*

 それから都築は四日間柏屋に滞留し、その間に、実に三ヶ月ぶりに一本だけながら短編を仕上げることが出来た。その作品は、都築の命名した通り、「へび」というタイトルでる文芸雑誌の五月号に掲載された。


『 美砂が久しぶりに店に姿を見せたのは、ある夕方のことでした。ぼくは少しずつ店の仕事に慣れてきていて、マスターから習って何種類かカクテルの作り方も覚えた頃です。ぼくはよく覚えていますが、その晩の美砂はボイラー・メーカーを二杯注文しました。ぼくはもっと難しいカクテルも作れたので、その注文には少し拍子抜けがしました。他の客に混じって一時間半もザ・ムーヴやトッド・ラングレンのヒット・レコードを聞いた後でしょうか、ふとリクエストが途切れました。その時、美砂は、その間隙を縫うように、

「〝時代は変わる〟が聞きたいわ。ボブ・ディランじゃなくて、バーズのカヴァーの方。入ってる?」

 と尋ねます。ぼくはちょうど、一週間ほど前に中々状態のいい〝ターン! ターン! ターン!〟のアルバムを中古で買い込んでいたところだったので、早速かけてやりました。ぼくもバーズは好きだったので、

「なかなか渋い選曲をしますね。このアルバム、普通なら一曲めを選ぶところでしょうけど」

 すると美砂は微かに微笑んで、

「あたしはディランのカヴァーが好きなの。ディランそのものは余り好きじゃないんだけど」

 と言うのです。ぼくもボブ・ディランは余り好きになれなかったので、

「そうそう。曲はいいんだけど、ぼくは、あの声がダメでね。この店も、マスターの好きな〝ブロンド・オン・ブロンド〟以外は置いてないんです」

「他のもあるさ。だけど、きみがかけようとしないだけじゃないか。おかげで、〝追憶のハイウェイ〟は今ごろカビだらけだよ」

 とマスターも横から笑います。美砂はぼくに、

「あたしもなの。歌い方が余り好きじゃないな。ちょっと…下品な感じがするし」

 そう言って、また一口カクテルを含みました。その夜の美砂はいつもより酔いが回るのが早いようでした。いつも美砂はビールか甘口のカクテルばかりです。ハード・リカーを飲む美砂の姿など見たこともありません。

「ちょっと、飲みすぎじゃないですか?」

 とぼくはお節介を焼きました。確かに、もう時刻は十一時半をとっくに回り、平日の夜でしたから、美砂を除くと客はもう一人二人しか残っていません。美砂はビールを注文しましたが、マスターはさすがに、

「止めておいた方がいいんじゃないの、何があったのか知らないけどさ」

 と言って出そうとしません。美砂は面白くなさそうに黙りこくってタバコを吹かしています。そこでぼくも、

「今日はちょっと飲みすぎたのと違います? また明日、出なおして来ればいいじゃないですか」

 と声をかけました。すると美砂は、

「あたしにはもう明日なんてないのよ」

 と妙なことを言い出します。そして、グラスの底に残っていたビールを飲み干すと、

「いいよ。じゃあ、お望みどおり帰ってあげるから、最後に一曲かけてよ」

と、キンクスの〝ユー・リアリー・ガット・ミー〟がいいと言いました。

 ぼくは、すり切れた古いドーナツ盤を引っぱり出し、レコード・プレーヤーにかけました。テンポの速い二分間の曲がかけぬけて行きます。また店内が静かになると、美砂はふらりと立ち上がり、上着のポケットから財布を取り出して勘定を済ませました。その時です、美砂がいつもは見ないほどの大荷物を抱えていることを知ったのは。

 美砂は止まり木の下の床の上においていたらしい、大きなバッグを持ち上げました。旅行にでも出るときに使いそうな代物で、中は何が詰まっているのやら、ぱんぱんにふくれ上がっています。どうりで、その晩は美砂の右側の席がいつも空いていたわけです。こんなバッグがあれば誰も座れやしませんから。

 美砂はそのバッグを重そうに持ち上げ、すぐ後ろの店のドアを開けました。マスターはじめ、店の客も美砂の挙措きょそを興味深そうにじっと見守っています。街の音がかすかに入ってきました。そして、美砂はバッグをまるで引きずるようにドアの外に出し、自分も出て行きました。ぼくは美砂を、せめて階段の下までは助けようと、カウンターの裏から出ようとしたのですが、その場の雰囲気を察して結局踏み止まりました。あの店は雑居ビルの三階にあったのです。

 さて、衆人環視の中、美砂の姿が消えていくと、また店の中の空気は軽くなりました。誰かが自分で持ち込んだヴェルヴェット・アンダーグラウンドをかけ、酒の注文が入り、ぼくはカクテル・シェーカーを取りました。それからはザ・フーやらブルー・チアーやらエルトン・ジョンやらがかかり、美砂のことは忘れ去られました。そして、閉店時間になりました。

