孤高の旋律

真辺 千緋呂

孤高の旋律

 初めて彼のピアノを聴いた時のことは、今でもはっきりと覚えている。


 日も射し込まない薄暗い部屋で、閉じられたままの楽譜の表紙を眺めながら、どんな難しい旋律も涼しい顔をして弾きこなしているさまは、彼がどんなに素晴らしい一流のピアニストであるかを物語っていた。


 まだ学生かと思うほどに風貌は少年のようだったが、実際は日本で音大をストレートで卒業し、更なる研鑚を積むためにここベルリンの音楽院へやってきたというのだから――充分大人の男性といえる年齢だった。


 私の父は一代で財を成したいわゆる資産家で、音楽に造詣が深かったこともあり、若手音楽家育成のための資金援助というものを行っていた。

 その日本から来たピアニスト、稲葉努いなばつとむが父の支援を受けてベルリンで修業することは、とりたてて珍しいことではなかった。今までも同じようにして何人かの音楽家の卵たちの援助をしていたわけだが――彼は確実に私の心を掴む『何か』を持ち合わせていたのだった。


 週に二度、彼は私の家族と一緒に夕食をとり、そのあとリビングに置かれた父ご自慢のベヒシュタインのグランドピアノで数曲を弾く――いつしかそれが、我が家の習慣となっていた。


「今日は何を弾いてくれるんだね? 稲葉君」


 父がそう問いかけると、彼は躊躇することなく、幅広いレパートリーの中からすばやく選曲してみせる。

 その自信に満ちた彼の表情を遠くから見つめているのが、私にとってこの上ない至福のひとときだった。

 繊細で、それでいて迷いのない澄んだ眼差し。


「そうですね……今日は月が綺麗ですので、ベートーベンの「月光」など、いかがですか?」


 そう彼は説明して、昇ったばかりの満月を仰ぎ、もちろんミスタッチもなければテンポの狂いすらなく、音楽の女神に愛された調べを披露してみせるのだった。




 彼と知り合ってから、もうじき半年を迎えようという頃――。

 既に彼は家族の一員のようになっていた。この頃には私もすっかり打ち解け、食事を共にするときには学校での些細な出来事を彼に話したり、向こうもまた日本とベルリンとの文化の違いを楽しげに語ってくれたりもした。

 そのように徐々に心を通わせていく一方で、私は彼が弾くピアノに対して、ある違和感を覚え始めていた。


 一流の腕前を持つピアニスト。

 しかし。

 彼が弾いてみせる曲の中には、いつまで経ってもあの有名なフレデリック・ショパンが一つもなかったのだ。


 もちろん、初めのうちは気付かなかった。ありとあらゆるジャンルのピアノ曲を弾きこなす彼は、おのずとレパートリーも膨大に広く――たとえショパンが選曲されなくてもそれは偶然のことだと、気にも留めていなかった。


 その日、いつものように彼を交えての夕食会を終えたあと、私の父がソファに身を預けながら、ピアノの演奏の準備をしていた彼に尋ねた。


「稲葉君、君はショパンコンクールに挑戦しないのかね?」


 ショパンコンクールといえばあまりに有名な、ピアニストにとっては憧れてやまない最高権威である。


「ええ――目指していた時期もありましたが、もう過去のことですので」


 彼は淡々とピアノのセッティングをしながら、そっけなく答えた。


「過去って……君の年ならまだチャレンジは充分可能なはずだろう?」


 彼がとりあえずショパンコンクールを目指していたことがある、というのを聞いて、私はどこかホッとしていた。やはりこれだけの実力の持ち主は、ショパンコンクールに関するエピソードがあって当然だろう。

