D.

 自分も、若菜と同じように、〝スタジオ〟に這入はいってトレーニングでも始めるか。

 ――いや、どうやらそれしか今の自分にはやれること・やるべきことはないらしい。

 つまり、〝ワークアウト〟をしましょう、始めましょう、となったワケである。

 そう考えている自分を見出したとき、潤平は思わずあかくなった。先日の若菜との会話が思い出され、何となく自分がひどくさもしい人間になったような気がするのだ。女の気をくためにウェイト・トレーニングを始めるなど……、と潤平のなかの声はいう。一体どうしようか、やろうかやるまいか、と潤平は昼まで半日うじうじと自分の部屋で考えつづけた。BGMはハード・ロックとプログ・ロックのカクテルだ――、ハーレム・スキャーレムにジェネシスにイナフ・ズナフにEL&Pにイン・フレイムスにトリアンヴィラートにバーニー・トーメに……、と潤平は午前いっぱい、くよくよと考えながらレコードを掛けた。そして、誰かに相談してみようか、という気になったのは、昼食時のことだった。頭にはまず千鶴子のことがうかんだ。けれど、母は相談相手としては気分屋で、どちらかといえば頼りない存在だった。ほかの研修生たちにすべき話ではないし、ここは父親に話すほかないだろう。だけど、……一体どうやって切り出せばいいのか? 潤平はここでもまた、悩むのだ。ぼくも〝ボディビル〟やってみたいから、仲間にいれて欲しい……。ぼくも〝ワークアウト〟をいっしょにやりたい……。トレーニングがしたい。運動不足を解消したいので、〝スタジオ〟を使わせて欲しい……。どの文言も、心のなかで思っている分には異常ないのだけれど、いざ口に出して、そう、口頭で伝えようとすると、とたんに照れくさくなってしまうのだ。

 それに、一体どうした、と怪しまれることも考えられる。こちらも日ごろ、あれこれ忖度そんたくしていることは多いのだが、恐らく父さんたちも、もしかすると潤平より以上に潤平の心情をはかっているところはあるのではないか。潤平がナニを考えて生活しているのか、その点で不審、とまではいかなくとも、懐疑心かいぎしんくらいは持っているはずだ。ここでいきなり方向転換して、昼間の生活への切り替えがあり、両親もややビックリしているところではないだろうか。そこへ来て、唐突とうとつに「トレーニングもやりたい」といい出したりしたら、ますます潤平の心理心情しんりしんじょうに対して大きな〝?〟を抱くのではないだろうか。と、潤平はこのように種々様々しゅじゅようよう腐心ふしんしたあげく、ここは〝高等学校と抱き合わせ〟でいくほかないな、と内心で決意するのであった。なぜというに、そもそも潤平の生活サイクルが狂い出したのは、高校中退以後のことであり、それ以後の潤平の生活目標は、両親にとりまるで理解不能な、火星人の無線連絡を傍受ぼうじゅして解読する、というような、結果的に意味不明に終わる徒労とろうとなる作業にも似たものだった(筈だ)し、それならいっそのこと、「これまでの生活態度をよく見直したが、自分には高卒資格が必要であることはよくわかったし、それなら通信制高校に入って単位を取得し、その上で大学入学も目指したい。ついでに、体育の授業代わりにトレーニング・ジムで身体を動かして運動したい」と言えばどうだろうか、というのだ。

