E.

「それね、プロテインだよ」

「ぷろていん? つまり、タンパク質?」

「そ。いい、簡単な栄養学とかも知っておいた方がいいけど、大体、運動する前には糖分などを摂取する。陸上選手が競技前にバナナを食べるのは知ってるよね? あと、運動後には、タンパク質をとるの。これ、鉄則てっそく。――ただし、とりすぎても脂肪になるだけだから、気をつけて」

「はい」

「ほか、カーボローディングとか、関連することは幾つかあるけど、ここでは省略します。もっとも、今はまだ超ビギナー、ってとこだから、こんな高いクスリはりません。もう少しグレードが上がったら、購入して下さい。駅前の〝アビエーション・スポーツ〟だったら、うちの名前を出せば一割引いてもらえるよん」

「お…押忍オス

 若菜はニッ、と笑んで、

「そろそろ、筋肉堅かたくなってきた?」

「そうだね。もう、部分的にガチガチだよ」

 大きくうなずいて、

「それが正常な…、健康な肉体のありようだよ。いいから、休みな。あたしはこれから自分のワークアウトがあるし」

「どうも」

「はい。お疲れさまでした」

 潤平は痛む身体を抱えて自室に引き取った。自分の家の中で、これまで全く知らなかった場所があり、そこで信じられないやり方で肉体を酷使こくしして、尚かつ疲労させてしまった、というまことにありうべからざる事実を前にして、潤平は気分が落ち込んだ。これから、ずうっとこうなのだ。このままだと、こんな疲労を抱えたままだと自分はボーリングにすら行けないだろう(ボーリングなぞてんから好きではなかったくせに)。

 ――ああ、参ったよなあ。

 潤平はごろりと天井を向いてベッドの上に仰向あおむけに寝転がった。イタリアのチェルヴェッロ『メロス』を掛けたが、面白い音楽だとは思ったのだけれど、正直暗澹あんたんたる思いが強くて、なかなか没頭ぼっとうできず、二回も三回も繰り返しかけることになった。

「潤平、どうだね、ワークアウトは?」

 夕食時、大輔が回鍋肉ホイコーローさかなにビールのグラスを傾けながら問うた。

「そうだね」潤平は少しうつむいた。「あんまり、ぼく向きじゃなかった、と思うけど…」

 すると、大輔はしゃんと背筋を伸ばし、

「そりゃ、何だってやり始めはそうさ。あの、トレーニングのいい点というのを、教えてやろうか?」

「うん」

「お前は、これまで何かやろうと必死で努力したこと、それでも結果的に注いだだけの努力に沿わぬことになってしまったことはあるか?」

「うん、あるよ」

「何だ?」

「小学校のとき、ピアノを習ったけど、始めて二週間でダメになったとき……、あと、中学受験のとき、算数はものすご頑張がんばったんだけど、偏差値へんさちはどうしても56より上に上がらなかったこと……、まあこんなかな」

「うむ」ビールをもう一と口。「筋力トレーニングのいいところはな、潤平、やればやった分だけ必ず返ってくる、ってとこだ」

「……」

「半年間も続けてみなさい。きっと、見事な逆三角形の身体になっているだろうよ」

「――そうか」

「そうさあ」大輔は元気づけるように、「最低でも三ヶ月は続けることだ。何もいわずに。いいな?」

「はい」

「よし」

 その夜潤平は、久しぶりの肉体疲労のために、夢もみず異音いおんも聞かずに、ぐっすりと眠って一と晩過ごした。が、朝起きた潤平は、全身金縛りに遭ったかのような情態じょうたいに、えず絶句ぜっくした。なにしろ、筋を動かすたびにばりばりきしむのだ。全身の神経がどうかなってしまったのか、という程痛い。

 何とか起き出して寝間着ねまきを脱いだ潤平は、鏡の前に立ってポーズを決めてみた――、もちろん、寸毫すんごうも筋肉がついたということはなかったのだが、この痛みに見合うだけの代償が欲しかったのだ。(あと半年間)という大輔の言葉が耳に甦る。潤平はため息をつくと、適当にシャツとジーンズを選んで身に着け、階下に降りた。

