ゆーもれすく

増田朋美

ゆーもれすく

ゆーもれすく

暑いのか寒いのかよくわからない天気ではあるけれど、杉ちゃんたちは、相変わらず元気で、いつもと変わりなく買い物に出たり、料理したり、そういうことをしている日々だった。そういう風に、日常が続いていくことこそ、本当に幸せなのかもしれなかった。

ある日、杉ちゃんと蘭が、いつも通り買い物に行って、さて、帰るかと百貨店を出ようとしていたその時。

「一寸待ってくださいよ。楽譜の返品はできません。楽譜の返品は、著作権の問題から、お断りしています。」

と、百貨店の隣にあった楽器屋から、ご主人のでかい声が聞こえてきたので、杉ちゃんたちは何だと思って、その方向へ行ってみた。

「なんですか。楽譜の返品なんて。音楽が面白くともなかったの?」

杉ちゃんは、変な顔をして楽器屋に入ってみた。楽器屋の中には、店主のおじさんと、一人の若い女性がいた。多分この人が、楽譜の返品を申し入れてきたんだろう。おじさんは困った顔をして、彼女を見つめえていた。

「いやあね、杉ちゃん。この人がねえ、この楽譜を返品したいなんて変な要求を突き付けてくるもんだから、文字通り困ってるの。」

と、店主のおじさんはそういうことを言った。

「一体何の楽譜を返品したいのかな?」

と、杉ちゃんが彼女に聞くと、

「ええ、これです。」

と、彼女は一冊の楽譜を突き出した。なんて書いてあるんだと杉ちゃんが聞くと、ドボルザークのユーモレスクだと店主さんが答えた。

「はあ、そうですかい。ドボルザークのユーモレスクね。面白い曲じゃないか。なんでそれを、返品しようと思ったのかな。」

「そんなこと、どうだっていいじゃありませんか。とにかく、これはもういらなくなったので、返品したいんです。」

と彼女は言った。

「そうだと言っても、楽譜の返品というのはできないよ。それは、認められていないんだから。もういらなくなったなら、返品しないでほかに活用する方法を考えるんだな。」

杉ちゃんは、腕組みをして、そういうことを言った。

「たとえば、こんなところでいうのも難だけどさ、何かのサイトで売ってみるとか。」

「ああそうだ。其れをしてもいいじゃないですか。とにかく楽譜の返品はできないですけど、そういうことをして、売りに出すのも私はいいと思いますよ。そういうやり方でやってもいいですね。杉ちゃん、良いこと言いますな。」

杉ちゃんがそういうと、楽譜屋のおじさんが、そういうことを言った。そんなことをいってくれるなんて、楽譜屋のおじさんは、本当に親切な人だなと思われるのであるが。

「それで、ユーモレスクを必要としている人に渡してください。良かったよかった、そういうサイトがあれば、無駄にならないで済みますね。ああ、良い時代になったものです。本当によかった。」

