


「あ、ありがとうございます……」


 内心男を気持ち悪がりながら、伊達眼鏡だてめがねをかけた女子高生と化した藍は、両手でピースサインをしながら雇い主の言うことに従う。


 元々は大男のオナニーのために使う写真の被写体になるために女装してきた訳ではないが、琳音が自分から少し距離を縮めてきたのは成功だった。


「藍くん……。給料上げてもいいよ。後で部屋に来なさい」


 写真を撮り終えて満足した光場は藍の耳元にささやくと、あとはそのまま彼の世話を琳音に任せて仕事場に去っていった。


「……恥ずかしかった……」


 耳朶まで赤くなって暑さを感じて、藍はスカートをパタパタさせた。すると、琳音がどこかうらやましそうな目で見ながらヘアゴムとヘアブラシを手に持っていた。


「ぼく、ヘア(hair)、やるよ。……スカム(skam)だから、きたない」


 要は藍のカツラがボサボサのロングヘア状態だから髪を結ってあげる、ということだろう。そんな琳音も頬を赤く染めている。


「ありがとう。じゃあお願いしようかな」


 そう言うと藍はローファーを脱ぎ捨て、高校の女子制服を着たまま琳音の手に引かれてリビングに連れていかれる。するとそこには鏡が置いてあった。


「座って」


 そう言って、琳音は椅子の上に立ちながら藍の後ろで、座った藍の髪をすき始める。


「ツインテール?ってヘアスタイルにするよ」


「お、おお……」


 それから数分間、お互い昨日の朝のように黙りあって何も話さない。何か話すことはないかと藍が脳内で話題を考えていると、琳音が口を開いて言った。


「ブルールはいいな。おれ、ずっと『ぼく』って自分のことをコールするのがいやだった。服もいつもスカートやワンピースだし、たまにパンツ(pants)がはきたい。ブルールの着ているような」


 いつも女の子の服を着て、お行儀よく『ぼく』と一人称を使っていた琳音が、昨日は「仲良くできない」と言っていたのに今日は自分から話し始めた。大の男の女装、恐るべし。それにしても琳音にも女装する生活に嫌気がさしていると言う本音が聞けて、藍はどこかで安心していた。


 光のささない部屋でずっとシッターとふたりきり、どんな生活を送ってきたのかと不思議に思っていたが、割と普通の男の子が思うことを考えていてよかった。親の言いなりになるだけでなく、自我の芽生えそうな時期、琳音が人形のように見えて仕方なかったのだ。


「日本語が上手いんだな。琳音くんは」


 外国人に対して使う言葉をあえて藍は日本人の子供に使ってみせる。


「なんでだろ、わかんないけど、ゆっくりセイヤ(säga)すれば、日本語が浮かぶ」


「普通の速さで話してたぞ」


「……ありがとう」


 琳音は照れ隠しをしながら、静かに消え入りそうな声でそう言った。


「できた!」


 そう言われて鏡を見ると、そこには清楚系の女子高生がいた。それが自分であることを理解するのに少し時間がかかった藍だが、気づくと一言漏らした。


「俺かわいいな……」


 たまにネットで女装する人を見かけるが、そういった人の気持ちが初めて分かった。自分があまりにも可愛すぎて、その姿を唯に見せたくなりたくなるほどだ。


「ありがとう、琳音。僕かわいくなったよ!」


 振り向いて笑みを浮かべてお礼を言う。すると、琳音は藍から視線を背けて何かを言いたげだ。だが、肝心の言葉が出てこないようだ。それくらい、藍が可愛いのだろう。


「パッパに……見せてきたら?」


 藍にとって、さっき女装した自分の写真をたくさん撮ったあの男の部屋に行くのは正直嫌で仕方なかった。それでも行かないといけない。給料の話もあったから。


「見せてくるね!」


 そう笑いかけると、琳音が手を振ってそのまま藍の視界から消えるまで手を振り続けていた。光場の仕事場である部屋ははっきり言って汚い。それでも埃を我慢して部屋をノックすると、「入りなさい」と声がした。


「ひっ、光場さん……?」


 中に入ると、ツインテールに整えられた眼鏡の女子高生と大男が鉢合わせする。だがこの二人は両方男なのだ。それでも光場はいつものような紳士然とした笑顔ではなく、化け物のような怖い顔で藍の逃げ場を塞いで、床の上に無言で押し倒す。


 ヤバい。脳内で藍が逃げようとする。だが、怖くて到底何もできない。両腕を抑えられて、体は押さえ込まれて逃げ込めない。ちょうど男の股間が脚に当たる。それは服越しにいきり立っていて、かなりの硬さを持っていた。


