G.

「だからね、あんないい加減なひとのいうことは、きいちゃダメなのよ。わかる?」

 と〝レパブリク先生〟は、この調子で延々小一時間にも亘って潤平に説教し訓示くんじを垂れたのだった。(まったく、〝口は災いの元〟だ。向後こうごは余計なこと言わないように気をつけよう)と潤平は肝に銘じたのだった。しかし、そのお蔭で、けがの功名とでもいうべきだろうか、〝ユーグレナ先生〟と〝レパブリク先生〟の間の確執かくしつ(というか単なる嫉妬と足の引っ張り合い)が、潤平にもよくわかったのだった。

 そして、その数日後、潤平(とその一家)は、〝ユーグレナ先生〟の許から新しい〝ご指導〟の護符を頂き、その代金を振り込むと、早速〝ユーグレナ先生〟からその返礼の電話があった。ところが潤平は、またしても〝うっかり・ぼんやりへき〟を露呈ろていさせてしまった。

「お振り込み、慥かに確認いたしました。どうも有難うございます」

「いえ、こちらこそ。いつもお世話になりまして」

「いいえ。その後、何か変わったことはない?」

「そうですね」潤平は考えた。「あのう、堀さんから電話がありましたけど」

 すると、電話口の声色が変わった。

「だ、誰ですって?」

 潤平はしまった、と思ったが、もう遅かった。

「いやあ、あのう」

「もしかして、〝レパブリク〟さんから?」

「――はあ」

「あなた、あのひとと関係があるの?」

「――」

「どうなのッ!! 正直に仰有おっしゃい」

「ちょっとだけ……」

「あるのね!?」

「ええ」

「止めときなさいよ、あんなの。あんな似非えせ占い師」と〝ユーグレナ先生〟は〝レパブリク先生〟と同じことを云って非難した。「ろくなことになりゃしないわよ。まず、手を切ることね」

 右も左もわからぬ、くらいといってさわりのない身の潤平としては、何を言われても、

「はあ」

 と、

「そうですか」

 しか返す言葉はないのだ。

「いいこと」と〝ユーグレナ先生〟は言う。「あのね、〝礎石〟ね、つまり〝モニュメント〟だけど、あれはおいといて構わないわ。毒にもクスリにもならない代物しろものだけど。その代わり、あたしが発行する〝ご指導〟の方は、きちんきちんと履行りこうすること。いいわね?」

「……わかりました」

「それからね」と言い差したところで〝ユーグレナ先生〟は立ち止まり、「あなた?」

「は?」

「何か、あたしに訊きたいことでもあるの?」

 と来たので、潤平はつい、

「あのう、どうして先生は、〝レパブリク先生〟とは仲が悪いんですか?」

 とうっかりたずねてしまった。すると〝ユーグレナ先生〟はちょっと黙ってから、

「聞きたい、その話?」

 と口上こうじょうで逆に問うて来たので、潤平は内心でふるすくがり、

「いいええ、とんでもない」

 と慌てて答えた。

「それからね」と元の口調で、「いい?」

「は、はいッ」

「ウェブで、〝魚崎観音〟について調べてください」

「……は、はあ。観音、ですね?」

「う・お・ざ・き・か・ん・の・ん。OK?」

「はい。何を調べるんでしょう?」

「そうだわね」ちょっと言葉を切って、「観音の全体像がみられる写真か動画があったら、それをみてちょうだい」

「わかりました。みる、だけで宜しいんですか?」

「ええ、いいわ」ややてんとした調子で、「いいかしら。それじゃあ、時間があるから失礼するわね」

 電話は切れた。潤平は、手の中の電話機をぼうっとした眼で見つめた。その時、潤平の脳裡のうりからは、ワークアウトのことも、自宅学習のことも、スクーリングのことも、若菜のことも音楽のことも、一切かき消えていた。ほぼ完全な〝無〟がそこにあった――、〝ユーグレナ先生〟から与えられた奇妙なミッションのほかには。先生は、「観音菩薩の画像か動画をみよ」と云った(命じた)のであるが、それはいま、潤平の胸裡きょうりいんのごとくくっきりときつけられていた。それはまるで、〝ユーグレナ先生〟が何かいかがわしい魔術まじゅつ禁厭きんようのたぐいでも使ったかのような按配あんばいだったが、潤平はむろん、そういったことに対しても従順・無抵抗であった。そして、満足するまで電話を眺めていた潤平は、スマートフォンをポケットにしまいながら、そのミッションのことをいま一度心裡しんり反芻はんすうし、そうだ、ウオザキカンノンを見なければならないのだった、と小さくつぶやいて、スタジオを後にした。

 その姿を若菜ひとりが見とがめて、潤平を外まで追ってきた。

「潤平くん、まだ種目が…、ほら、ベント・アーム・プルオーヴァーがまだ残ってるじゃない」

 すると、潤平は、

「え?」

 と妙に遠い眼、いや、瞳孔どうこうが開いて焦点の定まらない眼で見返した。

「まだ、メニューの途中でしょ」

 テーブル(表)を押し付けたが、潤平はそれを受け取った切りで、

「ええ?」

 とはっきりしない返辞へんじだ。若菜は深追いするのはよし、潤平のなすがままに任せた。そうしたら潤平は、するっ、とその場を抜け出て、何だか風のように去って行ってしまう。

「変なの」

 若菜は口の中でつぶやいただけだ。

 潤平はそのまま何か機械のように三階の自室に戻った。ふだんそうするように、ベッドの上に横臥おうがすることもステレオ・セットに向かうこともなく、珍しくぐ机に向かった。机上には教科書やノート類が散らかっていたが、それらを片付けてからノートPCを目の前にえた。

