プラトニック・ディストピア

乙島紅

プラトニック・ディストピア



 私は波に揺られているのが好きだ。


 たとえそれが、電子の粒によって精巧につくられた偽物の波だとしても。


 同じく偽物の太陽の光をいっぱいに浴びて、偽物の白い雲が偽物の青空を流れていくのをぼーっと見つめながら、偽物の波の流れに身を委ねる。


 ふわふわと揺られ、現実の身体の重さを忘れられるその時間が何よりも好き、だった。


 なのに、なぜだろう。今はとても気持ち悪い。


 波が刻む穏やかな時間と、私の胸の鼓動の速さがかみ合わなくて。ただただ重たい付属品でしかなかった身体が「早くこっちへ帰ってこい、あれが欲しい」とわがままを言う。


 うるさい、うるさい、うるさい。


 分かってる。


 私、「あの熱」を焦がれている。


 この世界で最も求めてはいけなかったもの。


 触れる、ということの熱を……。






 ***






 2050年、東京。


 30年前に起こったパンデミックで世界は大きく変わった、らしい。


 今はみんな体外受精で生まれて、物心ついた時からシェルターの無菌室で一人で過ごす。昼間は精神だけの仮想世界で授業を受けたり友達と遊んだりして、疲れたらログアウトしてホームロボットが用意するご飯を食べる。そして寝る前に女は月に一度卵子を、男は数日に一度精子を採取してロボットに提出する。


 それがこの時代の東京に生きる16歳の私の日常。包括社会管理システム『EDEN』によって実現した新しい社会。


 卵子を取られるのは気分のいいものじゃないけど、「ウイルスへの抗体を持つ次世代を育むために必要な措置」なんだって。私たちが提出した卵子や精子はホームロボットたちが出生管理局に持って行って、そこで最新鋭のAIが相性のいいもの同士をマッチングさせる。受精卵はホストマザーを仕事にしているひとに届けられて、そこで赤ちゃんが生まれる仕組み。だから私は知らないうちに誰かのお母さんになっているのかもしれないし、どこかに一度も触れたことのない夫がいたっておかしくない。でも、そういう情報は全く開示されないから、みんな平等にひとりぼっち。


 大人たちの中には昔に比べて人の温かみを失った時代だなんて言うひともいる。でも、昔ってそんなに良かったのかな。血の繋がった家族、血を分け合う伴侶。私たちからしてみれば血に縛られなきゃいけない不自由な時代だ。今は確かに現実世界ではひとりだけど、仮想世界の中では自由なパートナーシップが認められている。年の近い親子でも同性同士の恋人でもどんな関係だって望むがまま。


 肉体を離れた精神的なつながり。本当の意味でのプラトニック・ラブってやつ。ただ互いに触れ合うことがないだけ。


「そうは言っても、サナって恋人いないじゃん」


 いつも通りのガールズトーク。仮想世界の中の浜辺のカフェでお茶しながら、クラスメートが痛いところを突いてくる。


「だって、好きになるってどういうことかよく分からないし」


「そんなの気にしなくていいんだって。サナのアバター可愛いんだから、けっこうモテるでしょ?」


 うーん、皮肉だなぁ。仮想世界ではみんなアバターの身体で生活している。初期アバターは現実の姿をベースに作られるけど、だいたいそれを嫌って仮想通貨で買った衣装や改造パーツで着飾る人が多い。私みたいにほとんど初期アバターのまま必要最低限の服しか買わない人は少数派。会うたびに髪の色や服、胸の大きさまで変わっているクラスメートだっている。


「もっと気軽に試してみなよ。上手く行かない相手だったらブロックすればいいだけなんだし」


 確かにね。同世代の女の子たちは、学校や趣味のコミュニティから気の合うひとを見つけてきて誰かしら恋人を作っている子がほとんどだ。お別れはブロックで。お互いに相手の姿が見えなくなるから気まずくなる心配はない。そうやってみんな器用な渡り鳥みたいに色んなひととの関係を渡り歩いて、仮想世界の刺激を楽しんでいる。


