あの日あの教室でアカネサス

@kukidaruma

第1話 僕だけがいない世界

君に触れた、そのつもりでも僕の手は君には届かない。どれだけ二人の距離が縮まって、その距離が限りなくゼロに近くなってもそこには明白な「間」があって君に触れることは出来ない。僕は君に直接的に干渉を及ぼすことは出来ない。だけど、それでも僕は君をこんなにも感じているんだ。まるで僕の中に君がいるみたいだ。君といると境界も距離も時間さえも超えた、そんな世界で生きているような気がする。たとえ君が見えなくとも君を愛することを約束するよ。




だって君は僕にとっての━━━━━━━。













微睡みの中で誰かが泣いている。何やら聞き覚えのある聲だ。弱くて小さくて糸のように細く繊細で守ってあげたくなるような、そんな感じだ。その声の細い糸を辿って僕は教室の隅で踞る一人の少女を見つける。


「どうして泣いてるの?」


そっと宥めるような優しくゆっくりな口調で彼女に話しかける。僕の声に反応して彼女は泣き腫らした顔をあげる。目をずっと擦っていたのだろうか、それとも茜さすこの教室に染っているからだろうか、真っ赤になった顔で彼女は僕を見つめる。彼女の向ける真っ直ぐなその眼差しは無垢そのものでこれほど綺麗な目を見たことがあるだろうかとその透き通る美しさに僕は思わず息を呑んだ。


まるで海に煌めく春の日溜まりのようだ——。


でもそこには夏の青空のような底知れぬ紺碧の深淵が眠っているようにも見えて、その吸い込まれるような彼女の瞳に思わず見とれてしまう。なんの演技も悪意も濁りも曇りも少しの不純物も無いまさに完璧と称せるような自然体。

これを「綺麗」というのかと何の疑いもなくストンとそう思う。彼女は目を大きく見開いたまま不思議そうに僕に言う。


「どうしてあなたが泣いてるの?」


「え?僕は泣いてなんか━━━」


そして僕は心のそこに光る何かにどうしようもないほど愛しさを感じて、自分の頬に涙が伝っていることに気づいて、僕ははっとした。





気づくと僕はいつものベッドの上にいて、見慣れた光景が広がっている。いつもの息苦しい乾いた朝だ。

「なんだ夢か。——あれ?なんで、僕は

——泣いてるんだ——」

今さっきまで僕の中にあった世界の全てが嘘のように跡形もなく失われてしまったようなその喪失感に僕は心が酷く締め付けられる。まるで心にぽっかりと穴が空いているみたいだ。

この感情はなんだろう。夢の中で起きたことなんてほんの一欠片さえも覚えてないのに。しかし、その感覚とは無関係に僕はある違和感を覚える。

何かがおかしい。寝起きということもあって頭が上手く回らないのだが何処かが不自然なことは何故かはっきりと分かるのだ。何かが不自然なのだ。今、ありえない事が起こっているのだ。気づけそうで気づけない。分かりそうで分からない。寝惚けから目を覚まそうと両手で頬を叩いた瞬間、この不自然と違和感の正体が天啓を受けたかのようにはっきり分かった。

僕の身体が無いのだ。いや、正確にはある。そこに足や手があるのは感じるし、手が頬に触れている感触も足がベッドのシーツに触れているのも確かに感じる。だけど見えない。自分の影すらも見えない。

「と、透明人間?!一体僕に何が起きてるんだ。」

僕の体に起きた人知を遥かに超えた超常現象に僕の理解が追いつかない。

急いで洗面台の鏡に向かう。洗面台に着いて、僕は目を瞑って鏡に近づきそっと目を開く。さっき見た光景が嘘だと強く願って。恐る恐る開く目にぼんやりと映っていく目の前の景色にほんのわずかの期待を託すも案の定、僕の期待は尽く裏切られて、鏡の中の自分を見ると、そこに僕はいなかった。

「嘘、だろ...」

分かりきっていたことだったのにこうもはっきり見せられては自分に言い聞かせる言い訳すらも思いつかない。僕は言葉を失って、鏡の中の無人の不自然な洗面所をただただ呆然と見つめていた。そして僕は自分に問いた。どうしてこうなったのかと。

「分からない。何故だ何故だ何故だ。」

起因も糸口も自分自身の正体さえも分からない。

「どうすれば、どうすればいいんだ。」

心の中で膨大な数の感情と思考とが無秩序に暴れ回る。この世界で僕だけが取り残されて世界から僕だけがはじき出されたみたいな気がして無意識に鏡に手を伸ばす。そしてもう一度僕は自分に問いた。

「僕は今、何者なのだろうか。」

鏡の中の僕は沈黙する。沈黙する自分に何故だか少し安心してしまう。僕は今どんな表情をしているのだろう。きっと他人に見せられるような面構えではないだろう。顔の筋肉の強張りや震えから見えなくとも何となく想像出来る。

「皮肉にも今の僕が誰にも見られることが無いのはせめてもの救いだな。」

僕が何者であろうが、僕の意識は確かに今ここにあって僕を動かし続けている。だとしたら、僕が今ここにいる意義がきっとどこかにあるはずだ。多分、。

そう心の中で呟いて、無理に自分を少しだけ安堵させて、ほんの僅かだが僕の平常は規律を取り戻す。受け入れられない事実を否定するために今の状況を整理する。しかし、僕はふと思う。何故だろうか。この事実を否定したくない自分がいるんだ。自分で自分に驚いてしまう。


僕は今、所謂「透明人間」の状態になってしまっているものの、物体に触れたり、それを持ち上げたりすることは可能なのだ。傍から見ると、どう見てもポルターガイストにしか見えないだろうが。しかし、少し不自然な点もある。透明人間になったことも夢中説夢の出来事なのだが、ただ単に透明人間になった訳では無いのだ。透明化したのは僕だけではなく、僕の服も一緒に透明化しているのだ。僕と服という間には何の関係も共通点も無く、明らかに「変」であるのだ。まぁともかく、物体への干渉が可能であるなら今の僕にできることはまずは他人に干渉することだ。他人に干渉することで誰かが僕の存在を証明してくれるかもしれない。誰でもいい、誰かに見つけてもらねば、僕の存在を。今自宅には誰もいない。父は物心着く前に交通事故で亡くし、そのため、母は朝早くから夜中まで働き詰めで、僕は一人で過ごすことが多い。家に誰もいないからと言って家の前の道を歩く人達に聞いたとして、いきなり透明人間なんかに会っても驚かれるだろうし、第一、僕のことを知らない人に透明人間の姿で会ったところで分かるはずが無い。だったらまずは僕の声の存在を試すことが出来る電話をかけるのが一番手っ取り早い。僕は急いでポケットからスマホを取り出してチャットアプリを開く。しかし、アプリはすぐには起動しない。通信待機中を示す渦が画面の中心でぐるぐると回り続ける。急いでいる時に限ってどうしてこうもいつも上手く駒が進まないのだろうか。まるで見えない誰かに邪魔されているかのようだ。画面の中央で回り続けるその渦は僕に催眠術でもかけるかのように僕の不安と焦燥を一層掻きたてる。

「あぁもうなんだよ、こんな時に!」

焦りと不安で思わず苛立ちの声を上げる。いつまでも終わらないんじゃないかと思わせるほど回り続ける。しかし、次の瞬間液晶にぱっと映し出された一文に僕の思考は完全に固まった。




——表示するデータは確認出来ませんでした——






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