「おっ、男ですよ。俺……」


「うるせえな!」


 そのまま頬を拳で叩かれて、藍はどう抵抗もできなかった。それから男の溜まった欲が発散され、無惨にも藍の取り繕っていた砦が崩壊した。


「ひっ……」


 男に首を絞められて気絶する寸前、あのDVDを思い出す。もしかしたら、歩美さんも……? いや、琳音も……? 昨日日記に書いた、『白い嘘は黒い嘘かもしれない』その言葉が現実味を帯びてきて、藍はそのまま恐怖に悶えながら意識を手放した。


「…………」


 恐怖の時間は長いようで、短かった。藍が目を覚ますとそこはほのかに薄暗い間接照明の下で、彼は女装した姿のままベッドの上に寝かされていた。クッションのように柔らかいベッドの上で目を覚ました彼は、そのまま瞳を開けると先程のことを思い出して思わず飛び起きる。


「早くここを出ないと自分の身が危険だ」


 そう口にしながら己を奮い立たせる。なんとかベッドから出てそのまま部屋にあった鏡で己を確認する。琳音に何があったか悟られないように、髪を解いて手梳きでカツラの髪を整える。涙の跡はハンカチで拭いてスッピンに戻す。


「これでよし」


 そう言って部屋を出ようとするが、ふとドアの外にさっきの強姦者が立ってはいないかと不安になる。そこで藍は慎重にドアへ近づいて、何か声がしないかを聞く。すると、強姦者と幼い子供がお互い叫びあって喧嘩をしているようだ。


 スウェーデン語や英語の単語が混じり合ったその喧嘩の内容は、藍には到底理解できないもので部屋を出るタイミングが分からなくなる。だが、かなり激しい声調で話されるその声は、明らかに琳音のものだった。


 英語でも何か聞き取れないかと思って、藍はそのまま立ちながら聞き耳を立てて琳音の反応を聞く。すると、"what the fuxk"という子供が話すべきでない単語とともにドラマでよく聞くフレーズを彼は耳にした。


 なるほど、琳音は怒っているのか。そう思いながらも、琳音が父親に何かされないかと心配になる。すると、何かがぶつかる音とともにいやらしい粘膜と粘膜が絡み合う音が聞こえる。「んー!」という抵抗の声は、やがて涙声に変わり、男の「歯は立てんじゃねえぞ」という声もした。


 さっきの強姦には含まれていなかったが、どう考えてもアダルトビデオに出てくるあの行為だ。自分も恋人が「したい」と言うものだから夜のアパートでしたことのある、あの行為だ。ウッと声を小さな声を出しながらも笑ってモノを掃除機のように吸い尽くす恋人の顔と、幼い子供が泣きながら現在進行形でさせられている行為は、同じものだが違うものだった。


 早く琳音を助けてどこかへ逃げないと。そう思ってドアノブに手をかけるが、さっき自分がされていたことが脳裏に蘇って脚が立つ力を失う。そして崩れた藍はそのまま膝をぶつけた痛みとはよそにずっと聞かされ続ける粘膜の音と何もできない自分の無力さを痛感してただ呆然としているだけだった。


 それから少しして、音も止んで静かになったなかで、少しずつ自分がどんな状況かを理解していった藍は、今度こそと思って立ち上がり、ドアを開けて琳音のもとへ向かう。あの子がどんなことをされていたか分かっているから、どうしても心配になってしまう。


 駆け足でそのまま向かうと、琳音はソファーベッドの上で横になりながら小さく泣き声を立てていた。そこに光場はおらず、仕事場に戻ったようだ。


「だ、だいじょぶか……?」


 琳音に床へ落ちていた毛布を被せながら優しく話しかけると、琳音が藍の方を向いて聞いてきた。


「ずっとどこにいたの……?」


 強姦されて気を失っていました。そう正直に話すのも悪くないのかもしれないが、子供にそういったことを話すのはよろしくない。理性を失っていた藍でもそれは分かっていた。だが、どうしても琳音に何が起きたか話したくて仕方がなかった。自分も同じ仲間だと。そう琳音に分かって欲しかったのだ。


「君がされていたことと同じことを、された」


 なぜだろう。こういったものは錯乱した状態で話すものだと思っていたのに、案外簡単に、そして落ち着いて話せるのだ。それに驚いた藍がベッドの横に座ってそう話すと、琳音はゆっくりと起き上がって目を丸くしてまた聞く。


「こころ、は、いたくなかった?」


 そうゆっくりと尋ねる琳音に心配されるほど自分は幼くて、弱い存在だっただろうか? いや、普通の男なら犯されることなんて予測して生活するわけないからこういったことは予想外だった。きっと琳音も自分もいま、同じ気持ちになっているのだろう。