 そこに至って初めて潤平は、自分が何かにき動かされていることに気がついた。なにか見知らぬもの、何かあまり軽々けいけいに口にすべきでないものに……。が、それでも潤平はかまわずにPCをスリープから解除した。それは半ば意識的で、半ば無意識の、まるで夢のなかにでもいるかのような行動であった。じっさい、潤平の意識は半ばしか自分のやっていることを把握しておらず、残りの半分は霧の中に消えていた。こういう気分は、潤平自身は弱めに警鐘けいしょうを鳴らしていたが、残りの潤平は諸手もろてげて歓迎していた。何より、日常茶飯の瑣事さじにはほとほと退屈していた。んでいたのである。それだけに、こうして暮らしの中に〝アクセント〟のつく出来事が何かあれば、それは到来をよろこぶべきものであった。

 そして潤平は、ブラウザを立ち上げると、ホーム画面から検索エンジンに移り、早速、「魚崎観音」をキーワードにして検索をかけた。――と、同時に天地がひっくり返った。いや、精確せいかくにはちがう。潤平の心眼しんがんがそう認めただけであり、べつだん潤平の周りで風景が一周したりしたことはない。では――。潤平の精神はいまとてもにぶくなっていて、周りの変化にはあまり気も留めなかった。そう、潤平としては、そもそもちょっとした日常からの逸脱いつだつのつもりだけだったのだ。それまでウオザキカンノンなどというものがあることも知らなかったし(漢字は架電かでんの際、なぜだかふっと頭に湧いた)、むろん関心もなかった。けれど、その潤平の中では、今ではなぜだかこの魚崎観音が全てになってしまっていた。それは必ずしも不快な感覚ではなかった。

 天地が転覆したような感じを覚えて、次の瞬間、潤平が思わず眼をこすりながらディスプレイに緩慢かんまんに視線を移した際、そいつは出てきた。

 それは巨大な金色こんじきの龍であった。後光のような光芒こうぼうをまとい、ノート・パソコンの画面から怒濤どとうの勢いで飛び出てきたのだ。潤平は思わず、「あッ」と小さく叫んで眼を守ろうと顔に手をやったが、そいつはスクリーンから天井に向けて一気に駈け上っていった。そいつは眼にも留まらぬほどの素早すばやさで去って行ったが、頭のてっぺんからしっぽの先まで通過するにはたっぷり二〇秒は必要で、潤平はなぜかドゥービー・ブラザーズの〝ロング・トレイン・ランニン〟を思い出していた。そしてその金色の龍は、あっと云う間に吸い込まれるように天井に消え、潤平はそれを呆然として眺めていたのだが、龍の去った後に雷鳴のような大音響がとどろき、そこで潤平はふと我に返った――、しかし四囲しいの景色は一変してしまったから、やはり潤平には、天地がひっくり返ったとでもいうよりほか表現がなかったのである。

 潤平の右手にはポプラだろうか、背の高い木々の木立があり、その奥に四角い建物、蓋しデパートメント・ストアの建築がある。正面には平屋ひらやの駅舎があった。左手には操車場そうしゃじょうがあり、DE10型ディーゼル機関車が客車と貨車をいていて、その他に電車や気動車がたむろしていた。駅前にはちょっとした商店街があるから、そこで聞き合わせたり、駅舎に行けば自分がどこにいるのか・ここは何なのかがわかると思われたが、潤平にはそのようはなかった。潤平は自分がどこにいるのか・ここが何なのか、直感的に把握していた――、すなわち公彦叔父さんの鉄道模型レイアウトのなかだ。どうして、とか、どのように、という疑問は無意味になるほどに明確なことだった。ここは公彦叔父さんが〝経営〟している、〝十三湖とみこ鉄道てつどう〟のなかだ。そして自分が立っているのは、〝加里米かりまい駅〟前で、駅に停まっているキハ58系気動車は〝林米りんまい駅〟ゆき急行〝南兎なんと〟号だ――。潤平は叔父さんの鉄道模型で遊んだことは何回もあったから、どこをみてもこれは何だとすぐに分かった。あそこに留置されているのは〝ゆふいんの森〟で、そこにちらりとみえている10系客車の編成は、急行〝津軽〟号だ。それからあれは小田急電鉄のGSEだ。振り返ってみると、街の情景じょうけいも又、見慣れた通りだった。ここには南貯なんちょ銀行の加里米支店があり、そちらには稲荷神社があって、その手前で演奏している四人組はロック・バンド〝ザ・トレンチタウン〟の面々である。そうだ、いまぼくは、公彦叔父さんのレイアウトの中にいるんだ……。どうして、も、どのように、ということも、疑問は一切うかばない。潤平の頭にあった事実は、自分は叔父さんの鉄道模型の世界にいるのだ、というそれだけだった。

 と、サイレンが耳をつんざくような音量で高らかに鳴り響いたのはその時のことだった。潤平はぎょっとして辺りを見回した――が、誰も相談相手になるようなものは、猫の一匹見あたらない。代わりに、サイレンが鳴り終わると、まるで天の示す黙示もくしのようなおごそかさが、女の声をもって、

「フントがきます、フントがきます。カッツェの方は注意してください」

 と繰り返した。潤平はそれを聞いて、怖い人間が接近する跫音あしおとを聞いた野良猫のように全身をびくっとわななかせた。何も云われずとも、自分も女のいう〝カッツェ〟のうちにはいるのだ、ということは、本能的な直感でわかっていたのだ。そして、〝カッツェ〟である以上は、〝フント〟による攻撃を受けることが避けられぬ身の上であることは明々白々めいめいはくはくだった。潤平は近くにある喫茶〝ロートレアモン〟に這入はいってほとぼりの冷めるまで時を過ごそう、と思い、店のドアを開けた。だが、カウンターの奥にいた店主は、潤平の姿を認めるなり、

「ああ、あなたね」と眉をひそめる。「ちょっと、ウチでは按配あんばい悪くて…。悪いね」

 ということで、潤平はあっさりほうされてしまった。この調子ではどの店へ行っても同じことだろう。どれもこれも、フントの聯中れんちゅうのしたことだ、それに相違そういない。フントの奴らは――。