 ぼくはマスターと一緒に後片付けを済ませ、レコードを整理し、ゴミを出してから店に鍵をかけました。マスターは近くに部屋を持っているようでしたが、ぼくのアパートは中野です。電車はもうありませんから、いつも自転車で帰りました。

 その夜もビルの前でマスターと別れたのですが、ぼくはどうしてもそのまま退屈なアパートに戻る気にはなれませんでした。夜風も気持ちよかったので、少し寄り道がしたいと思いました。どこに行こうか、と少し思案しましたが、そこで、四ツ谷に足を向けることにしました。四ツ谷には、雰囲気のいい深夜喫茶があったのです。アルコールは欲しくありませんでした。店で客が散々飲み散らかす姿を目にしていたからでしょうか、ぼくはその頃ほとんど酒というものを口にしませんでした。あとでお話しますが、あの事件があった後で、ぼくは警察で酒と薬のことを散々調べられました。しかし、結局は何も出てこなかったので、ぼくは助かったのかもしれません。もし部屋から酒瓶いっぽんでも出てこようものなら…、ぼくの運命はだいぶ変わっていたのかも分かりません。

 さて、ぼくは四ツ谷の裏通りにあるその店に入りました。中の照明は落とされて薄暗く、店内の様子はつかみにくいのですが、その分プライヴェートな雰囲気のある店でした。いつも静かにジャズが流れていて、ぼくは点在する島のように店内のフロアに浮かぶソファに身を沈めてじっと音楽に耳を傾けて、時には明け方まで長居することもありました。その店は客層も悪くなく、会話はひそひそ声でするという暗黙のルールがあるようで、みな寡黙でした。

 ぼくは空席に案内されるとコーヒーを頼み、周囲に目を向けました。点在する「島」には男女の二人連れや三人連れ、終電を逃したらしいサラリーマンなどがぽつりぽつりと座っています。いずれも、その日の運命から見捨てられてしまったような人たちです。ぼくはそれを見ながらタバコに火をつけました。やがて注文のコーヒーも運ばれてきて、ぼくはそれを啜りながらじっと音楽に聞き入っていました。曲はコルトレーン――〝ジャイアント・ステップス〟でした。

 店に入ってから五十分もしたでしょうか、ぼくは手洗いに行くのに席を立ちました。用を足してから自分の席へ戻ろうと、「島」の間を歩いているとき、ふと視界の隅を見覚えのある姿がよぎりました。何だろう、と思って振りかえると、そこに見えたのは美砂の背中でした。薄暗がりの中ですが、間違いありません。美砂はこんな所にいたのです。ぼくは一瞬、声をかけようかどうか迷ったのですが、結局一声かけることにしました。それは、その晩店で見られた美砂の様子がどことなく普段と異なっているように思われたためでもあります。ぼくは美砂の背後から近づき、肩に手を触れ、

「こんばんは」

 と言いました。美砂はびっくりしたように振り向き、ぼくの顔を認めると、意外そうに、

「あら。何でこんなところにいるんですか?」

 と尋ねます。ぼくは、美砂の向かいに座って、仕事はもう終わったこと、時どきこの店にはジャズを聞きに足を運ぶこと、住まいは中野にあることなどを簡単に話しました。ぼくは美砂の様子を見ていましたが、どうもこの店には何度も足を運んでいる、という風には見えませんでしたので、ぼくは、

「今夜は、どうしてここに?」

 すると、美砂は、

「あたし、いる場所がなくなっちゃったのよ」

 と腹立たしそうに言い、目の前の酒のグラスを取り上げて半分ばかり呷るように飲みました。

「いる場所? どういうことなんです?」

 ぼくは、この時の自分の言葉を、いささかお節介に過ぎていたと思います。これを聞かなければぼくと美砂とは永遠に無関係でいられたかも分かりませんもの。しかし、美砂はかげりこそありましたがなかなかの美人で、はにかみがちな笑顔を浮かべると、目鼻立ちがぱっと引き立ちます。梅雨時の空気のように、晴れてはいてもどこか湿っぽい所があって、ぼくはそれが好きでした。一口に言うと、ぼくはかなり美砂にほれ込んでいたのです。

 美砂は、投げやりな調子で、これまでは友人の元にいたこと、少し前まで書店で働いていたが今は仕事をしていないこと、今度友人が恋人と一緒に暮らすことになったのでいられなくなり、とりあえず身の回りの品をまとめて今日出てきたことなどを話しました。それは、誰かに話しかけるというよりは、目の前にぶちまけると言った方が正確な話し方でした。

