I.

 I.

 受験の結果は、潤平の〝勝ち〟に終わった。

 潤平は数ヶ月間、物理学、化学、生物学に没頭して過ごし、元々得手だった数学にも磨きをかけ、英語にも研鑽けんさんを積んだため、理科はどの科目をとっても過去問題集では全ての年で満点に近い点数を叩き出せた。潤平は試験が好きだったから、場慣れした浪人生たちでも及びのつかぬ落ち着きで本試験に臨むことができた。潤平は試験の一週間前に札幌入りし、若菜の両親に挨拶してを借り、又目論もくろみどおり合格したあかつきには〝第二の実家〟として世話になる旨を公然と認め、それにいても礼を述べた。若菜の両親はまだふくしている身だったが、若菜の〝未来の旦那〟としての潤平をみて頼もしく思ったらしく、何くれとなく世話を焼いてくれた。潤平は若菜の案内で、冬の街に出ると、北大周辺を歩き廻って、大学構内へ足を踏み入れたり、学生のよく行く飲食店を廻ったりして受験勉強の気散きさんじを図った。潤平は、最後の模試の成績が「B判定」だったのに気をよくして、受験本番は数学では微分・積分と確率・統計の分野に絞って出題されるだろう、とやまをかけていたのだが、いざふたを開けてみるとまさにその予想通りになって、潤平本人もいささか驚いたものである。

「将来は何になるつもりなの、潤平くん?」

 ある時、若菜はそう問うた。潤平は、少しまえに親父も同じことを訊いてきたよな、と重いながら、

「何だろうね」と答えた。「ちょっと前までは、コンピュータの関連で仕事がしたい、と思っていたはずだけど…」

「ウチは翻訳会社だけど、理科系の知識をもった人材も、…欲しいかな」

 若菜の語尾は気弱にしぼむ。

「ぼくが翻訳?」潤平は笑った。「向かないよ、デスク・ワークは。幾らなんでも」

「あら、翻訳するだけじゃなくて、経営する面でも貢献する余地はあるのよ」

「経営なら、小樽に商科大学があるじゃないか」

「まあ、ね」若菜はそれでも食い下がって、「ね、じゃ、何をするつもりなの?」

 潤平はうるさそうに、

っといてよ」と半ば笑って言った。その内、なにかみえて来るだろうし、それを待って過ごすよ」

 けれども、潤平はいま、自分の中のリストで、〝将来〟という欄はブランクになっていることは痛いほどよく分かっていた。潤平は将来をおそれた。未来の到来を、予定の年限の切れることを、スタートを知らせる銃の砲声をおそれた。潤平は将来なしには自分は孤独だろう、と考えた。大学に行けばどのような人間がいるのか、見当もつかないことだったが、潤平は〝将来的な可能性〟を磁気のように帯びた同級生との出逢いも恐ろしかった。

 そして、待ちに待った合格通知がきた。いささか予定調和的な成り行きだったが、潤平は速やかに入学手続きをとった。入学式までまだ日時の余裕があった。そこで潤平は、若菜と語らって温泉へゆくことにした――、積丹半島の付け根に位置するイワナペツ温泉は、宿泊施設はなく、混浴の露天風呂だが、日本海に沈む夕陽を望むと景色がすばらしいということで、若菜は潤平をつれて函館本線の列車(北海道では、電車であっても気動車であっても、又客車列車であっても、全てひとしなみに〝汽車〟と呼ぶことを潤平は初めて知り、おかしかった)に乗った。宿はニセコのペンションに一泊の予約をいれただけで、ほとんど日帰りの旅行である。潤平は若菜と同室しても、同衾どうきんまでするつもりはなく、又若菜もかくべつそういうことに関してこだわりがある様子ではなかったので、潤平はそのまま寝入った。かえって、これから通信制高校に入って高卒資格をとる身の若菜に対して気兼ねがあったが、若菜はそんな気ぶっせいさは覚えないらしく、ごく豁如かつじょとした態度で潤平に接した。そしてふたりは、翌日午後にイワナペツ温泉に入浴した。脱衣所は男女別になっているが、浴槽では混浴であるので、水着が必要だった。外はまだまだ寒く、潤平は凍えそうだったが、若菜はしごく元気な様子だった。潤平の隣に身を滑り込ませると、