 潤平は、そうした。

 昼食を終えようとしている大輔をつかまえて、以上のような文句を耳に入れたのだ。

 すると、大輔はかすかに顔を赤くし、

「そうかあ」と感慨深そうに云った。「お前も、ついにやる気になってくれたのか」

 そう云って、潤平の肩に両手をおいたが、ほうっておけば潤平を抱き締めかねないていたらくだった。そんなことをされてはたまらないので、潤平は、

「……そ、その代わりさ」

 と行き当たりばったりのことを口にした。大輔は、

「うん? なんだ?」

 そこで、

「ウ、ウォークマン買ってくれるなら、高校に行くよ」

 と天然自然で口先に出たことを云った。大輔は、

「なに、ウォークマンだと?」と少し気色けしきばんだようだったが、「いいぞいいぞ、買いなさい。買ってあげる。――ただ。こちらもその代わり、父さんと約束してくれ」

 潤平は顔を上げた。

「なあに?」

「大学まで行ってくれ。学費はちゃんと出せるから」

 途端とたんに潤平は堅い表情になる。

「ううん」と考え、「確約かくやくはできないけど……」

「どうしてだね?」

 潤平はわずかに口先をとがらせて、

「だってさぁ、入りたい人間はいても、ぼくのことを入れてくれる大学があるかどうか、そこがわからないもの」

 と返辞へんじした。大輔は潤平の肩をぽんと叩いて、

「大丈夫、お前は元来優秀なんだ。中学までお前の偏差値は最低でも総合で63をキープしていたの、覚えてるぞ」

 と安心させるように云い、語調を改めて、

「さあ、早速お母さんにも知らせないとなあ。っと先がみえて来たというものだな、うん?」

 と嬉しそうな口吻こうふんらすのだった。

 潤平は部屋で独りになると、ごろりとベッドに身体を横たえ、静寂の中で打っている自分の胸の鼓動に耳を傾けた。変なことにならなきゃいいけど……、と潤平は心の中でそっとつぶやいた。けれど、潤平とて元々は〝フツーの〟、常識ある学生の端くれだったし、どのように行動するのが一番正しい身の振り方なのか、ということに就いては自分でよく認識しているはずだったのだ。ただ、これまでの約八ヶ月間は、その潤平にしては珍しく脱線した期間だったのだが、潤平としてはその間に学べたことも少しはあったと思う。潤平も愚鈍ぐどんかといえば、やはりそうでもない、どちらかといえばスマートな学生の部類だったのだ。けれども〝ワークアウト〟と通信制高校とを抱き合わせにしてしまったのは、ちょっと無理があったかも知れない。潤平は元々はジムでのトレーニングの方が主眼点だったのであり、高校で単位を取得することは余り考えていなかった。なぜ、あんなことを云ってしまったのか。潤平にも自分の心理を憶測おくそくするしかないのだが、たぶん宮下若菜のことをあくまでも糊塗ことしておきたい気持ちが強かったのではなかろうか、と自分ではそういう結論がでた。それでも、これから通信制高校に入るにいては、潤平自身はそんなに悪い考えではないように思われてきた。これまでは、尊大不遜そんだいふそんなことに、通信制高校、というと何となく敗残者はいざんしゃ、負け犬のための学校、という風に考えてしまうフシもあったのだけれど、教育課程にはいろいろな選択肢があって然るべきだとは思うし、実際自分だって正規の高等学校教育には馴染なじめなくてやめたクチなのだ。その上、行きたければ大学にも行っていいといってくれた。潤平は、まだどこの大学にしよう、とかいう考えはなかったが、それでも大学、というと何となくわくわくするものを感じた。ここよりも広い世界に出られるのだろうか、自分を自由に解き放ってくれるものが見いだせるのだろうか――。もしそういうものがあるとしたら、きっとその端緒たんちょくらいは大学という機関にいけば拝めるのではないか――、すくなくとも潤平はそのように考えたのだった。まことに甘ったるい、甘ったれた短絡的たんらくてきな考え方だといわねばなるまいが、それはそれとして、かく潤平は(半ば大輔と千鶴子の意向であったにせよ)大学教育まで受けることを選んだのであった。そのために通信制高校に通うのだ、と。

「潤平、通うのはいいけど、どの学校にするか決めたの?」

 夕食の席で千鶴子が問うた。

「まだ」

 潤平は手短てみじかに答える。この話題は潤平にとって〝生傷なまきず〟みたいなもので、その創傷そうしょうが閉じるまで待っていて欲しいものだ、と潤平は思う。

「いろいろあるんでしょ? 私立公立、学費やキャンパスとか…」

 潤平は揚げ出し豆腐を口に運びながら、

「……らしいね」

 と答える。

「スクーリングというのは、学校によって違うのか?」

「……うん」

「どうなのよ潤平、ハッキリしたこと言わないけど。何とか返辞へんじしてちょうだいよ。あんたの問題でしょ」

「ちょっと待ってよ」潤平は言うた。「……まだ、こっちもいろいろ整理をつけなきゃいけないことがいろいろあるんだってばあ」

「ああ、そう。それならいいのよ」

 千鶴子も大輔もようやく黙ってくれた。だが、この沈黙もどうも気に入らない。たしかに自分がもたらしたものではあるのだが、何となく悪いことをしてしまったような気がするのだ。

 そこで、潤平は二、三度咳払いをして、

「……ぼくも、トレーニング始めることにしたから」

 ぼそりと言った。

「ああ、お父さんから聞いた。やる気なんだってね」

「まあ、ハード・ロックよりは身体にいいだろ」

 大輔は笑ったが、満更でもなさそうだ。

「ウェアとか揃えないと」

「ああ、それならうちに余ってるのがあるはずだから、それ使いなさい。いつからでも好きなときに始めていいぞ」

「……うん」

「よくやる気になったな」

「うん」照れ隠しに味噌汁をすすった。「……けどさ」

「うん?」

「ぼくみたく、神経質な人間でもできるのかな」

 大輔も千鶴子も笑った。

「お前な、ボディビルはふだん細心さいしんな人間のほうが向いているスポーツだぞ。重量挙げやハンマー投げとはわけが違うんだ。高いメンタリティをもってる人間のほうに適性がある」