 そう、あいつらは〝ネットワーク〟をつくるのが異様いように得意だ。カッツェたちにもネットワークはあるが、それはあくまでも仲間内でのちょっとした連絡手段のようなもの。それに比してフントの構成するネットワークは、敵味方中立問わず、どんな立場の者でもローラー式に巻き込んでいくといった質のもので、たちが悪かった。潤平たちはその間隙かんげきをついて遊撃隊ゆうげきたいのように戦いを挑むよりほかなかった。――と、どこか至近しきんで、ドゲッ、ドゲイッ、という炸裂さくれつ音が響いた。震動から察するに、銃器が火を噴いたらしい。とするとこの近くにもカッツェがだれかいるのか。潤平はそれが知りたかった。フントにとっては、ネットワークこそ唯一大事なもので、個人の生命など小さなものに過ぎなかったが、カッツェの身では小さな命こそ何にもまして重要なものなのだった。潤平は眼を細めて通りを見やった。加里米駅から延びるこの通りには八百屋や魚屋といった商店が櫛比しっぴするほか、雑居ビルが何棟か並んでいる。この辺りでは、まだ大規模なショッピング・モールは開店していないのだ。潤平はパン屋の店頭に立っていたが、どうやら砲声は駅の反対側から聞こえてくるもののようだった。潤平は、右手の甲をなめて、自分に冷静になるよう言い聞かせた。どうするか――。そして、いま追いつめられている、まだ見も知らぬカッツェの身の上に思いをはせた。行って力になれるのなら、行くべきだろう。潤平の理性は本能を抑えてそうだんくだした。潤平は動くことにした。それまでしばらくたたずんでいたパン屋の店先を立ち去ろうとすると、にわかにある種の感慨が澎湃ほうはいと湧き起こってくる。それは安全に守ってくれていたシェルターを後にする時に覚える、後ろ髪を引かれる思いだった。行く手には街の風景がひろがるが、手前のコンビニエンス・ストアに這入はいれば車が突っ込んできて、そこの文房具店の前を歩けば店舗がいきなり爆発する…、いかにもそんな感じがするのだった。そんなのは強迫きょうはく観念かんねんじみた思い過ごしに過ぎない、そう自分に云い聞かせても無駄だった。身体の方が頭よりも正直に反応する。仕舞しまいには潤平は吐き気すらもよおした。それでも、えず足を動かせば到達すると思い、しぶる右足と左足を何とか懐柔かいじゅうしいしい交互に動かして、潤平は歩き出した。荒物屋の背後にヤード(操車場)があり、その隣のファサード造りの仕舞しもの隣が加里米駅舎だ。はて、さっきの音響はこの辺から聞こえてきたはずだが…、と思いつつ駅の改札口方面へ足を踏み込もうとすると、中から人影が文字通りこけつまろびつして出てきた。潤平は瞬時にこれもまた〝カッツェ〟だ、とひらめいて、

「どうかした? OK?」

 と問うた。すると、その男は、煙でも吸ったのかしきりとみながら、

「…あ、……あっちだ」

 と操車場の方面を指さした。潤平は、その指のさす方角に視線をやり、

「敵が?」

「そう。――〝フント〟。だいぶ集結している」

 潤平にも、これは一種の精神感応力せいしんかんのうりょくの戦い、つまりサイキック・ウォーだとわかっていたので、徒手空拳としゅくうけん、男のいう方向へ行こうとした。が、その前に男を救護しなければ、と思ってひざまずき、

「水かなにか?」

 と云ったが、男はその場でうずくまったまま、

「いいから。あっちにはまだけっこう仲間がいる。おれはいいから、行ってくれ」

 と手真似てまねでヤードの方を指すので、潤平は素直にそちらに向かった。が、後刻ごこく潤平の脳裡のうりうかんだのは、手負ておけだものはああやって人知れず息絶えるものではなかったか、ということであった。尤も、潤平にも仲間がいまにもほふられているかも知れない、ということもまたよく分かっていたので、それにはそれきり頓着とんちゃくせずに線路をまたいで走った。もう、爆発物とか車輛によるテロに対する恐怖感はとても薄らいでいた。潤平は、255系だ、という最前さいぜんの男の言葉を反芻はんすうしながら列車から列車へとわたって走った。緑色の列車がある。こちらには真っ赤に塗られたのが。そちらのは見覚えのある、だいだい濃緑のうりょく、いわゆる〝湘南色しょうなんしょく〟の電車だ。と、眼の前で電車がふるえて、同時に、どえっ、どぅえっ、と太い音響がとどろいたので、潤平は肝をひしいだ。保身ほしんのため、瞬間的に身をかたわらの電車の車体蔭しゃたいかげに潜ませてほとぼりの醒めるのを待ったが、それなり構内こうない森閑しんかんとしてこそとも音はしない。潤平は電車の蔭から隣の列車へ、と飛び移りながら先ほどの大音響がした辺りへと近づくことを試みた。ここには485系特急〝あいづ〟が横たわり、そちらには165系急行〝内房うちぼう〟が並んでいた。潤平はだれにも眼に付かぬよう、列車の蔭から蔭へ、飛び移りながら移動した。その時、また雷鳴が響き渡った。そして眼のまえには255系〝しおさい〟が横たわっていた。どぅえいん、どどど…、と轟音ごうおんがとどろいたところからみるに、攻撃しているのは明らかにこの列車であるらしい。潤平がみていると、列車は動く気配もない。めったやたらに撃っているわけではないが、精度の低さから察するとどうやら射撃はロボットが行っているらしい。ちょっと背伸びしてたしかめると、青と白に塗り分けられ黄色がアクセントとなっている九輛編成の四号車であるグリーン車の屋根にきがあり、そこに火器かきが据えつけられていた。やり方は直感的に把握していたので、潤平は列車に向けて口を開けた。どうやらこの近辺には味方つまりカッツェはいないものらしかった。はっ、と呼気とともにのどの奥から押し出すと、〝気〟がでた。それは奔流ほんりゅうとなって標的の火器に向かってほとばしった。惜しい、少しそれた! 潤平は第二波を準備した。――と、また電車屋根上の火器がうなった。砲台からはレーザーかなにかが放射され、カッツェをねらって四分五裂しぶんごれつして空気中を伸びてゆく。潤平は眼をらした。すると、今度はたしかに〝飛ぶ〟カッツェの姿が眼に入った。そう、飛んでいるのだ。潤平はその刹那せつなにわかに自分も飛べるのだ、という単純な事実を思い出して少し胸のすく思いだった。どうしてとか、どうやってとか、そういうことはえずわきにおいておいてよい。かく、飛べるのだ――。潤平の視界の中で、その〝飛ぶカッツェ〟は、いかにも軽やかに、空中でうまくバランスを崩さぬように体勢を変えながら、下から上へととび過ぎて去っていった。飛びながら〝気〟を吐いている――、だが命中はしていないようだ。そして潤平も内心で飛ばんとほっした。すると、次の瞬間、足はすでに地に着いていなかった。潤平も飛んでいた。飛んでみると、あちこち、そちらこちらで〝カッツェ〟が飛んでいるのが眼に入った。数にして二〇~三〇ほどもいるだろうか、けれども数は明らかにすくなすぎる。劣勢れっせいだった。が、その時の潤平はそんなことなど気にも懸けず、必死で気を放った。空中に浮かんでいられる滞空時間はものの三〇秒ほどなので、また大地にひかれて落ちてくるところを、砲台はねらい撃ちしてくるのだが、そこをかいくぐって、255系のとなりに横臥おうがしている、EF58型電機でんきに牽かれた茶色の10系客車の編成を足がかりに(潤平には、指摘されずともそれは〝彗星すいせい〟号であることはすぐに分かった――、なぜなら叔父さんの家で何度もみているから)、再び空へと舞い上がった……。

