終章 空(3)
その街で起きていた異変を解決して闇を祓い、宿屋へ向かった。あとは明日、預けた首飾りを受け取れば、次の街へ行ける。
しかし睡眠をとる前に、やっておきたいことがあった。
「リト」
声をかけると、ベッドに腰かけたリトは膝の上に広げた本から顔を上げた。
「なに?」
宿屋の一階の一角に本棚があり、そこから借りてきて読んでいる本だ。三百年前に比べたら庶民でも入手しやすくなったそれらの本は、いまを生きる者からしたら古典で、リトからしたら読んだことがある懐かしい内容なのだろう。
熱心に読んでいるのを邪魔するのは心苦しいし、いまから持ち掛けることは荒唐無稽で、リトからしたら受け入れ難いことかもしれない。
でも、魔王城跡地での一幕の後、リトと過ごしたときに感じたことが積もり積もって、いまがいい機会だと思った。
「お前の心の中――精神の世界に行かせてくれ」
その提案に、リトは黒い瞳を瞬かせた。
「セツナが完全にいなくなったとは思えねえんだ。あいつの意識がまだ存在してるなら、心の中の世界へ行って、精神の奥底から引きずり出して――」
「やっぱりいまのラズは、セツナを選ぶんだね」
それを聞いて、はっとした。
「違っ……」
「それでいいと思うよ。僕は死者だ。蘇っていい存在じゃない」
リトは本を閉じて傍らに置いた。過去とのつながりを断ち切るような仕草に見えた。
「……どちらかを選ばないといけないのか」
「そうだよ。一つの身体に二つの意識や人格があったら、齟齬をきたすから」
多分それだけが理由ではないのだろう。ラズがこの話をしなければ、リトと一緒にいられたのだろう。
セツナを諦めきれていないことを伝えてしまったから、リトは結論を出した。
この三百年で、かつての旅の連れが変わってしまったと知ったから。久しぶりに一緒に旅をした相手が誰か、知っていたから。
裏切って傷つけた相手に、罪悪感と自責の念だけでなく、別の想いも膨らんでいたことを察しただろうから。
だからラズがこの話題を出した時点で、別れへの秒読みははじまっていた。
「俺は――お前に逢いたかった」
顔を伏せて、掠れた声で絞り出すように告げた言葉は、紛れもなく本心だった。魔王を倒したときから――それより前にリトが魔王と化してから、ずっと抱き続けてきた想いだった。
「うん。でも君が召喚したのは、僕の転生者だ」
噛んで含めるように、リトは言う。
「いまこの時代には、どこの世界を探しても、君と旅した僕はいなかったんだよ」
顔を上げると、リトはかすかに微笑んでいた。
ずっと探し求めていたはずの旅の連れの言葉が、ラズの心に浸透していった。
この世界に幽霊はいない。死者は蘇らない。世界の理を捻じ曲げたのは、魔王の魂を受け継ぐ者による闇の力。
だけど蘇ったリトの言葉によって、悟ってしまった。死者に執着し続けてはいけなかったのだと。
「人の精神や魂に触れられるのも、心の中の世界に入れるのも、勇者の力なのかな」
「そもそも勇者の力として一まとめにできる聖なる力なんてねえよ。全部、もっと別の力を求めた結果得た力だ」
特異な力をいくつも得て、願いの一つを叶えたはずなのに、いまこうして手に入ったものを再び手放そうとしている。魔王を倒した後、一心不乱に力を求めていた自分がそれを知ったらどう思うだろう。
だけどリトへの頼みを取り消さない時点で、もう心は決まっていた。
そう、とリトは返事をした。そして自分の心臓がある辺りに手を被せた。
「心の中の世界に入ったら、鍵を探して。鍵がかかった扉の向こうに、セツナはいるだろうから」
「ああ。で、その鍵ってのは」
「鍵の形をしているかはわからないよ」
自力で探せ、なんなのかも自分で考えろ、ということらしい。
もっとも、セツナの心の中の世界の鍵がなんなのか、リトにもわからないのかもしれない。それこそがリトとセツナが別の存在であることの証のようにも思えた。
「それから、魔王の転生の精神世界がまともな場所と思わないほうがいい。現実世界における勇者の強さは無意味かもしれないね」
「そうか」
それならば、ある意味対等だ。
「セツナは君を拒絶して攻撃してくるかもしれない」