 でも、どうしてそこまでして誰かと一緒にいたいと思うのかな。私はひとりでも別に気にならない。むしろひとりの方が自分のペースを乱されなくて落ち着くのに。


「とにかく! 今日はせっかくのエリア横断パーティーなんだからさ、サナもいい人見つけなよね」


 彼女はそう言って元気いっぱいに浜辺に飛び出していった。早速浜辺にいる男性アバターから声をかけられている姿を見て、冷めた笑みを浮かべる自分が嫌い。


 ここは穏やかな海沿いの景色が広がるエリア『Wadatsumi』。システム全体の負荷分散のためとかで、私たちは特定のエリアの学校や会社にしか通えない。ただ、それだと出会いが限定されちゃうから、時々開かれるエリア横断パーティーにはたくさんの人が集まってくる。


 いつもはひっそりと静かな浜辺を、隙間なく埋め尽くす色とりどりのアバターたち。波の音が聞こえないほどの喧騒。透き通ったコバルトブルーの海でみんな自由に泳いだりはしゃいだりしている。


「ねぇ、君ひとり?」


 急に知らない男のひとに声をかけられて、思わずびくりとしてしまった。割れた腹筋、こんがり日に焼けた肌、シンプルだけど高そうなネックレス。ずいぶんアバターを盛っているひとだ。


「この辺全然詳しくなくてさぁ、ちょっと案内してくれない?」


 ——もっと気軽に試してみなよ。


 クラスメートのセリフがよぎって、すぐかき消える。

 気軽になんてできないよ。試してみて、それでもやっぱり「好き」って気持ちがよく分からなかったら? 相手を傷つけてしまったら?

 ……違う、傷つきたくないのは自分だ。呆れられるのが怖い。他人に好意を持てない自分のこと、欠陥品だって思われるのが怖いんだ。


「……ごめんなさい」


 私はそのひとを振り切って駆け出す。舌打ちが聞こえた気もするけど、知らない。一人海に飛び込む。擬似カップル、擬似家族、楽しげな人たちを横目に沖へ沖へと泳いでいく。人ごみから外れて、やっと静かな海の上。私はざぷんと潜って深いところで膝を抱えた。


 どうかこのまま誰にも見つからないでパーティーが終わりますように。こうしてたって息継ぎの必要がないのが仮想世界のいいところ。

 ……なのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。あ、やだ、落ち込みモード。思考が黒く黒く塗られていく。私、何のためにここにいるのかな。仮想世界すら楽しめない人間の生きている意味って、何?


 そんなことを考えていた時だった。


「……見つけた」


 誰かの声が響く。身体がふわっと浮く感じがして、気付いたら海面に出ていた。私を引き上げたのは同じ年くらいの男の子。ほとんど着飾っていないアバターに親近感を覚えそうになったけど、すぐに警戒態勢をとった。なに、なんか用? それが伝わったのか、彼は気まずそうに私から視線を逸らす。


「ごめん、溺れてるかと思って」


「溺れないよ。だってこれ、本物の海じゃないから」


「うーん、まぁそうなんだけど」


 なんだか歯切れが悪い感じ。もしかしてちょっと変わったひと? そりゃそうだよね。浅瀬や浜辺ではしゃいでる可愛いアバターじゃなくて、こんな沖で潜ってるすっぴんの私に声かけるなんて。


「そういうわけで、全然大丈夫だから」


 ばいばいさよなら。

 今日はもう早くログアウトして寝よう。やっぱりパーティーなんて来るべきじゃなかったんだ。私みたいなのは混ざってるだけで迷惑かける。


「ちょ、ちょっと待って!」


 ログアウトしようとした私の手を、彼が慌てて掴んだ。掴んだ、って言ってもアバター同士、若干すり抜ける。仮想世界はいろんなものがリアルに再現されているけど、触覚だけはどうしても再現できないらしい。だから今はただ、お互いの手が同じ座標で重なり合っているだけ。ただそれだけのはずなのに、彼が慌てて動いたせいで不規則に乱れた波が私にもいつもと違うリズムで打ち寄せるから、ちょっとそわそわ不思議な気分だった。


「……なに?」


 彼は少しだけ頬を赤らめて、頭の後ろをかきながらぼそりと言った。


「よかったら……俺たち付き合わない?」






 彼の名前はマヒロと言った。年は18。普段はIQの高い人たちが集められているって噂の『Tenjin』エリアの学校でIT関連の勉強をしているという。


 あの日、私は丁重にお断りをしたはずだった。だってさすがにいきなりすぎるんだもん。ときめくより先に怖くて胸がドッキドキだよ。なのに、彼は放課後になると毎日のように私のところに会いに来るようになってしまった。