 ――ふと気づくと、潤平は学校に来ていた。眼の前には、まるで誰かがアレンジしてくれたかのように教科書とノートブックがひろげてあり、教壇きょうだんでは先生が話をしている。どうやら物理の授業中らしい。「初速a、重力加速度g」などと板書がされている。

「……では、この範囲は来月の小テストにでる範囲内なので、よく復習しておくように」

 と先生は最後にいった。えっ、ちょっと待ってよ、聞いてないよ、何も知らないよ…、と一瞬潤平は慌てたが、すぐその疑問はに落ちて氷解ひょうかいした。潤平はそれまで、その場にはいなかったのだが、同時にそこにいたのだ。別の場所で別のことをしていたのだが、同時に物理の授業を受けていたのである。潤平はその日の授業内容を逐一ちくいちそらんじることさえできた。けれど、意識ははっきりしていたものの、按配あんばいには少々妙な部分もあった。たしかそれまではどこか別の場所にいたはずだ――、そう、それは慥かだ。記憶にはっきり痕跡こんせきが残っているのだ。だが、〝どこで〟と問われると、途端にその記憶は曖昧あいまいになってしまう。まるで夢のなかでみた一風景を同定するかのような、雲をつかむような不慥ふたしかな作業になってしまうのだ。潤平はかすかにかぶりを振った。頭のしんが痛んだ。教師は教場きょうじょうを出ていった。まばらに座っていた生徒たちも荷物をまとめると席を立ち、三々五々、室を後にする。

 夢をみていたのだろうか。潤平は、相変わらず不明確で抽象的な、もやのごとき気分に包まれたままぼんやりとつぶやいた。その時、だれかが背中をつついて来た。

 驚いて振り返ると、そこには黒田が立っていた。潤平はきつねにつままれたような顔をしたが、黒田にもそれが通じたとみえ、

「坊ちゃん」となだめるような声を出した。「びっくりしちゃいけませんぜ。――ワタシ、これ、みつけておきましたがね」

 というと黒田は、ふところからウォークマンを取り出した。今年の青いモデル。たしかに潤平愛用の機に相違ない。

「どうしてこれが……」

 潤平が手を伸ばすと黒田はニッと笑って、

「まあ、いいじゃないですか、細かいことは。ところで、ワタシにもいいもの聴かせて下さるって仰有おっしゃったじゃないですか。いいでしょう、そのくらい?」

 何がいいのか分からないが――、と潤平は云おうとして言葉をいったん呑み込んだ。

「いいもの?」

「ほら、ハンガリーのイーストとか…」

「ああ、イーストねえ」

「あれ、聴かせて下さいよ」

 ハンガリーのイーストは、むろんマジャール語で唄っているのだが、やはり東欧ポーランド出身のセイフなどと較べると、この手の東欧系バンドによく使われる〝透明感〟という形容は当てはまらず、歌詞の内容ももっと政治的な意味合いが込められているのか、曲自体もセイフなどよりどろどろしたものに思えるのだが、それはかくとして、黒田のいう通り何枚か質のよいアルバムを残している。

 潤平はウォークマンを手に取ったが、復たしても言葉を呑み込んで機械をまさぐる手もとめた。ひとつ、何か重要な・重大なことが抜け落ちているような気がするのだが……。けれども、その疑義ぎぎも、教室を包むようにうっすらと立ちこめてきている夕霞ゆうがすみのようにどうでもよいもののような気がしてくる――。潤平の脳髄はまるでエタノール漬けにでもされたかのごとく全てがもやのなかにあるようで、限りなく模糊もことしている。

 と、その時黒田が、

「このウォークマン、見つけたのはワタシじゃありませんがね、呉さんですよ」

 と云ったので、潤平は溺れかかったひとが、精確せいかくなタイミングで水底みなそこを蹴って浮力をつけたうえ、一気に浮き上がってくるかのように正答を見出した。

 そうだ、そういえばこのウォークマンは、いったん失くしたものなのだ。

 なぜ今、この黒田が持っているのだ?

