F.

「おっす」

押忍オス、コーチ」

「元気ないじゃん」

「うん……」

「どったの? 何かあったん?」

 訊かれて潤平は、ぼそぼそとした口調で逐一ちくいちことのあらましを話してしまった。若菜は眼を丸くして聞いていたが、話が終わると、一と言、

「ひょええ」と云った。「あなたの知らない世界、だね?」

「――うん、でも隣にある世界だよ」

「で、どうするの?」

「黒田のいうことは、ぼく余り信用してない」

「そうかなあ。黒田さん、とてもいいひとよ」

「どうかなあ。ぼくには何とも言えないな」

「あたしの知る限りはとってもいい方だけどね」

「うん、でも一人称はカタカナでワタシ、って言うしさ。ぼくのことを、〝坊ちゃん〟て呼ぶのも気に喰わない」

 若菜は笑った。

「まあ、一つ信用してあげなよ。そう言わずに」

「うん……、って、どうやらそうするしかなさそうなんだけどさ」

「ところで、今日のワークアウト、いかがいたしますか?」

「ああ、今日はまだこないだの筋肉痛が残ってるし、今日ガッコもあるから、いいっす」

 潤平は元気をなくしてそそくさと席を立った。

 まったく、ここ数ヶ月間、ぼくの暮らしはどんどん〝胃がキリキリ痛むような〟方向へと向かって傾斜けいしゃしていくなあ。潤平はそう思いながら三階の自室に戻った。何かレコードでもかけるか。いな。TVでもみるか。否。潤平はあらゆる提議に対して「否」を唱えた。そして、最後の発議「今日学校は行きますか」に対しては、ようやく「」と答えたのである。

 今日の授業は午前十一時からだ。この家から学校まではドア・トゥ・ドアで四〇分ばかりなので、朝はゆっくりできる。

 潤平はのろのろと支度し、時計をみて、午前九時を過ぎたことを知ると、電話を手に取った。名刺に刷られてある番号に迷わずかけた。

 相手は、三、四回の呼び出し音で出た。

「はい」

「……――あ、あのう、わたくし、先日白魔陣学園でお会いしたものなんですが」潤平にはこういう切り出し方しかなかった。「ちょっとご用がありまして」

「ええと、お名前は?」

「は、はい、笠原、と申します。笠原潤平、と」

「はい」

 それで? と促すような口調だったので、潤平は要用ようようを口にした。そして最後には、

「――で、先生は果たしてあの場に本当におられたのかどうか、それが疑問なんですけれど…」

 と意識しないで付け加えていた。〝ユーグレナ先生〟こと吉見まどかは、

「あたしがそこにいたか、いないか……、それはあたしの問題じゃないわね」

 と云う。

「へ?」

「あたしの問題じゃありません」

「あなたの問題じゃない」

 鸚鵡返しに潤平は言った。

「そ。あなたの方の問題です。あなたがあそこに、あたしの姿をたしかに認めたというのなら、それならあたしはきっとあの場所にいたのでしょう。あなたが逆に、稀薄きはくな印象しか得られなかったというのなら、いなかった…」

「ちょっと待って下さいよ」潤平は思わず口を挟んだ。「そんな…、あなたはあそこにいたのなら、別の場所にはいない筈でしょ? そんなの無責任過ぎやしませんか?」

「しないわね。同時存在というのは、考えられることよ。それは実体というよりは、アストラル体の問題ですけどね」

「あすとらるたい……」

 更にけむに巻かれるような思い。

「ご用件は、それだけかしら?」

 何だか電話を切ってしまいそうな勢いだったので、潤平はあわてて、

「ああ、ちょっと待って下さい」

 とかくかくしかじか、と悩みを相談した。すると〝ユーグレナ先生〟は、静かな口調で、

「あたし、あなたに、あなたの家は〝霊道れいどう〟に当たっている、といったわよね」

「はい」

「そこね、あなた、住むにはちょっときびしいわ」

「厳しい?」

「うん。体質的によくないの。あなた、霊媒れいばい体質、スポンジ体質っていうんだけど、だからあんまりよくないでしょう」

「そうですかあ」

 いきなりそんなことを言われても。

「まあ、いいわ」語気ごきを改めて、「本当は〝ご指導しどう〟をやってもらうのがいちばんいいんだけど、こう話が急じゃ仕方がないから、えずお守りだけつくってあげるから」