 そうそう、疲労回復にはタンパク質だ、と云っていたっけ。それじゃあ今朝は卵をお代わりして食べようかな、などと考えながら食卓に着くと、隣の席に黒田がやって来た。

「お早うございます」

「あ、ども」

「どうでした、ワークアウトは?」

 潤平は苦笑いした。

「まあね、キツいことはキツいです」

「あのね、坊ちゃん、ボディビルダーだって、高卒資格くらい持ってなきゃ」

「ええ?」

「ワタシ、知ってんですけどね」と声を潜めて、「坊ちゃん、高校は中退なさってんでしょ」

「……あ、ああ、まあ」

「そりゃあよくない。悪いことはいわない、高校は出ておきなさいよ。……ワタシね、いい学校知ってんですけど、教えてあげましょか」

 自分で調べたからいい、と断ればよかった、と後々のちのちまで潤平は口惜くやしがることになったのだが、このとき潤平は、素直に、

「うん」

 とうなずいてしまった。黒田はうなずき返して、

「横浜にあるんですがね、白魔陣学園ってんですよ」

「しろまじん?」潤平は眉をひそめた。「知らないな」

 ウェブでも県内の高校をかなり調べている筈だが、そんな名前の学校は聞いたこともないのだ。黒田は、さもありなんと云いたげにまたうなずくと、

「ここ三、四年ほどで大きくなった学校ですんで」

 と云った。

「――で、おたくがそのガッコを、紹介してくれるの?」

「ええ、資料は持ってますから、差し上げますよ」

「ふうん。どういうとこ、そのガッコ?」

「どういう、って、普通の私学でさあ。ワタシの知る限りはね。大学進学率も高いし、その気になれば――、あくまでもその気になれば、ですがね、クラブ活動もありますし」

「スクーリングは、どのくらい?」

「週に二回、だったかな? 詳しいことは調べないとわからないですが」

「で、おたくはどうしてそのガッコをぼくに紹介する気になったの?」

 すると、黒田は妙な含み笑いをしてみせた。

「それというのはね、あなた、こないだの〝どおん〟という音ですよ。あれを聞いたひとって、この建物の中にはワタシとあなたと二人きりだと思うんですがね。それですよ」

「……あの音は一体なんの音なのか、あんた説明できんの?」

「いえいえ、ワタシにゃそんなたいそうなことはできません。だけど、ああいう音、っていうのはね、こう…」と視線を落として声をひそめ、「生きたものの立てる音とは違うように思うんですがね」

「うん」

 潤平は取り敢えず同意した。黒田は、はっとしたような顔をして、

「あなた、これまでにこういう問題をご経験したことはおありで……」

「ああ、ぼかぁありますよ。何度かね」と幾つか例を述べて、「こんな具合で」

「うんうん、やはりねえ」黒田は納得したようだ。「さもありなん、と思いましたよ」

「――で?」

「ええ、それでね、そういう問題を経験して、それで、相談できるお相手というものはいるんですか?」

 直截ちょくせつに問うてくる。潤平は冷めかけた卵の上にスプーンをおいて、

「ないよ」

 と答えた。黒田は大きくうんうん、とうなずいて、

「やはりねえ、ワタシの見込んだとおりだ」

「――で?」

 潤平は先を促す。黒田は、

「はい、ですから、その白魔陣学園という学校には、その方面の……、〝そっち〟系専門のひとも来ていたり、学園に参与さんよみたいな形で関わっていたりしますのでね、あなたみたいな方にはピッタリ、持ってこいなんですよ」

「へええ」

 潤平は気のない返辞をしたが、内心では何となく面白く思われていた。潤平も、〝深夜の突然の見知らぬ来訪者〟には実のところ辟易へきえきしており、いつかどこかで相談しなければならないのでは、と内々で考えていたからだ。しかし、こういう問題というものは、こちらから解決の手助けをしてくれるひとを探そうとすると実にややこしい問題に突き当たる。つまり、インチキ臭いひとが非常に多いのだ。そこで潤平は、ある程度探したうえで、注意深く留保りゅうほの立場をとり、向後こうごもし〝偶然の接触〟があれば、その出会いを機に教えを請おうか、という程度の態度をとっていたのである。潤平としては、その機会がついに来たか、という思いであった。

「ホントホント、そういう問題に助言してくれるひとが多くいますから、おすすめですよ」

「じゃ、もし行かないといったら?」

 試しに潤平は云ってみた。

「へ?」ときつねにまれたような顔をした後で、黒田は、「いえねえ、坊ちゃん、ワタシもそこまで強制はできませんや。ワタシにできるのは紹介することだけです。その後で考えてお決めになるのは、あくまでも坊ちゃんご本人ですから」

