H.

 それで黒田は時折フォークで皿の上のソーセージをつついたり、スプーンでスープをかき混ぜたりしながら、訥々とつとつと話した――。それによると、申し出るのがこんなに遅くなってしまい、本当に申し訳ないのであるが、潤平のウォークマンがぬすまれて消えた一義いちぎには実は黒田もかなり深く関与している(但し、どの程度まで関与していたのかにいては言わなかった。又潤平も、話はもう過去のことであるし、黒田にも謝意しゃいのあることはよく承知していたので、鷹揚おうようにかまえ不問ふもんすことにした)、その背景には、あの最近出現した占い師の〝レパブリク先生〟の意図があって、あの窃盗事件も実は〝レパブリク先生〟の指示・差し金で起こしたものなのである、該先生がいせんせいは、占術・呪術にくらい黒田にはよくわからぬ話になるのだが、ウォークマンを一種の〝わら〟として使い、どうやら潤平にはある種の呪いをかけたものらしい、その理由は、どうやら、潤平が〝ユーグレナ先生〟との関係を解消しようとせず、いつまでもぐずぐずと繋がっていることに焦れったくなったもののようだ、ウォークマンにはある種の特殊なファイルが仕込まれており、再生時にサブリミナルな効果を発するそのファイルによって、潤平の脳髄と身体には決定的かつ不可逆的ふかぎゃくてきな影響が及ぶように設定されている、それはけだし潤平の筋肉・肉体・身体に関するものだろう、恐らく潤平の身体には、向後こうごまともにウェイト・トレーニングを続けても、常人じょうじん並みに筋肉のつくことはもうないのではあるまいか、これは自分も係わっていることであるので大変申し訳ないのだが、自分も不勉強ふべんきょうの身なので技術的・専門的な質問には返答しかねる、恐らく当の〝レパブリク先生〟本人にたしかめてもむだではあるまいか、以上、先生本人にはかたく口止めされているのだが、このまま能登のとに帰ってしまうのも忍びなく、又後うしがみを引かれるところもあるので最後にこれだけ白状して立ち去るつもりなのだ、――といったことであった。潤平は珈琲コーヒーを飲みながら黙って話を聞いていたが、罪悪感からか伏し目がちになる黒田の〝報告〟が済むと、こと

「信じられないね」

 と云った。

「だけど、……客観的真実です」

「まあ、ぼくの身体に肉が付きにくくなっているのはたしかだけど…」

「つまり、坊ちゃんは、〝レパブリク先生〟の呪いで、一種不能ふのうになっている、ということなんですよ」

「うん。そうらしいね。それは、分かる。分からないのは、そんなことをしてまでぼくを追いつめる理由がどこにあるのか、ということだよ」

「理由は、お聞きになりたいですか?」

「ああ、是非拝聴はいちょうしたいね」

嫉妬しっとです」

 潤平は眉を上げた。

嫉妬しっと?」思わず笑い出したいのをこらえ、「ぼくは平凡な男だよ。ねたむにあたいしない」

「〝レパブリク先生〟は、身体がご不自由なのです」黒田はしんぼう強くいう。「坊ちゃんのように、若く健康的で五体満足の方には羨望せんぼう嫉妬しっとを感じるらしいのですよ」