「…はあ」眼を白黒しろくろさせて、「それはどうも……」

「今日は、学校へ行く日なのかしら?」

「ええ、そうですけど」

「それじゃあ、あたしも行ってあげるから。待ってて」

「は、はあ」

 電話は切れた。うっかり・ぼんやりの潤平は、スマホをぼんやり見つめて、あのひと、また〝アストラル体〟とかで来るつもりなのかな、だけどぼくの登校する時間は訊かれなかったなあ、と思った。体調は悪く気が重いのだが学校へは行かなくてはならない。潤平はバッグにテキストやノートブックを詰め込むと、電子定期券をたしかめ、出かける支度したくを整えた。

 今日は行くの止そう、と不意に思ったのはその時だった。今日はきっと、行ってもろくなことは何もありゃしないだろう。いい日にはなりそうにない。英語圏のひとが、「今日は俺の日ではない」と表現する、そんな日だ。潤平はそう思って、部屋の床にバッグをおいてチェアに腰掛けると、両手で頭を抱えた。頭が痛かった。――けど、今日はたしか化学と数学の小テストがある。ってでも行かねばならない。潤平は詮方せんかたなしにほうしたバッグを拾うと、肩にせおい、とぼとぼと歩を運んだ――。

 潤平は電車の中でアイコノクラスタを聴いて過ごした。清冽せいれつな流れのように聞こえるシンセサイザーの音色を聴くと、水気を失って堅く結ばれていた心の表面が少しずつ解れてきて、学校にたどり着く頃には鼻歌でもうたいたくなる、そんな気分になっていた。

 潤平は登校すると化学室へゆき、五、六名の生徒に混じって黙って待っていた。――と、瞬間的に室内は暗転あんてんした。溶暗ようあんではない、瞬間的にいきなり真っ暗になったのである。ただ、不思議なことに、室内のだれも叫んだり立ち上がったりする者はなく(もっとも、ここへ通う生徒の大半はごく大人しいものばかりだったが)、まるで潤平だけが一身にこの闇を引き受けている、というような按配あんばいだった。潤平自身は、受け身の態度をとっていて、内心もごく冷静であった。いつかこれは去るだろう、という根拠のない感じを持っていた。

 そして、その考えの通り、暗闇はまたぱたぱたと光のなかに吸い込まれてゆき、潤平は無事明るみの中にでた。今のは何だったのだろうな、とぱちぱち眼をしばたたいて周囲をうかがったが、異状いじょうを感じ取っているような者はほかに確認できなかった。今のはひょっとして……、と思いふと眼の前の机のうえを見やると、ビロード製の小さな袋がひとつ、載っていた。腹がふくれていて、中になにか入っているようだ。これは……、と思って潤平はその小袋を取りあげた。触ってみると、中にあるのは何か硬いもののようだ。おそらく鉱物だろう。潤平は怪訝かいがの表情でそれをあらためた。いったいどこの誰がこんなものを? 潤平はあたりを見回したが、まるで見当はつかなかった。首をひねるしかない。だが、潤平の心中にはおのずとある直覚ちょっかくが既に生まれていた。これは、たぶんあの〝ユーグレナ先生〟こと吉見まどかが、一体いかなる方法でかはわからぬが、自分の言葉を履行りこうしてくれた証なのではないか。さっき電話で話していたとおり……。潤平はそう考えて納得するしかなかった。これが〝お守り〟なのか。世の中、わからんものだ。潤平はつぶやいた。

 化学の小テストはうまく行ったようだ。モル数を求める問題、分子量を導く問題、どれも問題なかった。が、それでいい気になったのが裏目に出て響いたのか、数学のテストでは幾つかケアレス・ミスをやらかした。が、そんなに気を留める必要もなさそうだった。

 数学の試験を終えて帰ろうと思い、荷物をまとめていると、背中を誰かに叩かれた。不意をつかれてびっくりして振り返ると、青いパーカを着た若い男が立っていた。親しげな表情をうかべている。潤平は怪訝かいがの表情になる。