 それで潤平の気持ちは十中八九、決まったも同然だった。

「じゃ、そのガッコの資料くれる?」

 潤平が頼むと黒田は破顔一笑はがんいっしょうして、

「わかりました」と云うた。「ワタシ、部屋にありますから、ちょっと取って来ますね」

 黒田は五分ほどで戻って来た。資料はA4版サイズのもので、表紙は真っ白なところに金文字で、


「白魔陣学園」


 ともったいぶった書体で仰々しく書かれている。潤平はそれを手にすると、

「ちょっと、借りるわ」

 と云い、黒田をその場において立ち上がった。黒田は、

「坊ちゃん、今朝も掃除はあるんですけどね」

 と声を掛けてきたが、

「……こんなひどい筋肉痛で、ワークアウトも何もできたもんじゃないし――」

 とぶつぶつつぶやいて食堂を後にした。

 自室で机に向かい、この白魔陣学園についてのパンフレットを読み、ウェブ・サイトを閲覧してみると、最初黒田の説明を聞いて感じたより以上にこの学園は〝まとも〟な運営方針で営まれているようだった――生徒数は約九〇〇名、教員数は四〇名、学園は横浜市北部に位置し、潤平の住まいからも比較的交通の至便しびんな地域に入る。クラブ活動もあり、吹奏楽部は全国大会に進んでいるとのことだ。卒業生の九割が進学し、大部分は私立大学だが、一部に国公立大学に進んでいる――。が、潤平の心には一点疑問があった。それは、〝夜の来訪者〟向けのサービスが何かあるのでは、ほのめかし程度であっても何か触れているのでは、という期待がものの見事にはぐらかされたからだった。もっとも、黒田のいうその口ぶりからしても、余り表沙汰おもてざたにして堂々と扱っているというものではなく、いうところの〝裏メニュー〟的な扱いなのかもしれなかった。潤平は資料を閉じると、小首をひねった。首の骨がぽきりと鳴った。ディスプレイをみながら潤平は、(まあ、いいんでないの?)と考えた。在学期間は三年、スクーリングは週一回から二回。悪くもない学校のようだ。

「ぼく、決めたから」

 と潤平は昼食の席で両親に云った。

「そうか、お前もっと〝正道せいどう〟に戻るのだな」

 大輔は嬉しそうだ。

「まあ、恥ずかしくないおとなになってちょうだい」

 千鶴子も口ではそう厳しいことを云うが、機嫌は悪くないようだ。

「――で、潤平、いつ手続をするんだね?」

えずウェブか電話で説明会に申し込んで、それからだよ」

「ああ、それもそうだな。――それで、あれの方はどうなった?」

「あれ?」

「ああ。お前が欲しいと云っていた――、ウォークマンは」

「ああ、買ってくれるの?」

「そうさ。約束したろ」

「ありがとぉ! うん、あれはいつでもアマゾンで出てるからさ」

「そうか。早いとこ申し込んでくれな」

「ありがとう!」

「――筋肉痛の方はどうだ?」

「うん、がっちがち。あと一週間くらいはとれなさそう」

「そうだろうな。筋肉痛のとれない間は、トレーニングは休めよ」

「はあい」

 潤平は明るい声音で返辞へんじをした。まったく、明るい声でだれかと話すのは、これで当面最後になってしまうのだが……。食後、潤平はウェブ・サイトの応募フォームに書き込んで、学校説明会の申し込みをした。その週、潤平のもとには公彦叔父さんが約してくれたとおり、イタリア産のプログレものディスクがまとまって届き、一枚ずつ聴いていくことになった。潤平は〝イタリアで最初に世界的成功を収めたバンド〟と呼ばれるPFM或いはプレミアータ・フォルネリア・マルコーニは、デビュー作『ストーリア・ディ・ウン・ミヌート』やセカンド『友よ』といったアルバムは非常に気に入った(陰影のあるヴァイオリンの音色とメロトロンの使い方がものを云った)のだが、ライヴ盤は荒々しい印象がしてそれほど好かなかった。それからただバンコと略されることも多い、バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソは、やはりデビュー盤とセカンドがよかった。ほか、メタモルフォーシ、ムゼオ・ローゼンバッハ、セミラミスやストーミー・シックスなどなど、潤平は順繰じゅんぐりに聴いた。もう音楽評論で身を立てようという気はなくしたので、気負わず、しゃに構えたりもせず、自然体で素直に聴くことができた。潤平が音楽を面白いと思って聴くのは、実に久々のことだった。白魔陣学園からは申込み受領を知らせるメールが届き、二日後、潤平は予約の説明会へ出かけて行った――。