 と大輔は断言した。

「……そうかなあ」

「そうさ。もっとも、実際にやってる連中は、陸上選手崩れとかが多いから、全部がぜんぶそうだとは言いきれないけどな」

 潤平はお菜である鮭のチャンチャン焼きをつついた。大輔はビールのグラスを傾けて、

「まあ、まだ大会に出るとかそういう話ではない、取り敢えず健康を考えて……、そうだな、保体の授業の代わりにするつもりでいればいいさ。気楽に考えなさい」

 と云った。その言葉は干天かんてん慈雨じうのように潤平の六腑ろっぷに染み渡った。

 夕食を終えた潤平が、自分の部屋でスティーリー・ダンの『エイジャ』を聴いていると、ドアにノックの音がした。

「はい」

 と雑誌を読みながらの生返事をしたが、ドアは開かない。

「どうぞ」

 もう一と声かけると、控え目にそっとドアは開いた。そこにいたのは、誰あろう宮下若菜であった。潤平は悪いことをしているところを見とがめられたような、或いは善行をしている自分のはらの底を見透かされたような気がしてどぎまぎし、一気に心拍数と血圧があがった。

「な、なんだ、おどかすなよ」

「悪かったね」若菜は悪びれず、「ちょっと、おじゃましていい?」

「――どぞ」

 若菜は部屋に這入はいって来ると、後ろ手にぱたんとドアを閉めた。

「ねっ、お母さんに聞いたけど」小声で、「やるんだって?」

 潤平はちょっと戸惑って、

「うん、――うん」

「あたしが、コーチ役をいいつかったのですよ、潤平さん」

「ええっ!?」頭の中が白くなる。「マジでぇっ?」

「うん、本気」

 潤平はベッドの上で不意に脱力して、クッションにしなだれかかった。

「うひい」

 若菜はつかつかと潤平に近寄り、

「これから、あたしにはキミに、いっぱい教えることがあります」

 と宣言した。

「……はあ」

 潤平はマタタビを嗅いだ猫のように力が入らない。

「だから、ひとつ心して」と潤平の様子をみて、「あれ?」

「…………」

「どったの? 潤平くん?」

 っと潤平は我に返った。

「んまあいいけどさ」と口の端のよだれを拭い、「ひとつ、お手柔らかに」

「いいえ、ビシバシいきますっ」

「……参るなァ、もう……」

「地方大会で優勝が狙えるだけでなく、アメリカでミスター・オリンピアの座もうかがえる、そんなボディビルダーに、あたしとしてはなって貰いたいっ!!」

「……は、はいはい」

「返辞は一つッ!」

「はいッ!!」

「よろしい」若菜は部屋の中で円を描いて歩きながら、「まずキミには、筋肉の解剖図を、つまりどこに何という筋肉があるか、という図だね、それを覚えてもらいたい。それから運動生理学についてもざっと。そして勿論、実技」と時計をみて、「おっと、もうこんな時間だ。今夜はゆっくり休むように。明朝、会いましょう」

 じゃっ、お休みっ、といい残して若菜は去って行った。潤平はあとに一人残されて、毛布の端をかんでいた。まったくお袋は、余計なことばかりするんだから。これじゃあぼくがどんどんみじめになるばかりじゃないか。先回りばかりしやがって。

 潤平は呟くと、ブラック・フラッグの『マイ・ウォー』をターンテーブルに載せた。速いテンポのリフにのって、ヘンリー・ロリンズが歌い出す。

 シャワーなど浴びる気にならず、潤平はそのままうとうと寝てしまった。

 眠って、潤平は夢をみた。

 夢の中で、潤平はダム湖のほとりにいた。傍でだれか女の声がする――、知らない女だった。その女は潤平に、みてごらん、と話しかけた。潤平にはその姿を認めることはできないのだが、女が潤平に向かって話しかけているのは確実だったので、潤平はみた。みるものとは云っても、湖しかない。湖を潤平は眺めた。すると女は、もっとよくみてごらん、と言った。そこで潤平は水の中をよくみつめた――、と、水の中では一切が静かだった。なにも動いているものはなかった。