「行くあてが全くないってわけでもないけど…」と美砂は身の上話を続けます。「今日も、御茶ノ水の駅前をふらふらしていたら、声をかけて来る人も二、三人いたし、いっそのこと付いて行っちゃおうかしら、なんて思わないこともなかったんだけど…、でも、何にも知らない人のうちに行って、よく話をしてみたらちっとも話が合わなかったり、なんてことになったらいやだし」

 そう言って、美砂は物憂げに髪をかき上げました。

 そこでぼくのお節介の虫がまた動き出してしまったのです。

「それなら、うちへ来たらどうです? 今はぼく一人ですが…二人では手狭になるかもしれませんけど」

 言ってしまってから、ぼくはそれが自分の言葉だとはにわかには信じられませんでした。ぼくは大体、女性を含めて人間関係全般についてひどく消極的で、孤独を好むというか、孤独が身にしみ付いているような人間だったからです。

「あなたのところ?」

 美砂はぼくを初めて正面から見て、ゆっくり考えます。そして、タバコをゆっくり一本吸った後で、

「いいわ。ボブ・ディランが嫌いでバーズが好きな人のところだったら、あたし行ってもいいかもしれない」

 と言いました。その言い方は、どこかの証券会社に行ってどこかの株を三千株買い付けるとか、大学院の入試で面接官の質問に答えたりするときのように、とても冷静で、落ち着いていて、なおかつ浮世離うきよばなれしていました。うまく言えないのですが、美砂はぼくを秤にかけていたのかもしれません。

「――それはいいけど、あたし、まだあなたの名前なんか知らないわ。…そうだ、あたしのことは美砂って呼んでちょうだい」

 ぼくは自分の名を名乗りました。すると美砂はにっこり笑って、

「じゃあ決まりね。今夜からお邪魔することにさせてもらって、いいかしら?」

 ぼくはうなずきました。時計を見ると、まだ午前三時を回ったところです。ぼくは、自分は自転車で来ているし、中野のアパートまでは直線距離で十キロなにがしあることだし、始発が出るまで待とう、と言いました。美砂もそれでいいわ、と言います。

「これまでは、雪谷ゆきがやの辺りに住んでたのよ。それで、御茶ノ水まで電車で出て、そこから本屋まで歩いて通ってたの。あの店を知ったのは、その頃のこと」

「ふうん。それで、出身はどこなの?」

 ぼくは尋ねましたが、美砂は口元にうっすら微笑を浮かべてぼくの顔を見るだけで何も言わないので、聞かれたくないのかな、と思い、ぼくはそれ以上聞きませんでした。

 そこに至って、ぼくもようやく、遅まきながら美砂と同居することの重大さについて気が付きました。形の上でただ一緒に暮らすのは簡単です。しかし、ぼくはこれまで女性と付き合ったことはおろか、ただの友人関係でさえ築くのが難しい、とても内気な性分だったのです。ぼくは、これはのっぴきならないことになったな、と内心で気が重くなりました。今更ながら、郷里で僕の心配をしている両親や兄弟の顔がちらちらと浮かびます。しかし、ぼくの方から言い出したことですし、今更撤回するわけにも行きません。それに、その頃のぼくの収入は、仕送りに併せてアルバイトの収入もありましたので、つましく暮らせば今のアパートでやって行けないこともないだろう、と判断しました。ぼくが住んでいた鉄筋コンクリートのアパートは、当時の学生としては贅沢すぎるくらいの部屋で、防音もよく、便所に風呂も付いていました。ぼくの他には、裕福そうな医大生や、若いサラリーマンの夫婦者などが入居しているようでした。ぼくは、これから美砂を連れて帰るのだ、そしてこれから一緒に生活するのだ、と自分に強く言い聞かせました。しかし、ぼくはとても甘かったのです。全くの世間知らずだったとしか言うことができません。学生時代にバカなことをしでかす話はよくありますが、ぼくのケースは、もう一歩深刻だったと考えていいでしょう。

 ぼくは夜が明けると美砂を伴ってアパートに帰り、こうして共同生活が始まりました。美砂はそれまで居候いそうろうを決めこんでいた雪谷の友人の部屋から、レコードや重くてかさばるコート類などをせっせとぼくの部屋に運び込み、いよいよぼくの部屋に居を定めたようでした。レコードは四十枚もあったでしょうか。当時学生くらいの年齢だった者を考えると、レコードは十五枚も持っていれば多い方でしたから、かなりなレコード・マニアだったと言っていいでしょう。ぼくの方もやはり何十枚か持っていましたが、同じレコードは一枚もありませんでした。ぼくたち二人のコレクションは、ピッタリ重なったのです。