 そしてまた、父の言うことに私も同意だった。

 年齢的に諦める――ということは、決してありえない気がした。

 私達父娘が揃って腑に落ちない表情になったのを見て、彼はあわてて付け加えるように言った。


「ああ、説明の仕方が悪かったですね。僕よりもショパンを上手く弾く人間を、知っているので……たとえコンクールで優勝しても、僕があいつに勝つことはできないのです」


「ほう。無敵の稲葉君にも、そんな手ごわいライバルがいるのかね?」


 初めて聞く、彼の過去が垣間見える話だった。


 ――僕よりもショパンを上手く弾く、あいつ。


「手ごわくはないですけどね。日本で調律師の見習いしながら、幸せそうに暮らしてますよ」


 彼はそう言って椅子に腰掛けると、鍵盤に指を掛け、何の説明もなしに弾き始めた。

 流れるような旋律の波間に、私はいつまでも漂い続けた。


 曲はフランツ・リストの ―La lugubre gondola― 悲しみのゴンドラ、だった。




「そうだ。ツトムにね、お手紙が届いてたよ」


 私は父がいつも使っている部屋の隅に置かれた小さなキャビネットのところまで移動し、その上に置かれている文書箱から一通のエアメールを、そっと取り出した。

 まるで特別な任務を拝命したかのごとく私はそれを両手で持ち、一曲弾き終えた彼の元へと近づいた。


「僕に? ああ僕、今の住所、誰にも知らせてなかったもんな。だからこちらへ届いたんですね。申し訳ありません」


 彼は私にではなく父の方を振り返り、申し訳なさそうに礼儀正しくお辞儀をした。


「いや、構わないよ。稲葉君は私たちのファミリー同然だからね。君のアパートでは留守がちだろうし、ここを連絡先に使ってくれていいから。手紙を預かることくらいわけのないことだよ」


 そんなやり取りを聞きながら――。

 私の関心は、いまだ自分の手の中にある『彼宛に送られてきた手紙』にあった。

 正確に言うと、手紙の差出人のところに書かれた、繊細で達筆な署名に釘付けになった。

 日本からわざわざ彼に手紙を送ってくる、『女』。

 私は我慢できずに彼に尋ねた。


「ねえ、ヒトミって……誰?」


「こら絵里香! はしたない。いちいち詮索するんじゃない」


「だって!」


 どうしても気になる、彼の『過去』の人間関係。

 そういう人がいたって、全然不思議じゃない。私が彼のことを全然知らない、というだけのことだ。

 そう、全然知らない。

 彼がここベルリンへ留学してくる前、日本でどんな暮らしを送っていたのか。

 音大を卒業したということは知っている。ピアノ科を首席で卒業したことも、父親が有名なトランペット奏者で、母親はニューヨークを拠点に活躍しているソプラノ歌手であることも知っている。

 でも。

 