 死んでいる。そうだった、湖の中では全てが死んでいた。水草を食べるハヤいっぴきの姿もなく、水面では卵を産むトンボの姿も一切みえない。

 いい、あなた? と女は潤平に云った。これが死の水なんだよ。よく覚えておきなさい。潤平は素直に頷いて、覚えておこう、と考える。これが死の水なんだ……。

 と、背後から女が潤平の肩に手をおいた。それは悪くない感触だった。女性的なまろみを帯びた感じ、そこには情愛や温もりも含まれていて、潤平はその手に触れようと思って手を伸ばした。だが、その手指に触れるのは自分の肩の肉だけで、たしかに感覚のある女の手には触れもしなかった。えっ!? と思って潤平は後ろを振り返った。と、これまで女だとばかり思っていたものは、実は頬のこけた骸骨がいこつ、死霊なのだった。骸骨は、ほおまで拡がるにたにた笑いをうかべて潤平をじっと見下ろしている……。眼窩だけの眼は黒々とした表情を満面に湛え、男か女かわからぬ肢体には背中に一対の翼が生えていた。その死霊は、不気味な微笑みをうかべたままで、どうだいわかったろう、魚のいない死んだ湖、これこそが真実というものなのだ、よくわきまえておきなさいよ、と気味の悪い女の声色で言った。気味が悪くなった潤平が助けを求めて叫び声を上げようとしたとき……、眼が醒めた。

 潤平が眼を醒ますと、ディスクはもう停止していて、窓の外はあいかわらず真っ暗だったが、かぶりを振って潤平は眠気を払い落とした。

 ――夢、か。

 潤平はほっと吐息を洩らし、ベッドの上で起き直ってあぐらをかくと、両手をみつめ、こぶしを結んだり開いたりしてみた。何も異状のないことを確かめると、腹が減っていることに気がついた。何かあるかな……、カロリーメイトでもあればいいんだけど、と思ってもぞもぞと身じろぎして床に降り立ったところで、無用の間食は不健康の元であることを思い出した。時計をみると、午前二時三〇分過ぎである。朝食は午前七時前、あと四時間は地獄に思えたのだが、詮方せんかたないことだった。気持ちを切り替えて、ドラゴンロードかビヨンド・ザ・カタコームの情報でもチェックしようか、とデスクに向かってノートPCのスリープを解除しようとしたときに、不意にそれはやって来た。

 階下、けだし一階のどこかで、


 どおん


 という重く太い音が響いたのだ。潤平は一瞬、固まった。こいつは何だ天災の類か、それとも何かおいてあるものが倒れるでもしたのか、あの音を聞いたのに他のやつはいないのかぼくだけなのか、それにしてもちょっと妙な音だったな、一体全体マジであの音は何だ。

 と思う間もなく、


 どおん


 第二波がきた。部屋の中ではかたことかたことと何か金属片どうしを打ち鳴らすような音が続いていたが、やがてそれは止んだ。それはいいが、潤平はもうすっかり肝をつぶしてしまっていて、ベッドにすっ飛んで行くと布団をひっかぶって息を殺している始末。

 が、五分ほど経つと、恐ろしいハヤブサやハイエナの爪牙を這々ほうほうていで逃れたアナウサギが、危難きなんが去ったか様子をみようと住まいの穴から兢々きょうきょうと首を出すように、潤平の恐怖心もやや鈍磨どんましてきて、様子を確かめる気になった。まず布団から首だけ出し、外をうかがうと、何もないことを確認してから、布団をぬぎ、ベッドの上で座り込み、それからベッドを出て床の上に立った。いま聞いたものが一体何だったのか、潤平にはよくわからないし、またどういう種類のものであるのか別に興味もなかった。どうせろくなもの、自分の人生にするようなものでないことだけはたしかだったから。そして、今の物音のごとき被造物をこしらえた造物主のことを少しだけうらんだ。ものをこさえるなら、せめてどういう性質のものなのか、不分明ふぶんめいなものは避けてもらいたいものだね、と言いたかったのだ。潤平はそこで、ちょっと気分転換に体操でもしますか、と思ってオイッチニッ、と部屋の真ん中で手足を振り動かして(無意識裡むいしきりにYMOの〝TAISO〟を意識して)運動を始めたのだが、アッという間に手をレコード・ラックの角にいやというほどぶつけてしまい、その気もくじけた。ああ、これだから夜中に腹が減ると困るんだよな。母さんはダメというけど、これからチョコレート・バーとスニッカーズくらいはこの部屋で常備じょうびしておきたいものだな。ああ困った困った。

 と潤平は非常な速さで〝こまこま音頭おんど〟を心の中で唱えだした。けれども、そうしていると今度は不思議と眠気が襲ってきて、潤平は我知らずやがてた眠りに戻っていった。