 潤平はその朝、食事を終えると部屋に引き取り、黙然もくねんと着替えをした。何を着ていこうか迷ったが、チェックのシャツに紺のブレザー・コートを合わせてみた。まさか明峰学園の制服を着ていくわけにはいかない。会は午前十時三〇分からで、乗り換えを調べると九時四〇分の電車に乗れば間に合うはずだった。潤平は買って貰ったばかりのウォークマンをもち、遠足に出かける小学生のごとく欣々然きんきんぜんとして支度を整えた。母親が来て、

「駅まで送ろうか?」

 と声を掛けてくれたが、

「いい天気だし、歩くよ」

 と答え、ブルートゥース接続のヘッドフォンをとって靴を履いた。筋肉痛はまだ残っていたので、動かすと身体の各部でうずきがあった。が、歩いたり軽く運動をするにはよい気候だった。潤平は出発した。

 歩きながら、そして電車の中では、アルティ・エ・メスティエリによる『ファースト・ライヴ・イン・ジャパン』を聴いた。公彦叔父からの情報で、この盤に大曲〝アルティコラツィオーニ〟を加えれば当日の完璧なライヴ・セットになることを知っている潤平は、この場に参加できなかったことをとても口惜くちおしく思うのだ。それにしても、ゴブリン『ローラー』にしても、オザンナ『パレポリ』にしても、イル・ロヴェッショ・デッラ・メダーリャ(通称RDM)の『コンタミナツィオーネ』にしても、この頃の潤平は「イタリアづいている」。こうもイタリアの音楽のとりこになりおおせようとは、潤平は予想だにしないことであった。

 ――潤平は〝降車〟ボタンを押して次の停留所〝化学研究所前〟バス停で車を降り、ひとり坂道を上って学園を目指した。少し息が切れてきて、潤平は立ち止まり、ほかに歩く者のないことをみてとり、さては道を間違えたか、と危ぶんだ。が、直ぐに上から三々五々下ってくる自分と同じ年恰好の若者たちとすれ違い、やはりこの道でよかったのか、と思い直して再び歩を運んだ。潤平の周囲は道に沿って桜並木があり、その向こうはのどかな田園風景が拡がっていた。潤平の歩く道は緩やかな勾配になっており、先に何があるのかなかなか見通せなかったから、道を下ってきて自分とすれ違う学生たちがいなかったら、道に迷ったとてっきり思いこんだにちがいない。上っていくと、やがて建物の片隅が視界に入った。四角いコンクリート造りの建築物……、恐らく学校だ。それは真っ青な青い空によく映える姿だった。そして潤平の耳にもその音が入った――、学校時代にいやというほど耳にしてその度に非道ひどいプレッシャーを感じてきたところのかの呪わしき〝鐘の音〟が……。鐘はゆったりしたリズムを刻んで鳴り響くと、ふっと止んだ。潤平はそれを耳にして、なぜだか懐かしい思いがしている自分自身を見出して、おやっと思った。

 〝生徒用昇降口〟とプレートがついている入り口は避け、学園からのメールにあった通りに〝来客用出入口〟とある口に這入はいると、そこは薄暗くて潤平の眼が順応じゅんのうするまで少しかかりそうだったが、ふらつきながらも何とか持参のスリッパに履き替え、校舎に上がり込んだ。そこは廊下の端にいることになるので、たたんで持参したパンフレットを取り出してがさがさと拡げたり、その辺を見回したりしたが、そのうちすぐ眼の前に、立て看板があって、そこに矢印とともに〝学校説明会場〟という文句があるのに心づき、その矢印の通りに進めばよいのだと気づいた潤平は気を取り直して歩き出した。途中、要所要所に案内の立て札が立っていたので、迷わずいくことができた。会場は校舎三階の会議室が充てられていた。校舎のなかは薄暗く、どことなく陰気くさかったが、教室の前には事務机がおかれ、〝受付〟と墨で書いた紙が貼ってあったので、潤平はその机の後ろに座っている五〇年配の女性に向かって、

「あのう……」と話し掛けた。「高校の学校説明会は、こちらでしょうか?」

「いかにも」と女性(ピンクのスーツを着ていたので、潤平は〝桜の女史じょし〟と密かにあだ名をつけた)は仰々ぎょうぎょうしい態度で重々しくうなずいた。「こちらです。――ご予約は?」