 ぼくは昼過ぎまで寝て午後から起きだし、夕方から仕事です。午後にレコード屋を回る日は、美砂も付いてきましたが、それ以外の時間は、美砂は部屋にいました。ぼくは断ったのですが、以前の友人の部屋でもそうしていた、と言いはって、美砂は積極的に家事をこなしました。慣れているのか、てきぱきと機械的に掃除も洗濯もこなし、食事の支度もしました。ぼくは最初、美砂との付きあい方に悩み、妙に距離をおいてみたり、逆に接近してみたり、試行錯誤をくり返していました。しかし、ぼくが珍しく形而上的けいじじょうてきなことに思いを巡らせて悩んでいたというのに、他人の部屋で早速マイペースをいっぱいに持ち込んで生活し出せるとは大した人です。同時に、その頃ぼくは自分自身に対してかなり新鮮なイメージを持ち始めていました。それまで、この部屋には女の子を連れ込んだりしたことさえなかったのに、突然顔見知りとは言えどこの馬の骨かも分からないような女と暮らしているのですから…。

 ぼくと美砂はよく部屋で二人して音楽を聞きました。ぼくたちの手元にあるレコードはどれもイギリスやアメリカのロックが主でした。ぼくは本を読みながら、美砂は洗い物をしながら、ピンク・フロイドやグレイトフル・デッドやバッファロー・スプリング・フィールドのレコードをかけました。ぼくはなぜそんなにロックが好きだったのでしょう。学校からも世間からも見放されたような存在だったぼくにとって、ロックはある種の宗教のようなもの、自分の全てを捧げ、われを忘れて踊りくるう熱狂的な儀式のようなものでした。

 さて、美砂はぼくの恋の対象だったといって良いのでしょうか? まあ、ある意味ではそうであり、ある意味ではそうではなかったのだと思います。当時のぼくは、美砂にほれ込んでいると思っていました。しかし、途中からぼくの方にある変化が起こったのです。ぼくは表面では変わらず美砂を好いているように振るまっていました、いやその気持は最後まで変わらなかったはずです、ぼくはお終いまで美砂をあざむいたことはないと思います。――だがその変化のため、ぼくは同じように美砂に接することができなくなっていたのです。どうも、美砂は薄々気付いていたようなのですが。回りくどい言い方をして申し訳ないのですが、ある時を境にして、ぼくにとって美砂は二つの意味を持つようになったのです。ぼくの中で二人の、別々の女が住み始めたと言っていいでしょう。やがて、ぼくの中の微妙な変化に気付いた本人がそのことをぼくたちの楽しみに利用しだしてから、ことはいっそう複雑になり、ある時点を越えてからはもうそれこそ山の頂上から一気に転げ落ちるような感じでどんどん加速して終りまで行ってしまったような具合です。

 ぼくと美砂は、すぐに男女の関係になったわけではありませんでした。ぼくはもちろんそうした関係になるのにはやぶさかではありませんでしたが、美砂が始めは堅くこばんだのです。

「やめてよ。お願いだからやめて。あたし、――いやだってば」

 しかし、美砂はスキンシップを拒んだわけではありません。時にはぼくとじゃれあうこともありましたから。と言うことは、ぼくは別に嫌われているわけではなさそうだ――とぼくはそう判断しました。では、相手がその気になるまで待とうじゃないか、とぼくは冷静に判断しました。しかし、本能というのは、いつでも理性を出し抜きます。抜け目なくチャンスを窺っていて、ちょっとでも理性がすきを見せると一散にひとを乗っ取ってしまうのです。ぼくは何とか美砂を女としては見ないように心がけたのです。と言うと、何だか非常に崇高すうこうで上品ぶったいけ好かない奴に思われかねないかも知れませんが、単にまだ自分に対する理想を捨てきっていなかっただけでしょう。しかし、結局うまくいきませんでした。

 梅雨が過ぎて、初夏になりました。もう東京は蒸し暑さにすっぽり包まれています。ぼくはある午後、美砂と部屋でくつろいでいました。エアコンをかけていましたが、暑さは部屋の中から消えません。美砂はつくろいものを済ませて横になり、寝息をたてていました。ぼくは昼食を終えたところで、これから新宿に出てレコードを探しに行こうか、と考えていました。ちょうどマスターから、フリートウッド・マックのセカンド・アルバムを探してきてくれ、と言われていたのです――もちろん、美砂のことはマスターには話していませんでした。たまに、カウンターの客が、