 潤平が二度目に眼を醒ますと、日はすでに高く、時計は午前六時四〇分をまわっていたので、手グシであぶらっぽい髪を乱暴にとかし、起き出して着替えた。外はもう研修生たちの声がしていてやかましい。そうだ、ぼくは昨日まで、あの研修生たちのことは自分と無関係だと思っていたんだっけ。今日からぼくは一番の〝新米〟になるワケだ……。

 眼をこすりながら一階の食堂に降りると、千鶴子がいたが、潤平の顔をみて、

「お早う。これがあるから、使いなさい」

 といって一冊のノートブックを手渡した。表紙には、

「容易な人生を願うな。人生の艱難かんなんを耐えきるだけの強靱きょうじんさを願え」

 という文言もんごんが刷ってある。潤平が、なにこれ、と母親の顔を見上げると、

「それは、このジムの日誌だよ。今日はどういうメニューを、それぞれ何レップ(回)、それを何セット繰り返したのか、完遂できたのか或いは途中でつぶれたのか、それを毎日書いていってだね、昨日は何を何回できたから、今日は何回にして、明日は何回にしよう、という計画を立てるためのノートだよ。いってみれば、過去を未来に反映させるノートだね」

 ということだった。へへえ、と潤平は思った。こりゃ、ぼくはいよいよここのジムで新入りの立場になるのか。

「これ、だれの言葉?」

「ブルース・リーだよ」

 ふうん、これまで知らなかったけど、いろいろとってるのね、と考えながらノートを手に、皿をとろうとすると、千鶴子が、

「あんた、それはいいけど、通信制の高校のことは調べたのかい?」

 と問うた。

「うん、二、三思い当たる学校があったから、資料請求しておいた」

 今朝寝るまえにウェブで申し込みをしておいたのだ。尤も、半分寝惚ねぼけてのことだったので、ベストな学校を選べたのかどうかは分からない。これから幾らでも選べるのだし、まあいいだろう、という考えだった。

 潤平は座って食べ始めた。と、横にひとの気配がして、

「おっす、新入りくん。昨夜ゆうべ失敬しっけいしたね」

 宮下若菜である。

「ああ」気まずさを押し殺して、「ども」

「どーですか、気分は?」

 若菜はいきなり潤平の背中をどしどしとどやしつけた。

「いたた、あいたた」潤平は身をよじる。「気分は悪くないっす」

「高校は決めました?」

「――まだ、って関係ねえだろ、おたくには」

「そういう言い方することもないでしょ、これからあなたのコーチを務めることになってんだからさ」

「……一応、幾つか絞り込んで、これから決めるとこですよ」

「ああそう、最初からそう云えばいいのにさ。まったく素直じゃないんだから」若菜は珈琲を一と口飲んで、「あのね、新入りくんは、毎朝スタジオの掃除するんだよ」

「えええーっ」潤平は渋い顔をした。「ぼくもォ?」

 救いを求めて母親の姿を探すと、千鶴子も近くにおり、腰のくぼみに手を当てて、

「当たり前です」

 とけんもほろろに云う。

「マジですかァ?」

「マジだよ、新米くん」若菜は冷ややかに云うた。「ちょうどいいじゃん、他のメンバーとも顔見知りになれるいいチャンスだよ。あんたここのひとのこと、誰も知らないんでしょ?」

「そりゃあ、ねえ」じっさい、昨日まではごうも興味などなかったのだ。「知らないよ」

「そりゃあ、よくないよ」

「…けど、どうしておたく、そんなこと知ってるの?」

「うん、だってあたしら研修生のあいだでも、潤平くんのことウワサになるもん。〝謎の住人X〟とかってさ」

 潤平は思わずいた。

「やめてくれよォ」

「だって、ほんとなんだもん。――さ、早く食べちゃってよ。掃除は八時から開始だよ。てきぱきやらないと、先輩にどやしつけられるんだから」

「仕方ねえなぁ」

 潤平は林檎りんごブレッドをもう一切れお代わりしようと思っていたのを止めて、代わりにアップル・ジュースを飲んだ。みていると、若菜のいう通り、朝の食堂はこれまで知らなかったいろいろな研修生たちが入れ替わり立ち替わり立ち寄り、食事をしている。中には会社にでも出るのか、スーツ姿をしているのもいるし(しかし筋肉という〝甲殻こうかく〟を背負っているので、背広の上からでもそれと判別できるのがおかしい)、ふつうのTシャツ姿もいる。