 潤平は点頭てんとうした。

「してあります。――ええと、笠原潤平、と申します」

 〝桜の女史〟は、指先をなめ、名簿を繰って、

「…――ええ、カサハラ、カサハラと」とぶつぶつ云いながら名前を探していたが、何度目かに指先をなめた末に、「あったあった」とつぶやいた。「ええと、笠原潤平さん、ですね?」

「はい」

 〝桜の女史〟はまたうなずいて、

「では、これをお持ちになって、這入はいって中でお待ち下さい」

 と種々の書類がはいった大きな茶封筒を手渡したので、潤平は一揖いちゆうして〝入り口〟から教室内に這入はいった。中は潤平の予想と期待に反してがら空きで、席には五、六名しか座っていなかった。潤平は黒板の前の前から九列目の席を選んで腰掛けた。果たしてここでいいのかなあ、という思いがかすかに潤平の心をかすめた。待っていると手持ち無沙汰で、ウォークマンなどいじってみたが落ち着かず、もじもじしているところへ、教室に次の受講者が現れた。若い女だった。化粧はしているようだが、面長で、眼鏡の奥の眼差しは思慮深く控え目だけれども、しっかりしている。なにを着ていたのかは潤平の記憶にはない。たしかニットのカーディガンか何か着ていたのだろうと思うのだが、裸でなかったことだけはたしかだ。その女は潤平のほうに近寄ってきた。そして、〝ここは通過するだろう〟という潤平の予期・期待に反して、潤平の傍で歩を止めた。

「ここ、空いてるかしら?」

 不意に声を掛けられた潤平はどぎまぎして、すぐには声が出ず、のどの奥で少し〝発声練習〟をしてから、

「ど、どぞ」

 と返辞へんじをした。

「わたしは、吉見まどかというの。よろしく」

「あ、ども」

「あなた、笠原潤平さんね?」

「え?」

 どうしてそれを、と訊こうとしたとき、吉見は笑って、

「ビックリしなくてもいいのよ。あなたのお名前、その封筒のうえに書いてあるから」

 と云った。いわれてみると、潤平はそれまで気づかなかったのだが、吉見のいう通り、資料の入った封筒の上に「笠原潤平さま」と書かれている。

「なあんだ」

 吉見はまた笑って、

「あたしは別に千里眼せんりがんなんか使えないわよ。安心して」

 と云う。その時、時間になったとみえ、学校側の担当者が教室に這入はいってきて説明会が始まったのだが、潤平は隣に座った麗人れいじんのことが気になり、上の空になりがちだった。どこに住んでいるのだろう……、何年生に編入するのだろう……、そして(これが最も重大な一事だが)どうしてぼくの隣に腰掛けたのだろう。潤平は気になったので、話の途中でもちらちらと吉見のほうに視線を投げた。吉見はまっすぐ前を向いて座り、教員の話の要点をメモにとったりしている。

 話が済み、五分休憩になると、吉見は、

「気になるみたいね」

 とほほえんだ。

「ええ、まあ」潤平は赤くなり、「すこし……」

「どうして気になるか、わからないでもないわ。あたしが隣に座ったからでしょう」

「はい」

「それはね、あたしがここへ来るときに、もう分かっていたのよ」

「は?」

「今日はあなたがここに来る、ってことが」

「……はあ」

 潤平は眼が点になるのを覚えた。

「あたしはね、とっても勘がいいの。その日起こることは、たいていこれが教えてくれる」

 そう云って、バッグから一と組のカードを出してみせた。

「……」

「何か、わかる?」

「いえ」

「これね、タロット・カード。これで占えば、その日の禍福かふくがたいてい分かるのよ。自分でも不思議なくらい当たるの」

「ふうん」

 潤平が胡散臭うさんくさい顔をしているのをみて、吉見はまた笑った。

 と、そこで別の教員が這入はいってきて、説明会が再開された。

「また後でね」

 と吉見は云った。潤平はうなずいた。

 ――その日、結局潤平は、この白魔陣学園に申し込むことを、両親に相談する前に大体決めてしまった。説明会でも(後半は潤平も話に集中した)、ここの高校は大学進学実績が優れていて、早慶あたりにも進む学生が多いことにアクセントがおかれていて、そうしたことが結局は潤平の重い腰を上げさせるうえで一助いちじょになったのである。それからもちろん、吉見まどかの存在もあった。吉見は、潤平に、