「ほら、楽器屋のおじさんだって、そういっているんだから、そういうことをやってみるんだな。ほら、何だっけ。あのメルカリというか、何とかというサイト。」

「そうですね。でも、宣伝が入ってくるのは面倒だわね。」

杉ちゃんがそういうと彼女は、嫌そうにそういった。

「だって、アドレスを登録したり、パスワードを登録したり、そういうことが面倒なんですもの。其れに、そのせいで、嫌な思いをしたことだってあるのよ。」

「まあ、そうだけどさあ、逆を言えば、それ以降使わなければいいじゃないか。一度だけ使って、あとはもう使わないってやつは結構いるよ。」

「いったい、なにがあってそういうことをいうんですか?」

と、蘭が、彼女に向かってそう聞いた。

「あなた、そんなにお年寄りでもありませんし、そういうサイトなどが在ったら、喜んで飛びつく年齢でもありますよね。其れなのになんで、そんなに嫌がるのですか?」

「ええだって、、、。」

と、彼女は一寸顔にしわを寄せた。

「はあ、其れが何だっていうんだよ。なんでメルカリとか、そういうものを使いたがらないのか、不思議なもんだぜ。何かインターネットでいやな目にでも合ったのか?」

と、杉ちゃんが聞く。

「ええ、あるんだけど、人には話したくないわ。信じてもらえないでしょうから。」

と、彼女はそういうことをいう。

「人には話したくないって、信じてもらえないって言っても、話してほしいと思うんだけどさ。僕たち、何もしないから、話してもらえないかなあ。」

「杉ちゃん、あんまり人のことについて、ああだこうだと聞くのは、良くないんじゃないと思うんだけど。」

と蘭は、そういうが、杉ちゃんの悪癖はここでも発揮されるものだ。必ず、答えが見つかるまで、いつまでもきくことをやめないのが、杉ちゃんである。

「僕たちは、悪い奴じゃないし、いけないことは何もしないよ。だから、お前さんが何が在ったか、話してくれないかな。」

「そうですよ。今まで、楽譜を返品しようという方は、見たことが在りません。確かに、巻数を間違えて買ったという方は、よくいましたが、そういう方もわざわざ返品には来ませんでした。杉ちゃんの話の通り、メルカリとか、ラクマとかそういう個人で販売するサイトはいっぱいあります。そういうサイトで、おそらく販売したりしているんでしょう。だから、返品に来た何て前代未聞ですよ。そういうことをされたんだから、ちゃんと理由を話してもらいたいものですな。」

今度は、楽譜屋のおじさんまでもが、そういうことを言いだした。それでは、そうか、言わなきゃいけないかという顔をして彼女は、一つ頷き、

「そうね。あたしが、インターネットをあまり使いたくないのは。」

と話し始めた。

「あたしが、まだ学生から卒業したばかりのころ、ちょうど、インターネットのクラウドソーシングというサイトが登場し始めたんだけど。」

確かに、クラウドソーシングというサービスは、最近はやり始めている。其れで、仕事を探そうという人も多いだろう。最近ではそれで生計を立てることができる人も、珍しくはなくなってきている。

「それで私も、クラウドソーシングで、仕事を始めたのよ。確か、料理屋の紹介記事とか、そういう簡単な仕事だったんだけど。其れで、私が記事を書いて納品したら、著作権に引っかかるとか何とか言って、結局承認してもらえなかった。それはよくある事かもしれないけれど、承認されなかったら、違約金を払うようにって、依頼主に詰め寄られて、結局余分に払わなければならなくて。そういう風に怖い思いをしたから、私はインターネットは使いたくないかな。そういうふうに、インターネットでなんでもかんでもって、私はちょっと嫌だというか、苦手よね。まあ、楽譜を返品するのは、単に作品番号を間違えただけの事なんだけどね。でもインターネットを使うのは、苦手だわ。」

はああ、なるほど、と蘭は思った。確かに、そういう思い出があるのなら、インターネットというものが苦手であるということは言えている。

「そうなんだけどねえ。今時ネットを使えないってのは一寸困るんじゃないの?楽譜の返品はできないっていうのも分かってもらわないといけないし、まあ、ほかの方法で、考えるしかないと思うんですが。」

と、杉ちゃんは、嫌そうな顔をして、蘭にいった。

「でも確かに、そういうひどいことをされると、つらい思いをしますよね。それは実質的な人間関係ではなく、インターネットの関係だから、傷ついたのかもしれないじゃないですか。僕は、その気持ちがわからないわけでもないです。それは確かに、傷つきますよ。」

蘭は、彼女に言った。

「僕は、インターネットが嫌いというあなたの気持ちが、なんとなくですけどわかりますよ。確かに

、いま、クラウドソーシングでなんでもっていう時代だけど、そういう悪質なクライエントもいるってことを、知っておかないとだめですね。それは、しっかりと、身に染みてわかっておかないとな。」

「まあ、大きな教訓を得たと思って、頑張りや。これからもお前さんは、そういう風に生きていかなきゃいけないことだって、わかっているんだから。」

杉ちゃんが、でかい声で言った。

「そうね、ありがとう。でも、何だか、あの時の事で、もうインターネットで仕事は、懲り懲りだという気もするけど。」

「そうかもしれないけどさ。前向きにやっていかなきゃ。一度や二度は失敗もするよ。でも、頑張ってやらなくちゃ。しっかりやれ。」

杉ちゃんが、彼女の背中をたたいて励ますが、

「杉ちゃん、一寸だけ、そう思わせてあげようよ。彼女は、きっとそういう事で、傷ついたんだと思うから。」

と、蘭は杉ちゃんにいった。

「あの。」

と、彼女は、蘭に向かって静かに言った。

「そんなこと、いって下さって、ありがとうございました。なんか、そういうこといってくれて、良かったと思います。私、やっぱり返品するの辞めようかな。何だか、お二人の言葉ですごく励まされたの。うれしかったです。ありがとうございました。」

「ああ、ただ、当たり前の事言っただけだい。其れは、悪いことでもなんでもないよ。お前さんは人間を大事にできる、良い奴なんだ。だから、悪質なクライエント見ると嫌になっちゃうんだよな。それは、お前さんの長所としてさ、今度は、そういうところが発揮できる場所で活躍できるといいな。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑った。