「ふうん…、ま、いいけど」

「ワタシは、もうここを去ります。もう二度とここには帰らないでしょう」

「ああ。元気でやりなよ」

 と潤平は黒田をみて、汪然おうぜんとしているのに気づいた。

 ――ゲッ、野郎の涙かよ。気色きしょくワリィや。

「――坊ちゃんも、お元気で」

 そう言いおくと、黒田も去った。それはそれでよいが、よくない・一筋縄ひとすじなわでもいかないのは潤平の肉体のほうだった。初め、ほかの多くの者でもそうするであろうように、潤平も黒田の言説げんせつ言下げんかにてんから否定した。つまり、信じなかったのである。そうすることでえず(いっときは、だが)不安感は薄れ、より建設的で前向きな行為、すなわちウェイト・トレにはげむ気力が生じた。けれども、いく週間続けてハード・ワークに従事じゅうじし、一〇〇キロ以上の負荷を軽々かるがると扱えるようになっても自分の体型にはいかんとも変化がなく、相変わらず〝少し筋肉張きんにくばったダヴィデ像〟という見かけから脱却だっきゃくしない、という厳然げんぜんとした事実を突きつけられたとき、潤平はおのずから限界をさとった。そして潤平を見舞ったのは激しいいきどおりとうらみの感情である。だが、潤平はこれらもトレーニングという形に昇華しょうかしてしまい、結句潤平はよほど強い筋肉痛に見舞みまわれている時でなければ、四六時中スタジオにこもるようになった。そのお蔭で若菜とは親しく口を利くようになり、潤平もその方面ではある種満足を覚えていたのだけれど、肝腎かんじんのボディビルディングの方面ではからっきしだった。それに潤平は強いフラストレーションを覚えた。そして、どうにかしてもっと強くなりたい、〝レパブリク先生〟もなく〝ユーグレナ先生〟もない、そんな世界に行きたい、とつよく思った。そういう思いは、んでいる時も地にいるときも同じように強かった。が、ともあれ急行〝たいしゃく〟は終点だろうか、ごとごと揺れながら林米りんまい駅に入線した。潤平は気動車の屋上でベンチレータにしがみつきながら、頭上に張ってある架線かせんをじっとみた。そして、次の瞬間、やおら立ち上がったかと思うと唐突とうとつにガッと口を開けて架線に取りつき、バリバリ、バシバシと奔流ほんりゅうとなってそこにちている電気を身体に取り込んだ――、最初はしびれるかと危惧きぐしたが、最初幾らか心臓が痛んだていどで、大過たいかなかった。取り入れた電気は、すべて肝臓に蓄電ちくでんされるようだった。潤平はしきりそうやって体内に電気を取り入れると、満足してキハ20形の屋上から、プラットフォーム上に飛び降りた。ここでもあちこちでレーザー光線が宙を飛び交い、夜の虚空こくうにいのちを燃やす線条せんじょうを残しては消えてゆく。潤平は、こんなところで油を売っていないで早くだれかに加勢しなくては、と思った――いまでは、不思議と〝ユーグレナ先生〟の側に荷担かたんすることで忸怩じくじとする思いはごうもなかった。その訳合わけあいについては幾らか考えるところがありそうだったが、時間がかかりそうだったので、止めておいた。見回すと、対向するフォームにキハ71系〝ゆふいんの森〟が停まっていた。金に縁取ふちどられた濃緑の車体が重く沈んでいる。ハイデッカーの四輛編成だが、潤平はその妙に寡黙かもくなたたずまいが気になった。タラップに足をかけると、ドアは手で動いた。潤平はそっと中に忍び込んだ。潜り込んだのは何号車だったのかはっきりと分からないが、ミニサロンが設置されていた。もっとも、いまは無人で飲食物は一切買うことができない。――と、前方(というのは潤平の進路からみて、という話で、必ずしも一号車の方面で、という意味ではない)で、何かの物音がしたので潤平は身構えた。丸腰で、武器はなにも携帯していない。〝気〟を吐くことはできるが、あれはあくまでも開放された空間で用いるべきものであり、こういった密室でつかうと、逆に潤平自身もダメージをらうおそれがあり、それは避けたかった。潤平は、木目調のデザインで統一されているくらい列車内を一歩いっぽ着実に進んだ。何かがこの列車内にあるとすれば、それはりもなおさず、この列車に単なる列車として以外の、何らかの役割が振り分けられている、つまりより聯中れんちゅうの〝中枢〟に近い位地にあるものだという可能性が高くなるので、それならいち早くこれを撃破しておくに越したことはない、と思ったのだ。潤平はすり足でゆっくりとしかし着実に進んだ。一輛過ぎると、列車の継ぎ目で大きく息を吸い込み、おさおさ用心をおこたりなくして、気合いを入れ次の車輛の戸を開ける。――すると、そこにそれはあった。それは硝子ガラスの球体であった。だが、表面には地図のような彫刻が施されているのが薄暗がりでもわかる。その光源は球体の内部に蔵されているようだった。控え目な間接照明のような光がこぼれている程度で、大した明るさではないが、ここの暗さを考えにいれると、潤平の足許あしもとに自分の影が落ちているのをみて、うなずけけるものであった。そして、その球体の表面には、赤い輝点きてんがいくつも浮かんでいて、それぞれは点滅したり点灯したりさまざまだったが、どうやら地図上の都市かなにかを指し示しているらしい。けれども、潤平の心をとらえたのは、その幻想的な光景でもあやしい光芒こうぼうでも何でもなく、ただ一つの実際的な疑問(何でこんなものがこんなとこにあるんだぁ?)であった。潤平は眼を細めたりしてその球体をじろじろ眺めたが、疑問は解けなかった。けれども、だんだんみている内に、それが何らかのメッセージのようなものを送信しているらしいことは漠然ばくぜんと分かってきた。ただ、一体どのような・何のための・誰に宛てた・どこに送るものなのか、までは皆目かいもく見当がつかなかった。それでも、一応敵対している勢力に向けてのものであるらしい・たぶんそうなのだろうな、ということも見当がついたので、潤平はたしばらく逡巡しゅんじゅんしたのち、結果的にそれを破壊することに決めた。どのように壊すか…、潤平にはやはりどうとも決心は付かなかったのだけれど、結局〝気〟を最小出力に抑えて使えば何らかの好ましい結果は得られるのではないか、と潤平は想像した。想定しうる副作用や反作用はんさよう、反動なども計算してみたけれど、とにかく〝気〟を弱めに出せば、一応は使用者つまり潤平みずからが被害に遭う確率は可能な限り低く抑えられるだろう、と見積もられたので、潤平はわずかに口を開けていつでも〝気〟を射出しゃしゅつすることが、あたうように準備をした。幸いなことだが、この暗い列車は動く気配をみせなかった。潤平は〝気〟を口の中に集め、口吻こうふんは細目に開けて発射する準備段階にはいった。念のため三歩、四歩…、と遠ざかって距離をおき、視線を球体の高さに合わせてそろえ、頃合ころあいを見計らうと、三、二、一、〇、とタイミングを計って〝気〟をそっとぶつけた。――すると、球体には当たったのだが、少し土台の上で揺れただけで、なにも起きなかった。たしかに当たったことは命中したのだが、どうやら力が足りなかったようだ。そこで潤平は、今度はやや強めにぶつけてみることにした。たタイミングをとって、今度は前回よりも少し強めて〝気〟を放出する。すると、今度はうまくいった。すさまじい破裂音をあげて、球体は粉みじんになったのだ。辺りにはガラスの粉が飛び散り、眼に入ると面白くないことになりそうだったので、潤平は三舎さんしゃけて退却たいきゃくした。が、潤平にも、たしかに自分はここへ来て何かの仕事をしたのだな、という思いは湧いたのだった。粉塵ふんじんの飛散が一段落ついた頃に車輛に戻ると、球体のあった辺りには丸く暗い穴が空いており、中をのぞき込むとひゅうひゅうと頬に風が当たった。それだけで、中は真っ暗だった。光も届かないのかもしれなかった。潤平はそれ以上追うのを止し、キハ71系気動車〝ゆふいんの森〟は去ることに決めた。プラットフォームに出ると、ちょうど列車は入れ換えが済んだところらしく、〝ゆふいんの森〟以外の列車は見あたらなかった。この林米りんまい駅にもヤード、操車場があるが、そちらには短い列車、長いもの、と何本か月光を受けて留置されていた。短いのはグリーンとホワイトのツートン・カラーに塗り分けられたキハ58系急行〝よねしろ〟で、長いのは濃緑のうりょくに金帯を巻いた24系25形客車による寝台特急〝トワイライトエクスプレス〟だろう、と見当がついた(両方とも叔父さんの家でみた記憶がある)。だが、どの列車に砲台がついているのか、までは分からなかった。虚空こくうには時折レーザーの条線じょうせんが走っていたが……。潤平は人気ひとけのないプラットフォームで、途方に暮れて立ち尽くした。そもそも、一体自分は何のために戦っているのだ? 訳の分からぬ戦いに〝ユーグレナ先生〟だか〝レパブリク先生〟だかの気まぐれで巻き込まれ、こうして苦労しなければならないなんていうのは、どう考えても不条理だ。筋道が立たないのである。こんな戦争に大義たいぎはない。あるのは思いこみで作り出したものが急に具現化ぐげんかした〝仮想敵かそうてき〟だけだ……。潤平はその辺をうろうろ歩きながら考えた。けれども、幾ら考えたところで、潤平をここへ連れ込んだ人物がだれであれ、そのひとは恐らく潤平のことをたやすくは解放してはくれないだろう、ということも大体あきらかにわかったので、歩調はだんだん緩慢かんまんな、力の抜けたものになり、とうとう足を止めた。