「寒いね」と云った。「ねえ?」

「?」

 潤平が疑問符を表した表情を向けると、若菜は、

「潤平くんにとってさあ、人生、って何スか?」

 と問うてきた。潤平は苦笑した。

「何もなにも、だよ。ぼくはまだ僅々きんきん十八年しか生きていない。まだ人生のことなんざ論ずるには早すぎるよ」

「でも、何かあるような気がするんだ、潤平くんにはさ。何か、こう、深いものが…」

「そうだな…」潤平は中有ちゅううにらんだ。そして、「人生は…、ぼくにとっては、少しものがなしい音楽のようなもの、かな」

「ほら、言えるじゃない」若菜はほかに相客あいきゃくのいない気軽さで、手を叩いた。「潤平くんは、おつかまえて化学なんてやるクチじゃないと思うな」

「じゃあ、何が向いてるんだよ?」

 若菜は肩をすくめた。

「ご免、あたしにもその先はわかんないや」

 と言うのでその話は沙汰止さたやみとなった。潤平のほうでは特にこれといって話したい内容も対象もなかったので、半ば惘然ぼうぜんとして湯に浸かり、湯中ゆあたりする直前に上がった。若菜も間もなく湯から出た。ふたりは取り立てて喧嘩をしたという訳でもなかったが、帰りは無口な旅路となった。

 そして入学式が挙行された。潤平は大輔、千鶴子のふたりと共に大学の体育館で行われた式に出席した。若菜は大学の門までは付き添ってきたが、中には這入はいろうとしなかった。理由を問うと、

「またあたしは、自分で来ることもあると思うし」

 と云って照れたように笑ってみせた。

 潤平たちはクラスごとに別れてオリエンテーションを受けることになった。潤平たち化学科に進学するクラスは「19組」と区分されていた。指定された教室へゆくと、担任教官(界面化学かいめんかがく研究室の担当だった)のほか、大学生協の係りになっている学生や、〝ボロ羽織ばおり〟と俗称ぞくしょうがついている体育会応援団の学生(この学生は、いま自分は七年生だが、と自己紹介したが、北大には●年目×年、という云い方があり、留年して好きなことに打ち込むという独特の文化ができていた)もいて、ひろく体育会への勧誘を呼び掛けていた。

 それが済むと潤平たちは簡単に自己紹介をしあって、生協関係の役員(仮総代やクラス委員を決めるようがあった)を自主的な立候補により選別し、しかる後に一応その場は済んで、解散になった。

 潤平に初めての箴言しんげん・或いは警句けいくが訪れたのは、その晩のことである。

 潤平は宮下家で晩餐を終えると、父に勧められて断りきれずコニャックを一杯か二杯付き合い、「これからあんたは出世するんだから」という言葉をいやというほど聞かされて、散々さんざんくたびれて自分用に宛われた部屋へ引き取った時のことだ。

 実家から運んできたノートPCを前にし、ブラウザで、若菜から聞いた〝おいしい札幌ラーメンの店〟に就いて検索しようかと考えていた時、突然手が動いた。自分でもほとんど気づかぬ間にワープロ・ソフトを起動していて、半ば自動筆記のように書いたのだ。

 すなわち、

「マーケットでは、多少アクが強くても、個性を備えたものが結局は勝利し、そうしたものはしばしばよく売れて勝ち残り、又伝播でんぱされるのだ。」

 という文言であった――。

 潤平はすぐには自分が一体何を書いたのか把握できず、いやそればかりか今自分は何をやったのだろうか、とまずいぶかしむ始末で、ディスプレイに浮かぶ文句をみても、さては今夜はちょっと過ぎたのだな、と考えたほどだった。

 けれども、ほとんど動物的といってもいい勘で、かかる文言を保存しておくだけの分別はついたので、これは後刻ごこく潤平が立身するに当たっての、主として心理的な面での重要な布石ふせきとなったのだった。

 気懸きがかりだったので、潤平はこの文句を翌朝、若菜や父親らにみせたが、だれも潤平の書いたものだとは信じなかった。ただ若菜は、

「まあ、潤平くんはこの年にしてはませてるから、こういう警句みたいのをろうすることはあるかも知れない、とは思うけど、今回のはやりすぎ」

 と言って笑ったのだった。潤平はその対応に然るべきだ、と考え、腹が立つ気にもならなかった。けれど、妙にこの言葉が引っかかっていたことはたしかだった。

 間もなくして講義が始まり、潤平ら新入生はまず南北に長い大学構内のいちばん北部にある、教養部で講義を受けることになった。学科の必須科目のほとんどと、それ以外の選択して履修する全学共通科目など講義を受講し、単位を取得するのである。潤平は何となく選択科目の中に〝哲学〟の講義を登録していた。べつに〝論理学〟という講義も履修登録していたが、これとは違う。又、〝ラテン語〟の講座も登録してあった。