「あれ、たまに来ていたあのかわいい子、最近来ないじゃない」

 と話のたねにする程度です。マスターはその都度つどぼくを指差して、

「こいつが冷たい態度をとって酒を出さなかったから、怒って来なくなったんだろう」

 と冗談めかして言いました。ぼくはそれを聞きながら、内心後ろめたいような、得意になりたいような、妙な気分でした。

 さて、ぼくは出かける支度をしながら、美砂の身体を揺さぶりました。

「美砂、ぼくはこれから新宿に出るけど、一緒に来ないかい?」

 すると、座布団の上に身体を横たえていた美砂が、ふと目を開きました。忘我ぼうが境地きょうちにあるよう、とでも言うのか、それは美しい表情でした。そして、こちらを見て、微笑ほほえむのです――いや、確かなことは分かりませんが、とにかくそのように見えました。蠱惑こわく的な顔でした。その時、ぼくの中の獣性じゅうせいが目を覚ましました。美砂のサマー・ブラウスに手をかけたところまでは覚えています。美砂は小さくきゃっと声を立てましたが、ぼくは構わず突き進みました。

 気がつくと、ぼくと美砂は裸で身体を合わせていました。美砂の身体は重く柔らかでした。二人とも汗まみれで身体も熱を帯びているのですが、汗が冷めていくのに伴って、ぼくの頭も理性を取り戻しつつありました。ぼくは自己嫌悪と妙な満足感の混じりあった気分で、美砂から身体を離しました。

「ごめん」とぼくは言いました。「傷つけるつもりはなかったんだけど…」

 すると、美砂はため息をついて、

「いいよ、もう。仕方がない。見ちゃったものは見ちゃったものだし。でも、誰にも言わないでよ?」

 と妙なことを言い出します。ぼくは別に何も見ていないけど、とぼくが言うと、美砂は興奮した声で、

「うそよ」と言います。「あたしのこれ、見たんでしょう? 見たんなら見たと言いなさいよ」

 と吐きすてるように言って、自分の背中をこちらに向けました。ぼくはその時、はっと息を呑みました。美砂の背中には、大きなのぼりゅうの彫り物があったのです。ぼくは、最初は何か大きな虫が付いているのかと考えて慌て、次に正体がはっきりしてくると今度は驚きました。声も出せず、その緑色の大きな生物に見入っていました。驚いたばかりではなく、その余りの美しさに見とれてしまったのです。

 見事な刺青いれずみでした。いや、あれは刺青ではなかったのかもしれません。その竜は真っ白な背中いっぱいに体を広げていました。緑の輪郭はくっきりとして、優美に長い体を泳がせている様子は殆ど女性的な感じさえしました。しかし目は冷たい金色の表情を浮かべていて、無表情でどことなく冷酷なまなざしをこちらに向けています。

「どうしてこんなものがあるんだい?」

 とぼくは何度か尋ねました。しかし、美砂はその質問には一切答えようとせず、ただ無表情にタバコを吹かすだけでした。ですので、出身についてのことと同じく、ぼくはその質問を禁句としました。

 そして、その日から、美砂はぼくに身体を許すようになり、ぼくたちは昼となく夜となく交歓こうかんふけりました。美砂の身体はいつも微かに湿り気があり、求めに応じてぼくを受け入れます。ぼくは何かの薬の中毒患者みたいに美砂を求めました。夜中も、美砂は何も着ずに寝ます。ぼくは飽かずその背中を見つめました。こんな代物が背中にいるというのに、どうしてこの女はのんきに寝息など立てていられるのでしょうか。美砂が寝ている間も、竜は眠りません。ぼくは手をのばして、そっと触れて見ました。すると微かに身悶みもだえするではありませんか。…いえ、錯覚です。美砂が少し身じろぎしただけです。わずかに青白い月光が照らしているなか、竜は最前と変わらない姿勢で泳いでいます。前足は何かにつかみかかろうとするように左右とも鉤爪かぎづめを開いています。空を蹴る後足は力強く、細く長い髭は風になびいています。とても気高い様子の竜なのですが、それでいてどこかに妖しいものを隠しているように見えます。たぶん、全体として冷徹れいてつな様子を見せながらもそこだけは燃えあがるように赤い口の中と、体を彩る深い緑、そう、表面からは見えない意思や欲求をおおい隠すかのような深い緑との対比を見てそう考えたのでしょう。その時ふっとある疑問がよぎりました。これは果たして本当に入れ墨なのだろうか? 入れ墨はこんなに色が鮮やかだったろうか? しかし、もうそんな些事さじはどうでも良かった、ぼくはだんだん強くこの生物に引き付けられていくのが分かりました。何だか竜の目がぼくの目を捕えて離さないようなのです。こちらを見つめる金色のその目は一見無表情でありながら、なにかこちらに訴えかけて来るものがあるのです。それはある種の誘惑、はっきりとは分かりませんがぼくを誘いかける目でした。そして、ぼくは自分の中に、その誘惑に呼応するものがあることをはっきりと意識していました。だからこそ、後日あんなことになってしまったのでしょう。