「あなた、笠原さんでしょう」男はいう。「ぼく、くれです」

 潤平は「?」の表情をした。すると、

「ぼくもスタジオにいる研修生ですよ」

 と付け加えたので、潤平にもっと得心とくしんがいった。そういえば、大輔や千鶴子が、呉さんに、とか、呉くんは、とか話していたような、断片的な記憶があった。

「そうですか」潤平はやわらかな物腰でいうた。「それはどうも」

「あなたも白魔陣学園に通われてるんですね?」

 呉は親しげだ。

「ええ、まあね」

「それは奇遇だ。ぼくのこと、見覚えありませんか? ご記憶には?」

「ありませんね」

 潤平はそっけなく答える。呉は追いすがってきて、

「これからお帰りなんですか?」

「そうですよ」

 と、残念そうに、

「そいつぁ残念だな。あのスタジオはいま、怪異かいいで満ちてるんだ。それをお話したかったんだが…。ぼくはこれから世界史のテストなんです」

「………怪異かいい?」

「ええ」呉はうなずいた。「今朝も、ぼくははっきり聞きましたが、家の中で地鳴りがしていたんです」

 あれか、この男も聞いたのか。潤平はかすかにため息をつくと、思わず、

「あなたもですか」

 と言ってしまった。呉は、また一つうなずいて、

「笠原さんも、お聞きになったのですね。いや、あれほどの現象ですから、ほかに誰か聞いたひとがいても不思議はないと思ったのですが…」

「ああいうことは、以前からうちでは往々おうおう度々たびたびありましてね」

「ええ。ぼくは、研修生として入ったのは去年ですが、同じようなことはこないだもありましたね」

「よくご承知で」

 呉はちょっと笑って、

「対処法もあるんですが…」

 潤平はなぜか先回りして、

「ええ、あるようですね。〝ご指導〟とかいうものが…」

 と、呉はちょっと渋い顔をしたようだったが、すぐに顔色を元に戻し、

「…――まあ、それも方法といえば方法ですが、もっといい、適当適切なやり方はあります」

 潤平はどんな顔をしたらいいのか分からなかったが、

「どんな?」

 と問うと、呉は、

「〝礎石そせき〟をおくことですね」

 と何でもなさそうにいう。今度は潤平が不審な顔をして、

「〝礎石〟ですって?」

 と問うた。

「そうです」とうなずき、「これは、〝レパブリク先生〟独自のやり方なのですが」

 潤平は心中しんちゅう頭を振った。やれやれ、また〝先生〟か。

「――〝レパブリク先生〟ね。ご本名は何と仰有るのです?」

「先生のご本名はほとんど非開示ひかいじになっていますが――」

「――?」

「……堀あゆみ、といいます」

「堀先生、ですね。いいでしょう。――ただね、ぼくはこういう問題については門外漢もんがいかんでしてね、右も左もさっぱり分からないのですよ。まあ、あのスタジオには少し詳しいひとがいますが…」

 と、呉は眼の色を変えて、

「誰です?」

 と云ったので、潤平は瞬間的にははあ、と思い、

「…――ああ、それは今は申し上げないことにしましょう」と言った。「かくね、ぼくはえずその先生のやり方に従うことにしますよ」

「もしかしてそれは……」呉は一瞬悽愴せいそうな表情になり、「〝ユーグレナ先生〟では?」

 潤平は知らぬ顔を決め込むことにして、

「さあ、忘れましたね」

 と答えた。気がつくと、辺りは二人きりになっていた。潤平は時計をみて、

「あ、もうこんな時間だ。さ、さ、呉さん、時間ですよ」

 と言い、呉を一人のこして自分だけ歩き出した。表面上は平静を装っていたが、内心は不安と不透明な気分でいっぱいだった。

 翌朝、潤平が眠い眼をこすりながら朝食の席に着くと、黒田がやってきて、

「坊ちゃん、お早うございます」

「――ああども」

 昨日のことは言ったものかどうか。と迷う間もなく、呉もやってきた。

「ああ、笠原さん、お早うございます」

「どうも」

 黒田と呉は視線を絡ませ合い、微妙な空気が流れたが、二人は簡単に挨拶あいさつを交わし、呉は黒田の反対側に席を占めた。黒田は間もなくそそくさと席を立ち、潤平と呉のふたりが残された。呉は小さな声で、

「〝レパブリク先生〟は絶対ですよ」

 と言った。

「絶対? さあ、何だか知らないが、ヘンなものに巻き込まないで下さいよ」

「好むと好まざるとに関わらず」と呉は人差し指を一本立てて、「あなたは既に渦中かちゅうにいる。そのことに早く気づかねば」

「渦中? 止めて下さいよ。何かの名跡みょうせき争いらしいが……」

「そんなものではありません。ことはそんななまやさしいものではないのです」

「では、」

 何、と訊こうとした時、穿いていたチノパンツの尻がどんどん熱くなってきた。あちちち、と言って手を当てると、角張ったものが入っていた――、昨日貰った〝お守り〟だ。潤平は熱さをこらえかねて、その水晶のかたまりを、テーブルの上にほうした。〝お守り〟はビロードの袋が焼けて、中身の水晶むき出しになっていた。呉は目ざとくそれに眼を付けて、