 そうした布陣ふじんの潤平の学生生活では、講義と新しく加入したサークルなり部活動なりの活動が主になる。潤平は何のクラブにも属さなかったので、講義を受けてノートを取り、新しい「19組」で一緒になった同級生とたまに酒を飲んだりして過ごす活動が主になった。

 その中で、一回北十八条の居酒屋で、クラス担任も交えて飲み会がもたれたことがあり、潤平はその場で、教官の小田先生にうっかりそのノートのことを口吻に洩らしてしまった。

 小田先生は、酒席のこともあったのか、

「ほう、どんなものか、今度一回みせてくれよ」

 と云ってくれ、それで潤平のささやかな自尊心も満足したのだが、その次の〝化学〟の講義でも、終了後に先生は、シュレーディンガー方程式を解説してチョークの粉で汚れた手を拭きながら、教場を出ようとしている潤平を呼び止め、

「きみ、あのノート、持ってきたか」

 と訊かれた時には、一体何のことを話しているのか、一瞬見当もつかなかったほどだったのだ。潤平は一度聞き返して、例の〝ノート〟のことだと知り、恥ずかしくてあかくなったが、小田先生は、

「今度、よかったら是非みせてくれ」

 と潤平の眼をみて言うので、潤平も折れて素直に持って行くよりほかになかった。

 それでも、箴言しんげんはいいが、たった一句では按配あんばいが悪いというので、何かないか…、と思ってPCに向かったとき、天啓てんけいのように文句が降りてきた。

「ヒトがヒトとして、ヒトなりに日々の食物や飲み水を必要としているのと同様に、霊たちも又、霊向けの飲み物や食物を欲している。」

 潤平としては、この辺はどうもあの〝ユーグレナ〟と〝レパブリク〟の両先生による影響下にあることが割と強くにじみ出ているのではないか…、と自戒じかいを込めてノートはみせずに済ませようか、とも思ったのだが、あれだけせっつかれると出さないのもまた具合が悪いもので、詮方せんかたなしに持っていった。

 すると、小田先生は望外に喜んでくださり、

「いや、きみもこういうものを書くのなら、いっぱしの哲学者だね」

 と言葉をかけてくれたのだった。潤平は、

「いや、ぼくは別に深い考えもなくやっているもので……」

 と弁解するようなことを言ったが、

たかけたら、みせてくれよ、ぜひ」

 と熱心に請われるので、うべなってしまった。

 そうなるとプレッシャーを感じて書けなくなるのが常だが、そういう気負いのないこともくみしたのか、不思議と潤平には妙な圧力を感ずることはほとんどなかった。

 夜、しじまの中に一人で静座せいざしていると、しぜんと天恵てんけいがひらめき、脳で受け取るというよりは手先、指先で感知して勝手に手が動く、息吹と同じように言葉が漏れる、といった感覚が潤平にとってより精確な表現であった。潤平は自宅、東区北二二条の宮下家内に宛われている自室に落ち着いてその日の講義の温習おさらいをし、明日の講義の下読みをする合間をみてPCに手をおいた――、考えると不思議なことだが、潤平の〝詩聖しせい〟とでも呼ぶべき資質は、コンピュータを前にしていない時には発動しなかった。みな、何かの事情や都合でコンピュータ、PCでもマッキントッシュでも構わなかったが、兎も角パーソナル・コンピュータに触れているような時でなければ、〝箴言しんげん〟はうかばなかった。

 そうやって潤平は、一つずつ詩句しくをひねり出すように自分と対峙して言葉を得ていった。

「教育は家庭や学校だけで終わってしまうものではなく、時に社会においてより歪められた形の教えを洗礼のように受けることもある。」

 潤平は別に、啓蒙家けいもうかを気取るわけではなく、又自分が特別なゲイジュツカであり特殊な才能を有する者である、などという思い上がった感慨かんがいも抱いていなかった。ただ偏に、〝自分自身でありたい〟、〝自分らしく生きたい〟という願いがあるだけで、それを根底にして潤平の精神は機動していた、といってよい。どこに暮らす・なにをして生きる・幾ら金をとる、といったような俗事ぞくじは全て潤平の判断機能の外であり、だから潤平はある面では非常な倹約家けんやくかであり、又同時に他方ではとんでもない浪費家ろうひかであった。潤平は二面性を生きていた。