 ――と、潤平の背後でひとの気配があって、

「あなたはよく戦ったよ。だけど、こうなっちゃあ、おしまいだね」

 と女の声が云った。潤平が振り向くと、スーツを着た若い女が立っていた。

「……―」

「あなたは〝カッツェ〟の方ね。――いえ、みればだいたい分かるわ。……あ、申し遅れました、あたしはこの林米駅の車輛統轄しゃりょうとうかつ部長ぶちょうをしている、すずきです」

 と名乗って女は一揖いちゆうした。潤平が、

「あ、じゃあ…」

 と云い差すとかぶりを振って、

「いえ、あたしはあなた方の呼ぶ〝フント〟ではないわ。あたしども、十三湖とみこ鉄道てつどうは、この戦いでは中立勢力なのよ」

 潤平は眼を丸くした。

「はあ、それじゃあさぞご迷惑でしょう」

「いいえ、そうでもないわ。もっとも、沿線住民はみな自分の家にとじこもって出てこないけど」

「だけど――」と潤平はその辺の設備を指した。「駅も列車も、みなフントの側に協力しているようにみえますけど?」

「そうみえるでしょう」とすずきは落ち着き払っていう。「だけど、コンピュータ・システムはカッツェの方に供出しているのよ。これでおあいこね」

「つまり、オンライン・ネットワークを?」

「そうよ」

 潤平は笑った。

「ネットワークを作るのに長けているのはフントの方だ。カッツェは孤立的な戦い方をする集団だよ」

「それが、そうでもないのよ」すずきは言うた。「あなた方に微妙な動き方の指令をだすときにもあたしたちのネットワークは有効に活用されているのよ」

「信じられないな」

「――ところで、あなたさっき、この〝ゆふいんの森〟に何かした?」

 潤平はうなずいた。

「妙な球体――、透明なミラー・ボールみたいのを一個、壊したけど」

「ああ、その所為せいだわ」すずきはそれまでかけていた眼鏡を外した。「この装備では、キハ71系は不活化ふかつかされている、と出ている」

「なに?」

「不活性化、よ。この車輛は、そもそもフントの側に有効な心的エネルギーを供給するために、あたしたちが貸し出したものなの。あのボール…、フントの側では〝アース・ボール〟って呼んでいたみたいだけど、あれを壊されたらちょっと痛いかも」

 潤平はにやりと笑った。

「ぼくの手柄だな」

「――けど、この戦いは、そもそもが無益な戦争だわ」すずきは下を向いた。「こんな模型上の戦なんて早く止めて、有意義な話し合いに持ち込めばいいのに、お互い変に…、にプライドだけは高くできているもんだから、席に着こうとしないのね」