「あんまりしつこいとブロックするよ」


「できるならもうやってるでしょ。サナは俺をブロックしない、きっとそうじゃないかと思ったんだ」


 私は頬を膨らませてむっと黙り込んだ。むかつく。マヒロをブロックできないのは本当。なんとなく気が引けてできなかった。付きまとってくるのは鬱陶しいけど、今のところ害はないし、正直お世辞を投げ合うクラスメートと一緒にいるよりも気楽だからついそのままにしてしまって。


「今日は『Tenjin』で新しくできたカフェに行ってみようと思うんだけど、どう?」


「今そんな気分じゃ」


「サナの好きなブルーハワイ味のパフェが楽しめるって話なんだけど」


「……行く」


 ついつい乗せられてしまう、彼のペース。きっとすごく頭いいんだろうな。私の好きなものや嫌いなものを察するのが早いし、物知りで説明上手だから話を聞いているのも楽しかった。全然隙がない感じ。もしかしたら私の他にも何人かと付き合ってるのかなと思ったけど、そんな影はなくて、むしろ学校の課題の量の話を聞いていると私と遊ぶ時間すらないんじゃないのと心配になるくらい。


「ねぇ、さっきの話」


「ん?」


 ブルーハワイパフェを食べながら——仮想空間では実際にはお腹は膨れなくて、ただ嗅覚と味覚が満たされるだけだけど——、私はマヒロに尋ねる。


「私がブロックしない、ってどういうこと? なんでわかったの」


「当たってたんだ」


「いいから、教えて」


 得意げな顔して語るんでしょ。……と思っていたら、違った。マヒロはカフェの窓の外を見ながら呟く。


「似てるから、俺たち」


「え?」


「ブロックっていうのは、そのひと以外の誰かから愛される自信があるひとにしかできないんだよ」


 それって私がマヒロ以外のひとから好かれてないみたいじゃん。思わず突っ込みたくなったけど、なんだか寂しげな横顔に私は何も言えなくなってしまった。マヒロははっとしたように私に向き直る。


「ごめん、今のは俺の話。サナがどうかはわからないけど、もしかしたらと思っただけだよ」


 そう言って、「そろそろ課題の時間だから」と先に出て行った。お代はちゃっかり支払い済み。本当に隙のないひと。


 ……でも。


 それから私は、気づけば彼のあの横顔のことばかり考えるようになってしまった。






 マヒロと二人、色んなところに出かけた。レストラン、夜景スポット、水族館。縮まるようで縮まらない距離感、おままごとみたいなデート。いつしか彼と一緒にいる時間のことを居心地よく感じ始めている私がいた。


「マヒロって、将来の夢とかある?」


 二人で公園を散歩している時。話題がなくなって気まぐれに聞いてみたら、マヒロは真っ赤になって瞳を潤ませていた。


「サ、サナが、初めて俺自身のこと聞いてくれた……!?」


「え、ちょっと、泣いてるの!?」


 慌てて人気ひとけのないところに場所を変える。公園の外れにあるベンチがちょうど空いていた。


「ごめん、感動のあまり」


「う、うん。こっちこそなんかごめんね」


「で、さっきの話なんだけど」


 マヒロは腕を組んでうーんと唸る。


「あんまりちゃんと考えたことなかったなぁ。就職先は決まっているようなものだし」


「そうなの?」


「うちの学校、成績上位で卒業できたら『EDEN』のエンジニアになれるんだ。ちなみに俺、今首席なんだけど」


 思わず開いた口が塞がらない。賢いひとだとは思っていたけど、そんなにトップクラスのエリートだったなんて。


「なんか急にマヒロと話してるのが恥ずかしくなってきた……」


「え、なんで? 俺はサナと話してて楽しいよ。俺の周り、他人と話すことに1ミリも興味ない奴ばっかりだからさ」


 でも、とマヒロは声を落として俯く。


「本当は俺みたいのが『EDEN』に入っちゃいけないんだろうな。好奇心で技術を悪用しちゃうからさ」


「えっ」


「冗談だよ」


 マヒロは笑ってはぐらかす。また、あの顔だ。私の顔じゃない、どこか遠くを見てる。こういう時、マヒロは何を考えているんだろう。……知りたいな。マヒロが何を考えているのか、もっと知りたい。すぐ隣にある彼の手の上に私の手を重ねる。すり抜ける二人の手。こんなに近くにいるのに、遠い。それがこの世界の正しい距離感。