 そして、その潤平が初めて「自分らしく生きられているようだ」と感じたのは、小田先生の強いすすめに従って、自分でブログを運営しだした時の辺りである。自分でブログをもち、インターネットを使って発信する、つまり日本語が通じるならば全世界に向けて情報を述べ伝えることになるのだが、それが又転機となって、潤平に新しい刺戟しげきを与えたのだった。

 潤平には全か無か、そのどちらかしかなかった。中間の半端な数値はすべて無視してしまっている。それでも潤平は、それをいさぎよしとして委細構わなかった。

「久しく逢う機会のなかった古い友と話すときは、すぐ久闊きゅうかつじょするのではなく、少し頃合いを見計らって、濁った泥水を澄ませるように、全ての誤解や混乱が大きく取り上げられないような具合で少しずつ口をひらくのがよい。」

 少しずつ潤平の許には反響のメールやツィートが寄せられるようになった。それと同時に潤平は又書き手として新たに影響を受けることになり、詩作も新たな方面へと向かうことになった。潤平は手許にとどく反響の声には――、中にはソマリアの大学教授や、ワシントンDCの弁護士までいたが、そういった人びとの声には、自分に好意的な声にも、批判的・懐疑的な声にも、わけへだてなく公平に時間を割いて真摯しんし返辞へんじを送ったが、それがた潤平のこの分野での評価・月旦げったんを揺るぎないものに仕立て上げた。潤平は正直な話、自分が余り好きではなかった。だから、ボディビルダーという職業から〝破門〟を申し渡されたとき、しょうじき、ほっとしたというのが包み隠さぬ潤平の心情だった。潤平も、ボディビルをやるにはナルシシズムが大切らしい、ということくらいはよく分かっていたのである。

 潤平は、〝自然に、自然に〟という言葉が好きだった。何はともあれ自然に。この考えが潤平の(そういってよければ)思想・思索の世界の通底をなしているといってよかった。

 潤平は又、学校の教科書ばかりではなく、時間があれば図書館に籠もって哲学書を読み耽るようになった。自宅の部屋の本箱には、いつかニーチェやキルケゴールやカントや三木清みききよしといった先哲せんてつの著作が並ぶことになった。けれども、潤平は頭でっかちになることを好まず、時間があれば級友との好誼こうぎにも積極的で、ジンパ(北大構内の芝地で、七輪を囲み肉を焼くジンギスカン・パーティ)でビールを飲み、酔っ払っては放歌高吟ほうかこうぎんすることもあった。潤平は、ラテン語の「Carpe diem.(その日を愉しめ)」という句を座右の銘にしていたが、それをいつでも忘れることがなかった。

「家事は見晴るかす限りの敵軍の群を前にしている心構えで取り組め。」

 潤平は自転車は使わずに歩いて移動した。自転車は、「せせこましい乗り物だから」として好まなかったのである。歩いていると、秋になると、大学を南北に一・二キロに亘って貫くメイン・ストリート沿いに植わっている銀杏いちょうの紅葉と落葉、それから銀杏ぎんなんもみられるから、と云って、何度薦められても、「自転車はよく盗まれたりするし、そうなるとた厄介だから」などといい、とうとう乗ることがなかった。自宅からは徒歩と地下鉄とで通学していた。そうして飄々ひょうひょうとしていながら、心中ではいつでも何か〝ゲーム〟をこさえてそれに興じ、電子計算機室ではジョーク・プログラムを仕掛けた張本人としてもう少し、すんでの所で学内の調査委に召還しょうかんされるところだった(が、何とかその仕儀しぎまぬがれた)。その辺を除けば、潤平は七年も八年もかけて卒業してゆく〝剛の者〟とは趣を異にして、きちんと単位を取得し、順調に四年間で卒業できるペースで進級していた(北大では、〝表裏八年〟といって、同一学年は二回まで繰り返してよい、との学則を利用し、一年間は普通の学生として単位を取得し、次の一年間は一年間休学して好きなことに打ち込み…、というコースを繰り返して、修学年限の限界である八年間をフルに活用して卒業してゆく学生が余り珍しくない。休学期間中は学費も一切かからぬので、親などを丸め込むのも比較的たやすいものと思われる)。