「それ」と潤平は問うた。「どういう訳合いであんたが?」

 黒田はちょっと笑った。いやな笑い方だった。

「これはねえ」と勿体もったいぶって、「呉さんがくれたんですよ」

「くれた?」潤平は眉をひそめた。「くれる、ってそりゃおかしいじゃないか」

「呉さんが云うには、このウォークマンはヘッドフォンの設定にロックがかかっているんで、坊ちゃんのお持ちのヘッドフォン以外には使えないから、って…、おっと」黒田は口をつぐみ、口許くちもとおさえた。「口は災いの元……、知らぬが仏、ってね」

「返せよ」潤平は勃然ぼつぜんとして手を伸ばした。「ぼくんだ、それ」

「イーストを聴かせて下さい」黒田は粘る。「イーストを…」

「わかったよ」潤平は不承した。「これで」

 潤平は黒田の求めに応じて、イーストのセカンド・アルバムを呼び出した。このDAPにはイーストの初期四枚のアルバムが収録されている――、後半の二枚は〝プログレッシヴ・ロック〟の範疇はんちゅうから脱却だっきゃくしてしまって、ドラム・マシンの刻むビートの利いた、まるでニュー・ウェーヴのような作風に転換しているのだが、それはそれでよいとして、初期の頃ではいわゆるシンフォニック・ロックの佳曲かきょくを聴かせてくれるので、潤平もイーストは好きだった。しかし、それ以前に、一体全体黒田風情ふぜいがこんな場所に何の用があるのだ? という疑問も湧き起こってくるのだが、それに就いては潤平は訊かずにしまった。

 潤平の取り出したヘッドフォンを差し出すと、黒田はそれを手に、かわいた犬が水を求めるかのように、一心にヘッドフォンの音楽を聴き入っていた。そうしながらふたりは半ば蹌踉そうろうとして帰途きといた。黒田が聴き終わったのは、そろそろバスが終点の駅に着くころあいのことである。

「いいですね」

 黒田はぽつんと云った。

「気に入った?」

「はい。ワタシ……」

 黒田が言葉を継ぐ前に、潤平はすかさず、

「それさ、呉さんにもらったんだって?」

 黒田は苦笑いして、

「ええ、そうなんですよ」

「呉さん、一体どうしてそんなものを?」潤平は怒りよりも内心の不透明な戸惑とまどいのほうを扱いかねていた。「なんだか、スパークスのシングル曲みたいだな。〝ロスト・アンド・ファウンド〟ってのがあったけど」

「へええ」

 話柄わへいが変わると黒田は話に乗ってくる。

「――あれはたしか財布の話だったよな、歌詞は。こっちはウォークマンだけど」

「ええ。坊ちゃん、ワタシは別に…」

「わかってる。別に、誰を疑ったりとかしているワケじゃないんだ。ウォークマン、肝腎かんじんのブツは戻ってきたから、これで満足しようじゃないか」

 しかし、それで話は済まなかった。帰宅後、潤平が大輔と千鶴子にかくかくしかじか、と経緯いきさつを話すと、ふたりは血相けっそうを変えたのである。

「これはおおごとじゃないか」

 と大輔はいい、千鶴子も、

「ことはウチだけの問題じゃないよ。司直しちょくの手にゆだねられるべきゆゆしき事態だわ」

 と賛同したので、夕食が済んだのち、早速呉が呼びにやられ、潤平も臨席りんせきしたうえでの、文字通りの尋問じんもんが行われた。

「どうして盗んだのだ?」

 と大輔が問うと、

「……ちょっとでき心で」

 と言葉尠すくな。

「だれかの指示でやったの? あなたはたしかあの、…何とかいう占い師と関係があったでしょう」

 との千鶴子の問いには、

「いや、そういうことは断じてありません」

 と真っ向から否定する。

 万事こんな按配あんばいで、呉はそつなく自らの窃盗せっとう犯罪はんざいいて自己弁護するでもなく、あげつらうべき点は隈無くまなく取りあげ、といったふうに〝尋問会〟は進行した。かえってはたでみている潤平のほうが居心いごころがわるくなったほどである。

「どうして黒田くんに渡したりしたの?」

「………」

黙秘もくひする時にはね」大輔が親切に助け船をだす。「黙秘します、とこというんだよ」

「――黙秘します」

「誰かに売ろうと思ったの?」

「…黙秘します」

「ここにいる他の塾生のものもったりしたの?」

「…いいえ」

「じゃあ、どうして潤平のものだけを? 狙ったの?」

「………黙秘します」

 とまあこんな具合で、恐らく調書を取ったらまるで終戦直後の墨塗すみぬり教科書みたいなものに仕上がったと思われるのだが、けっきょく潤平の両親、笠原大輔と笠原千鶴子の夫妻はこれで満足するより他なかった。

 そこで呉さんは無罪放免か……、と思いきや、そうは行かなかった。最後に大輔は、

「それじゃあ、なるべくことは荒立てない、というここの原則に従って処理することになるが…、しかしきみももう十九歳だ、小児ではないわけだ。それなりに責任はとってもらわないといけないな。――ここを退去してもらおう」

「……退去、ですか?」

「うむ。その代わり、きみを刑事告訴けいじこくそしたり、……―つまり訴えたりしないから、その方では安心してくれていい。今月いっぱいの滞留たいりゅうは認めるから、そのうちに新しいジムをみつけるなり、故郷に帰る手はずを調ととのえたりしなさい。わかったか?」