「あなたはいま迷っている。迷路に迷い込んでいて、同じところをぐるぐる歩き回っているところなのよ」

 という云い方をした。そして、向きなおると潤平に、

「あなたを救えるのは、……ああ、でも、なかなかあれは手に入らないからなあ」

 と尻切れトンボで語尾を残し、唖然あぜんとしている潤平に向かって、

「あなたのおうちの近くに、お寺とかお墓はある?」

 と問うた。それに応じて潤平が、

「――…ええ、白光寺というお寺がありますけど」

 と答えると、

「やっぱりね」合点してうなずいた。「あなたね、あなたは体質的に巫女の気が強いわ」と言うのだ。「前世であなたは巫女をしているはず。それで、あなたのお宅は、〝霊道れいどう〟に当たっているのね。霊の通り道。だから、あなたみたいな〝ウケ体質〟のひとにはキツいわねえ」

 と潤平にはまるで分からぬことをしゃべり立てた。

 ――と、あらっ、というと、

「いま、何時かしら? あたし、時計って持ち歩かないので…」

 潤平の腕時計をみると、いけないもう時間だ、とバタバタと帰り支度をして、懐からカード入れを出すと名刺を一枚潤平に渡した。そこには、


「よろずカウンセラー ユーグレナ」


 とあって、裏には吉見まどかの名とメール・アドレスに電話番号が記されてあった。

「じゃあ、また。何かあったら、連絡くださいね。力になるから…」

 と云い残すと〝ユーグレナ先生〟こと吉見まどかはそそくさと行ってしまったので、潤平はうら若いとはいえど高校就学年齢はとうに過ぎているとおぼしいこの女が一体この高校に何の用事があって来たものなのか、それは聞きそびれてしまった。

 その日潤平は複雑な心境で帰途きとについた。帰りの電車でもウォークマンなど聴く気にはなれず、ワイヤレスのヘッドフォンは首に掛けたまま、無表情に窓外をながめて過ごした。家に帰り着いたころには日は傾き、うすら寒くなっていた。

「坊ちゃん、お帰りなさい」

 黒田が近寄ってきた。

「お疲れでしょう。いかがでした、説明会は?」

「うん。――疲れたね」

「何か顔色がお悪いですけど」

「ああ。変なのがいて」

 と潤平は〝ユーグレナ先生〟のことをしゃべった。黒田は腕組みをして聞いていたが、やがて、

「ううん、やっぱりそういうこと、ありますかねえ、あそこは」

 と云った。

「えっ!?」

 と問うと、

「いえね、ワタシの聞いた限り、あの学校は、何でも〝無意識をかき回す〟学校だとかで有名なんですよね。無意識をかき回して、人生をトランプの途中でシャッフルをやり直すような感じに、つまり〝鬼札〟を出すワケです。あの学校と関わりを持つと、そういう経験をすることになるらしいんですな」

 と知った風なことをいう。

「じゃ、あの、ぼくの会ったひとは……」

「そう。実際にあの場にいたのかも定かではない。いや、そのひと自体は存在していますよ、だけれど、あの場に本当に本人がいたのかどうかは、分からない。まそんなとこです」

 夕食の席で、潤平は、両親に白魔陣学園へ入学手続をとりたい旨を伝え、その場で諒承りょうしょうされた……。

 そしてそれから潤平は、まず学力テストを受験した後、二週間ほどの事務手続き期間を経て入学が認められ、高校二年次に編入された。スクーリング(通学授業)は週に二回ほどあり、それ以外はウェブを使って通信教育を受ける。それともちろん潤平には、ワークアウトがあった。潤平のたっての希望で、スタジオには有線放送が引かれ、スレイヤーなどが掛かったから、潤平たちは〝スクラム〟とか、〝パーヴァージョンズ・オブ・ペイン〟、〝ポイント〟だの、〝ヴァイオレント・パシフィケイション〟だの〝ジェミニ〟、それに〝レイニング・ブラッド〟といった曲を聴きながらトレーニングを積むことになった。

 学校は……、どことなく胡散臭うさんくさい始めの印象がなかなかぬぐえなかった。頼みになるかと思った〝ユーグレナ先生〟も結局は学外者とわかり、いささか興をそがれてしまったのである。だが、スクーリングは、負担にならぬ程度に行った。きちんと出席して授業と試験を受けたので、大輔も千鶴子も安心してみているようだった。スタジオでは、潤平は若菜と少しずつ親しくなっていた。若菜はトレーニングの合間に、