 とかなしげにいう。

「じゃあ、その戦争を止めるには、何が必要なのさ?」

 潤平が問うと、すずきは二、三秒考えてから、

「簡単だわ。コンピュータを使うのを止せばいいのよ」

 と簡潔に答えた。

「ええっ!?」潤平は驚き呆れた。「コンピュータを?」

 幾らなんでも、これでは荒唐無稽こうとうむけいだ。

「そうよ」としかしながらすずきは平然と首肯しゅこうする。「問題の根はコンピュータにあるのだわ。あんなものは、ツールとしては有効よ、有益だわ。だけど、時とともに、逆にあっちの側から支配されることだってあり得るの。そうなったらつける薬がない、おしまいなの」

「……ふうん?」

「そうよ」すずきは自分の言葉にこくんとたうなずく。「〝レパブリク〟さんだって、あなたの愛しの〝ユーグレナ〟さんだって、コンピュータを使っているでしょう。つまり、ウェブを。それが一番まずいのよ。問題がどんどんまずい方向へと転がっていってしまう。それに、二人とも自分こそ、我こそ真理をつかめる者なり、って信じ切っているから、余計のことね。えずコンピュータよ、それから離れないといけない」

「――スズキさんのお説を裏づける証拠って、なにかあります?」

「いいわ」すずきは決然と言うた。「みせてあげます。ついて来て下さい」

 そしてすずきは、上着の隠しから何か黒く四角いものをだすと、それを頭上にかざした。どうやらそこに並んでいるスイッチのひとつを押したものらしい。そうしてふたりがそこで待っていると、やがて遠方からごとごとという響きと、甲高いタイフォン(警笛)の音が聞こえてきた。潤平がフォームから身を乗り出すようにしてみていると、闇の中から赤いDE10形ディーゼル機関車が姿を現した。

「これよ、あたしが今無線で呼んだの」すずきは云った。「大丈夫よ。乗りましょう」

 潤平は一も二もなく従った。ふたりが運転台に乗り込むと、ディーゼル機関車はしゅうっと呼気こきを吐き出して、がくりと衝撃を残してゆっくり動き出した。

「どこまで?」

「この先に、〝湖畔こはん〟駅という小さな駅があるの。まだ無人だけど…。そこに設備があるのよ」

 ああ、と潤平は納得した。その駅なら、たしか公彦叔父さんが「建設している」という話を聞かされたことがあったのだ。少し前のことだが、叔父さんは無精ぶしょうしてまだ完成させていないものであるらしい。

 夜景は窓外を流れ、機関車はやがて、まだコンクリートで固めただけの小さな駅に停車した。すずきは、

「ここよ。フォームがまだ未完成で低くなっているから、気をつけて降りてね」

 といい、先に立って降りた。潤平も続いた。すずき湖畔こはん駅の駅舎に這入はいると、さらに中の戸を開けた。そこには、十台ほどのコンピュータ端末が並んでいて、いまはそのいずれにもスクリーン・セイヴァーが動作しているところだった。潤平が這入はいる際に戸をみると、〝中央電算機室〟とプレートがかかっていた。すずきは迷わず奥の一台にとりつくと、

「これよ。みていてね」

 と云ってマウスを操作してスクリーンを起こすと、続いて端末の前に腰を下ろしてキィボードを叩いた。すると――。

 潤平はあっという間に時空を飛ばされた。いや、はじき飛ばされた。

 そしてふと気づくと、自宅自室のPCの前に座っていた。戻った・帰着したのだ。

 けれども、すずきの声は尚もどこかから響いてきた。

「その、あなたたちのばかげた争いを止めさせることができるのは、笠原さん、あなただけよ」

 その声が聞こえた瞬間、潤平は意識・無意識を超えてふたたびネットワークの作りだす虚空こくうもとにいた。そこでは間断かんだんなくつよい偏西風へんせいふうが吹き抜けて、潤平の頬や脇腹をなでてゆき、腿や二の腕に砂州さすのような跡を残していった。潤平の眼の前には何もなかった――、いや、それは誤りで、神や悪魔からトンボの鉛筆に至るまで、あらゆるものが存在しているようでもあった。どこへも行けないようであって、どこへも通じているようでもあった。潤平はそこで、自分が何をしなければならないか、何をする必要があるのか、額に刻まれた刻印のようによく分かっていた。潤平は不意に尊大きわまりない万能感ばんのうかんにつつまれたが、次の瞬間には無慈悲にも絶望的な無能感むのうかんにとらわれ、気分もそううつの間を激しく行き来した。こんなにムードが変わるのは、初期の鬱病と診断されて抗鬱剤こううつざいまされたいつか以来のことだった。潤平の内なるエンジンはうなりを上げて加速したかと思うと、又次の瞬間には燃料切れ寸前に陥り、更にスパーク・プラグやエンジン・オイルにも異状いじょうがみつかって動けなくなった。潤平はこの宇宙に匹敵するほどのひろさを誇る〝自我〟を持っていたが、又同時にそれは卑小で掌に残る大きさになっていた。潤平は完全無欠な十七歳だったが、又同時にむずかりがちな小児に変わらないものだった。潤平は世界でも最高峰の有能な少年だったが、同時に無能で俗物性ぞくぶつせいだけを有する高校生だった。又すばらしい詩文をものしすてきな絵を描く藝術家げいじゅつかであり、同時に一切の才能と無縁な就労者しゅうろうしゃだった。更に、絶滅寸前の危惧種きぐしゅであり、そうかと思えばごくありふれた種族でもあった。――そして、このような経験の上で潤平は、不意に決断した。ぼう、と。そう、ただ「ぼう」と念じたのである。


