終章 空(4)
住人が眠りについて夢と現実が混ざり合う街。賭博と闘技場で賑わう街。視界に海が広がる船の甲板。北の大地。闇で覆われた北の大陸の街。
それらの風景を通り過ぎて行き、やがて、旅の終着点が見えてきた。
あの日、意識を失ったセツナを竜に乗せて向かった場所。結界の向こう側にある朽ちた城が、闇に覆われた大地の先に出現した。
古びて廃墟のようになった城の内部、黒い霧が漂う謁見の間に、かつて魔王城で相見えた魔王が佇んでいた。
いや、かつての魔王ではない。リトではなく、黒い闇でできたマントと装備をまとうセツナだ。人としての感情などもうなくしたかのように、顔に仮面をつけている。
彼はあのときの魔王のように周囲の闇を従えて、精神世界に無断で入って来た侵入者を睥睨していた。
遠い昔、この場所であったことを思い出させる光景だった。しかしそれによって胸を刺す痛みを無視し、ラズは強気に語りかけた。
「なに今更魔王を気取ってるんだ。セツナは魔王にはならなかったじゃねえか」
ラズの言葉に応えることなく、魔王は闇の刃を高速で周囲に伸ばした。
剣を抜いたラズは自分のほうに飛んできた闇を避け、あるいは受け流しながら、魔王に近づこうとした。
避けきれずに身体をかすめた傷が蓄積されていく。もう、かつてのように即座に傷が治ることはない。認識された現状は、精神体にも適用される。
直撃を受けたらこの世界で死に、そう自覚した自分の心はもう目覚めることはないんだろうな、とどこか他人事のように思った。
でもいまはもう、死を望んではいなかった。そして心を閉ざして意識が眠りについているようなセツナを、生きながら死んでいるような状態にしておきたくなかった。
「セツナ!」
名前を叫ぶと、それを拒絶するように、強い一撃がきた。ラズは吹っ飛ばされて、壁に激突した。玉座の間の一角が崩れて、ラズを埋めるように瓦礫が降ってくる。
セツナと対決したときの再現というよりも、最初に訪れた街での一幕の再現のようだった。
だからあのときと同じように、風を剣にまとわせて障害物を風圧で吹き飛ばし、埋まりきる前に排除した。
瓦礫が飛んでいって開けた視界に、最初に見た無機質な灰色の街が、謁見の間に重なるように浮かび上がった。浮かんでは薄れていく、蜃気楼のような光景。二重に映し出される朽ちた城と街は、どちらもセツナを絶望させるに至った場所。消えることを選んだ地だ。
「――もしかしてお前が滅ぼしたい世界は、もといた世界なのか?」
そう問いかけながら、ラズは一歩を踏み出した。
「だったらやりゃいいさ。ここはお前の心の中の世界だ。お前の好きにすればいいんだ。辛い過去を思い出させる風景なんて、壊し尽くせばいい!」
その言葉に反応するかのように、世界が黒く染まり、城が崩れていく。ラズと魔王がいる一角を残して、壁が、天井が壊れて上へと浮かび上がっていった。
視線の先の魔王の仮面が外れていた。セツナの黒い瞳が、ラズを見つめている。
「――だったら、辛い感情を思い起こさせる相手にはどうしたらいいんだろうね」
「……セツナ」
感情を覆い隠したような無表情で、静かな声でそう言われた。仮面はなくなったはずなのに、その表情そのものが仮面かのようだった。
「俺が許せないか?」
「ああ」
「そうか。そうだよな」
殺したいか? と問いかけそうになり、出かかった言葉を飲み込んだ。魔王城跡地でのラズの願いこそが、セツナにとっては最大の裏切りであり、心を刺した刃なのだから。
「だったら許してくれなくていい。だけど俺になにかできることがあるのなら、償いをさせてくれ」
「君は罰されたいようだね」
視線を逸らして考える素振りを見せ、セツナは闇の刃をラズのほうへと伸ばしてきた。頭に到達する直前、ラズの目の前で鋭く尖った闇が止まる。
「じゃあ、リトの記憶を消そうか」
「それはっ……!」
自分でも驚くほどに、反射的に異を唱えていた。リトの意識が消えることは納得したはずなのに、リトと過ごした過去を思い出せなくなるのは嫌だった。
既に細部は曖昧になっている。事細かに思い出せることなんて、夜の森での出会いと炎に包まれた街、それから魔王を倒したときくらいだ。
正確な記録など残っていない。彫刻家によって作られた彫刻も、攻め込んできた兵士に顔や身体を破壊されてしまった。焼け跡から発見された彫刻は、そういうものとして一つの作品になってしまった。
長い年月とともに、旅の連れの姿も過ごした日々も薄れていっていた。忘れたくないと思い返すたびに、そのときのラズの感情によって記憶を上書きしている自覚もある。
リトと再会して、自分の中にある印象とどこか違う、と感じたほどなのだから。
だけど、それでも、完全になくしてしまいたくなんて――。