 呉さんはふいに汪然おうぜんとして頭を下げ、

「わ、わかりました」

 といった。

 けっきょく、呉は故郷の山梨へ帰省することになった。この辺には係累けいるいはいないし、身請みうさきもみつからなかったのだ。

 それで一件は落着した、……ようにみえた。

 潤平は右頬にすさまじい熱のほとばしりを感じて瞬息しゅんそく、ひるんだ。が、すぐに気を取り直して列車の屋根を蹴った。今のでどのくらいやられたろうか。潤平はとびながら頬にそっと手でふれた。すこし……へこんでいるように思える。痛みというより、熱を感じる。あの砲台から放射される熱線は、エネルギーのかたまりであるらしい。少しだけ、こと三言みこと交わしたほかの〝カッツェ〟のいうところにれば、〝フント〟の本拠は林米駅周辺にあるらしい。いま、カッツェの聯中れんちゅうはそちらの方へと戦力を結集しつつあるのだという。林米駅は、潤平がいまいる加里米駅から北東に数キロいったところだ。すぐ立ち去ってもいいが、そのまえにここの辺りに集まっている敵勢力に少しでもダメージを与えてから、頃合いを見計らって立ち去りたかった。戦況せんきょうは……、優位なのか劣勢なのか、ではどうとも云いかねた。混沌こんとんとしているのだ。潤平は思いきり気を放った。それは火より熱い火炎弾となって255系特急型電車のほうへと飛んでいった。しい、あと少しずれていたら命中していた。最前から潤平の放つ〝気〟のエネルギーは、悪い弾筋たますじではないものの、〝あと少し〟というものが多かった。潤平はいっそう精神を集中し、次なる一撃を放つ準備にかかったが、案外あんがいエネルギーの消耗しょうもうがはげしく、しばし休息をとって体力の恢復かいふくを待つよりほかなさそうだった。潤平たちの武器は、文字通り肉弾にくだんであり、体力・気力の勝負だったのだ。そこで潤平はやむを得ず、いったん地上に降りた。そこは373系特急電車の編成の足許あしもとで、先頭車両の蔭に都合よく最前さいぜん戦闘車せんとうしゃからの死角ができていた。潤平がそこに降り立つと、先客がいた。それは女性だった。潤平は視覚上みえない架空かくうの帽子をとって挨拶あいさつした。

「どうもこんにちは」女は云った。「初めてあう顔ね」

「笠原といいます」潤平は自己紹介した。「よろしくお願いします」

「どうも」薄暗がりでよくわからないが、女はほほえんだようだった。「あなたも〝ユーグレナ先生〟の?」

「えっ」潤平は意表いひょうを突かれた兎のようにすくんだ。「いや、そうかは分からないが…、たしかに〝ユーグレナ先生〟のことは知っていますけど」

 女はこんど、はっきりと笑い声を上げた。

「あなた、天然ボケね」言うのである。「ここに来て戦っているひとは、みな〝ユーグレナ先生〟に縁やゆかりのあるひとばかりよ」

「そうなんですか。――いえ、ぼくはいきなり巻き込まれてしまったものだから…、何がなにやら分からず…」

「あら、そうなの。それはお気の毒さまね。けど、それでももう戦い方はマスターしてらっしゃるみたいじゃない」

「ええ」と潤平。「――やってるうちに、大体その辺のことは飲み込めて。それと、戦っている相手のことも。〝レパブリク先生〟でしょう?」

 女は小首を傾げた。

「さあね。一応あたしたちは、〝カッツェ〟として〝フント〟に戦いを挑む、という構図こうずになっているけどね」

「相手もわからずに戦っているのですか?」

「相手の名前が分かったら、戦いにくくなるんじゃないかしら。それで伏せられているのだと思う。だけど、あたしも、敵としては〝レパブリク先生〟くらいしか頭にはうかばないわね」

「ふん」潤平は鼻を鳴らした。「――で、戦況せんきょうはどうなんです、今のところ?」

「五分」女は即座に答えた。「まだどっちが優勢だともつかないわね。――ただ」

 と何か気を持たせるような云い方は潤平の気に入らなかった。

「何です?」

「ただ、あたしたちには〝ユーグレナ先生〟のオーラがかぶさってると思うから、その分有利ね、一歩リードしている、といっていいかも」

「オーラ? 後光ですか?」

「そう」女は点頭した。「そうじゃなきゃ、あんな〝フント〟みたいな機械を相手にして、五分の戦はできないわよ」

「そんなものですかね」潤平はつぶやいた。「――ぼく、これから林米駅方面へ行きます。あなたはどうなさいます?」

「あたし、正直もう疲れたのよ。いいから、行ってちょうだい。ここならねらい撃ちされるおそれもないし、静かに休めるから。適当な時宜じぎがきたら、移動する。大丈夫よ、どうも」