「ありがとうございます。今度は、もっとものを大切にします。」

彼女もにこやかに笑い返した。楽譜屋のおじさんが、結局返品しないでよかっあたなあという顔をして、杉ちゃんたちを眺めている。

「じゃあ、金原さん、楽譜の返品はしないでくださいね。」

楽譜屋のおじさんが言うと、

「はい、わかりました。」

と、金原さんと言われた女性は、にこやかに笑って、おじさんに渡された楽譜を受け取った。結局楽譜の返品はしないで済んだのであった。

その数日後、杉ちゃんと蘭が、買い物に出かけて、戻ってきた直後の事であった。杉ちゃんは冷蔵庫に食品を入れて、蘭は、手帳を広げて、予約の確認をしていたその時。

「おーい蘭。一寸風呂貸してくれ。もう寒くてたまらないんだ。」

と、やってきたのは、華岡である。

「いいよ、風呂、湧いているから、急いで入んな。」

と、杉ちゃんがでかい声でいうと華岡は、ああありがとうありがとうと言いながら、風呂に入っていった。

「さて、40分の風呂に入っている間、カレーを作っておくか。」

と、杉ちゃんは、包丁を出して、ニンジンを切り始めた。お風呂場から華岡が、いい湯だななんて、歌っているのが聞こえてくる。

「のんきだな、華岡は。」

と、蘭はあきれていった。杉ちゃんのほうは、牛肉ぶつ切りを、鍋に放り込んで炒め、カレーを煮込み始めた。それを繰り返していると、

「ああー、いい湯だった。ほんと、風呂に入って、気持ちよかったよ。やっぱり風呂はいいねえ。俺んちの風呂は、ユニットバスで、とても浸かってなんかいられないからね。杉ちゃんの家のでっかい風呂桶に浸かって、もうこれ以上の幸せはないな!」

と、華岡が戻ってきた。

「ああお帰り、華岡さん。じゃあ、はい、約束通り、カレーね。」

杉ちゃんは、華岡さんの前に、カレーの器を置いた。

「ああ、ありがとう杉ちゃん。いただきます!」

と、華岡は杉ちゃんからおさじを受け取って、ものすごいい勢いで食べ始めた。その無言で食べるさまが、明らかに腹が減っていることを示していた。

「まったく、其れじゃ、人間ではなくてまるでライオンみたいだな。」

蘭はあきれた顔をして、そういうことを言うが、

「そうだよ。俺は猛獣だ。だって、この前まで、碌なもん食べてなかったんだから。許してくれよ。」

と、華岡は、カレーを食べながらそういうことを言った。

「まあ、そういうということは、重大事件のあった後だな。」

蘭は華岡に言った。

「そうだ。まあ重大事件と言っても自殺だけどね。まあそれでも、俺は、重大事件だと思っているけどね。」

と、華岡は言った。いかにも誰かに話したいという顔をして、華岡はスプーンを持った。

「はあ、まあ頭の中にためておくのもよくないな。それでは、お前さんのたまっているものを話してみてくれ。」

と、杉ちゃんが蘭にいった。

「ああ、とても悲しい事件だった。俺は、なんでこんな事件が起きたのか、不思議で仕方ないんだ。俺は、どんな小さな事件であっても、事件は何か語りかけてくれると思うんだ。今回はそれを、うんと聞かせてくれた事件だと思う。」

華岡は、スプーンを持ちなおして、蘭にいった。

「女性が、自殺したんだ。風呂の中で、首を切って自殺した。後一分早く来てくれたら、助かったかもしれないって、病院の先生言ってた。俺、なんか一寸、ずんと来たよ。俺たちがもっと早く着てやれば、彼女を救うことができたんじゃないかってさ。こういうひとってのは、どういうことだろうかな。一分早ければ、救うことができたというんだから。」

「へえ、なるほどな。その女性というのは、何ていうひとなんだ?何歳くらいの人なんだろうか?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ああ、金原という女の子だ。なんでも、生きることで悩んでいたらしい。誰か彼女に生きていてよかったとか、そういうことは感じさせてもらえなかったのかな。親御さんとか、そういうひとがさ。」