「ほら、嫌だろう?」
予想していたといわんばかりにセツナは言った。
「そして君が本気で抵抗するなら、僕一人くらい簡単に殺せる」
その言葉に比例するように、さらに何本も黒い刃が伸びてきた。ラズを包囲する黒い闇は、蛇のように脈動している。
しかしそれらは崩れ落ち、塵となって周囲の黒い霧に混ざってしまった。
「そもそもこんな心の奥底にまで、なんのために来たんだ?」
「それは――」
「君に僕は不要な存在だよ。なら、ここにいる理由はない。いますぐここから立ち去ればいい。それで万事解決だ」
黒い瞳がわずかに細められた。
「君はリトと旅を続けられる。それでいいじゃないか」
すべてを諦めたような顔で、セツナは告げた。魔王城跡地で最後に見た表情と、よく似ていた。
だからこそ、セツナの提案を受け入れるわけにはいかなかった。
「駄目だ」
ラズはセツナに近づいていき、マントに覆われた肩を両手でつかんだ。闇が浸食してくる感覚がする。身体も心も思考も黒く染まりそうになる。
セツナが眉をひそめて手を振り払おうとするが、握る手に力を込めた。それから、告げた。
「……わかった。消していい」
至近距離で合わせた視線の先で、セツナが目を見張った。
「俺の中にあるあいつの記憶、全部」
――過去に囚われないで。
リトと交わした最後の言葉。それがリトの願いだというのなら、もう、いいのかもしれない。過去の記憶を抱え続け、反復し続けて、いつまでも執着していなくても。
それにいまどれだけ嫌だと思っても――忘れてしまったら、忘れたくなかったという想いすら、消えてなくなるだろう。
楽になれるのかもしれない。後悔を繰り返すことは、もうなくなるのかもしれない。それなら、なくしてしまっても構わない。
「……そんな辛そうな顔で承諾されても困るよ」
「辛くないと罰にならねえだろ」
「過去を構成しているものを君の中から消し去ったら、君は君でなくなるだろうね」
「三百年生きてきて壊れて歪んじまった存在なんて、存続させる意味ないだろ」
リトはラズの心は壊れていない、と言ったのだったか。でもリトだって、魔王城跡地でラズがセツナにしたことを自分で体験したら、違う意見を言うかもしれない。だから。
「お前の手で、俺を作り変えればいい」
その結果セツナが戻って来てくれるのなら、最適解だと思えた。
頑なだったセツナの表情が揺らいだ。
「僕は――」
君を苦しめたいわけじゃない。そんなかすかな言葉が耳に届いた。
セツナの姿が薄れていき、黒髪も黒いマントも周囲の闇に同化するようにぼやけて消えた。肩をつかんでいた手に残ったのは、水晶の首飾りだった。
現実では修繕中のはずの首飾りは、革紐が劣化してきていまにも千切れそうだった。セツナがあの地にいた証。セツナを召喚したラズの過去の証明だ。
これが鍵なのだとしたら、扉はどこにあるのだろう。そう思った直後、見慣れないものが出現していることに気づいた。
壁や天井が崩れたその場所に、上へと階段が伸びていた。見上げると、階段の先は暗色の雲の中へと伸びていて、どこまで続いているのかすらわからない。
天の上は死者の魂が向かう先。様々な国の神話で語られる伝承を思い出した。この先は死の世界につながっているのだろうか。それとも神がおわすところに出るのか。
考えたところで埒が明かなかった。それに進む先があるなら、行くしかない。
遥か天上へと伸びた階段に、足を乗せた。しばらく警戒しつつ進んでいたが、やがてラズは階段を蹴った。
階段を駆け上がっていく。どれだけ上がっていっても、まだ先は続いている。それでも止まらずに、天に届きそうなほどの階段を進んでいった。
いつからか雲の中に突入していた。視界が悪くなり、先はさらにどこまで伸びているのかわからなくなる。同じような景色が続くせいで、同じ場所で足踏みしているのかと錯覚しそうになった。
永遠に続いていそうな階段。この先に進んだところで目的は果たせるのか、という疑問が過ぎる。そうした後ろ向きな考えを、かぶりを振って頭から追い出した。
体力は常人よりも高い。回復の速さがなくなったとしても、疲労は回復魔術で癒せた。
それでもやがて、走り続けることが心身を苛み出した。息が荒くなり、身体が軋みを上げる。頭が朦朧としてきた、そのとき。
「う、わっ!」
足を滑らせて身体が後方に傾いだ。
――ああ、これまでか。
大分上まで上がってきていた。ここで落ちたら死ぬだろうな、と漠然と思う。心の中の世界で精神が死んだと認識したら、もう自分の身体で目覚めることはないのだろう。
「――駄目」
声が聞こえ、腕をつかまれた感触があった。
階段に引き寄せられ、手をつく。落下を免れたことを少し遅れて理解した。
「……助けられたのか」