 潤平はうなずいた。そして、地を蹴って飛翔ひしょうした。

 ――呉さんは潤平たちの家を去った。潤平は従前じゅうぜんどおりトレーニングに励んだ。黒田の扱いは取り敢えず処分保留で等閑とうかんすことになったが、それ以来黒田はこの施設ではすっかり影が薄くなってしまった。スタジオでは盛んにHR/HMやプログレッシヴ・ロックの曲をかけ、潤平はまた通信制高等学校白魔陣学園の往還おうかんにウォークマンで夢中で音楽を聴いた。若菜とは会えば挨拶をするていどの仲だったが、いまの潤平にはそれで充分だった――、若菜の気持ちや心情はよくわかっていたし、自分の気持ちが一応傳つたわっていることも意識していたし、それでいまは事足りたのである。云い換えれば、女の子のことよりももっと大事なことがあった、ということだ。それからそれに加えてこのところ、潤平には不安材料があった――、自分の精神的な健康問題についてのことだった。時おり記憶が飛んでいるようなのだ。自分が覚えていない時間に、どこかべつの場所へおもむいて、なにかをやっているようなのだけれど、それにいての記憶が残っていないのだ。潤平は内心で薄々、自分の正気を疑いたくなることもあったが、口に出していうことははばかられた――、けれども、いつか気分に変調を来したときと同じような感情の浮き沈みがあったし、〝何か〟が起こっているらしいことはたしかだと考えてよかった。そうした不安感のなかで、潤平はそれを忘れるためであるかのように黙然もくねんと以前より増してストイックにワークアウトに励み、ウォークマンで音楽を聴いた。学校にも定期的に顔を出し、きちんと試験を受け、なかなかの成績を収めた。聴く方では、潤平はイエスやジェネシス、エマーソン、レイク&パーマーや、アルバム「イクイノックス」の頃の初期のスティックス、ドイツのトリウムヴィラート、イタリアのレ・オルメといった、シンフォニックな、キーボード志向の強い音楽を好んだが、その一方で、キング・クリムゾンなどのギター・オリエンテッドなものも好きだった――これは、潤平は元々がHR/HMファンなので当然だったが。ザ・カーズとかトム・ペティ、ニール・ヤングなどのいわゆるクラシック・ロックも一と通り愛聴したし、ニック・ドレイクやサンディ・デニーといったフォークも好きだったが、ニュー・メタルやグルーヴなどの〝モダンな〟作り込みを施したヘヴィ・メタル音楽にはいくぶん懐疑的かいぎてきだった。そして、〝やまい〟はしずかにしかしたしかに潤平の心身をむしばんでいることを、潤平はちっとも気づいていなかった……。

 ――潤平は林米駅方面へ向かうキハ20系車輛による急行〝たいしゃく〟の屋根に取りついて加里米駅を離れた。林米まで〝跳躍ちょうやく〟してもよかったが、体力の消耗は死に直結すると思い、自重じちょうしたのだ。グリーン車も食堂車、寝台車も含まぬモノクラス編成の地味な列車だったが、むろん潤平はそんなことを気に懸けるような鉄道マニアではなかったから、てんで気にしなかった。むしろ、駅でこの列車の正しい時刻表をたしかめて来なかったことをうらみに思っていたのだが、どのみち五分か六分もすれば着くだろう、と考えていた。列車は潤平の思いを知ってか知らずか、たびたび信号で停車した。それは、とりもなおさずこの日進行しているカッツェによるフントに対する叛乱はんらん作戦さくせんの泥沼化・長期化を示すよい予兆よちょうなのだったが、潤平はふだんこの路線を利用する乗客ではないこともあって、屋上のベンチレータにつかまりながら、いやに遅い急行だな、列車に臨時の遅延ちえんでも発生しているのだろうか、と考えただけだった。潤平はじつに暢気のんきに構えていたので、疲労からうとうとしてしまい、車体のどこかに設置されているコンプレッサがごとごとうなりだしたとき、びっくりして眼を醒ました。い、一体これは何だ……。だが、自分が列車の屋根上にいることを思い出すと、潤平はやっと気分を落ち着けた。たかがコンプレッサじゃないか。少しばかり車体が顫動しんどうしたくらいでおたおたするなよ……。潤平は欠伸あくびをして、自分がいま三輛編成の列車の二号車屋上にいることをたしかめると、またごろりと横になった。――が、視界のはしに林米駅前の熱閙ねつどうの燈火がちらと入り、た眼を開けた。列車はポイントの多い区間を揺れながら通過し、やがてまた信号でがくりと停止した。潤平はうたた寝から醒めて、すこし頭痛の残る脳髄から四囲しいを見回したが、これといって異状いじょうは見受けられないようだった。潤平は相変わらずの〝うっかり・ぼんやり〟だったが、それでも四方の情況じょうきょうからその頃には、先ほど逢ったあの女はああ云ったけれど、実際は〝カッツェ〟のほうが分が悪く、ほとんど劣勢と称して差し障りないのが実状であるということが、何とはなしにわかってきていた。けれど、このいくさはそもそも自分の意志で戦いに出ているものではないのだ。依頼されたわけでもない。勝手に巻き込まれて、勝手にやっているものなのだ。「いち抜けた」と離脱りだつ宣言をしてしまっても一向さし支えのないものではないか。それをこうして律儀りちぎに戦っているのは、非常に不条理な滑稽こっけいさがあるように潤平には思われた。そう、理不尽なのだ。潤平はそもそもなんの争いごとも好まぬたちだった。滅多なことでは喧嘩などもすることがない。それが、へんな時にインターネットをつかったがために、おかしなことに巻き込まれてしまった。迷惑千万めいわくせんばんな話だ。

 ――そう、潤平のあらたな〝病〟は、決定的にインターネットの利用から端を発していたようだ。潤平もそれをどこかにうすうす感じ取ってはいたが、腑に落ちる、という按配あんばい感得かんとくするには至らなかったのは、この病には恐らく二面性があって、妙に好調なときと逆に不調なときとあり、不調なときには別の自分に取って代わられてしまう(又は別の自分に取って代わられるから体調も不調になる)のだ。これは精神科の対象範囲としてのいわゆる疾患しっかんなのか、それとも単なる〝気の病〟なのかは潤平には分からなかった。けれど、へんに精神科なぞうかうか訪れたら、下手をすると身体拘束しんたいこうそくを受けて措置入院そちにゅういん、という憂き目をみるかも知れない。ここは当面大人しくしてほとぼりが冷めるまで待つのが上策じょうさくだろう、と潤平はだんを下していた。もっとも、この情態じょうたいはいったいいつまで続くのか判然はっきりと分からない。先のことは全くみえないから厄介だった。それでも、潤平は目一杯詰め込んだ日程で生活し、積極的に高等学校のスクーリングにも出席した。自宅にいるときでもよくスタジオに顔を出し、盛んに身体を動かした。黒田とはすっかり縁遠くなり、又黒田でもなるたけ潤平と顔を合わせないようにしているらしく、朝食の時間にも現れないことが多かった。潤平は阿諛あゆをつかう人間を好かなかったから、それはそれでよかった。けれども、一点理解不能でしかも微妙な問題が浮上してきた。