「当然だな。俺はあいつを裏切った。そしていまも、本来なら他人が立ち入ることがない内側に無断で入ろうとしてるんだから」
簡単にはいかないことくらい、覚悟している。精神の内部に入る際は、自分も精神体になる。精神を、心を壊されたら、身体が生きていても廃人になるだろう。
それでも行かなければならない。
「そう。じゃあ、僕との会話はこれが最後かもね」
「リト……」
「謝らないでよ。あのときに終わったと思っていたのに、こうしてまた逢えたんだ。それで十分だよ」
リトは泣きそうな顔で笑っている。
――ああ、そうか。これは炎に包まれた街や魔王の城でできなかった別れの、やり直しだ。
向き合ってさよならを告げることすらできなかった。どちらかが意識や自我を失っていて、絶望の中で訪れた別離。
だけどセツナの選択の結果、再会できた。短い時間だったけれど旅の続きもした。他愛ない会話を交わした。思い出話をした。過去に行った場所を再び訪れた。あのときやり残したことは、いくつかすることができた。
幽霊が出てくる物語なら、心残りを解消して天に上がることができるような日々を、過ごしてきた。
「ラズ。僕は君に逢えてよかった。君が魔王を倒したことで、未来につながったんだ。だから、過去に囚われないで」
「ああ……」
「君の光は、旅の連れが死んだくらいで消えたりしない。君の心は壊れてなんかいないんだ」
夜の森で出会い、闇をまとう魔王となった少年は、ラズを眩しそうに見つめて続けた。
「そして君のことを光だと思っていたのは、僕だけじゃないんだよ」
セツナの心の中の世界は、暗く沈んだ灰色の街だった。
別の世界から彼を召喚して最初に訪れた街かとも思ったが、目が慣れてくるにつれて違うことがわかった。
見たことのない様式の建物が並び立つ街だ。家というよりも箱のような外観のものもある。
足元は土や草ではなく、石畳とは違う硬いなにかに覆われている。硬い素材でできた長い棒が等間隔に並び立ち、上部を線が伸びて棒同士をつないでいた。
三百年の間に、各地の街並みが変化していく様を見てきた。それらと比べても、優れた建築技術とラズがいた世界にはないような文明が発展していることを察することができた。
だが、高い技術によって作られたことを感じられても、それ以上に――画一的で無機質で冷たい印象だった。
しばらく道を進んで行くと、見覚えがある人影がいた。黒い髪に黒い瞳。ラズより少し低い背丈で、召喚したときと同じ服を着ている。
「セツナっ……」
声をかけてもセツナは気づかない様子で、先を進んで行った。慣れた様子で進んでいるから、通い慣れている場所へ向かっているのだろうか。
追いかけていくと、周囲にも人影が増えていった。道を行く通行人は背格好は老若男女様々に見えたが、顔の判別がつかなかった。
やがて、セツナと同じような服を着ている十代半ばから後半くらいの少年少女が増えてきた。
それと並行するように、周囲から声が聞こえてきた。
――人殺しの子供。
――父親は犯罪者で、母親は自殺した。
――それなのに、どうしてお前は生きているんだ。
俯きがちだったセツナの顔が、さらに曇っていく。響く声は、セツナを責めているものに他ならなかった。
周囲の人影が薄れていった。セツナの姿も掻き消える。あれはこの世界の主本人ではなく、過去にあったことを凝縮して映し出していたものだったのだろうか。
周囲の景色が揺らぎ、小さな敷地にベンチや遊具がある場所に変わった。
七、八歳ほどの子供が、ベンチに座った女性と向き合っている。女性はどことなくセツナと似た顔立ちだった。
――私たちに人並の幸せなんてないの。すべてはあの人のせい。
――人殺しの血なんて、受け継がせるんじゃなかった。
――ごめんね。でも――。
――あの人の子供だというなら、責任を取ってよ。
――あの人と結婚したことから……いいえ、あの人と出会ったときからすべてが間違いだったの。
――私の現在も、あなたの存在も、すべて正しい形から外れてしまったのね。だから私たちは不幸なのよ。
男の子は透明な瞳で母親らしき女性を見つめていた。
――そう、じゃあ、僕が消えればすべて解決するんだね。