 そのうちに夏が過ぎ、秋が来ました。大学からは後期の講義を開始する旨の通知が届きましたが、ぼくにはてんで出席する気はありませんでした。

「あなたって学生だったんじゃないの?」

 と美砂はある日、ふしぎそうな声で尋ねます。

「一応はね。だけど、もうイヤになっちゃったんだ。行きたくないよ」

「でも、学生だからご両親から仕送りがあるんだよね?」

 ぼくはうなずきました。

「それがあるから、やめられないんだよ。中退できないんだ」

「それなら、今みたいな中途半端なバーテンの仕事なんか止めて、ちゃんと働いたらどうなの? それであたしのことを養ってよ。こんな宙ぶらりんの生活、長続きするわけがないよ」

 ぼくは露骨にいやな顔をしました。

「構わないでくれよ。きみだって居候のくせに」

「あら。来てくれって誘ったのはあなたの方じゃない」

「ぼくはそんなこと言ったかな」

 とうとう口論になりました。――美砂はふだんはごく口数の少ない方でしたから、滅多にけんかにはなりませんでしたが、美砂は美砂なりにぼくのことを見かねて言ったことに違いありません。

 およそ半時間も過ぎたでしょうか、ぼくたちは二人とも言葉がなくなり、黙って向き合っていました。ぼくは美砂に腕を伸ばしました。美砂はぼくの抱擁ほうようを拒みませんでした。それからぼくたちはいつものように情を交わしました。ぼくはその行為の中で、戯れに美砂の身体を裏返しました。ふざけていただけではありません、背中の竜が気になっていたのです。ぼくはそれまでも美砂の真っ白な肌を見るたび、たびたび背中をのぞいたことがあります。あの緑の生き物は、いつも変わらず優美な姿態したいを見せてくれます。

 ぼくはその身体をいつまでも飽きず撫でたりさすったりすることが時としてありました。それでも美砂は自分を愛撫してくれているものと思い込んでいたようです。しかし、その時ぼくの愛情は美砂の背中ではなく、寄生者に向けられていました。たしかにとりこになっていました。裸の女を裏返して、背中の竜の入れ墨を愛でる男の姿は気違いじみているとしか思えません。ぼくを現実から背けさせ、絶望的な快楽に耽らせたのは実はこの生き物なのではないか、ぼくにはそう思えてなりません。

 ぼくはうつ伏せている美砂の身体に、背後から抱えるような格好でのしかかりました。竜に目を近付けると、いつものあの誘うような表情を湛えた目でこちらを見つめます。ぼくはすっかり我を忘れて思わず竜に口付けていました。そのまま上に、下に這わせるように動かすと、喜びに身体を震わせます…美砂が身動みじろいだだけかもしれませんが、夢中のぼくにはどちらでもいいことでした。唇の這ったあとには透きとおるような肌の上に赤い筋が点々と残り、彫り物は浮き上がって見えています。竜はさらに生き生きとして見え、ぼくはこの絵に命のあることを、もう疑いませんでした。目の前で肌がどんどん紅潮してゆく所をみると、どうやら宿主しゅくしゅの方も興奮しているようです。一旦覚めかけた夢にもういちどさらわれていくように、ぼくはまたこの竜に心を奪われていました。その目に誘われるまま、心を操られて歯をむき出すと、白い稜線りょうせんを描く肩甲骨けんこうこつに歯を立てていました。喜ぶ声がぼんやりした聴覚のなかに入ってきましたが、谷間のこだまの残響のように意識をかすめただけでした。見ると、竜はあきらかに悦びを浮かべています。その目に浮かぶのは喜悦きえつの表情にほかなりません。一杯に口をひらいて淫らな快感に酔いしれていました。こんどはもう滅茶苦茶です。背中といわず、肩といわず、構わずにぼくは噛みつき、引っ掻き、爪をたてました。するとその度にこの貪欲な生き物は生気をまし、金色の目はもうぎらぎらと燃えるようでした。ぼくはこの竜が背中で快感に身をよじらせるのを一度ならず目にしたように思いますが、それこそ妄想というものでしょうか。

 全てが終わったとき、ぼくはぐったりとしてもう口もきけませんでした。美砂も疲れ果てている様子でした。ぼくは異常な熱と興奮がようやく醒め、傍らの美砂に目をやりました。背中は生傷だらけです。思わずぞっとしました。ぼくは、横向きに向こうをむいて寝ている美砂の肩に手をかけましたが、すでにぐっすりと眠りこんでいるらしく、ぐったりして寝息をたてていました。身をのりだして顔をのぞくと平静でなにもないような表情です。とすると、美砂も満足しているのでしょうか。ぼくはこれまで、自分のなかに性的に特殊な傾向があるなどとはまったく思ったことすらありませんでした。なんだかすべて信じられず、また自分がとんでもない愚か者のような気もしました。しかし、今ぼくは自分の内にその未知だった領域への道筋がひらけているのを確かに感じ取ったのです。ぼうっとしているうちに汗が引いて寒くなってきたので毛布をかぶりましたが、なかなか寝付けませんでした。

