第2話 ミドルノート

 フィルシア香水店。

 自然由来の香料を用いてひとつひとつ手作りされる香水は、市販のものよりも香りは随分と柔らかだ。それでも主張しすぎない、上品で柔らかな香りを放つこの店の香水は男女問わずに人気である。


 中でも最近特に人気なのは、店主の息子で調香師のギルベルトが作った新作「天使の微睡み」と言う名の香水だ。フィアと言う名の桃色の花から抽出した、甘い香りがほのかに漂うベビーピンクの香水。その優しいパウダリーフローラルの香りは、まさに天使がふかふかの雲のベッドでうたた寝をしている姿を連想させる。


 ふわりふわりと、真綿で優しく包み込むような甘く控えめな香りは、人形のように愛らしいと評判のニーナにとてもよく似合っていた。


「順調そうで良かったわ」


 この街で有名なヴァンローデ洋菓子店。奥に併設されたカフェで、一番人気のチョコレートケーキを頬張っていたニーナが、フォークを咥えたまま恥ずかしそうにカタリナから目を逸らした。


「えっと……おかげさま、で」

「どういたしまして」


 艶めいた笑みを浮かべるカタリナはニーナの親友だ。同じ年だというのに既に結婚しており、ニーナと比べて随分と大人っぽい。ニーナの良き相談相手でもあり、数ヶ月前には恋のキューピットとして長年の初恋を実らせてくれたことも未だ記憶に新しい。


「それで、どう? 付き合って数ヶ月経つけど、想像以上に嫉妬深いでしょ」

「そんな風に感じたことは、まだないけど……でも、凄く大事にしてくれてるよ」

「……弟の惚気話を聞くのはあんまりいい気分じゃないわね」


 はぁーっと溜息を零し、カタリナが赤い唇を引いて苦笑した。


「まぁ、そんなこと言われなくても充分伝わってるけれど」

「え?」

「ギルの新作」


 新作の香水「天使の微睡み」は、まるで可愛いもの、愛しいものに囲まれたおとぎの国のお姫様に似合いそうな香りだ。妖艶な雰囲気のカタリナには似合わないが、金髪碧眼で庇護欲を掻き立てられるニーナには抜群に相性がいい。むしろニーナのために作られた香水のようだ。

 ギルベルトがどう言う思いでこの香水を作ったのか、姉であるカタリナには容易に想像出来た。


「ふかふかのベッドで微睡んでるのは誰かしらね?」

「……っ!」


 含みのある言い方に、ニーナの喉がぐっと詰まる。気を紛らわせようと飲んだ蜂蜜入りの紅茶は、いつもよりも数倍甘く感じられた。



 ***



 カタリナと別れてから、ニーナはスパイスを専門に扱う店を訪れていた。

 今日はこのままギルベルトの家に行く予定だ。夕飯を作る約束をしていたので、前もって食材はギルベルトが買ってくれている。ニーナが店を訪れたのは、隠し味にジールの実を入れようと思ったからだった。

 以前ジールの実を入れて作ったら彼の好みに合ったようで、嬉しそうにおかわりをしてくれた。あの時の笑顔が嬉しくて、それ以来ニーナは毎回ジールの実を入れるようにしている。


 お目当てのものを購入して店を出ると、いつの間にか空が重く不安定な雲に覆われていた。


「雨、降るかしら」


 傘は持ってきていないが、幸い荷物は少ないし、ギルベルトの家までここからそう遠くない。足は遅いが頑張って走れば、雨が降る前にはギルベルトの家に着くだろう。

 そう信じて、くるりと身を翻したニーナの視界に、隣の店から出て来た見覚えのある青年の姿が映り込んだ。向こうもニーナに気付いて、「あ」と短く声を上げて立ち止まる。

 少しだけ、気まずい空気がニーナを包んだ。


「やぁ、ニーナ嬢。奇遇だね」

「……ダニエルさん」


 灰色のベストに黒のスーツ。綺麗にセットされた金髪は少しの乱れもなく、会釈する様ですら洗練された印象を与えるダニエルに、ニーナは会う度に気後れする。

 頭ひとつ分背の高いダニエルを見上げ、すっかり萎縮してしまったニーナは、さっき買った荷物を両腕に抱えながら僅かばかり肩を竦めてしまった。


「そんなに緊張されると、とても居たたまれない気持ちになるのだが……」

「えっ……あの、す、すみません」

「今から帰るのかい? 良ければ……歩きながらでも構わないから、少し話をしよう」


 そう言ってゆるりと歩き出されれば、ニーナにはもう断る術もなく。

 雨の降り出しそうな空模様と似た心持ちで、ニーナはダニエルの後を付いていくしかなかった。



 ダニエルはニーナの父の知り合いで、数ヶ月前にニーナが求婚を断った相手でもある。

 当時はまだギルベルトに片思い中だったニーナは、どうしていいか分からずにカタリナへ相談した。心強い味方を得てニーナは見事長年の片思いを成就させ、望まぬ結婚の道を回避して今に至るのだ。


 求婚の申し出はきちんと誠意を込めて断った。けれどもその相手と二人きりというのは、どうにも心が落ち着かない。隣を歩くダニエルの顔を避けて、ニーナはずっと視線を足元へ落としたままだ。


「こうして一緒に歩いていると、君の彼氏に怒られてしまうかな」

「えっ?!」

「僕が知らないと思った?」


 悪戯っぽく微笑むその顔に、非難めいた色はない。それどころか、やっと目を合わせてくれたニーナに、どこかホッとした表情を浮かべている。


「君は自分で思うより、とても魅力的な女性だ。君がフィルシア香水店のギルベルトと付き合うようになったという噂は、案外すぐに聞こえてきたよ。悔しい思いをした男たちが山ほどいただろうね。僕もそのひとりだったけど」

「その……ごめんなさい」

「あぁ、謝って欲しくて言ったのではないよ。君との縁が繋がらなかったことは残念だけど、むしろ思いを隠したままでなくて良かったと思ってる」

「……ダニエルさん」

「それに……君は随分と綺麗になったね。ギルベルトは君を大事にしてくれているようだ」


 さっと頬を朱に染めたニーナを見て、ダニエルが満足げに頷いた。


「今日は君に会えて良かった。求婚の件で変に気を遣わせてしまってるんじゃないかと心配していた」

「そんなこと……むしろ私の方こそ、色々とごめんなさい」

「君が幸せなら、僕はそれで充分だ。――おっと、ついに降り出したようだね」


 釣られて顔を上げれば、ぽつり――と冷たい雨粒が額に落ちる。かと思うとポツポツと速度を速めて落ちる雨が地面を濡らし、街はあっという間に湿った匂いに包まれていく。


「ニーナ嬢、走れるかい?!」

「そんなに早くはないですけど……頑張ります!」


 その返答に軽く噴き出して笑ったダニエルが、ニーナの手を取って走り出した。

 突然の雨に、街は束の間喧噪に包まれる。その音と人の波をかき分けて、ニーナはダニエルと共に雨宿りの場所を探して雨の中を走って行く。

 あれほど萎縮していたダニエルの手が、今はそれほど苦手ではなくなっていた。

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