ラズが知っているものよりも高い声が、かすかに聞こえてきた。実際に言った言葉というよりも、胸中に渦巻く感情が言葉になったかのようなものだった。
「――これがセツナの過去。セツナの世界……」
力を引き出す際に魂に触れてセツナの過去を垣間見たけれど、一瞬見ただけのものと、実際に目の前に広がって彼がかけられてきた言葉を聞いているのとは、まるで印象が違った。
「そっか。辛かったんだな」
そんな幸薄い少年を、ラズはさらに傷つけた。自殺しようとしたことを、死ねることを、羨ましいとすら思っていた。
「自分が消えれば解決する、か」
だからこの世界から消えることを選び、ラズの前から消えることを選んだ。
――いや。そうさせたのは俺自身だ。
だからもう二度と、そんな選択はさせない。
道を歩いて行くと、周囲の景色が変わっていった。草原。闇で覆われた街。城下町。水晶が飾られた城。遺跡。貴族の館。
どれも見覚えがあるものばかりだ。この世界に召喚したセツナとともに訪れた場所。セツナと歩んできた軌跡がそこにあった。
やがて、祭りの飾り付けがされた街の風景が周囲に広がった。三百年前に炎で焼かれて一度滅びた街。リトが魔王と化した場所だ。
そこにセツナを連れて行けば、なにか反応するかと思った。しかし祭りの日に外に連れ出すと、セツナは周囲の喧騒に驚きながらも祭りを楽しんでいた。
そのときに確信した。セツナはリトの代わりですらない。転生者は前世とは別の存在なのだと。リトではないのなら、傷つけても構わないのではないか、と。
酷い話だ。相手の都合も考えずにこの世界に召喚して、自分の目的のために利用しようとして、勝手に失望した。その挙句に思ったことがそれなのだから。
一瞬、視界が赤く染まった。街が炎に包まれたかのように見え、ラズは目を見開いた。
そして剣で刺されたかのような痛みが、身体を駆け巡った。
「ぐあっ……」
魔術師による回復の魔術と適切な治療がなければ死んでいたほどの怪我の苦痛が、再現される。立っていられず、膝を折って地面に手を突いた。
しかしセツナの精神世界に、ネグロディオスの王がいるはずがない。神の如く振る舞っていたあの王は、あのとき死んだのだから。
ならば、この痛みを呼び起こしたのは――。
「入って来るな」
声が響いた。セツナの声だ。
「僕の心に触れるな」
これまであまり聞いたことがなかった拒絶の言葉が、この空間に反響した。
過去を見るまでもなく、セツナは抑圧された日々を送ってきたのだろうと、一緒に旅をして感じていた。感情をあまり表に出さず、主張が薄く、他者との対立を避けている様子の少年。なにかあっても反撃せず、じっと耐えることを選びそうな性格だと認識していた。
リトにも当てはまる部分はあるが、リトはもっと素直で単純だ。セツナのほうが鬱屈しているように思えた。
魔王城跡地で対決したときしか、セツナが怒りをあらわにしたのを見たことはなかった。だがいま、そのときと同じくらいの怒りの感情を、ぶつけられた。
精神の領域を侵しているのだから、当たり前の反応だ。あるいは――もうラズと顔も合わせたくないのだろうか。会いたくないのだろうか。
それほどまでにセツナを傷つけたというのなら、セツナの意識を戻したら、また傷つけることになるのかもしれない。
それでも、ラズは諦める気はなかった。
息を無理やり整え、額の汗を拭った。
「……そうやって邪魔してくるってことは、こっちに鍵か扉があるってことだな」
地面に血溜まりはできていない。本気でラズをここから追い出すために衝撃を与えたいのなら、心の中の世界における仮の精神体に直接傷を負わせればいいだろうに、そうしなかった。
そこに希望を見出し、ラズは顔を上げた。
「セツナ! 言いたいことがあるなら出てこい! いくらでも聞いてやるし、それに――」
絞り出すように、続けた。
「まず、謝らせてくれ……」
空間を沈黙が支配する。
やがて、ラズの申し出を無視するように、祭りにざわめく街が消えていった。
セツナの声も、もう聞こえなかった。
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