「大きな男と付き合うことになった時は、中にいる小人を相手にするつもりで相手にせよ。」

 潤平は学内では、まず優等生のうちに入った。北大では、成績通知票の上で〝優〟とか〝良〟の多い優等な学生を〝健康優良児〟と俗に呼び、逆に落第ぎりぎりのところにいたり、落第してしまった学生は〝可不可カフカ〟と呼んでいる。潤平は前者に入るが、潤平自身としては、やるべきことをやっているだけの話で、取り立てて特別なこと・努力をしているつもりはまるでなかった。それでも、級友のひとりが精神疾患のため落第しそうであることを聞き知ると、その学生の意向を確かめたうえで、みなで署名運動を起こして落第から救ってやったことがあった。それにいても潤平自身は、「友人として当たり前のことをしただけのことで、取り立てて特別なことをしたおぼえはない」と語るに留めている。潤平はどんなに執筆で多忙なときであっても、必ず講義にははしょらずに出席し、きちんと板書ばんしょをとった。時おりノートを貸して欲しいと頼まれることもあったが、それもそのはずで、ノートはとても几帳面に書き込まれていた。

「免許が欲しければ勉強が第一だが、異性と付き合う免許だけは処女・童貞を失っただけでは取れないこともある。」

 やがて、潤平の周囲では潤平を一種の〝教祖〟のごとく祭り上げる運動・機運が高まってきたが、潤平はそれに必ずしも乗り地ではなかったようだ。潤平も、ジェフ・ベックのいうような、「自分は、アイスクリーム屋の〝今月のフレイヴァー〟みたいなヒット作がなかったからこそ、こうして生き長らえてこられたんだ」というコメントをとても重くみており、時好じこうとうじて時流じりゅう寵児ちょうじになるのは簡単だが、そうなると又忘れ去られ、捨て去られるのも早い、と考えていた。では潤平はどう生きたい・自分をどうしたい、と考えていたのか。それに就いては、比較的雄弁にその答えを物語る箴言がある。

「常に望みは高く保て。たとえその望みの高みの所為で墜ちてしまうことになったとしても、何も望まなかったよりは遙かにましである。」

「あるひとに与えられる苦艱くかんの量と大きさは、そのひとの対負荷許容量に応じて決まる。しかし一定以上の負荷を加えられた場合、人間には〝狂気に陥る〟という選択肢もあるということを忘れてはならない。」

「芸術は人生の反映である。又、人生とは一個の芸術作品そのものである。」

 潤平の人生観とは、以上のようなものであった。潤平は又、「素早く人口に膾炙かいしゃしてその上で速やかに忘れ去られるよりは、晦渋かいじゅう文言もんごんで君臨して死後百年目に理解される方が、まだましだ」とも語っている。一見、潤平の人生は派手できらびやかなものと受け取られがちだが、それは潤平の一面しかみていないがために起こす蹉跌さてつのようなもので、実際の潤平は非常に地に足の着いた、堅実な生き方をする人間であった。

 潤平にとって愛は何だったのか、といえば、若菜がそのものだった、ということができるだろう。潤平は、宮下若菜に就いては、「まるで腐れ縁のような関係をむすんでいる」とインタヴュアーに答えている英字誌も存在するが、具体的にだれを愛したのか、といえば答えは宮下若菜しかいなかった、という辺りが正鵠せいこくを射ているだろう。潤平は愛情と性慾せいよくとを等価交換にはしなかった。これは、生きている潤平の美徳としては最たるものであり、潤平の倫理観もこの辺に伺えようというものだ。

「過度な貞節とは、屡々しばしば、著しい不貞の裏地をなすものである。」

 潤平の、自分名義での最初の本が出版されたのは潤平が二十歳のときであった。潤平は道内いくつかのTV局で取材をうけ、幾らかTV番組にも出演して、ウェブに通暁つうぎょうしていない年上の階層の人びとにも少しずつ名が知られるようになっていたのだが、話をもってきたのは、そのような一聯いちれんの活動で世話をかけたディレクターのひとりであった。本を出すことには余り乗り地ではない潤平が渋るのを前にして、

「いまここで本を出すというのは、後々ぜったい経験として生きてきますから。損にはならないですよ。それだけは確実にいえます。これまでの活動の集大成、という意味でも値打ちがあると思いますがね」