「大学時代の友人ですよ」


 彼は私のぶしつけな質問にも嫌な顔一つせず、笑いながら答えた。


「……ホントに友達?」


「止さないか、絵里香!」


 父の語調が強くなる。私はその声に驚き振り返ると、出過ぎた行動を諌めるような厳しい顔がそこにはあった。

 そこへ、すうっと彼の声が――。


「いいんですよ、真鶴さん。絵里香ちゃんは勘がいいね。そうだなあ……僕が憧れていた女性、ってところかな」


 やっぱり、そうか。

 私は訊いてしまったことを既に後悔し始めていた。

 手の中にあるエアメールを引き裂いてしまいたいほどの激しい嫉妬心が、私の心を支配しようとしていた。

 電話も電子メールも発達した時代に、わざわざこうやって手紙を送ってくるなんて。

 大学時代の友人? そんな話――。


「うそ……そのヒトミって人、ツトムの彼女なの!?」


「違うよ。僕が憧れているだけさ」


「……わざわざこうやって手紙なんか送ってくるのに?」


「電話では済まされないこと、なんでしょうね。きっと」


 そう言って、彼は私の手から『ヒトミ』の手紙をそっと取った。

 そして照れたように笑うと、ダンケ、とドイツ語で私に感謝の意を述べた。

 彼はいつも持ち歩いている革製の楽譜ケースから一冊の薄い楽譜を取り出すと、そこに『ヒトミ』からの手紙を挟み込んだ。

 何度も何度も練習し弾き込まれたような、そんな質感の表紙に、私は彼の音楽に対する真摯な姿勢を感じ、改めて尊敬の念を抱いた。


 ふと。

 私は、あるものを見てしまった。


 驚きのあまり、声も出なかった。

 楽譜の表紙には確かに―Frederic Chopin―と印刷してあるではないか。

 ショパンの楽曲を頑なに弾こうとしない彼が、楽譜だけは常に持ち歩いていて、そして。

 そこにわざわざ『ヒトミ』の手紙を挟む、そこに何の理由もないなんて、到底信じられるはずがない。


「その曲、聴きたい。――ねえ、絵里香のお願い。弾いてよ、ツトム」


 彼は明らかに困惑の表情を浮かべた。どんな曲をリクエストしても快く引き受けてくれる彼が、初めて見せた『拒否』だった。


 もちろん言葉で拒んだわけではない。

 彼の心の奥の踏み込んではいけない領域を、今まさに踏みつけようとしているのを、彼の表情から私は察したのだ。


「どうしてショパンを弾いてくれないの?」


 ここには彼のライバルなんていないのに――。


「絵里香ちゃんも、この曲が好きなの?」


 彼は私のような小娘を上手くあしらうように、首を傾げながら笑顔で訊いてくる。

 弾いてくれる気など、さらさらないのだ。


 そう。


 絵里香ちゃん――『も』。


 もう何が何だか、訳が解らなくなっていた。

 『ヒトミ』だ。『ヒトミ』なんだ。

 このショパンはきっと、彼がヒトミのためだけに弾く曲――。


「好きじゃない。知らないそんな曲。弾いてくれないならもういい、頼まない」


 私は彼から思い切り顔をそむけそのまま背を向けると、呆れ顔の父親と私の心を揺さぶる鈍感なピアニストを残し、早足でサロンを出た。

 きっと今頃二人は顔を見合わせて、私のことをわがままな子供の行動だと嗤っているんだろう。


 自室に戻る途中の廊下の真ん中で、私は歩けなくなり立ち止まった。

 心の底から震えが来て、とっさに両手で顔を覆ったが、あふれる涙はもはや止めることができなかった。


 こんなことで、と笑われるかもしれない。

 でも私の中では、それほど彼の存在が大きくなってしまっていたのだ。


 今頃になって気付くなんて。


 私のためには――彼が決して弾くことのないショパンに、そして彼が憧れているという『ヒトミ』に、激しい嫉妬を覚えた。




 週末には決まって私の家を訪れる彼が、なぜか今週は姿をみせなかった。

 デュッセルドルフの演奏会に招かれピアノを弾くことになっていることを、私は父から聞いた。

 彼に会えないのは多少残念な気もしたが、心のどこかではホッとしていた。

 現実を直視するのがとても怖かった。


 彼の過去。もしくは現在も――。


 彼は『ヒトミ』のことを、憧れていただけだと言っていた。

 もしかしたらそれは本当なのかもしれない。

 でも、わざわざ手紙を送ってくるということは、遠くから見守っているだけの「憧れ」ではないはずだ。


 『彼』と『ヒトミ』は繋がっている。


 心と心が、奥底で繋がり合っている、きっとそう、そうに違いない――。


 もう――おかしくなりそうだった。いや、もう既におかしくなっていたのかもしれない。



 週末ののどかな昼下がりのことだった。