 白状しますが、ぼくは今、自分と美砂のことをお話したいのではありません。ぼくと、あの奇妙な生き物のことを話したいのです。ですから、この話の主人公は、ぼくでもなく、美砂でもなく、あの竜なのです。

 さて、その日を境に生活がまたがらっと変わりました。ぼくが新しい傾向を見せ始めたのに対して、美砂もそれに応じるようになったのです。ぼくたちは、はばかることなく醜態しゅうたいを演じ、肌を合わせるたびに嗜虐しぎゃくの度はエスカレートして、たびたび血を見ることさえありました。その方法を詳述することは避けますけれど、ぼくは毎度のように背中の入れ墨の目を見るともう全てをわすれてしまい、後はこの竜の言うがままに美砂に残虐な快感を与えました。後知恵ですが、もしかするとこの竜は美砂の潜在的な欲求をぼくに伝え、うまく操っていただけなのではないか、という気もしますが、これもどうでも良いことです。ぼくが美砂の背中を痛めつけるたび、竜は息吹いぶきを与えられてその優美な体をおどらせ、目は悦楽えつらくに酔ってぼくを更に誘いかけ、さらに手ひどく柔肌やわはだを傷つけるよう命じます。ぼくはそれに応じるほか術がありませんでした。

 ぼくが残酷な方法で痛めつけると、美砂の肌は美しい薔薇いろに染まり、ぼくを魅了しました。ぼくは芸術家のような気分でした、ぼくの目の前でなんの変哲もない普通の女が、美しさに輝く一個の芸術作品に変わって行くのを目のあたりにするのはこの上ない喜びだったのです。こころなしか、美砂の背中に寄生する竜はだんだんその色を濃くしていくように思えました。その存在感は以前の比ではありません。竜は本当に美砂の背中に寄生し、ぼくたちの精力を吸い取って生きていたのかも知れません。ぼくも美砂もだんだん痩せてきました。美砂は痩せた分、体の動きが野蛮なほどに激しさをまし、ぼくはかえって惹き付けられました。

 しかしながら、ぼくたちの生活は、その点を除いては変態的なところは全くありませんでした。ぼくたちは、抱き合っている時間を除いて良心的な小市民でした。美砂は毎日せっせと家事をこなし、ぼくは夕方から御茶ノ水のバーで働きます。――けれども、そんな暮らしにも終焉しゅうえんを迎える日が、とうとうやって来ました。

 その数日間、ぼくは何だか胸騒ぎを覚えていました。もう行き着くところまで行ってしまうのではないか、中身が煮詰まった鍋のように後は割れるだけなのではないか、そういう予感がしていたのです。予感とは言いましても、きちんと順序だてて考えれば論理的に予想できることでした。美砂もそれが分かっていたのでしょうか、その明け方は珍しくごく普通に男女が行うような方法で陶酔の一時を過ごしました。そうですね、物足りないと言えば、確かにそんな感じもありました。

 ぼくは横で眠っている美砂の姿を眺めました。ぼくの方には背中を向けていて、例の虫が我が物顔をして、幾分肉の薄くなった傷だらけの背中に張り付いています。ぼくは不意にその入れ墨に対して激しい嫌悪の情を覚えました。ぼくは取り返しのつかない所まで堕ちてしまった、この竜にそそのかされて自分の身を汚したのだ、そう思うと愚かな自分の身にもやり場のない怒りを覚えます。そして、ぼくの横でのうのうと眠り込んでいるこの女にはもはや軽蔑と苛立たしい気持ちしか残っていません。

なぜこんな女とこれまで平気で暮らしていたのでしょうか。ぼくは何もかも嫌になり、美砂と背中を向け合うように横になりました。

 横になってどの位経ったでしょうか、ぼくは眠りかけていたのですが、ふと何かが気になるのに気が付きました。

 背中です。誰かがぼくを後ろから見ているのです。ぼくは努めて無視しようとしましたが、やはり気になります。美砂でしょうか。気を別のほうに逸らそうとしましたけど、見られているという感覚はいやなものです。ぼくはしばらく我慢していましたが、とうとう振り向いてしまいました。

 ぼくを見ていたのは美砂ではありませんでした。美砂は相変わらずこちらに背中を向けています。眠っている肩がときどき微かにうごくのは、たぶん呼吸のためでしょう。

 ぼくを見つめているのは、あの竜でした。例の金色の目でぼくの方をじっと見据みすえているのです。ぼくはその時初めて、竜のまなざしのなかに潜む憎しみに気が付いたのでした。竜はぼくを単に誘惑していた訳ではないのです。ぼくを憎み、そしておとしいれようとしていたのです。ぼくの無意識はこれまでにもその微かな悪意を感じ取ってはいたものの、余りの誘惑に圧倒されて上に出てこなかったのです。この竜はただの入れ墨などではない、そう思いましたけどもう手遅れでした。