 とディレクターは長広舌ちょうこうぜつをふるい、潤平を不承ふしょうさせたのであった(ディレクターはそのSという東京の出版社とは金銭的な利害関係にあったのだが、それが分かったのは後年のことである)。そんな経緯いきさつで潤平の最初の著作「開口一声」はS社から刊行された。前評判はさほどでもなかったのだが、評判が評判を産んで噂が噂を呼ぶ、といった按配あんばいに読者が等比級数とうひきゅうすうなみの速さで雪だるま式に増え、今年のベストセラー、とまで云い切る書肆しょしまで出る始末だった。

「恋は本質的に生モノだということにかけては、ライヴ録音の即興性と非常に似通ったところがある。」

 潤平はしかし、そういう自分の身の上の禍福かふくには、あまり頓着とんじゃくしなかった。「ひとの人生なんて、あざなえる縄のごとし、と云うからね。余り当てにしてないよ」というのが、感想を聞かれた際に潤平が決まって口にする言葉だった。どんなに本が売れても、実に謙虚に、さも自分の人生のことなど等閑なおざりしてしまっても構わないのだ、といった、ある種無関心な態度で暮らしているので、それをみたひとの中には、あれは少しおかしいのじゃないか、といい出すのがいたが、潤平の本心は、といえば、まあこれだけ本は売れても、きちんと税金ではとられるしね、といった辺りだったようである。実際、その年潤平はきちんと申告したが、税金では壱千万円ほどもとられたという。潤平としては、あれこれ騒がれて税金の面に至るでまでご丁寧・ご親切に関心をもたれやきもきと心配され…、という暮らしよりは、静かに地道にブログを更新して日々を送るほうが気楽だったのに相違ない。

宿借やどかりが自分に合わせた殻を見つけるごとく、総体的にみてあるひとには、自分にあつらきの命運が待ち構えている、換言すれば、運命は誂え向きの殻を用意しているものだ。」

 そういう生活を送っていると、しぜん潤平の周りには、顔見知りや知己が増えてきた。潤平は本来あまり社交的な性格ではなかったので、余り他人には気を許さず、独りで行動することを好んだが、こうやって名が拡まってしまうと、それとうまく折り合いをつけて暮らすしかなかった。おだてに乗ってTVに出たのがまずかったか、まあ何にしろ自業自得だな、物事は全て諸刃もろはやいばだ、と潤平は半ば自らにいい聞かせて自分を慰撫いぶしたが、時折我慢ならなくなると、休日の朝ひょいと〝汽車〟に乗って、石狩月形いしかりつきがただとか、愛別あいべつだとか、智恵文ちえぶんとかいう無人の寂れた駅までわざわざ出向いていって一日を過ごして帰って来ることがあった。潤平に云わせると、それは〝誂え向きのリフレッシュ法〟なのだそうである。

 潤平を一種の教祖のように捉えてとしてあがめたてまつる一部の分子からみれば、そういう潤平の一種自己逃避的な行動は、さぞかし疑問として映じたことであろうが、潤平としては背に腹の替えられないところだったようである。

「多くの口を、質でも量でも満足させるのは至難の業である。」

 潤平のそういった生活全般は、俯瞰ふかんしてみると一種異様で、非常に偏っており、かつある点では不健康なものだったが、潤平は、「どんな人生であっても得失とくしつがあることでは変わりがない」と云って甘受した。ある時、若菜から、どうしてこういう文言を吐けるようになったのか、と問われた潤平は、それはたぶん、ウェブの所為せいだろう、と答えた。インターネットがあるからこそ、いまの自分もあるのだ、と云って、この無形の・とめどもなく拡がる世界を愛おしむかのようにディスプレイを愛撫した。

 若菜には初め、この文句の意味がわからなかったが、ある時潤平が書き散らした草稿をみて得心がいった。

「コンピュータはひとを孤独にする。そしてウェブ(インターネット空間)とは、ひとの無意識世界の反映である。」

 以下、最後に潤平の語録を参考程度に幾らか付しておく。

「女も男もそれなりにきたないが、女のきたなさは多くの場合自分の血に因があるのに対し男のそれは主として自分の生き様・生き方にるものである。」

「めがねを掛けて鏡を覗くと、自分の地の醜さがよく分かる。」

「素顔には、朝の素顔、夜の素顔、そして深夜の素顔の三つがある。」

「精神的な運命と、肉体に刻印された宿命とは、しばしば符合している。」

「言葉は文字通り言の葉、ひとひらの価値しかない。真にクラフト(力)をもつのは、行い、行為そのものである。」

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爽昧マッチョ・ボーイ 深町桂介 @Allen_Lanier

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