「琳音くんこそ、辛くないか?」


「……つらいって何?」


 ああ、この子は日本語で『つらい』という言葉が示す感情の意味を知らないのだ。きっと英語だったら、それが細かい言葉に分散されるからだろうか。


「ハートにガラスは刺さってないの?」


 藍は抽象的に言い換えてみた。それが何を意味するか、琳音ならきっと分かるだろう。そう判断してのことだった。


「……うぇ……。いたいよ。とってもいたい……」


 琳音が涙を流しながら藍に腕を伸ばして抱擁ほうようを求める。怖かっただろう。痛かっただろう。息ができなくて苦しかっただろう。幼い子供にとって、それが何を意味するかは分からないだろう。たとえ説明したとしても。それでもきっと、この状況下で暮らしてきた琳音の心は限界に来ていたに違いない。


「いたいね。俺も痛いよ。……今日は『いえで』しようか」


「……いえで?」


「うん。外へ出てみよう。電車に乗って、遠くに行こう」


「うん……」


 それから泣きっぱなしの琳音の部屋からコートを見つけて、それを着せて、柚木家に連れこんだ。玄関に入ると、恵おばさんが目を皿にして藍に聞く。


「……どうしたの、その顔は! それにこのちっちゃい子まで殴られて……。かわいそうに。警察に連れて行かないと」


 いつもは警察のお世話になるのを思いっきり嫌い、藍が脅したあの日も警察という言葉が出ると怯んだ恵おばさんがそこへ二人を連れて行こうとするほどに酷い傷をふたりともに負っていたようだ。


「藍くんは着替えて。この子は……、どこの子だい?」


「光場さんの息子さんです」


 そう藍が口にすると、恵おばさんははさみを取り出して琳音の髪を切ろうとした。それに気づいて、藍が駆け込んで彼女の手を押さえて止める。


「やめてあげてください!」


「だって、息子さんなんだろ? それならこんなに伸ばした髪は男らしくないわあ」


「まあ、髪のことは僕に任せてください。それよりも、手当てをしてあげてほしいんです」


「……わかったわ」


 それから琳音の傷の手当てを恵おばさんに任せている間、藍は自身の部屋へ駆け込んでコルクボードをベッドの下へ隠し、慌てて服を着替えた。白いパーカーにジーンズ、カツラも外していつもの姿に戻った。


 それから彼女が髪を切っていないかと不安になって、琳音のところへ戻る。すると、琳音は温かいお茶を飲んで恵おばさんにすっかりお世話になっていた。


「琳音くん、光場の息子にしてはいい子じゃない。何があったのよ、この子を部屋に連れ込んで」


「それは……」


 イラマチオをされていたんです、なんてこの子の名誉のために言うことはできない。


「殴られて酷い目にあっていたんです。僕も止めに入ったら、やられました」


「あらら、これから警察にこの子を連れて行くの?」


 学費の稼ぎが消えたわね。そう残念そうに言う恵おばさんをよそに、藍は琳音の落ち着いた様子を見て安心した。これからどうしよう。そう頭を悩ませていると、琳音が聞いてくる。


「遠くってどこへ行くの?」


 ああ、さっき言った『家出』の話だな。そう考えながら、琳音に微笑みかけて言った。


「……僕の友達のところへ行こっか」


 するとそれを聞いて琳音は明るい表情をして言った。


「それって外へ出るってことだよね? ずっと家にいたの、だから楽しみ!」


 元気を取り戻した琳音が藍に抱きつく。コートを着た彼を外に出すにはまだ日は上りすぎているのではないか。そんな気さえしたが、窓を見るとすっかりと日は落ちて夜になりかけていた。

 これなら大丈夫だろう。そう考えた藍は携帯で恋人の唯に電話をかける。プーっと電子音がして、四コール目に彼女は出た。


『もしもし、藍くん?』


「実は頼みがあるんだが……」


『ええ、なに?』


「唯さんの家に泊めてくれないか? いま預かってる子供も一緒に」


 すると、唯がしばらく考え込んでいるようで、沈黙が続く。


「親に殴られてるのを、それよりも酷い目に遭っているのを見たんだ。助けてくれ!」


『ああ……。避難ってわけね』


「うん。まあそうなんだけど……」


『久しぶりに藍くんとデートできるならいいわ。今は西宮にいるから、はやくおいでね。レッテのあの子にもよろしく』


 そこで電話は切られた。それから琳音の視線に合わせて藍はこれからのことを言う。


「琳音くん、いいかい? これから西宮ってところに行く。いいかな?」


「……うん」


 コートを着た琳音はフードをかぶって、藍に連れられて外へ出る。これからの大冒険が琳音にとっては楽しみに感じられた。

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