第3話 ラストノート

 いつもよりも強くノックすると、扉はすぐに開かれた。ずぶ濡れのニーナを見て、ギルベルトの目が驚きに見開かれる。


「ニーナ?!」

「まさかここまで降るとは思わなくって……。頑張って走ったんだけど、濡れちゃった」

「いいから早く入って」


 背後で扉が閉められると、雨音が僅かに遮断される。ギルベルトにタオルで頭を拭かれれば、ふわりと爽やかな香りが漂った。

 雨と湿った体のせいで、ほのかに香っていた「天使の微睡み」がすっかり匂いを変化させている。森林浴を思わせるタオルの清潔な香りは、蒸れた体臭を覆い隠してくれるようで、今のニーナには有り難い。


 丁寧に髪を拭いてくれるギルベルトの指先が、タオル越しに耳の後ろを拭き上げた。そのまま両耳を包まれ、顔を上げる間もなく額に触れるだけのキスが落とされる。


「……っ」

「ニーナ、体が冷えてる。風邪を引く前に、シャワーを浴びておいで」


 タオルで頬を優しく包み込まれ、蕩けるように甘い声音で囁かれる。けれど至近距離でニーナを見つめるギルベルトの瞳は、どこか仄暗い陰鬱な光を宿しているようにも見えた。


「いいの? ありがとう」


 若干の恥ずかしさもあったが、冷えた体にシャワーの誘惑は抗えない。どのみちびしょ濡れのままでは夕飯も作れないので、ニーナはギルベルトの申し出を有り難く受け取ることにした。

 けれど踏み出した足が、たったの一歩で止まってしまう。


「どうしたの?」

「……床を汚してしまうわ」

「何だ、そんなこと。いいからおいで」

「ダメよ。水溜まりにもはまったし、泥水だって被ったわ。ギル、バスルームまで新聞紙か何か敷いて貰えないかしら」

「そんな暇ないよ」


 少しだけ低く響いた声が鼓膜を震わせると同時に、ニーナの体がふわりと宙に浮く。気付けばニーナはギルベルトに横抱きにされていた。


「ギル?!」

「こうした方が早い。それに……もう耐えられない」


 苦々しく呟いたギルベルトを仰ぎ見れば、視線の交わらないその瞳が冷淡な光を宿して揺らめいていた。

 いつもの穏やかで優しい彼とは違う。童顔のギルベルトには到底似つかわしくない冷酷な空気に、ニーナは息をするのも忘れて怯えたように縋り付くだけしか出来なかった。



 ***



 雨とは違う、激しい水音が木霊していた。

 髪を濡らし、冷えた肌を温めていく熱いシャワーは、服に染みこんだ雨を上書きしてたっぷりと染みこんでいく。身じろぎする度に重さを増した服が肌に張り付き、それはまるで手首を掴んで離さないギルベルトのようにニーナの自由を奪っている。

 困惑し速度を増す鼓動は、シャワーの音に巻き込まれながら流れていく。


「ギ……ギル?」


 強引にバスルームへ連れ込まれたニーナは、無言のギルベルトに頭からシャワーを浴びせられた。服を着たままだ。驚いて逃げようとしたニーナを簡単に拘束し、狭いバスルームの中、僅かな隙間も塞ぐようにギルベルトが壁際へと距離を詰める。


「今日は姉さんと会ってたんだよね?」


 探るように、ギルベルトの瞳が細められる。戸惑いながらも首肯すれば、「どこで?」と更に問われ、ますます意図が分からない。


「ヴァンローデ洋菓子店でお茶を……」

「それだけ?」


 僅かに艶めくギルベルトの声が、バスルームにこもる湯気を震わせた。

 水滴の滴る前髪。しっとりと濡れた肌に貼り付く白いシャツ。射抜くような視線は獰猛な熱を隠しもせず、仄暗い闇を抱えたままニーナをじっと見つめている。


「もう、何なの? ギル、おかしいわ!」


 このまま見つめられれば変な熱に浮かされてしまう。そう本能的に悟ったニーナが、ギルベルトの手を振り払ってバスルームを出ようと身を翻した。


「おかしいのは君だ」


 何かに耐えるような低い声が聞こえたかと思うと、背中から強い力で抱きすくめられる。さっきよりも数倍強い力に、ニーナは今度こそ完全に捕らわれてしまった。


「ギル?!」

「雨で『天使の微睡み』が消えてしまうことは分かる」


 抱きしめたまま、首筋に埋めた顔でニーナの髪を器用に掻き分ける。あらわになったその白いうなじ。ニーナの体温で温められ、雨と汗にまみれたほんの僅かな残り香は、まるで挑戦状のようにギルベルトの脳を刺激した。