 胸の鼓動が波打つ。そういえば、ずっと聞きたいことがあったんだ。


「ねぇ、あのさ。……マヒロは私のこと、前から知ってたの?」


 震えて上ずって、まるで自分の声じゃないみたい。


 マヒロはしばらく黙っていた。何かに葛藤しているかのようだった。やがて重たそうに頭を持ち上げて、じっと見つめ返してくる。


「サナ。実は、俺たちは——」


 マヒロの声が途切れる。眩しい光の柱が立ち昇って彼を包み込んでいた。


「マヒロ!?」


 光の柱が消える。そこにはマヒロの姿はなかった。ログアウト? メッセージを送ろうとして、連絡先に彼の名前がないことに気づく。それだけじゃない、過去の他愛のないやりとりの履歴も全部消えてしまっていた。まるで彼の存在がこの世界から消えてしまったかのように。






 マヒロと会えない日が何日も続いた。


 ブロック? ううん、そんなはずない。だってマヒロは自分にはブロックはできないと言っていたし、そうじゃなくてもあんな話の途中で……。


 どれだけ自分に言い聞かせても虚しい慰めにしかならなかった。


 分からない。何がいけなかったの?


 学校の授業も友だちの話も何も頭に入ってこなくて、しばらく仮想世界にログインするのすら億劫になった。無機質な自分の部屋にいるのは余計塞ぎ込むような気もしたけど、今は誰とも会いたくないし、誰かが誰かと一緒にいるのを見るのも怖い。


 一人でいるのってこんなに苦しいことだっけ。


「SKMJ037、卵子採取予定日から1日が経過しました。理由なく卵子提供を拒否する場合は義務違反となり、シェルターでの保護対象から外れる可能性が」


「うるさいなぁ! 今は静かにしてよ!」


 大嫌いな本名で呼んでくるホームロボットに枕を思い切り投げつける。頑丈に作られた万能ロボがこんなことで壊れるわけないことは知っているけど、八つ当たりをする相手が他にいなかったから。


「アドレナリンの過剰分泌を検知。ストレスチェックを実施します」


 ロボットが私に向かってアームを伸ばしてくる。


 嫌だ。触られたくない! 振り払おうとしたところで、ロボットの方がぴたりと動きを止めた。


「あれ?」


 電源ランプが消えている。それだけじゃない。部屋の明かりも空調も消えた。停電? そんなこと一度もなかったのに。プシューという音がして、私ははっと扉の方を見る。災害とかの緊急時にしか開かない扉が、開いた。


 そこに誰か立っている。見覚えのある男の子。眼鏡をかけているのと、仮想空間で会っていた時よりほんの少し背が低い以外、私がよく知る彼そのひとだった。


「マヒロ……?」


 彼は息を切らしながら笑う。


「逃げよう、サナ」


 差し伸べられたその手を迷わず取った。すり抜けない本物の手。私の手よりも大きくて温かい。手のひらと手のひらが触れ合って、胸の内に溜まっていた淀んだ気持ちがすっと溶けていく感じがした。






 誰もいない夜の街を二人ずっと歩いていく。ツタに覆われた車、今にも崩れ落ちそうな老朽化した無人マンション。くすんだ灰色の東京の街の中にいくつかそびえる塔のような白い建物。あれがシェルター。私とマヒロは意外にも同じ港区の第503号シェルターに住んでいた。もっと遠いところにいると思っていたのに、なんだか拍子抜けだ。


 歩きながらどうして会えなかったのかを聞いた。マヒロが言うには、『EDEN』の管理システムに強制的にアカウントを削除されたらしい。ひとまずブロックされたわけじゃないとわかってほっとしたけど、疑問は他にも山ほどある。