 潤平は十七歳の五月からトレーニングを始めて、おおよそ一年間に亘り鍛練を積んできた。自宅にジムがあるという恵まれた環境でもあり、又それなりにハード・ワークをこなしてきた成果でもあり、今では体重を超えるほどの負荷でベンチ・プレスを行うことができた。因みに単位のほうは、あと幾つか取得すれば大学入試受験が可能になる。入浴時に鏡をみても、なかなか筋肉がついて来たな、と感ずることがよくある。以前のように、贅肉ぜいにくばかり目立つ身体ではない。いまの体型は……、形容するなら、ミケランジェロの手になるダヴィデ像に少し筋肉をつけたような、といったところであった。ここまで身体づくりをするのに、優に半年ほどかかっていた。

 けれど、それがここで一つ問題の浮上をみたのだった。それというのも、こうして書くとばかげてみえるかも知れないのだが、問題は単純なことで、「身体に筋肉がつかなくなってきた」ということなのだった。潤平はひどい筋肉痛がある時を除き、毎朝ワークアウトを行うのだが、扱えるウェイト、つまり負荷は右肩上がりにだんだん増大している、つまり筋力がついていることになる。たとえば、潤平はベンチ・プレス(主に大胸筋のトレーニング)では、二た月前には八五.五キロを扱え、先月はそれが九〇キロになり、今月は九五キロに、といった按配でだんだん重い負荷でトレーニングをしている。ところが、そうしてトレーニングを続けていても、鏡でみた自分の身体には、ちっとも変化が現れないのである。そう、「それは主観的なものだ」という声があることは重々承知している。けれど、一〇〇キロのバーベルを使ってトレーニングをしている姿が、八五キロでやっていたときと見かけ上まったく変わらなければ、不安感ないし不信感を抱くのはまったく正常なことではなかろうか。すくなくとも潤平は、最初のうちはやはり思いこみと考えて、無視していたのだが、やがて気にするようになった。毎日鏡を見るからかえってよくないのかも知れない、と思い、週に一遍だけにしてみたりもした。だが、やはり変わらない。

 これはやはりおかしいのではないか、と思い出したころに、声を上げたのは誰あろう黒田であった。

 ある朝、潤平が朝食をとるために階下に降りると、珍しく黒田が臨席りんせきしていたのだ。それだけで昨今滅多にないことだった。が、潤平はへだて心があって、声をかけたものかどうか二の足を踏んだのだけれど、潤平とみとめると黒田のほうから接近してきたのだった。そして何のためらいも遠慮会釈もなく潤平の隣に席をとると、

「坊ちゃん」と馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。「お久しぶりですねえ。どうもお早うございます」

「うん」潤平は口の中で挨拶した。「なにか、あった?」

「坊ちゃん、ワタシ、これでもよく考えたのですよ」黒田はよく分からぬことをいう。もっとも、これは黒田の大抵の言動にあてはまることだったが。「その結果なんですがね」

「そう。――一体何の話なのか、ちっともみえないんだけど」

いやですねえ」黒田は大仰おおぎょうに手を振った。「――ええまあ、それはいいです。その前にひとつご挨拶あいさつしなきゃならないことがあるんですがね」

「何だい?」潤平の言葉はけに邪慳じゃけんだ。「話があるなら、さっさと言ってくれ。ぼく、今日も学校があるし、忙しいんだよ、悪いけど。それに、ぼくからはあんたには一切話すことはないからね」

「ええ、分かってますよ」黒田はじれったそうに言う。「ワタシのほうも、たぶん坊ちゃんに話すのはこれが最後の機会になると思いますけどね」

 潤平は食事の手をとめた。

「なぜ?」

 と問うと、

「ワタシ、実はこのたび、実家に帰ることになりまして」

 潤平は黒田の眼をみた。

「――…そう」とオレンジ・ジュースを一と口含み、「そりゃあ、急な話だね」

「ええ。ワタシも、できればここに残りたかったんですがね」黒田はいかにも後ろ髪を引かれる、といった風情で四囲しいを見回し、「でも、まあこんなになっちまったら、もういけませんや」

 といささかやくざな口調で付け加えた。

「一体どうして? お故郷くにでなにか?」

 黒田は自嘲するように笑った。

「いいえ」と手を振り、「ワタシもできれば、ビルダーとして名を挙げたかった、名を刻み、残したかったんですがね。でも、全てこんな按配あんばいになっちゃ、いけません。それはよく分かっていますよ」

 そう言うのを聞いて、にぶい潤平も遅蒔おそまきながら、やっと黒田は例の〝ウォークマンの一件〟の絡みでここを去ることになったらしい、ということに気づいた。

「あのさあ」と潤平。「その件なら、ウチの親父かお袋に、かけ合ってみてもいいけど…」

 が、黒田は、首を振って、

「それは、いいですよ。結構です。何てったって、言い出したのはワタシ本人なんですから」

「ふうん。――して、故郷くにはどちら? いつ帰るの?」

「故郷は石川なんです。もう、あと荷物をまとめて、今週中には」

「そうか」と、気づいて、「何か、ぼくに用でも?」

 すると黒田は頷いた。その顔をみたとき、潤平はなぜということもなく、ああこの男は、ぼくになにか非常に重大な・すくなくとも黒田本人にとってはとても重要事だと思われる何事かを伝えようとしているのだな、とで直感した。そういう勘は、潤平にとっては決して珍しいものではなかったのだが、この所激しいトレーニングと勉学に打ち込んでいたお蔭で、実際に味わうのは久しぶりのことだった。それでも潤平の意識はその勘を嘉納かのうした。まるで干天かんてん慈雨じうのような、疲れ切った意識・無意識と身体にとっては、よい気分転換となる一服の清涼剤のように思われた。そこで潤平は、もだしたままの黒田に向かって明るい顔で云った。

「何でもいい、話してみなよ」


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