 一旦部屋にさがってもらったばかりのウェアに着替えると、潤平はおそるおそる〝スタジオ〟へ出向いた。まだ約束の午前八時には十分ほど間がある。が、近づいてみると、ガツーン、ドサッ、ガチャン、ドシッ、ガツン……、とマシンの動作する音やバーベルやダンベルを乱暴に床に落とす音が聞こえてきた。ややためらったが、潤平はやはり約束だから、ということで扉を押して中に這入はいった。――すると、たちまちその音は止んで、代わりに何かカサコソとぬぐったりするような音に変わった。が、潤平が咳払いすると、それも止んで、何となく形容しがたいなりの若い男が五、六人も立ち上がった。そして、潤平をみると口々に、

「なんだ、先生じゃねえのか」

「てっきり先生だと思っちゃったぜ」

「さ、また一つ〝ワークアウト〟やろうぜ」

 などと唱え、またマシンやフラット・ベンチに戻ってウェイト・トレーニングを再開した。

「おいおい、あれ、掃除はいいの?」

 呆れた潤平がいうと、ラット・プル・ダウンのマシンについていた男が、

「掃除? あんなの建前たてまえ建前。何せ、日中はここ結構混むしさ、大会の近づいてる上級者優先だから、俺らはこうやって朝と夜に時間みつけてやるしかないのよ。高い月謝払ってるし、みすみす損はしたくないしね」

 と云う。

「でも、それじゃここは汚くなる一方で…」

「いやいや、んなことないって。〝新しい汚れがつけば、古い汚れは去る〟、これが俺らの処世訓、ってとこだなぁ、差詰さしづめ」

「ふうん……」

 あきれて佇立ちょりつする潤平の許へと、黒いTシャツに黒いジャージ、という姿の青年がやって来た。

「ども、お早うございます」

「はい。お早うございます」

 若菜に云われた通り、自分も〝ビギナー〟だと自ら任じる潤平は素直に下手したてな挨拶をした。

「あのう、……あなたは、ここの先生のご子息でいらっしゃるのでは……」

 男はせんばかりに卑屈ひくつなほどの態度で喋る。

「まあ、そうですけど」

「やっぱり!」嬉しそうだ。「ワタシ、黒田と申します。以後よろしくお願いいたします」

 とペコリと頭を下げるので、潤平も、

「どうも、よろしく……」と云ったが、ぐに疑問が頭をもたげた。「それはいいけど、おたく、どうしてぼくのこと知ってるの?」

 黒田は口許くちもとに手を当てて、あはは、と控え目に笑い、

「だれだって知ってますよ。有名ですから。〝運動ぎらいの坊ちゃん〟って」

 潤平はむっとして赤くなった。

「ぼくはそんな……、〝坊ちゃん〟なんかじゃないよ漱石じゃあるまいし」

「ソーセキだろうがインセキだろうが変わりません。ワタシ、坊ちゃんのお顔を拝見したことはこれまでほとんどありませんけど、一と目で分かりましたもの。あ、ここのご子息だな、と」

 黒田は、自分のことをカタカナで〝ワタシ〟と称する。それは、どこか潤平の気に喰わなかったのだが、潤平はえずほうっておいた。

「……まあいいけどさ。おたくも、ここの研修生? 大分身体は細いようだけど」

 すると、黒田は色を変え、潤平の方に向きなおると、やおら力こぶをつくってみせた。潤平は納得し、わかった、わかったから、と云って黒田をなだめ、それから改めてスタジオの中を見回した。あちこちに、例のノートにあった文言のほか、「日々是決戦ひびこれけっせん」だとか、「乾坤一擲けんこんいってき」とか「焼肉定食」というような檄文げきぶんが貼ってある。室内はかすかな汗と鉄とマシンにさす油の臭いがした。潤平はにわかに気が重くなった。

 この男は、自分がこの笠原家の長男であることを知っている。とすると、定めし高校に通えなくなって中退したことも知っているのだろうな、たぶんあのお喋りな宮下の口からでも聞いているだろう……。

 なるたけ、この男の知っていそうもないことを探そう、と思って、潤平は自分の脳髄の中身をシャッフルして抽出ちゅうしゅつした。その結果、一つだけ、「!!」の結果が出た。