「それはひょっとして、〝ユーグレナ先生〟の……」

 もう云い逃れはできない。

「そうです」潤平はうなずいた。「その通りです」

 その時、潤平の視界には若菜の姿が這入はいった。潤平は救いを求めて若菜を見つめたのだけれど、若菜はあいにく別の女の研修生と談笑していた。

「――そりゃあ、いけない」呉はきめつけるように言った。「あのひとと〝レパブリク先生〟とでは、格が違いすぎる、ってもんだ」

「ぼくにはどっちがどう、とか、いいだの悪いだの知りませんが」潤平は業腹ごうはらで言った。「ぼくには何も関係ないことです。ぼくは何も知らない」

「けれどもね、笠原さん。あなたはもうその中にいるんですよ。あなたは学ぶべきことを学んで、その上で自分で決めなくてはならない」

「ヘンなこと云わないで下さいよ」

 呉はスプーンでオレンジ・ジュースのグラスをチンと叩くと、

「いいや、あなたにはもうそろそろ分かるはずだ」

 といい残し、席を立った。

 潤平は食後、かなり迷った末に〝ユーグレナ先生〟に電話を入れることに決めた。その前にスクーリングのない日は掃除があったことを思い出してスタジオに這入はいると黒田の姿があった。

「お早うございます、坊ちゃん」

 黒田はまた挨拶した。

「うん。――あの、呉さんってのは何者だい?」

 黒田なら消息しょうそくを分かっていそうな感じがしたので、単刀直入たんとうちょくにゅうそう問うた。が、黒田は肩をすくめて、

「さあ」と答えた。「ワタシは、よく知らないです」

「そう」

 潤平の落胆らくたんした様子をみて、

「だけどね、坊ちゃん、あの人のことで、いいうわさはあまり聞かないですね」

 と付け加えた。

「そうか」

「ええ。お話しするのを忘れていましたが、ちょっと註意ちゅういが必要、問題のあるひとかも知れないですな」

「ううん。――分かった。サンキュー」

 掃除の後で、潤平はやはり〝ユーグレナ先生〟に電話してみようと思った。潤平はどちらの〝先生〟のこともよく知らぬ。少し話を聞かねばどちらとも決めかねたのだ。今日は幸いスクーリングもない。もしかすると若菜には、「早くワークアウトをやれ」とせつかれるかも知れないが、一日ぐらいごめん願いたいものだ。潤平は迷わずスマートフォンを手にとった。先生が出るまでのあいだ、じりじりして待つ。

「はい、もしもし」

 やっと、先生が電話口に出た。

「あのですね…」

 潤平が勢い込んで話しているあいだ、先生は黙って聞いていたが、話が済むと、

「それはたしかに大きな問題ね」と言った。「あたしの方ではべつに何とも思っていやしないのよ。だけど向こうがやたらと敵愾心てきがいしんを燃やして……」

「一体、問題の根っこはどこなんです?」

「簡単。単純な嫉妬しっと――、すくなくとも始めのうちはそうだった」

「ねたみ?」

「ええ。ある時ね、あたしTVに出たのよ。民放のヴァラエティ番組で、少し占いをするコーナーに出たことがあるの。それが最初……。まあ、〝レパブリクさん〟、……堀さんも、大企業のウェブ・サイトや大きなプロヴァイダのホームページで占いの企画を担当したりしているから、それなりに知名度は高いんだけど、あのひと根が目立ちたがりなのよね。だからあたしが先にTVに出たのを、ヘンに誤解して、あたしが堀さんを出し抜いたのだ、とかかんぐるようになって…、そうなるとあたしの方ではもう何もいうことはなくなるからね」

「なるほど、そういう訳でしたか」

「――まあ、それ以前からのこともあるといえばあるんだけど。あのひととあたしと、どっちが有能な霊媒かはわからないけど、必要な国家資格をさ、あたしの方が先にひとそろいとっちゃったとか、あと一緒の占い館で仕事していた時もあたしがナンバー・ワンになってあのひとはいつもあたしの……、後塵こうじんはいする、という言い方が適切かどうかわからないけど、まあともかくあのひとはナンバー・ツーより上にはなったことがなかったから、仕方ないのよね。そういったことが積もりつもって今がある、という感じ。分袂ぶんべいしてからはもう何年か経つんだけど、あたしは何もしないわよ。いつもいつも、毎回毎回決まってあちらの方から手を出して来るのがお定まりのパターン」