 「ぼう」


 次の瞬間、潤平はもう分子でできた機械ではなかった。分子、原子にまでかみ砕かれ、さらに電子の連続体となって電話線に一躍いちやくして飛び込み、流れに乗って瞬時にサーバにまで達し、そこで正しい方向を得ると、〝ユーグレナ先生〟と〝レパブリク先生〟の端末をめがけて移動した――、そして潤平は、この二人の占い師の所有するコンピュータに入り込み、一台ずつ破壊していった。それには大した時間はかからなかった。〝ユーグレナ先生〟のは三台、〝レパブリク先生〟は五台だった。いずれもRAMからHDD、CPUに至るまで徹底的に叩き、再起不能にしてしまった。あっという間に作業は終わり、潤平は元の通り、自室のPCの前でぼんやりして座っていた。

 時計をみると、午前三時過ぎだった。潤平は、一体自分は大丈夫なのか、これから何をしていけばいいのか、途方に暮れていた。自分の手を拡げて眺めると、少しふるえていた。だが正気をなくした、とか、狂躁的きょうそうてきな何かを感ずるとかいうことは、なかった。まずここに戻って来られて自分はまだラッキーな方だったのではないか、と思うことに決めた。いろいろ犠牲はあったが、幸運であろうとすればとかく大抵は何らかの代償が要求されるものなのだ。潤平は、もう〝ユーグレナ先生〟とも、〝レパブリク先生〟とも、関係は持つまい、没交渉ぼつこうしょうになって行方をくらましてしまおう、と肚を決めていた。それを実行するのは思ったよりたやすいことであるようだった――潤平がその後占い師と肩書きのつくひとに接触をとったのは〝ユーグレナ先生〟だけで、まるで自分は大恩を忘れた人非人にんぴにんみたいにみえるかも知れない、と訴えると、先生は、少し考えてから、気にすることはないから自分の道を行けばいい、と云ってくれた。そして、大学を選ぶなら、北海道はどうだ、あすこは〝内地〟よりも土地が〝軽い〟から霊体質の潤平でも過ごし易かろう、と薦めてくれたのだった。潤平はその言葉を聞いたとき、思わず落涙らくるいしそうだった。すくなくとも〝ユーグレナ先生〟だけは俗物ぞくぶつではなかったのだ。潤平はPCに入り込んで破壊の挙に出たことを、深くじた。しかし、この先生も、もうあの仕業は誰のものなのか、見当がついているのでは、とも思われた。

 ――潤平は取り敢えずベッドに横になった。ぐに深い眠りが訪れた。

 眼を醒ますと、既に日は高く、時計をみると午前十時を廻っていた。そういえば、若菜は、深夜は活動するのに日中の二倍のエネルギーが要る、というようなことを言っていた。深夜の活動ではろくな成果が出ないこともたしかに多い。

 起き出して、何か食べるものを探しに行こう、と思って階段を下りていると、

「あら、起きたの、潤平?」

 千鶴子の声がした。潤平は振り向いた。

「あ? ――ああ…」

「何だか久しぶりに顔をみるわね。――あのね、父さんとあたしから、少し話があるから、朝食が済んだらスタジオにいらっしゃい。今日学校は?」

 潤平は考えた。

「――ないよ」

 千鶴子はうなずいた。

「じゃあ、待っているからね」

 潤平は痛む頭を抱えてキッチンに降り、パンやスープを調ととのえ、珈琲もれて支度すると、食べ始めた。母さんが用があるっていうけど、何だろう? 潤平は食べながら考えた。そういえば、このところ――、ここ十日間? 二週間? 或いは一ヶ月ほどか、たしかに潤平は、両親とは疎遠そえんになっていた。疎遠になって一体何をしていたのか。そう考えると、潤平の心裡は一種慚愧ざんきに耐えない、といった思いが湧き起こってくるのである。勉学に励んだりウェイト・トレーニングに没頭していた、というのならまだしも、潤平が夢中になって入れ上げていたのは一種の〝コンピュータ・ゲーム〟であった。そう称するのが悪ければ、いくらよく見積もってもある種の〝ハッキング行為〟ではないか。潤平はここしばらくろくに食事すらっていなかったことを思い出した。そういえば、心なしかせたようだった。だが、それを両親に問われたら、一体なんと答えればよいのか。潤平の胸裡きょうりでは、和平を望んでいた。どちらに転んでも争いごとからはよい結果は得られないことを、潤平はよく知っていた。ところがこの数週間に亘り、潤平は〝一兵卒いっぺいそつ〟として戦にかり出され、不透明で先のみえない泥沼のいくさを強いられてきた。それも何の報酬ほうしゅうもなしに、である。いわば潤平は、戦地からの帰還兵きかんへいであると云ってよかった。永遠に続くかに思われたあの戦役せんえきに終止符を打ったのは、ひとえに潤平の果断かだんがあったからではないか。潤平は〝戦地〟で交誼こうぎを得た何名もの名もなき兵士たちのことを思った。あのひと――、魂たちは、無事に帰還したのだろうか。家や故郷に安着あんちゃくできなかった者も多いのではないだろうか。潤平は第一にそれを切に案じて止まなかった。潤平にとっては自分自身のことなど二の次になおざりにしても別段構わなかった。ただ、〝ユーグレナ先生〟と〝レパブリク先生〟という利己的な二つの魂が引き起こした何も得るところのないはずの戦乱に多くの者が駆り立てられ・戦いを強いられ・死んでいった、そのことに深い懐疑かいぎを抱いていたのだ。