「あのさあ」潤平はできるだけ自分が〝怪しげな〟ひとにみえるような話し方で、口を開いた。「この家ではさあ、時たま、へんなことがあるんだよねぇ」

 黒田は聞く耳を立てた。

「へんな? どういうことです?」

 潤平は緩慢かんまんな口調で応じる。

「うん、昨夜ゆうべもさぁ、寝ていたら、家のどっか…、この辺かな、それとも…まあいいや、かくどこかで、〝どん〟って音がしてさぁ」

 と、潤平の信じられぬことに、黒田はポンと手を打ち合わせたのだった。

「それ、ワタシも聞きましたよ、坊ちゃん。昨夜っていうか…、今朝の未明でしょ? 午前三時前」

 図星ずぼしだった。潤平は唖然あぜんとして口を開けた。黒田は続ける。

「いえねえ、ワタシも、昨夜は何かミョーなことでも起こりそうだよな、思いましてね、なあんとなくこう、寝付きがわるいというか、うとうとしてはまた眼を醒まして…、という按配あんばいで、いまいち気持ちよく眠れなかったんですがね、それが判明したのがその音ですよ。あれを聞いて、あああの音はワタシに、〝起きて待っていた褒美ほうびだぞ〟と云っているんだな、と思ったんですがね」

 ――と、スタジオの戸が開いて、千鶴子が這入はいって来た。

「ほら、みんな、掃除してる? こらそこ、固まって話なんかしてないで。黒田さんも。こら、潤平! お前が率先そっせんして掃除しないと示しがつかないじゃないのよ! しっかりして。ほら、掃除だ掃除だ、掃除して」

 と口やかましく研修生たちを追い立てたので、みな〝われるゴキブリ〟よろしく、ぱっと一散に散って行った。潤平も詮方せんかたなしに雑巾ぞうきんを手に取り、その辺を拭いてお茶を濁した。千鶴子はスタジオに併設されている事務室に這入はいり、コンピュータに向かって何か打ち込みだしたので、潤平たちはごまかしが利かなくなり、仕方なく掃除を続けたのだった。

 黙然もくねん履行りこうした掃除が終わりに近づくころ、他の研修生たちも一人、またひとりと姿をみせた。食堂ではわからなかったが、こうしてTシャツ姿になっているところをみると、みな、一様に、隆々りゅうりゅうたる魁偉かいいな筋肉の〝鎧〟を身に着けているのは男女とも共通した特徴であった。潤平は、それをみた途端、急に一種の無能感むのうかんにおちいったほどなのだが、その一方で、(ふむ、あの筋肉をつくったのは一体どこの施設だ? ウチの、このジム……、いや〝スタジオ〟でのことじゃないか)という思いも湧いてきて、ある種の奇妙な優越感に浸れたことも、またたしかである。

 ――と、宮下若菜がまだ眠そうな眼をこすりながら姿を現した。手に何か紙切れのようなものを持っている。

「さっきはどうも、新米くん」と紙を手渡し、「これ、えず、当座のメニューだよ」

 潤平は黙ってそれを受け取った。ひな形を使ってワープロで打ち出したらしいだのが、そこには、


「笠原潤平 ワークアウト・メニュー」


 とあって、下にずらずらと、種目なのだろうか、カタカナ英語の表が出ている。

 たとえば、


・シットアップ 25レップ 最低2セット


 とか、


・ベンチ・プレス 10レップ 3セット


 ――といった按配あんばいである。数えると種目は十あった。潤平も、平生の両親の会話から、英語表記でもそれがどんな種目なのかということはぼんやりと想像がついたが、〝シーティド〟とか、〝パーム・ダウン〟なんかがつくともうダメだった。

 そうして困惑の表情をうかべる潤平をみて、若菜はなぜだか嬉しげに、

「〝レップ〟っていうのは、単純に回数のことね。それを一セットとして、一日に何セットやればいいか、ってのがその表のコンテンツね」

「ふん。――まあ、大体わかるけど」潤平は強がった。「でも、何キロでやるのさ?」

「それは、これから〝マックス〟を測って、あと体重も量って決める。――どちらにするかはそのひと次第だけど、あんたは体重を元にした方がよさそうね」

 と潤平を頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと見やった。

 結局、事務室にいた千鶴子とも話した結果、まず体重を測定することになった。

「身長一七九センチ、体重八二キロか」

 若菜が大きな声で読み上げた。潤平は若い娘のように真っ赤になって、止めろと云ったのだが、若菜はまた嬉しそうな顔をするのだった。

「ええっと…、まずスタンダードなところから、ベンチ・プレスやってみようか」

「ベンプレくらいわかるよ」

「まあまあ、つべこべ云わず、あたしのいう通りにやるんだよ」

「うん」

「はい、でしょ返辞は」

「…………はい」

「よろしい」

 若菜は空いているフラット・ベンチのところに行ってタオルを敷くと、まずバーベルのシャフトをとり、ベンチの上にけ、「5kg」と書かれているダンノのプレートを一枚ずつバーベルに取り付け、続いて二キロ半のプレートを一枚ずつ付け、樹脂のカラーをつけて固定した。