 朝早く出かけていたはずの父が、いつのまに帰ってきたのか――私の部屋へやってきた。


「絵里香、父さんの言うことを聞いてくれないか?」


「どうしたの?」


 そう言って、父は私に鍵を一つ手渡した。

 何の変哲もないプラスチックのタグがついた、いかにもスペアキーらしき代物だ。


「スポンサー契約の確約書の写しがどうしても今日中に必要になってね。稲葉君のアパートまで取りに行ってきてくれないか」


「ツトムのウチに!?」


「寝室の机の上においてあるというから、それをそのまま借りてくればいい」


 彼は私の家から徒歩数分のところに住んでいた。

 そのアパートは父の所有する数多の賃貸物件の一つで、当然のことながらスペアキーの管理も父がしていた。

 今までは向こうからこちらへ訪れるだけで、彼の住んでいる所へはまだ行ったことがなかった。


 沈んでいた気持ちがわずかに晴れた。

 大好きな彼の部屋に、堂々と入れる機会はそうそうない。

 私は二つ返事で了承し、父からの頼みという大義名分を背負って、意気揚々と彼のアパートへ向かった。


 しかし。


 それが悪夢の始まりだった。




 目的の書類はすぐに見つけることが出来た。父の言うとおり、それはテーブルの上に置かれていた。


 ふと目を留めると――。


 いつか見たことのあるショパンの楽譜が、テーブルの端のほうに、無造作に置かれているのに気がついた。

 私の心の中の悪魔が、押さえられずに――その楽譜の表紙にゆっくりと、震える右手を伸ばした。

 そこにはあの時彼が挟み込んだ、『ヒトミ』からの手紙があった。封は既に開いている。


 勝手に他人の手紙を読むということが、悪いことであると判っていた。

 しかし、ちょっとくらいなら。

 黙っていれば、きっと分からない。

 私はさらにその、開封された手紙に手を伸ばし―― 一旦躊躇して引っ込めた。

 誰かに見られているような気がして、あたりを数度見渡す。

 当たり前だが、室内に人の気配はまるでなかった。


 すばやく封筒の中を覗き込み、中身を取り出した。二枚に渡るヒトミの手紙がていねいに三つ折されている。

 恐る恐る開くと、突如視界に飛び込んできた、一文。

 きっとそれは手紙の二枚目の、冒頭だったのだろう。ありきたりな挨拶や社交辞令ではない、ストレートな言葉だった。


『久しぶりに稲葉君のショパンが聴きたいです。』


 私は続く文章を読むことなく、すぐさま手紙を折り直した。とても続きを読むような心境ではなかった。

 人の手紙を読むなんて罰当たりなマネをした、そう、これはまさに天罰だ。元通り封筒にしまおうとするが、手が震え、なかなか上手くいかなかった。

 集中できない。思考がぐるぐる巡っている。


 どんな顔をして、彼がこの手紙を読んでいたことだろう。


 ショパンを絶対に弾かない彼が、ショパンを久しぶりに聴きたいと言う彼女の手紙を、ショパンの楽譜の間に挟みこむ――なんて。

 やはり、そうか。

 なんとなく分かっていた。しかし、それを認めたくなかったのだ。

 久しぶりに。そう。


 『ヒトミ』は確実に、彼のショパンを聴いたことがあるのだ。


 私の中の何かが、――壊れた。



 なんてことをしてしまったのだろう。

 気がついたときには、ピアニストにとって最も大切な――繰り返し弾き込まれた質感のそのショパンの楽譜を、真ん中から引き裂いてしまっていた。

 どこにそんな力があったのだろうと、自分でも驚くぐらいの凄まじいものだった。

 動悸が抑えられず、必死に呼吸を繰り返す。


 私は破った楽譜を床に投げ出し、その場にへたり込んだ。




 最低だ。

 人間として最低で、そして最悪だ――。

 私は彼に嫌われて当然のことをしてしまった。でも、いまさら嫌われたって、かまわない。

 たとえ嫌われても、彼の関心が私の方へ向くのなら――とさえ思えてしまう。

 しかし。

 彼の心は『ヒトミ』にある。

 私のことだけを見てくれる日が来るなんて、永遠にありえない。

 そう。

 このショパンの幻想曲を、私のためだけに弾いてくれることは絶対にない。

 最低最悪の人間には、慈悲の音楽を求める権利すら与えられないのだ。


 私は少し落ち着くと、自分のしたことをまるで他人事のように見つめた。真っ二つに裂かれたショパンの楽譜を拾い上げ、破れ目をそっと指でなぞった。

 私が書類を取ってくるのを、家で父が待っている――。

 カバンに書類と破れた楽譜の残骸とヒトミの手紙を押し込むようにして入れ、私はいったん戻ることにした。

 彼がここベルリンへ戻ってくるのは明日だ。