と、華岡は、涙をこぼして泣き始めた。そういう、涙もろいところが、刑事には向かないんじゃないかと言われてしまうところである。

「金原?ちょっと聞きたいんだけど、その女性、音楽でもしていなかっただろうか?」

と蘭が聞くと、

「ああ、趣味的にピアノを習っているみたいだったけど。」

と華岡は蘭にそう返した。

「そうだったんだね。其れであの時、ドボルザークのユーモレスク買ってたのね。」

と、杉ちゃんが、はあとため息をついた。

「それにしてもおかしいな。それでは、彼女、あの時ものを大切にしますっていったよな。その時、自分の命も大切にしようって思わなかったのかな。」

「まあ、そういう事ができないのが、彼女の限界だったんだろうな。」

と蘭は小さな声でつぶやいた。

「それで、彼女のご両親とか、肉親は、彼女の事を、どう思っていたんだろうか。彼女を邪魔者扱いしたり、必要のないもの扱いしたりしていたんだろうか。」

「そうだねえ。多分彼女もそうだったと思うよ。でも、彼女には、通じてなかったんじゃんないかなあ。」

蘭の質問に華岡は答える。

「じゃあ、華岡さん、僕たちも彼女のところに行くことはできないかな。」

不意に杉ちゃんがそういうことを言いだした。杉ちゃんという人は、そうなると言いだしたら聞かない性格なのである。

「もうご遺体は、火葬されてしまっていてもさ、遺骨は残るはずだろ?それに、普通に生きていた人間なら、菩提寺とか、ほかの宗教でも何かいるところがあるはずだよな。其れ、見せてくれないか?」

「そうだね、杉ちゃん。そうしてくれたら、何よりの幸せだよな。」

華岡は、又涙を流すのであった。

「でも、今回の事件で、そうしてもらえるのも、条件付きだっていう時代になったとよくわかるよ。俺は、そういうことを今回の事件ですごく感じたなあ。」

「ちょっと待ってくれ華岡。まさか菩提寺に入れてもらえなかったの?それとも、今はやりの樹木葬とかそういうものになったのか?」

蘭が急いでそういうことを言うと、華岡は、

「ああ、生前の彼女は、ご家族とも意志が伝わらなかったそうだ。重度の精神障害でね。何だか宇宙人がどうのこうのとか、そういうことを口走っていて、音楽だけは彼女に通じるものだったらしい。ピアノをやって、その時だけ、意思の疎通ができたというんだ。」

と、蘭にしみじみ言った。

「彼女の両親は、彼女が自殺して、亡くなったとき、葬儀さえもしなかったそうだ。金原さんの遺体は、直葬という形で葬儀社に送られて、あとどうなっているか、不明だそうだよ。悲しいよね。精神障害ってなると、死んだ後も、そういうことになってしまうんだな。もしかしたら、彼女が逝ってくれて、家族はやっと楽になったと思っているのかなあ。」

「そうか。其れも確かにそうかもしれないな。確かに、そういう女性に、僕も彫ったことあるからな。わかるよ。皆、彼女から離れてしまって、誰も手を差し伸べない、居場所を亡くしたやつでさ。それで、背中に観音様を彫って、それを生きる励みにして生きていくんだって。そういってたよ。」

蘭も一寸涙をこぼして、そういうことを話した。

「なんだろうな。そういうやつっているんだよな。なんかどこかで救いを求める声を出せばさあ、大事な命を落とさないでも済んだんじゃないかっていうやつ。俺、こういう仕事しているけどさ、日増しにそういうやつが増えているような気がしてならないよ。なんというのかなあ。俺は、ほんと、やるせなかったね。」

華岡は、カレーのスプーンを握りしめて、思わずそういうことを言ってしまった。確かに、そうだなろ蘭も思う。

「少なくとも、華岡さんや蘭のような人が居てくれれば、何とか持ち直すんじゃないのかな。少なくとも、僕は、、そういう気がする。利益をどうのこうのとか、そういうことを求め続けるんじゃないって言えるやつらがな。其れを続けていけばいいんじゃないの。」

華岡の話を聞いて、杉ちゃんはそういうことを言った。

「彼女だって、すくなくともお悔やみに来てくれる人が居てくれれば、救われたことにならないかな。なあ、華岡さん、お悔やみに行くことはできないだろうかな?」

と、杉ちゃんがもう一回、そういうことを言った。

「ああそうだね。それももしかしたら、もうちょっと早かったらよかったかもしれないね。」

と、華岡は静かに言うのだった。蘭は、もう杉ちゃん、追及するのはやめようと言った。きっと彼女の家族は、彼女がいたことを忘れたくて、姿を消したのだろう。

「そういうひとは、そうするしか、できないんだろうな。そういう風にしかできなかったんだから、静かにさせてやるのが、僕たちのできることじゃないの?」

蘭は、杉ちゃんと華岡にそういった。それは、誰にでもできることかもしれなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆーもれすく 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る