「筋肉はアクチンとミオシンという二種類の筋繊維きんせんいから成り立っていて」

 とか、

「糖分は、エネルギーとして必要だけど、摂りすぎると脂肪の元になるから気をつけるんだよ」

 とか、

「筋肉には遅筋と速筋と二種類あるの」

 とか、

「筋肥大を目的とするボディビルの場合、トレーニング法は、ほかの筋持久力とか瞬発力を必要とするスポーツとは自ずから異なってくるワケ」

 とか、或いは、

「疲労は、以前は〝疲労物質〟つまり乳酸ね、乳酸が筋肉内に蓄積して筋肉痛が起こるんだっていわれてたけど、最近は筋肉内のpH、酸と塩基だね、そのバランスが崩れるので起こる、という説が有力みたいだね」

 などと参考になる豆知識をいろいろ教えてくれた。

 そういうほぼ安定した時期に、それはたやって来た。

 その夜、潤平は英語の仮定法の課題を解くのに忙しく、珍しく音楽も聴かずにほぼ徹宵てっしょうして、爽昧そうまい四時までかかってすっかり仕上げると、午前七時の起床時刻まで少し休もうかと思い、ベッドにもぐり込んだ。と、潤平は夢のなかで音楽を聴いていた――、ティコのドラマーであるローリー・オコナーのプロジェクトNTMVS(ナイトムーヴス)のアルバム『ドント・アスク!』だった。それを聴きながら潤平は批評をしていた。ドラムスは上手いんだけどなあ、折角せっかくうまいドラムは叩くんだけど、肝腎かんじんの曲のセンスがなあ、アープのアナログ・デュオフォニック・シンセサイザーであるオディッセイを使ったり、コダワリがあるのはわかるんだけどなあ、もうちょい曲がどうにかならんものかね……、などといっぱしの批評家らしきことを調子に乗ってつらつら考えていた。そこへ来て、不意に


 どおん


 と地鳴りが轟き、潤平はすぐに眼を醒ました。

 ――な、なんだァ?

 むっくりとベッドの上で上体を起こし、潤平は息をこらして耳をそばだてた。が、辺りは森閑しんかんとしずまり返っている。微かに胸がわくわくする。今までみていた夢の残滓ざんさなどどこかにとんでしまって、潤平は静かで大きい建物にいま一人でいるのだ、とひしひしと実感した。いや、黒田がいるかも知れない。潤平はそう期待をかけて、寝間着の上にスポーツ・タオルを引っかけてそっとドアを開けた。その辺から黒田が来て、

「坊ちゃあん」

 などと呼びかけて来るのではないか、と思った。けれど、だれもいなかった。時計をみると午前四時二〇分である。そろそろだれか起きていてもよさそうなものではないか。潤平はじりじり・いらいらしたが、仕方のないものは仕方がない。

 さて、どうしたものか。潤平は腕組みをして考えたが、ここは身の安全も考えて、部屋にいるのがいちばんではないか、そう思い、どうやらいまの物音の源であったとおぼしき、スタジオの様子を見に行くのは取りやめにした。それはいいのだが、潤平は眠れなくなってしまった。これではたあの忌々いまいましい(というと千鶴子ににらまれるのだが)クリニックに行って、抗うつ剤に加えて睡眠導入剤でも処方してもらわないとならぬハメになるかも知れぬ。それだけはゴメンだった。

 潤平は何か(NTMVSとは違い)気を落ち着けてくれるような音楽でも聴こうと思い、ラックをあさり、クエラ・ヴェッキア・ロカンダの『イル・テンポ・デッラ・ジオイア』を探し出した。邦題はたしか『歓びの瞬間』といったはずだ。イタリアン・プログレの傑作。一般にはCDで流通しているが(オリジナルのアナログ盤は日本円では六桁の値で取り引きされている)、潤平の手許てもとにあるのは伊RCAの再発アナログ盤である。ピアノ、コントラバス、ヴァイオリン、などという生楽器によるジャズ的な展開の楽曲がこのアルバムの最大の目玉だ。潤平はこの盤を最近になって公彦叔父さんに送ってもらい、一聴して衝撃を受けた。バンドとしてはこのアルバムはセカンドに当たり(ファーストではジェスロ・タルのイアン・アンダーソン風のつば吐きフルートが聴ける)、このセカンド発表後にバンドは解散、その後メンバーの消息はようとして知れないのだという(叔父さんによると、「実にイタリア的な話だね」ということであった)。潤平にとり、このアルバムは聴くたびに新しいものを発見させてくれる、ふしぎな宝箱のような作品だった。