「どうしてそんなことになったの?」


「俺が重要機密データに不正アクセスしてたことがバレたから」


 思わず足が止まる。そういえば消える前に「技術を悪用しちゃう」とか言ってなかったっけ。


 私の不安を察したのか、マヒロも立ち止まって私に向き直る。


「あの時の話の続き、してもいい?」


 恐る恐る頷くと、マヒロはふぅと息を吐いて緊張した面持ちで続けた。


「知ってたよ、サナのこと。知っててずっと君を探してたんだ」


「どうして?」


「……絶対笑うなよ」


 彼は顔を覆い、ぼそりと呟く。


「君が、俺の遺伝子のパートナーだったから」


「えっ」


 遺伝子のパートナーって、それって。よく見るとマヒロの顔、真っ赤だ。私の顔もつられて赤くなる。


「出生管理局のデータにアクセスして、サナのこと知ってさ。AIでマッチングされた相手がどんな人なのか知りたくなった。単純にそれだけの興味だったんだ。……最初は」


「今は?」


「……進もう」


 マヒロは誤魔化すようにぷいと顔をそらして、閉鎖された施設のバリケードをくぐって中に入る。見上げると崩れかけた文字で「ゆりかもめ新橋駅」と書かれていた。


「電車って、今は使われてないんじゃ……」


「うん。でもゆりかもめなら動かせるんだ。無人運転だからね」


 マヒロが悪戯な笑みを浮かべる。外に出る前に色々仕掛けていたみたいだ。


 階段を登ってホームで待っていると、ゆっくりと電車が入ってきて自動ドアが開いた。当然、他には誰もいなくてがらんとした車内。電灯は切れかかっているのか怪しく明滅している。


「どこに向かうつもり?」


 お互いはっきりとは言わないけど、逃げるなんてきっと無理だ。この世界に逃げる場所なんてない。街じゅうに『EDEN』と繋がっているカメラやセンサーがあって、異常があればすぐに警備ロボットたちが駆けつける。捕まるのは時間の問題。私以上にマヒロは分かっているはずだった。それでも彼は、無邪気な表情を浮かべて言った。


「海を見に行こう! サナ、好きでしょ。海」


「……うん、好きだよ」


 電車がするりと線路の上を滑るように動き始める。コンクリートで固められたビルの森を抜け、ゆりかもめは私たちを乗せて海の上へ。


「わあ……!」


 薄暗くてはっきりとは見えないけど、仮想世界の海よりずっと広かった。コバルトブルーの宝石みたいな透き通った綺麗な海なんかじゃない、これが本当の東京の海。色んなものが溶け合って底が見えない濁った海。こっちの方がずっと自分たちにお似合いな気がした。


「見える?」


「ちょっとだけね。マヒロは?」


「全然。俺、目が悪いんだ」


「眼鏡かけてるのに?」


「勉強のしすぎかな」


 かけてみる? と眼鏡を外す。こっちのマヒロの方がよく知っている顔だ。じっと見られているのが恥ずかしかったのか、彼は照れ臭そうに笑う。


「第一印象、ガリ勉って思われたくなかったんだよ」


「身長は?」


「サナの背が高すぎるのが悪い」


「ふふ。別に気にしなくていいのに」


 こうして並んでいるところ、誰かに見られるわけじゃないから。同じ目線の高さのほうが彼の顔がよく見える。あの横顔……は今はない。全然見えないや、って窓の外をしかめっつらで睨む姿がちょっと可愛い。なんてことを考えていたら彼の顔を直視できなくなってきて、私は慌ててマヒロの眼鏡をかけた。


 にじむ世界。ぼやけて何も焦点が合わない。


「うわ、なんにも見えな——」


 唇に柔らかい感触。


 一瞬頭が真っ白になって、時間が止まったみたいに周囲から音が消える。


 キス。


 思い描いていたものよりも繊細で、ぼうっとしてたら気付かないような優しいキス。でも、自分の指で唇に触れるのとは何かが違った。触れ合ったところから流れ込んでくる、マヒロの熱、鼓動。そのリズムに合わせるように私の胸もどくどくと高鳴っていて。


「……ずるいよ」


 そう言いながら眼鏡を返すと、マヒロは笑って「でもサナの顔がよく見えなかった」ともう一度キスをした。


 ずっとこのまま触れていたい。見えない引力が働いているみたいにお互い引き寄せられる。やっとわかった。この魔法みたいな力のこと、「好き」って言うんだ。


 ゆりかもめはゆっくりと旋回しながらレインボーブリッジにさしかかる。


 誰もいない世界。静かできれい。


 マヒロの隣に座って肩に寄りかかる。マヒロはズボンのポケットから小さな青い箱を取り出した。そしてそれを私の手のひらの上に置いて、私の手を包み込むように握った。


「これは、俺のお守り。サナに振られたら使おうと思ってたんだけど、俺にはもう必要ないから」


「くれるの?」


 一体何が入っているんだろう。箱を開けようとした時だった。


 急に車内の電灯が全部赤色に変わって点滅し始める。


『AAYW016、SKMJ037。現在、東京都内は特措法第45条に基づき外出が禁じられています。ただちに帰宅しなさい。繰り返します……』


 無機質なアナウンスが何度も響く。もう、見つかっちゃったんだ。マヒロと顔を見合わせる。言葉を交わす暇もなく電車は駅のホームで停車して、開いたドアの先には警備ロボットたちがずらっと並んでいた。