セツナはラズがこの世界で傷つくことを望んでいない。なら、なんとかなるかもしれない。
その後も走り続けて、やがて頂上に辿り着いた。
雲に囲まれたその場所には、扉があった。セツナの心の中に入ったときに最初に広がっていた光景、灰色の街の建物にあったような、簡素で無機質な扉だ。
「セツナ。俺にはお前が必要だ。お前に逢いたいんだ」
ラズは扉に首飾りをかざした。水晶から青みがかった光が放たれ、鍵が開いた小さな音がした。
扉のノブに手をかけた。扉が、開いた。
扉を開いたそこは、建物の屋上だった。頭上には空が広がっている。だが快晴とはいい難く、厚い雲が空を覆っていた。
その場所は柵に囲まれていた。柵の向こう側に、はじめて会ったときと同じ服装のセツナがいた。
「やっと見つけた……」
疲労よりも嬉しさが勝り、かすかな笑みを浮かべてラズは人影に近づいていく。
「セツナ。セツナ……」
しかし名前を呼んでもセツナは振り返ることなく、なにもない空中に一歩を踏み出した。
「――っ!」
息を呑んだラズは柵に駆け寄り、躊躇せずに柵を乗り越えると、セツナを追って空中に身を躍らせた。
「セツナっ!」
落ちていく少年と目が合った。声が、届いた。
空中で必死に手を伸ばした。空を切る手。あと少し。
やがて、セツナの手をつかんだ。
「……ラズ」
名前を呼ばれた。戸惑い気味の表情を浮かべたセツナが視線の先にいた。それだけで満たされた。
「セツナ。お前にやってもらいたいことがあるんだ。俺と一緒に世界を旅してくれ」
別の世界から彼を召喚したときと似た言葉をかけていた。今度は打算なんてないし、自分の願いのために利用しようなんて考えていない。心からの想いだ。
「……僕はリトじゃないよ」
「わかってる」
「リトの代わりになんてなれない」
「代わりじゃねえ」
握る手に力を込めて、セツナを引き寄せた。
「セツナに、俺の隣にいて欲しいんだ」
雲が晴れていき、陽光が差した。青い空の中を、地面に叩きつけられることなく二人は落ちていく。
「……うん」
瞳が涙で潤ませながら、セツナは頷いた。
そしてラズは、あの世界の魔術師ですら使える者が限られる召喚の術を行使した。
心の中の世界の扉の向こうから、セツナの意識を呼び戻すために。
どこにも居場所なんてないと思っていた。
誰からも必要とされていないと思っていた。
もとの世界でも、この世界でも、自分がいない状態のほうがうまく回っていくのだと思っていた。
だけどラズは、セツナを探しに来てくれた。
リトの代わりではないと言ってくれた。
旅の連れに選んでくれた。
だから閉じた扉の向こうで眠っていた意識は、目覚めることを決めた。
目を開くと、宿屋の室内が目に入った。何度か瞬きをして、ぼんやりした視界のピントを合わせる。
隣のベッドに腰かけるラズが、横たわるセツナを見つめていた。そのことにひどく安堵した。
「セツナ、だよな」
「……そう」
肯定の返事を聞くが早いか、ラズは苦笑いとともに心中を吐き出した。
「ったく……なに勝手にいなくなってるんだ」
気まずい想いで視線を逸らしてから、セツナは上半身を起こした。
「でも、君はリトに逢いたかったって……」
「俺はずっと、リトの転生を――セツナを探してたんだよ」
そういうラズの声音も表情も、柔らかく穏やかだった。
「悪かった。俺のせいで沢山傷つけた。嫌な思いをさせたな」
「それは……」
「心の中の世界に入る前、リトと接して気づいたんだ。リトのことはとっくに過去のものになっていたってことに。それをセツナに重ねるなんて、したらいけなかった」
「ラズ……」
「セツナを召喚した理由はリトの転生だからだったけど、一緒に旅をして、魔王城跡地でセツナがした選択の結果、俺はいまここにいる」
水色の瞳が、セツナを見つめる。
「ずっと死を望んできた。だけどいまは、セツナと旅を続けたい。一緒に生きたいんだ」
その言葉に、セツナは頷いた。
セツナの中からリトはいなくなった。
巡る魂に蓄積された存在の一つとして残ってはいるのだろうけれど、再び魂の奥底から呼び出そうとしても、手が出せなくなっている。
魂に干渉した際に流れ込んできたリトの記憶も、次第に薄れていくのを感じた。
それはリトの意志なのか、それとも――。
「セツナ」
名前を呼ばれた。旅の連れからの呼びかけに、セツナは振り返って目を細めた。
後悔が降り積もっても、抱き続けた願いが相手を傷つけても、自身の消滅を願っても、その手を伸ばすことをやめない限り、つながりは消えない。
そして、世界をまわる旅は続く。
勇者が僕を異世界に召喚した理由 上総 @capsule
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