 ――潤平は食事をしたためた。食器を片付けてスタジオに上がると、戸をたたいた。直ぐに千鶴子が顔を出した。

「潤平、食事は済んだのかい?」

 潤平はうなずいた。

「じゃあ、お前の部屋で話しましょう。いま、父さんと行くから、待ってて」

 一体何の話だろうか。潤平は何でも来い・どうとでもいいや、という気分で自室に戻った。又あらたまって話なんて、どういうことなんだろうな?

 しかし、その疑問はすぐに氷解した。

 大輔と千鶴子のふたりは、間もなく潤平の居室に姿をみせた。ふたりともどことなく事務的な・よそ行きの表情をつけているのが潤平にもすぐ分かった。

「いろいろ、この数ヶ月間に起こったこともあるが」と大輔は云った。「お前の身の上を考えても、いささか辛かったろうな、と思わん節のないこともない。それについては、深く同情する――、元よりお前はわれわれの身内、息子なのだからそれは当然だ」と言って言葉を切った。「しかし――」

 その次に来るべき言葉を、潤平は大体予想していた。その通りに言葉は来たのだ。

「しかし」大輔は云った。「故意ではない、過失だということはよく分かっている、結果的にそうなったのだ、ということもよく理解している。だが、お前はこの数ヶ月間、ウチのスタジオには迷惑・損害ばかりかけているではないか。ああ、お前だけの所為せいではないことも重々承知している。あの〝ユーグレナ先生〟とか、妙な占い師の絡んできたのも不幸せななりゆきだったと思ってよかろう。けれども、それを差し引いても、だ、お前がスタジオでワークアウトを始めてから、何が起こった? 呉が去り、黒田も去った。そう、このふたりにも過失があったことは、たしかだ。認めるよ。だけど、結果的にだが、ウチは有望な、将来を嘱望しょくぼうされたビルダーを相次いでふたりも失うことになった」

 大輔はいった。潤平は下を向いていた。大輔のいいたいことはよく分かっていた。

 千鶴子が跡を継いだ。

「顔が見えなかったから言ってたけど、学校から通知が来て、この二学期の修了で卒業見込みの書類を出せる、って報せてきたよ」

 大輔が復た口を開いた。

「お前、大学に行きなさい。そうだな、ここからは通えないような距離にある学校がいいだろう。下宿なりアパート住まいなりをして、いったんこの家から離れなさい。――その方がこちらもよろず何かと都合がいい。今回の一件では、ご近所を騒がせてしまった節もあるからね。もうあんな占い師などによりすがっていてはダメだ。ダメになってしまうよ。たまに世話になるならいいが、四六時中しろくじちゅう拘束されるとなると、強迫観念きょうはくかんねんになる。もっと建設的で、明るく開放的で、しかも現実的なことに使わなくてはダメだ、お金も時間も。お前がどう考えていたのかまでは分からないが、まだ未成年なのにあんなじじむさいものにかかずらっていてはいけないな。そんなことをしていたら、早晩そうばんきっとダメになる。もっと理知的で、有意義で、前向きなものを選びなさい」

 そういう両親の言葉の裏には、ほとんど反語はんごにも似た情愛じょうあいがにじみ出ていたのだが、それに気づくには潤平はまだ若すぎた。潤平はおとなしく説諭せつゆの言葉に耳を傾けていたのだが、内心では、

 ――だけど、父さんも母さんも、ぼくが一体どこにいたのかまでは知らない。ぼくがあのとき、公彦叔父さんの建設した〝加里米〟と〝林米〟の二駅で死にかけていたことも、一切知らない。それを知ったら、きっと叫び出すだろうが、ぼくはそのことは絶対、だれにも他言するつもりはない。墓場はかばまでもっていく。

 というようなことを考えていた。

「いったいお前はこの先、つまり将来だな、何をして暮らしにしたいのだ? 何をやって身を立てたい?」大輔は口辺こうへんに薄い笑いをうかべて、「ボディビルダーは無理なようだが」