「これより、強制送還措置を行います」


 電気銃の銃口が向けられる。


 マヒロの腕が庇うように私を抱き寄せた。


「マヒロ?」


「サナ、覚えておいて。俺たちは独りじゃないってこと」


 どく、どくと彼の心臓の音が聞こえる。私は温かい腕の中で何度も頷いた。覚えてる。ずっと覚えてるよ。マヒロが私をひとりぼっちの海から連れ出してくれたこと、絶対に忘れない。


 バシュンッ!


 風を切る音がして、マヒロの身体からがくんと力が抜けた。


「マヒロ? マヒロっ……!」


 呼びかけても返事はない。涙がにじんで、彼の顔が見えない。やっぱり嫌だ。やっと会えたのに。やっと触れられたのに。


 もう一度同じ銃声。頭を抉るような振動。


 私の意識は、そこで途切れた。






 ***






 浅瀬に足をつく。気を抜けば簡単に波に押し流されそうになる。自分の足で立つって、こういうことなんだ。


 私の意識が戻ったのはあれから一ヶ月以上経った後だった。眠っている間に消毒とか血液検査とか色々勝手にやられていて、ホームロボットからはこんなことを告げられた。


「おめでとう、SKMJ037。先の外出によりあなたの遺伝子がウイルスの抗体を持つことが証明されました。あなたはこれからの世の中を切り拓く新人類の母となるでしょう」


 わけがわからない。罰せられると思っていたのに、ホームロボットは私を褒め讃えるばかり。


「マヒロは? 彼はどこにいるの」


「お答えできません」


「答えてくれるまで何度だって聞くよ」


「…………」


「マヒロはどこ? 彼はあの後どうなったの」


 ロボットはしばらくピコピコと電子音を響かせていたかと思うと、やがて「情報開示権限、取得」と呟いてから答えた。マヒロもまた罰せられることはない。なぜなら彼がしてきたことは「そうするように教育されたから」。すべては『EDEN』のセキュリティ強化のため、知能の高い子どもたちにあえてハッキングができるレベルの知識と技術を与え、システムの欠陥を見つけるのに使ったというわけだ。マヒロは決してシステムに逆らったわけじゃない。システムが仕組んだシナリオ通りに動いただけだという。


「AAYW016は『EDEN』の発展に貢献しました。そしてもう一つ、興味深い事象が観測されています」


 ロボットは言った。遺伝子情報上、マヒロはウイルスの抗体を持たないはずだったが、現在彼の感染は確認されていないと。裏を返せば、感染リスクがあると知りながら彼を外へ出るハッカーとして教育したということらしい。


 言葉が出なかった。


 狂ってる。何もかも。


「SKMJ037、次はあなたの番です。人類の発展のため、あなたの遺伝子は今後より多くの遺伝子とのマッチングを」


「もう聞きたくない」


 そうして私は仮想世界に逃げてきて、今に至る。


 ……いや、逃げるっていうのは違うかな。私は決めたんだ。私たちは独りじゃない。だから一緒に戦おうって。


 確かに今度は私の番。


 証明してあげる。『EDEN』が人類にとって本当に必要なシステムかどうか。


 私の手にはあの青い箱が握られている。マヒロからもらったもの。この楽園を破壊するコンピューターウイルスだ。


 背後で波音が大きくなるのが聞こえる。浜辺にいた人たちが私を、沖の方を見て青ざめている。迫り来る灰色に濁った巨大な津波。おとなしいコバルトブルーの波よりも、今はこっちの方が断然しっくりくる。


 私は、笑っていた。


 後悔しなさい、『EDEN』。私から防波堤を奪ったのはそっちなんだから。


 全部、飲み込んじゃえ。


 激しい波しぶき。渦巻く水流。轟音と悲鳴。


 不思議とそれは、私を抱き締める彼の腕みたいに温かかった。



〈END〉

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プラトニック・ディストピア 乙島紅 @himawa_ri_e

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