M.
都築は車に戻るとウイスキーを出し、また一口飲むとエンジンを掛けた。
ぼくはきっと、死者に生かされているのだ、と都築は帰りの車を運転しながら考えた。この箱根行きも、誰かの差し金だったのかも知れない。――いや、ここ数ヶ月に及ぶ泥濘(ぬかるみ)のような状態も自分に与えられたものだったかも分からない。何かはまだはっきりと分からないが、都築は何か大きなものを学んだような気がしていた。
宿は木々に囲まれて黒々としていた。都築はそこに静々と車を乗り入れ、前照灯を消し、エンジンを切って車を降りた。汗をかいた身体には夜気が冷たかった。
幾ら静かに歩いてもみしみしとなる梯を上り、部屋に戻ると、須黒はまだいたが、座卓に突っ伏して眠りこけていた。都築がその背にそっと触ると、須黒はううんと唸って目を覚ました。
「ああ都築か」と須黒ははっきりしない声で言った。「無事、戻ったんだな。良かったよかった。いや、すっかり寝込んでしまった」
須黒は顔を上げたが、口元には
都築はまだ自分のどこかが興奮しているのを感じていたが、やはり布団に入ることにして、暖房を消し、電灯も消した。今夜も〝菜穂子〟は出るのかな、などと考えているうちに、寝入ってしまった。
翌朝、都築は案外早い時刻に目を覚ました。〝菜穂子〟は出なかったのだ。そう思うと、都築は心底ほっとした。時計を見るとまだ八時前である。夜更かししたため頭が痛く、身体の節々も痛んだが、都築はもう布団から出ることにした。夢を見ていたらしい。女が出て来た。篠生かあゆ子か、或いは両者の混交した姿…しかし、それは生きた蛇の刺青を背負った女だった。…そこまでしか記憶にはない。
廊下に出ると菜穂子がいて、
「都築さんお早うございます。今皆で朝食中ですから」
「いや、ぼくは軽く一風呂浴びてから行きます」
都築はそう返事をして浴室に入った。高い窓から気持ちの良い朝の陽光が入っている。都築は光の中で踊る湯気を見て、しみじみと幸福感をかみ締めた。
風呂は早々に後にして、都築は母屋へ向かった。食堂には最早ほとんど誰もおらず、篠生ただ一人が食後のコーヒーを飲んでいた。都築の分の食事も用意されていて、後は飯を盛るだけだった。
「おはよう、都築さん」と篠生はまだ眠そうな声で言った。「昨夜はぶじ帰って来たのね。〝あっち〟に行っちゃったんじゃないかと心配してたんだけど」
篠生は柔和な表情で笑った。
「昨夜はねえ、色々あったんだよ」
と都築が言い掛けると、篠生は首を横に振った。
「だめだめ、そういうことは他人に漏らしちゃだめなのよ。大切にしまっておきなさい」
都築はちょっと笑った。
「おふくろもだめかな」
「お母さんくらいならまだいいかも知れないけど」
そう言うと、ああ、と一つ伸びをして、
「あたし、今日帰るわ」
と言った。あっさりした口調だった。
「そうかい。また東京に戻る気になったのかな?」
「うん。一応ね。
「バンド、続けるんだね」
「こっちに来る時は、もう止めちゃおうかな、っていう気分だったんだけど、色々考えたらあたし、歌うぐらいしか出来ないものね」と篠生は笑った。「一応資格は大卒だけど、今更OLになんてなれないし。細かい事務仕事なんてあたしには無理だわ。…それにしても今回は来て良かった。いい気分転換になったみたい」
「けろりとしたもんだ」
半ば呆れた都築が言うと、篠生はけらけらと声を立てて笑った。
「都築さんは? いつまでここに
「分からないな。あと一週間くらいは世話になるかも知れない…。工事は今月の末から始まるみたいだから」
「いい身分ね。そう言えば都築さんってまだ学生なんだっけ?」
都築は頷いた。
「でも、そろそろ潮時かなと思ってる。新しい学期が始まる前に、退学願を出すかも知れない。筆一本でやって行ける自信はまだないんだけど、気分の上で踏ん切りになるかも分からないし」
食事が済むと、篠生は荷物を纏めて玄関先に置いた。都築は部屋に戻ってメールをチェックし、仕事のファイルを開いた。
「どうもありがとうございました。またどうぞいらして下さいね」
と菜穂子が篠生に挨拶していた。都築は梯の中段から、
「送って行こうか」
と篠生に声を掛けた。
「そうね。運転、お願いしようかな。いっそのこと、湯本まででも」
「湯本か」都築は爪を噛んで思案した。「――まあ、いいよ。どうせぼくは暇な身分ですから」
「じゃ、お願いね。――そうだ、菜穂子さん、車はお借りできますか?」
「ええ。どうぞご利用になって下さい。うちでもよくお客様の送迎に使っていますから、ご遠慮なく」
菜穂子は玄関を掃きながら二つ返事で
「どうですか先生、ここの温泉で仕事は
と車中、篠生は都築に尋ねた。国道に出ると思いの外車の交通量が多く、運転には相応の注意が必要だった。
「そうだね。――いま一つ、書き掛けている短編があるんだけど」
「うん」
「それだけは完成させてから東京に帰りたいと思っている」
「筋書きって、書き出してから考えるの? それとも書く前に全部分かってるの?」
「両方あるね。でも、〝考える〟ってことは滅多にない。書き出したら自然に手が動いて完成するのか、それとも話全体を貰って、それで」
「貰う? 話もやっぱり貰うものなの?」
「――そうだねえ。余り深い考えもなしに言ったことなんだけど、改めて考えると、自分で作るって感じはあまりないね」
「そうだよね。あたし、こういうものは子供と一緒で、授かり物だと思ってる」
「ふうん。――それで、その貰った話を言葉に直すか、どちらかだよ」
「今回のお話はどちらなの?」
「前の方だね」都築は
「嫌でなかったら、あたしに聞かせてくれる?」
「男がいる。あと、女がいる。二人は出会うんだ。そして…」
都築は言葉に詰まって考えた。この先のことは都築本人にも分かっていない。
「そして?」
「――そうだ」
天啓がひらめいた。
急に都築には答えがすっかり分かったのだった。
「うん、そうだよ。そうだ、そうだ」
「何よ? 一人で納得して。教えてよ」
光明が差すと同時に、都築は言いたくなくなってしまった。
「ご免。この先はやっぱりまだ話せないや。その代わり、完成したら、最初に見せてあげるよ」
「本当? 約束だね」
篠生は、ハンドルを握る都築の左手に、無理やり自分の小指を絡ませた。
「じゃ、あたしともう一つ約束して」
「難しいことじゃなかったらね」
「あたしたちのライヴ、また見に来てくれる?」
都築は
「そんなことか。お安いご用。何回だって、どこへだって見に行くさ」
「本当? ありがとう」
篠生は
やがて、車は箱根湯本に着いた。篠生は礼を言うと、
「須黒さんのご一家にも宜しく伝えて置いてね」
と言い残し、元気に手を振って去って行った。
それを見送った都築は、さて、と久々に全身に力が
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