 そのようにほとんど不意打ふいうちのような質問をらわされて、潤平は一瞬たじろいだが、答えはぐに口から出た。

「コンピュータの関係を」

 出任でまかせ、といえば言え、不思議と自分の本音を吐露とろするような返答だったことに自分も驚いていた。

「そうか、コンピュータ関係か」大輔はうなずいた。「それでもやはり、専門学校とかよりは、四年制大学に行っておいたほうがいい気がするぞ」

「はい。そのつもりだけど」

「うん。それが分かっているなら、いいんだ。ただ、お前はここ数週間、何だかあさっての方角のことにかかり切りで心ここにあらず、といった風にみえたので、ちょっと気になったのだが」

 ふたりは去った。潤平は、両親に、自分がすんでのところで正気を失いかねない沙汰さたにあった、ということなどうかうか話さなくてよかった、と思った。そして、次に考えたことは、では一体どこの大学にしようか、ということだった。ここは首都圏なので、いちばんの遠隔地えんかくちといえば、北海道か沖縄だ。だが、潤平自身にはそのどちらとも決めかねた。そこで、最終手段として、余り気乗りはしなかったが、〝ユーグレナ先生〟か〝レパブリク先生〟のどちらかにお伺いを立ててみよう、と思った。だが、むろん〝レパブリク先生〟は願い下げにしたかったので、消去法しょうきょほうで話は決まった。

 潤平はノートPCのディスプレイを起こしてスリープから復帰させ、ブラウザを立ち上げてから、その中に〝ダイヴ〟した――。次の瞬間、潤平の意識は大庭園の中にあった。びかけた白い鉄柵てっさくで囲まれた、既に閉園へいえんしたものの、いまだ薔薇やダリアが咲き誇る宏壮こうそうな庭園のなかに来ていた。いつ入園許可をとったものとも知れず、更にいつ入園券を買ったとも知れず、ただ意識はその大庭園の中枢ちゅうすうをなすひろい石造りの建築の、歩廊ほろうの中にあった。そこは個人の住まいとしては信じられぬほど天井が高く、建築様式はドーリア式とでもいうのか、一定の間隔をおいて石の柱が並んでいた。(こんなものをブラウザ経由で味わえるなんて)、と潤平は当て所もなく歩きながら思った。(これが〝裏のインターネット世界〟というものなんだろうか)。潤平は懐疑を抱いてはいたが、気分は不思議と悪くなく、それどころか半ば高揚感こうようかんすら覚えていた。潤平は、どこへどう行けば何がある、という基本的な知識すらなくその邸宅、或いは王城のなかを彷徨さまよっていたが、ある瞬間を境にその足取りは変わった――、まるでどこへ行けば誰に会えるのか、自動的に足が関知し、それをボトム・アップ式に潤平の脳髄まで伝えたもののように思えたが、それは考え過ぎかもしれなかった。ともかく潤平は、回廊をめぐって歩き、庭園を見晴らすバルコニーに出た。

 そこに、いた。それが〝ユーグレナ先生〟である、ということは逢う前から知っていた、と思う。先生はうるわしい女性の顔をし、卓子テーブルに向かっていた。そして潤平を認めると、手招きをした。潤平は、カーネーションが咲いているのを認めながらその招きに従った。

「よく、来たわね」〝ユーグレナ先生〟はにっこりした。「もう来ないかと思っていたけど」

 先生は卓上から扇子をとって自らをゆるく扇いだ。かるく香水をつけているらしいのが潤平の許にも伝わった。潤平はもじもじした。

「遠慮することはないのよ」先生は右手を挙げて合図した。すると、側使そばづかいの小姓こしょうが身を寄せた。

「ロシアン・ティで、いいかしら?」

「――あ、ぼくは何でも。お構いなく」

 潤平はへどもどした態度で腰を下ろし、かしこまって膝の上に手をおいた。すぐに飲み物はきたが、潤平は遠慮してなかなか手をつけなかった。

「何かお訊きになりたいことがあったのではなくて?」

 〝ユーグレナ先生〟は静かに自らを扇ぎながらいった。

「……ええ、まず、魂のことなんですけど」

「うん?」

 先生はゆったりと先を促す。

「魂は輪廻転生りんねてんせいする、だから前世や来世がある、というのは分かったんですが」

「うん」

「…その、前世の意識や考えたことというのは、魂本体が転生してしまうと、どういうことになるんでしょうか」

「つまり、例えば前世で得た記憶や知識はどうなってしまうのか、ということね?」

「はあ、まあそんなところです」

「それはね、前世の魂というのは、転生したあとでも記憶の痕跡こんせきのようなものが残るのよ。だから、そういうことができる霊能者のところに行けば、あたかも図書館で本でも借りてくるみたいにして、前世の記憶というものを読みだすことはできるわね」