 そこまで準備が済むと、若菜は、潤平に向かって、さっと手でベンチを指して指示し、

「やってみ?」

 と言った。潤平は、どのようなやり方が正しいのか見当もつかずに、おずおずとフラット・ベンチにまたがり、座ると、不器用に寝そべってずり上がり、バーベルの下に首根くびねっこが来るような体勢をとった。

「OK」若菜は言うと、バーベルを片手で軽々とつかみ、潤平の胸のうえに下ろした。「さあ、持ってみて」

 潤平は二五キログラムの重量のバーベルを両手でつかんだ。途端にふだんは感じないで済むところの不自然な重量を感じて、手がふるえた。何とか落とさずに胸の上に下ろすと、今度はぐっと息を止めて上に押し上げた。若菜は、

「繰り返して」

 と指示する。潤平は従った。若菜は、尚も、

「息を吐きながら上げて、吸いながら下ろすの!」

 とか、

「バーベルは乳首の上に下ろすんだよ!」

 というような指図を出した。潤平はいう通りにした。

 八回終えたところで堪え切れなくなり、潤平がバーベルをラックに戻そうとすると、若菜は意地悪い笑みをうかべてそれを押し戻し、

「あと二回だよん」

 と言った。何とか十回、無事に済ませると、

「さ、少し休憩しましょ。――はいっ」

 と、何か手渡す。みると、エネルゲンのペットボトルだった。

「あ、ども」

 潤平はごくごく飲んだ。

「きみね」若菜は傍にあったパイプ椅子に座り、「グリップは、こう握って。親指も一緒に使ってバーベルのシャフトをにぎるの。それから、呼吸はいいけど、そんなにあえがなくていいから。ね? 分かった?」

 と手振てぶりを混ぜながら説明する。潤平は、それをみていると、なぜだか甲斐甲斐しく介抱かいほうする看護師の姿を思いいかべてしまって、我知らず、

「お、…押忍オス

 と返辞していた。若菜はそれを、微笑とともに受け入れ、時計をみると、

「さ、三分経った。続けてやろ」

 と潤平の右肩をぽんと叩いた。

 ベンチ・プレスが済むとスクワット、その次はシットアップ(腹筋運動)、更にマシンを使っての背筋運動であるラット・プル・ダウン……、という按配あんばいに、コースは全十種類のトレーニングで成り立っていたが、ほかの研修生たちに混じり、先輩トレーナーのメニューの空きを縫うようにしてすっかり〝ワークアウト〟を終えたのは二時間ほど後のことだった。

「お疲れさま」

 若菜は何でもないようににっこりした。潤平は早くも滅多に使わない大胸筋や上腕二頭筋(力こぶの筋肉だ)に重たい気だるさを感じていたが、それは口に出さず、

「ども。お疲れさま。――コーチしてくれて有難ありがとうございます」

 と返辞へんじした。と、若菜は、そうそう、と云うとスタジオの片隅にゆき、自分の荷物がまとめて入っているバスケットからプラスティック製の透明な円筒のようなボトルと何かの薬でも入っているのか、やはり樹脂製の袋をとって戻ってくると、手招きして、

「こっち、こっち」

 とスタジオの隅の潤平の知らぬ一郭いっかくへ連れてゆき、そこに鎮座ちんざしていた背の低い冷蔵庫から、

「MIYASHITA WAKANA」

 とマジック・ペンで大書されている牛乳パックを取り出した。

「なにを……」

 と潤平が言いかけると、手で制し、樹脂製の袋から――、目ざとい潤平は、その表に「さらにおいしくなった」という文言もんごんの並んでいるのを見逃さなかった、その「ザバス」というらしい薄黄色の粉末をすくいとり、ボトルに三匙みさじほど移しいれると、牛乳をなみなみと注ぎ入れてから、フタをして何度かシェイクした。そして、潤平に向かって、

「はいっ、飲んで!」

 と突きだした。潤平は元より、ちょうど腹が減りかけてきたところだったので、否応いやおうなくボトルを口に持っていった。

 ――だが、一と口飲んだだけで、潤平はむせ返ってしまった。バナナ…風の味付けにしてあるのはわかるのだが、あまりに人工的にすぎる味で、中途半端に香料や糖分を加えてあるのも致命的ちめいてき欠陥けっかんだった。吐き気がしてくる。潤平は顔をしかめて、

「こ、これ……」

 何スか? と訊こうとしたのだが、口臭まで「ザバス」味になってしまっているのには閉口した。

「マズいよね、それ?」

 若菜は仕方なさそうに笑った。潤平はうなずいて、

「こんなマズいもの、久しぶり」

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