 調香師である彼にしか分からないであろう残り香。

 調香師だからこそ敏感に感じ取るであろうことを、まるで見越していたかのように残された屈辱的な痕跡。


 ふっ――と吐息が首筋を撫でる。シャワーとは違う、もっとねっとりとした熱がうなじを這ったかと思うと、ピリッとした微かな痛みにニーナが思わず声を上げた。


「ニーナ」


 耳の後ろを掠めて、ギルベルトの唇がゆっくりと動く。


「ニーナ、男の匂いがするよ」


 窓を激しく打ち付ける雨音をかき消して、空気すら揺らす雷鳴が轟いた。


 びくんと体を震わせたのは雷鳴に驚いたからなのか、それとも激しく口付けされたからなのかはもう分からなかった。

 弁明しようと口を開けば舌をねじ込まれ、言葉すら飲み干されてしまう。後頭部をしっかりと固定され、逃げることは許さないと示すように延々と唇を貪られた。熱いシャワーとギルベルトの熱にくらりと意識が酩酊し、やっと解放された時にはもうニーナは一人では立っていられないほど力が抜けていた。


「ギ……ル。ちが……違う、の」


 ダニエルとは何もなかったのだ。偶然にも再会し、心のわだかまりが解消されたことは後でゆっくり話そうと思っていた。けれどニーナが話題にするよりも先に、ギルベルトはその匂いに気付いてしまったのだ。


 雨に降られ、二人で束の間雨宿りをした。その際に濡れた髪を拭いてくれたダニエルのハンカチ――あれに彼の香水が染みついていたのだろう。


 そう思い至っても、もう遅い。

 至近距離で見つめるギルベルトの瞳は、嫉妬と情欲の炎が昏く燃え始めたばかりだ。ニーナはそれをただ受け止めるだけしか出来ない。


「君は無防備すぎるんだ」


 ぎゅっと強く抱きしめられ、濡れた服がこすれ合う。裸で抱き合うよりも、煽情的でなまめかしい。


「僕の痕だけ残していればいい」

「……ギル」

「僕の匂いだけ残ればいい」


 再び重なり合った唇は、さっきよりも随分と柔らかい。思いを確かめ合うように、そして醜い感情を恥じるように、優しく弱く絡まり合う。息継ぎの合間に切ない声音で名を呼ばれれば、それだけでニーナの心が甘く疼いた。


「私も……包まれるならギルの香りじゃなきゃ……いや、よ?」


 ほんの一瞬瞠目したギルベルトが、すぐさま顔を綻ばせる。それはニーナがよく知る、彼のあどけない笑顔だった。


「ほん……っとに、君は無防備すぎてどうにかなりそうだ」

「えっ?!」

「そんなに言うんなら、思う存分残してあげる」


 童顔が戻ったのは一瞬で、次にはもう男の目をしたギルベルトが挑発的な眼差しでニーナの目を覗き込んだ。


「優しい香りと激しい香り、ニーナはどっちが好みなの? 僕に教えて」


 答えを聞く気などさらさらなく、羞恥に染まった唇は再びギルベルトによって塞がれてしまった。




 のちにフィルシア香水店の新作として売り出された香水は、「天使の微睡み」と並ぶほどに人気作となった。

 甘くふわふわとした印象の「天使の微睡み」と対を成す形で店頭に並ぶその香水は、どこか妖艶な大人の女性を思わせる蠱惑的な香りだ。


 香水の名前は「天使の誘惑」。

 名前の由来と香りの意味について、それを知るのは当事者たちだけである。

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