「……はあ」

「でも、今回の件はちょっと注意した方がいいわね。向こうもこれまでの失敗でりているのかどうかはわかんないけど、すくなくともかれしかれ学んでいることはたしかだわ。今回はどうも面倒なことになりそうな予感がするの」

「……は、はあ…」

「笠原さんには、ぜひ〝ご指導〟をやって貰いたいわ。モニュメントをおくとか、そういう消極的なやり方でなく、ね。何かがそこにいることは確実なんだから。それはお分かりになりますでしょ?」

「はい、それはもう以前からのことですから」

「大体ね、〝礎石〟を置いたりしても、霊に対する効果なんて見込めないわよ」

「あのう、両方やる、というのはいけませんか?」

「両方」〝ユーグレナ先生〟は鸚鵡おうむがえしにいうと、ちょっと黙ってから、「それはダメね。二つともやるとなると、バッティングするから効果は相殺そうさいされてゼロになるわね」

「そうですか。参ったなあ、いまここにですね、〝レパブリク先生〟の熱心なフォロワーがいて、〝レパブリク先生〟は絶対的な存在だ、と吹き込むんですよ。それで……」

「――ああ、なるほどそういうことね。それなら、形だけ〝礎石〟をおきなさい。恰好かっこうだけそれらしくみせ掛けておけばそれで済むから」

「……あとですね、その〝ご指導〟というのは、一体何をするのです?」

「塩の上で、護符ごふを焼いて下さい。それを二十四日とか四十八日とか、決まった日数続けてもらって……、という感じね」

「そうですか。お金も掛かると思いますけど」

「その辺は、ご両親によく話してみて」

「できないようなら……」

「うん、その時はその時だから」

 電話が切れ、潤平は何とも云えぬ顔でスマートフォンをみた。本当はもっと訊きたいことはあった。こないだの〝お守り〟のことだとか、夢のことだとか……。潤平はもどかしくなってスマートフォンをしまうと、ウェアに着替えた。

 この頃の潤平は少しばかり筋力もつき、たとえばベンチプレスは三〇キロを十五レップそれを三セット、といったメニューだった。だんだん体型も変わってきた――、腹が引っ込んできて、逆に胸囲が増えてきた。尤もこれは、ウェイト・トレーニングだけでなく、登校するために駅まで往復歩いていることが大きく寄与きよしていた。だんだんしまった身体になってくると、自然自分の肉体への一種の愛着も湧き、以前のように夜中に起き出してカップ麺を食べたり、暴飲暴食することはなくなってきた。そして一種のストイックさも身に着けていた。その中にはまずいプロテインを我慢して飲むことも含まれたが。一方、若菜とは相変わらずのよい関係が築けていた。潤平も若菜には好意を持たれていることが漠然ばくぜんとわかってきていたのだが、以前のようにそれをうとましくは感じなかった。潤平もどちらかといえば好きだったが、しかし表だってその感情を表すことはためらわれた。他の研修生の手前もあるということでもあったが、何より自分の〝大事な気持ち〟を表沙汰にするのは勇気がったのだ。

 両親は、〝ユーグレナ先生〟の〝ご指導〟の話を聞くと最初は驚き怪しんだが、以前より潤平がこの家である種の〝怪異現象〟を目の当たりにしていることを既に聞いていた千鶴子が話を聞いてくれ、又千鶴子がこの家で主たる財布のひもを握っていることもあり、この二人、即ち〝ユーグレナ先生〟と〝レパブリク先生〟のために金を出すことに同意してくれた。バッティングのことは気になったが、取り敢えず両方ともやっておけ、という軽い気持ちでとった方策ほうさくだった。まるで初詣に行けば葬式は仏教式にやり、ハロウィンやクリスマスを祝う日本人らしいやり方といえば云えた。

 だが、これが一連の事件を招くことになった。

 〝ご指導〟というものは、まず〝ユーグレナ先生〟から護符が送られてくる。その護符には筆書きで何やら呪文のようなよく判読できぬ文言もんごんが書き付けてあるのだが(潤平はどうやらそれを、密教みっきょう真言しんごんではないか、と推測した)、それを塩を盛った鉢の上でロウソクの火を使って燃すのである。一日一枚ずつ燃してゆく。そして、そこに小さな握り飯とグラス一杯の水をそなえ、飯と水は毎日交換する。

 それに対して〝礎石〟については、とりたててやるべきことは何もない。ただえておけば済む、というものだったが、但し毎日掃除をきちんとして、清潔を保たなくてはならない。