「そうですか」

「満足した?」

「はい」

 が、〝ユーグレナ先生〟は、じっと眼差まなざしを潤平に向けた。

「あなた、本当はそんなことを訊きたいのではないんでしょう?」

「………」

「本当に訊きたいことを云ってごらんなさい」

「…どこの大学がいいか、と思って」

「あら、北海道の大学で決めたのではないの?」

「ええ。――だけど、北大じゃむつかしすぎるし、じゃあと云って別の大学だと学費を払うのがもったいないくらいだし…」

 先生はちょっと笑った。

「つまり、レベルの差がありすぎる、ということ?」

「ええ、まあそんなところです」

「それはあなた、こんなところへ来るよりも、予備校の模擬試験なり何なり受けて、ご自分の立ち位置をよく把握はあくするのが先じゃないかしら?」

「まあ、それもそうですが」

「あなたは、研究したりものを書いたりしている前世があるから、勉強すればきっと身に付く筈だと思うけど?」

「そうでしょうか」

「ええ。ご案じ召されるな。それより、もっと何かあたしに訊きたいことがあるのではないこと?」

「はあ。――からすの鳴き方なんですが」

 すっと出た。

「うん。からすのね?」

「ええ。からす、って、前もって自分が何回鳴くか決めてから鳴いているように思うんです」

「ああ、それはあるかもね」

「だから、うまく観察すれば、からすがこれから何回鳴くのか……、二回きりなのか、三回なのか、はたまた六回か七回か、予測がつくと思うんです」

「うん。大学で研究テーマにしたら?」

 と〝ユーグレナ先生〟と潤平は顔を見合わせて笑った。先生の笑い声は、石の床に舞い落ちる花弁のように散った。

「ほかには何も?」

「――そうですね、ないと思います」

「そう。それじゃあ、元気でね。ご両親にもよろしく」

「はあ」

 と、潤平の身体はその瞬間から縮みだし、どんどん小さくなっていった。いや、もしかすると真実はその逆に〝ユーグレナ先生〟はじめ潤平周辺の事物一切が膨張したものなのかも知れなかったが、兎に角その縮小(膨張)は余りにも急激だったので、潤平はもんどり打って床の上でしりもちをつき、転げ落ちる恰好になった。そのはずみでしたたかに頭を打ち、潤平は星が、星々が、各星座が、更にその向こう・銀河系の奥までもはるかにみえたほどであった。潤平の周囲では、それまでその辺にあった椅子の脚が途端にもの凄い太さになったかと思うと非常な速度で彼方かなたへ去り、周りに敷き詰められた石のタイルのうえで、潤平は背中にその模様を感じながらなす術もなくおろおろしていた。潤平の眼の前では全てが空になり、それはどろりとした魚の目玉のように白く濁り、不透明だったが、潤平はだんだんそこへ吸い出されるかのように吸い込まれていくのが自分でもよく分かった。いやおうもない。ただそこへ吸われてゆくのだ。潤平はどんどん自分も胎児のように無力なものに変じていくのが手に取るようにわかり、それでも茫然ぼうぜんと構えていた。そして潤平の周辺の一切は灰色になり、潤平もその色に染まろうとしていた……。

 ――と、ふっと気がつくと潤平は自分の部屋に戻っていた。机の上をみると、誰か気を利かせて取り寄せたのか、北大の受験案内と願書の書類一式がそろっていた。その隣には(これは身に覚えがあったが)某ゼミナール主催の全国模試の結果通知がおいてあった。

 潤平は模擬試験の結果通知の方を先に開けた。

 総合偏差値は62、北大理学部化学科は合格確率50%の〝C判定〟だった。

「悪くないじゃないか」

 と夕食時に結果をみせると、大輔はビールを飲みながら云った。

「どうして〝化学科〟にしたの、潤平?」

 とは千鶴子。潤平は、

「ものには道理すじみちがある、ものにはことわりがある。それを研究するのが理学部だから、この学部にした。物理ほど硬くなく、生物学ほど軟らかくないので、化学科にしたんだ」

 というと、ふたりとも何を思ったのか声を上げて笑った。

 翌日から、潤平は暗中模索あんちゅうもさくしながら受験勉強に邁進まいしんすることになった。

 と、そこへもう一人出現し、〝珍道中〟が始まることになった。

 というのも、宮下若菜の上の兄が急逝きゅうせいし、北海道へ帰省して実家が営んでいる翻訳会社の跡を継がなくてはならない仕儀しぎになったのである。若菜はボディビルの夢一切はあきらめ、高卒資格は札幌で取得することになった。実家は札幌市東区北二二条東二丁目だとのことで、北大へなら毎日通勤・通学できる距離だとのこと。

「NTTの交換所みたいのが近くにあるのよ」と若菜。「大きい目印といったらその程度だけど、近くにはコンビニも飲食店もあるしさ。街も落ち着いているし、住みやすいところだよ」

「地震がなければね」

 若菜は笑った。

「そう、うん、地震がなければ…」

「いいさ」潤平はふっと力を抜いて笑みをうかべた。「ものには運命、ってものがあるからね」

 若菜は真顔になって、

「どうかした? あんた、何かあったの?」

「ううん」潤平はかぶりを振った。「何も。どうしてさ?」

「だって…:若菜は鼻の頭をかいた。「妙に深刻そうになっちゃって」

「誰でもそういう時があるんだよ」

 潤平は立ち上がった。

「ウチに住む、ってこと、お父さんに知らせてもいい?」

 若菜は潤平の背後から声をかけた。

「ああ、いいよ。どうせいずれは一回ご挨拶あいさつうかがわないといけないところなんだし」

「あら、いいのよ別にそんな、あらたまって…。あたしがこと云えばそれで済む話だから」

「そうお?」

「そうだよ」

「じゃ、頼むかな」

 潤平は気のない依頼をすると、部屋を立ち去った。


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