竜の目は今夜ぎらぎらと血に飢えた獣のように輝き、ぼくの目を矢のように射ぬきます。その目から片時も目が離せなくて、ぼくはようやく覚りました。もう、引き返すことは不可能です。この竜の息の根をどうにかして止めたいと思いました。そうしなければ気が変になってしまう。

 どうにかしなければならない。ぼくは必死でした。心の中では、「今夜しかない、今しかない」と呪文のようにくり返し唱えていました。ぼくは、竜の両眼を手でふさぎ、やっとの思いで自分を自由にすると、布団から抜け出しました。

 何かないか、何か…。

 その時、ぼくの目に恐ろしい道具の姿が入りました。刃渡りが十センチほどのナイフです。恐ろしいなどその時は考えもしませんでした。この上もなく都合のいい道具にうつりました。これを使って美砂に大きな傷をつくったことはまだありません。ただ、二、三度小さな切り傷をつけてそこから血を吸い出したことがあるばかりです。ぼくはそれを手に取ると、竜にむかいました。皮もろともいでしまおうと思ったのです。目は見ないようにしました。近付いたときに毛布をかぶせてしまったのです。目を見てはいけないという考えはどういうわけかメデューサに対するペルセウスを連想させて、ぼくはひきつった笑いをたてました。美砂が起きていたのかどうか、もうぼくには定かな記憶がありません。

 ぼくは竜の尻尾のところから取りかかりました。美砂の腰の辺りです。しかし、ぼくがナイフを突き当てると竜は必死に背中の上で身をねじって逃げようとするのです。ぼくは何度か美砂の肌にナイフを当てて傷をつけた挙句、皮を剥ぐことはあきらめてナイフを持ちなおしました。柄が汗でぬるぬるしています。美砂が何ごとか懇願こんがんしているようでしたが、そのときはもちろん耳にはいる筈がありません。ぼくは顔の上に気味の悪いにやにや笑いを浮かべて、ナイフを今度は垂直に竜の上に突き立てました。竜が苦悶くもんをあらわにして悶えています。ぼくはうまくいったと思いました。美砂はいつものたわむれが始まったものと考えたのか、抵抗しようとはしませんでした。ぼくは更に何度もナイフを突きましたが、敵もさるもの、背中の上で動いてうまく刃先を逃れます。白い背中は血に汚れ、下の敷き布団にまで染みができています。

 ぼくは荒い息をついてナイフを落としました。ナイフでは殺せない。美砂の顔に目をやると、喜悦きえつに頬を紅潮させています。ぼくはうなじにちょっと指を這わせました。美砂も指を絡めてきます。ぼくはそれを許可のしるしと取りました。

 手ごろな紐は窓際にありました。スニーカーの靴紐でした。靴を洗った時に一緒に洗って干しておいたのです。ぼくはその紐を何本か取り、布団に取って返しました。美砂は期待の目でぼくを見上げ、ほほえんだようでした。少なくともぼくにはそう見えました。ぼくも微かにほほえみかけました。そして紐を手に取り、美砂の首に巻いたのです。抵抗はありませんでした。

 ぼくはその翌朝、逮捕されました。すべての行為を終えたぼくは心神喪失しんしんそうしつしてしまい、血の付いたナイフを持ったままふらふらと朝の街にさまよい出て巡査に職務質問され、ついでに銃刀法違反の現行犯で逮捕されてしまったのです。すべて明るみに出るまでには、時間はかかりませんでした。

 ぼくは裁判にかけられましたが、結局精神鑑定の結果をみた裁判長が責任能力を認めなかったために、刑務所には送られず、しばらく病院ですごしました。何年か入れられた後で解放されて、今に至るわけです。ぼくには、今でも罪を犯した意識はありません。性癖の方ですが、あの後はすっかり嗜虐の趣味などぬけてしまって、警察のお世話になるようなこともありません。

 しかし、一つだけ腑に落ちないことがあるんです。というのは、警察で調書を取られた時に入れ墨のことを言ったのですが、警察では美砂の背中にあったのはおびただしい数の新旧の傷ばかりで、それを除くと背中はきれいで彫り物などありはしなかったと言うばかりなんです。警察が嘘をいうはずはないし、かと言っておいそれと信用もしかねるし、その辺がずっと気にかかっているのです。

 もしかして、どなたか、背中に竜の入れ墨の入った女に会ったことはありませんか? ぼくはあれ以来、ずっと探し続けているのです。これからも、探し続けていくことでしょうね。


 ――男の話は終わった。誰も口を開く者はない。外では相変わらず風の音がしていた。』(了)

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É Accaduto Una Notte 深町桂介 @Allen_Lanier

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