 呉という男は、〝礎石〟をおいたことについては何も云わなかったが、潤平が〝ユーグレナ先生〟の指図の下〝ご指導〟もやっていることを聞くと、顔色を変えた。

「〝レパブリク先生〟は絶対だと申したはずです」というのである。「ほかの者は本物をかたる偽物にせものです。すぐにお止めなさい」

「だけどね、呉さん」と潤平は抗弁こうべんする。「ぼくも訳のわからぬうちにこんなものに巻き込まれて…、迷惑しているのはこっちですよ」

 他の研修生たちはわりと客観的に、てんとしてことの推移・成り行きを見守っているふうであった。その中には若菜も含まれていた。それは潤平にとってありがたいことの一つであった。ただ、中にはやはり、突如とつじょ出現した〝礎石〟又はモニュメントについて、いささか揶揄やゆ混じりのコメントを口にする者もいた。呉はそうした研修生を牽制けんせいして、

「〝レパブリク先生〟を侮辱ぶじょくすると、罰が当たります」

 というのだが、他からは、

「こんなの、まるで新興宗教みたいじゃないか」

 という声が優勢であったので、潤平も、

「いえ、別にお金は出したりしていませんから。宗教というのとは違うんです」

 と弁護せねばならなかった。しかし、当の潤平にしても、いったい呉が正しいのか、それとも周囲の研修生が正しいのか、という点にかけてははっきり分からなかったというのが正直なところであった。潤平の育った家庭というものは、免疫めんえきの有無を取りざたする以前に、そもそも〝宗教〟一般とは縁遠いものであった。最前にも述べたとおり、夏には墓参りをし、秋にはハロウィンを愉しみ、冬にはクリスマスを祝って初詣をする――、葬儀やお盆に多少、形ばかり宗教色を帯びる程度の平均的な日本の家庭像がここにあったので、潤平がいわゆる超常現象を経験しても、解決策を見出すことができなかった理由もここにあるのだ。だから、潤平もその両親も、〝ユーグレナ先生〟や〝レパブリク先生〟のいうとおり、唯々諾々いいだくだくと従うしかなかったのである。

 そんなある日潤平は、学校からの帰り道で順ちゃんと一緒になった。小学まで同じ学校、学年は順ちゃんが一つ上だった。潤平もきらいなタイプではなかったので、中学に上がったあとも何度か一緒に遊んだことがあり、潤平の〝趣味〟もよく知っている。

「ねえ」と順ちゃんは慣れ親しんだ潤平に手を出した。「何か、聴かせてよ」

「何か、ってなにを?」

 潤平は気を持たせる。順ちゃんは口をとがらせて、

「決まってんじゃん。何か面白いもの、聴いてんでしょ?」

「ううん」潤平は顎下あごしたに手を当てる。「まあ、ね。最近はメタリカかメガデス辺りが…」

 と、順ちゃんは手を出して、

「聴かせてよ」

 潤平は、尚も気を持たせるためにちらりと順ちゃんを横目でみて、

「まあ、いいけどさあ」

「聴かせてよお」

 順ちゃんはほとんど殴りかかりそうな気勢きせいである。そこに至って、潤平はっと、

「うん、いいよお」

 と、バッグの中に手を突っ込んだ。ウォークマンを探すためだ。あの小型の装置、ブルートゥース搭載の今年の青いモデルを……、だが、なかなか見つからなかった。

「あれ? あれえ?」

 潤平はちょっとあせった。今朝はたしかにあったのだ。行きの車中は聴いて過ごしたのをよく覚えている。とすると学校で…? わからぬ。

「ないみたい」

 潤平が告げると、順ちゃんは案外素直に引き下がり、何事もなかったことにいては、潤平は後々のちのち神だかなんだか分からぬが、感謝したものである。

 さて、かく潤平のウォークマンは、ある時忽然こつぜんとして消えてしまったのであった。潤平も物惜ものおしみする心から、再三さいさん懸命けんめいに探してみたのだが、結果ははかばかしくなく、結局見つからなかったのだった。