 聴き終えてスタイラスを除けると、潤平はふっと脱力して、弛緩しかんした身体をベッドの上に投げ出した。いいアルバムは適当に精神集中を要求するものなのだ。体調のわるい時には、気に入っているアルバムは聴く気にならないし、又聴かないほうがよいものだ。

 ――と、建物の中でごそごそと物音がし出した。だれか起き出したのかな、と潤平は考えて、自分も部屋から出ようか、と考えた。どうしよう、出るべきか出ぬべきか……。いくぶん逡巡しゅんじゅんしたが、結句潤平は消極策をとった。外に出ず、朝を待とう。と決めるとあれこれと気に惑いのもととなることが多く、潤平はうろうろと部屋の中を低徊ていかいした。だいたい、こないだ逢った〝ユーグレナ先生〟こと吉見まどか氏とは一体何者だ。あやかしの者ではないか? どうしてあんな学校に姿をみせるのか。黒田は何やら知ったふうな口を利いていたが、そうだ黒田に訊いてみればよいのだ、それが一番だ。しかし学校選びはどうやら間違った選択肢を引いてしまったようだな。もっとまともな学校――すくなくとも白魔陣学園などよりは百倍もまともな学校はその辺にざらにある。まあ、今のところは何の問題も起きていないが、へたをすると単位不足で高卒資格の認定がおりない、などということもあるのでは――、いやそれはない、あすこまで〝まとも〟な学校だ、それはないことだとは思うけれど、将来的には何らかの不利益の元があるのではないか……。潤平は部屋のなかをうつむいてぐるぐる歩き回りながら、今さら考えても仕方のないそんなことを考えていた。が、潤平の足はそこでぴたっと停まった。

 腹が減っているのだ。

 潤平は何か喰おうか、と思い、時計をみた。午前五時五〇分。そうか、間もなく朝食なのだな。潤平はベッドの上に座り込んだ。両手で頭を抱えた。非道ひどい気分だった。

 数億年の時間が流れたかと思われた後、やがてようやくのことで朝食時間になった。潤平は真っ先に食堂へ降りて、パンを温め、スープと卵を添えて食べ始めた。と、隣に黒田が座った。

「お早うございます、坊ちゃん」

「ああ、うん、ども」

 声をひそめて、

「坊ちゃん、昨夜ゆうべの――、というよりか今朝方のですが、あの音、聞きました?」

 潤平は身体をこわばらせて黒田をみた。

「――まあね、聞いたよ」

「ありゃあ、きっとあれですよ。まあ、噂をすれば何とか、といいますから言いませんけど」

「うん。らしいね」

「どうします?」

 潤平はスクランブルド・エッグのさじをおいた。

「きみなら、どうするね?」

「ワタシなら、ですか? できるだけ近くにいて、頼りになりそうなひとを探しますね」

「そんなひと、おらんよ。ぼくの周りには」

「いるじゃないですか」

 潤平は眉を上げた。

「うん? こないだのひと?」

「そう。あの…アメーバじゃないし」

「ユーグレナ」

「そうそう。あの先生が一番頼りになりそうじゃないですか」

「わからんよ」

「うん。どうしてです?」

「まず、あんなガッコに来るところからして怪しい。年齢はもっと年かさらしいのに、高校の学校説明会なんかに来るのはひどく怪しい」

「何か事情があったんじゃないでしょうか」

「――きみね」一ついってやろう、という態度で身構えて、「ひょっとしてきみは、ぼくにあの先生とやらに連絡させようとしているのかい?」

 黒田は呆れたように、

「さっきからそう言ってるじゃないですか」

「うん、どうも分からないんだよなあ。ぼくはもうあんなガッコに行くのはいやだよ。お断りだ。どうしてあんな胡散臭うさんくさいガッコにしちまったのかね。あんたの口車に乗ったぼくがバカだったよ、まるっきり」

「そう言わないで下さいよ。ワタシだって、ワタシにできる精一杯としてああやっておすすめしたんですから……」

 その声は真率しんそつなものだったので、潤平はそれ以上追及するのは控えた。

「――まあ、あの先生しかいないといえばいないんだがね」

「じゃあ、電話しますか?」

 潤平はがっくりとうなだれてため息をついた。

「そうだね、そうするのが一番らしいね」

「早い方がいいですよ」

 いい残すと、黒田は席を立った。代わってひとの気配がするので、顔を上げると若菜だった。

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