 潤平は黙々とワークアウトに励んだので、ティーンエイジャーの少年に相応ふさわしい速やかさで身体には筋肉がついてきた。

 そして、少し〝ガタイ〟ができてくると、潤平は大輔や千鶴子の薦めでコンテスト・大会に出場することになった。潤平は高校生資格だが、出場できる大会は年に二度ほどである。開催はいずれも夏期のことで、いざふたを開けてみると、老若男女揃い、太めのものも細身のものも、大柄なもの小柄なもの、とありとあらゆる体格の〝ボディビルダー〟たちがわんさと群れ集っていた。会場では汗と熱気こそ感ぜられなかったが、筋肉の存在感は、ひしと伝わってきた。若菜はたしかに「ボディビルダーにはメンタルは必要ない」といったが、まったくその通りであった。気を配らねばならぬのは日ごろの健康管理とトレーニングに細心の註意ちゅういを払うことであり、また〝見栄え〟をよくするために日焼けサロンに気をつけて通ったり、肌荒れに註意ちゅういすることであった。潤平はそれらをほぼ若菜の勧めるとおりに履行りこうしていたので、コンテストにはほぼベスト・コンディションで臨むことができたけれど、潤平はまったくのど素人・門外漢もんがいかんに近い存在だったから、入賞などは望みうべくもないことであった。それは本人もよく心得ていたのだが、そんな中に一事があった。

 潤平はその日、地区大会の会場に来ていた。ボディビルの大会というのは、属するクラス(階級)ごとに進行してゆき、競技十五分前にコール(召集)があって、そこでエントリーの意思を表明して競技に臨むことになる。競技といってもむろんポージングだけで、例の筋肉ポーズを台のうえでとるだけである。会場内には「N5番さん」とか「S8番さん」とか、競技者を呼ぶ声が響くほかは案外静かなものだ。そして、クラス別に一と通り競技が済むと、審判が鳩首凝議きゅうしゅぎょうぎして勝者を決める。むろん、勝者は各自の審美眼しんびがんを元に決めるのである。潤平は、飽くまで「参加することに意義があるビルダー」としての立場をつらぬき、従って勝つ見込みもあても自信もなく参加し、実際一度も勝者として名前を呼ばれたことはなかった。

 さて、その日も終わり、潤平は負け試合、一緒にきた若菜は準決勝敗退という結果であった。二人が、会場となった体育館のスタンドで、荷物をまとめ帰り支度をしていると、若い男が、といっても潤平よりは年かさの二〇代と思しき男が近づいてきた。

「ちょっと、済まないが、火を貸してくれないかな?」

 潤平は疲労のにじむ顔を上げて、

「――あ、ぼくら、不調法ぶちょうほうなんで……」

 すると男は、

「ああそ」と簡単に返辞へんじし、無遠慮ぶえんりょに潤平のことを上から下までじろじろ眺めると、「しっかし、あんた細いねぇ。そんな身体じゃ、入賞はおろか、〝彼女〟もできないぜ」

 とつぶやくように云った。それを聞きとがめた潤平は一瞬で非道ひどく落ち込んだ。たしかに男は魁偉かいいな肢体をしていたが、それよりもなによりも、密かに若菜とは〝似合いのカップル〟だと自負していたので、いっそうふかく傷ついたのだった。

 若菜は、突然作業の手を止めた潤平をいくぶん不審そうにみて、

「どうしたの?」

 と問うたが、潤平はもだしてかぶりを振るばかりだった。潤平は帰りの電車でもひどく無口に過ごし、若菜は一方的に自分の競技成績のことをしゃべっていたのだけれど、あるときふとその話頭わとうてんじると、不思議そうに、

「潤平くん、今日はどうかしてるね」

 と静かに言った。

 ――ちぇ、だれもぼくのことは理解してくれないんだな。

 そう思った潤平は、にわか奮起ふんきする気になった。自宅スタジオでのワークアウトに際しても、トレーニングの種目を幾つか増やし、プル・オーヴァーやトライセップス・イージー・カールをメニューに追加した。

 それと並行して、潤平(たち)は〝ユーグレナ先生〟の〝ご指導〟と、〝レパブリク先生〟にいただいた〝礎石〟の世話は続けた。潤平ははじめ、お互いの先生に別の占い師にも指導を受けている旨は話さなかった。とりたてて理由はないが、胸のどこかでそうしない方がいい、という声が聞こえたからだった。

 だが、それがある時、露呈ろていしてしまったのだ。

 その朝、潤平は早めに起きてスタジオの掃除をすませ、ほかの研修生に先んじてワークアウトに取りかかった――BGMはその日の潤平の気分しだいだったが、その日はまず、ステイタス・クォーの「ブルー・フォー・ユー」アルバムより〝ミステリー・ソング〟をかけ、続いてスレイヤーの「レイン・イン・ブラッド」より〝ポストモーテム〟をえらんだ。いい気分でダンベル・フライを終えてえずここで一と区切りにしよう、と自室に帰ったとき、スマートフォンが鳴った。ディスプレイには〝レパブリク先生〟の番号が表示されていたのだが、ここで潤平は持ち前の〝うっかり・ぼんやり〟癖を発揮はっきしてしまった。

 潤平は〝通話〟ボタンを押すなり、開口一番、

「あ、こんにちは、吉見先生ですね?」

 と云ってしまった。云ってから、初めてああ、違った、ここは「堀先生」というべきだったのだ、と気づいたが、まあいいや、なんともないだろう、とも思った。けれども、それは潤平の思い違いであった。

「誰ですって?」

 電話口の女性は挨拶あいさつも口にせず、とげのある口調でいった。潤平は、瞬時に自分の間違いを意識し、それでもなぜそれがまずいのか・なぜいけなかったのか分からず、

「ええ?」

 と口からは間のぬけた間投詞かんとうしがでてきただけだった。

 が、電話口の女性は、あいも変わらぬ気勢きせいで、

「だれ、ですって?」

 と重ねて問うた。潤平は、

「間違えた。堀先生でしたね?」

 と半ば弁解するつもりで云った。

「そうです。わたしは堀です。――ですがあなた、さっき誰と間違えたの?」

 潤平はここでっと重大な誤りを犯したらしいことに気づき、

「――いえ、別に」

 ととぼけた。

 しかし、〝レパブリク先生〟は、

うそおっしゃい」と頭から決めつけた。「さっき、吉見さんの名前を出したでしょ」

「は、はあ……」

「あなたね」先生は断固だんこたる口調で、「もしかしてあなた、あのひとのとこにも行ってるの?」

「――あ、いいえ、別に…」

「でも、じゃなきゃあのひとの名前なんて出すわけないわよね?」

「……」

「ホントのこと仰有おっしゃい!!」

「………」

うそついたって、すぐわかるんだからねっ!」

「……あい」

「ハイっ、てどっちのよ?」

「…――こっち」

「こっちって、どっち?」

「――ちょい南のほう」

「ええ?」

「――…それで、少し右に行って…」

 受話器の中で〝レパブリク先生〟は聞こえよがしに舌打ちをした。

「知ってんだね、あの女――、下司でブスの女のことを?」

「――…はい」

「じゃ、どうして隠すのよ?」

「…その方がよさそうに思えたから」

「何だって!?」

「――ご免なさい」

 すると、〝レパブリク先生〟こと堀あゆみ先生はようやく、

「始めからそう言やあいいのよ、最初から」

 とほこおさめてくれた。

 だが、潤平がほっとするのは早かった。

「ねえ」となおも堀先生はしつこい。「どこまで〝ユーグレナ〟さんと関係あるの?」

 そこで潤平は何とか機転を利かせて、

「……一回、あの〝ご指導〟をやらないか、って訊かれたんですけど、ウチは無宗教むしゅうきょうですから、って断りました」

「そう」満足げだ。「それがいいわ。あんなのやったって、何の助けにもならないんだし」

 まだ続けています、など、口が裂けても言えるような情況じょうきょうではない。

「……何かご用でしたでしょうか?」

「そうそう」〝レパブリク先生〟は口調を改めて、「こないだ、〝モニュメント〟のお代、たしかに頂きましたわ。どうも有難ありがとうございます」

「あ、どうもこちらこそ……」

「そちらには、呉くんがいたんでしたわよね?」

「はい」

「くれぐれもお世話のほう、よろしくお願いしますわ」

「わかりました」

「それからね」

「はい」

「〝ユーグレナ〟さんのことだけど」

「――はあ」

「あたしには、あんなひとのこと、ぜっんぜん、ちっとも評価できません。あんなさあ、〝ご指導〟なんていっちゃって売ってるけど……、霊感商法れいかんしょうほうまがいのサギだわよ、まったく。何さ、ちょっとTVに出て注目されたくらいなくせに天狗てんぐになって。あんなひと…、あたしの方がよっぽど良心的だわよ。あたしはねえ、――聞いてる、笠原さん?」

「……あ、はい、はい」

「〝礎石〟をおいてもらっているでしょ。あれは一回お金をもらったらそれ以上は頂かないことにしてるのよ。それを何よ、あのひとは。一回ごとにお金をとるじゃないの。ゆるせないわよ、もう。占い師の風上かざかみにもおけない」

「――……」

「聞いてるのッ!?」

「…はい、はいはいっ」

返辞へんじは一つ!」

「はいッ!」

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