 こんなにも時間の流れに対して恐怖を覚えたことは、いまだかつてなかった。




 私が家に戻ると、父は書類をいまや遅しと待っていた。素直に書類と彼の部屋の鍵を渡すと、父は私に驚きの事実を口にした。

 なぜ今、スポンサー契約の確約書などが必要なのか――その理由はまさに青天の霹靂、思いもよらないものだった。


「急なことだけどね、稲葉君は今度ニューヨークの楽団とのプロジェクトに参加することになって、こちらの音楽院は半年ほど休学することにしたそうだ」


「……ニューヨーク? うそ――ツトム、ここからいなくなっちゃうの!?」


 私は思わず自分の耳を疑った。

 目の前が真っ暗になり、私は失意のどん底に叩きつけられたのだった。




 次の日の夕方、彼はいつものように私の家へやってきた。

 ピアノの置かれているサロンのソファで、まるで自分の家のようにくつろいでいる。

 父はまだ帰っていなかった。母は夕食の支度に忙しいらしく、彼は一人で暇そうにその辺りにある雑誌を手に取りパラパラとめくっていた。


 今しかない。


 私は音を発てないようにして、ゆっくりと彼に近づいた。

 そして、無残に破られたショパンの楽譜を、黙ったまま彼の目の前に差し出した。


「……ごめんなさい。あの、本当に……ごめんなさい」


 彼は差し出された楽譜を見て、すべてを悟ったらしかった。


「僕がこの前、ショパンを弾かないって言ったことで、絵里香ちゃんの機嫌を損ねちゃったのかな。――ちゃんと言わなかった僕も悪い」


 彼は私の差し出した楽譜を受け取り、読んでいた雑誌と一緒にして、目の前のセンターテーブルの上へ置いた。

 私は一気に安堵した。彼が烈火のごとく怒り、私を軽蔑するのではないか――そんな妄想はとりあえず杞憂に終わったようだ。

 そんな私の心を読み透かしたように、彼は私を手招いて、ソファの隣に腰掛けるようすすめてくる。

 私はそれに素直に従った。

 しかし、視線を合わせるのが気恥ずかしく、彼の膝の上で組まれた長くて美しい形の指をじっと見つめ、彼の言葉を待った。


「彼女ね、今度結婚するんだよ」


「……結婚? 誰と?」


「僕の――親友とね。まあ、ライバルとも言うかな? その楽譜の中にはさんでた手紙はね、結婚式の招待状なんだよね」


 意外な事実だった。


 ――ヒトミが、彼の『親友』と結婚をする?


「この僕に、余興でピアノを弾けと言っている。それも弾きたくもないショパンをね」


 彼はおどけたように説明してみせる。肩をすくめてため息混じりに言うさまは、どこかしら自虐的な感じを受けた。


「……どうして、ショパンを弾きたくないの? というか、どうしてショパンなの?」


 私が彼に、どうしても聞きたかったこと。

 そう、それはまさに、私が最も知りたい彼の秘密――。


 彼はテーブルの上の破られた楽譜にチラリと目をやった。


「彼女の言うショパンはね、そこにある『幻想曲』のことなんだよ。彼女の一番好きな曲でね。彼女もピアニストだから、自分で弾けるはずなんだけどね、この曲に限ってはやっぱり誰かに弾いてもらって聴いているのが、どうやらお気に入りのご様子で」


 やっぱりそう。

 私の予想は間違ってはいなかった。


 ヒトミがショパンの『幻想曲』が好きで、自分の結婚式に弾いてくれ――だなんて。

 彼の親友とヒトミが結婚する。その二人の目の前で。


 ヒトミへの嫉妬。

 彼の報われない想い。


 もう、私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「ツトムは弾くの? 彼女のために――その曲を弾いてあげるの?」


「いいや」


 彼は迷いも見せず、首を横に振った。


「凄いショパン弾きなんだよ、彼女の婚約者って男がね」


 以前話してくれたことがあった。

 なぜ、ショパンコンクールを目指さないのか。

 それは、自分よりもショパンを上手く弾くあいつの存在が――。

 私にはまるで想像できなかった。

 彼よりも凄いピアニストなんて、果たしてこの世に存在するのだろうか。

 彼が負けを認めざるをえない――だなんて。


「僕はこの曲を弾く機会は一生与えられないだろうな。そんな、披露宴の余興で招待客の前で聴かせたくなんかないしね。彼女のためだけに弾くなら別だけど――」


 彼の未練とも取れる発言が、私の心を締め付ける。

 こんなにも、切ない。

 報われない想いは、私も彼も同じだ。

 だから、切なくて切なくてたまらないのだ、きっと。


「いや、彼女のためには弾けないんだ。第一、彼女は僕のピアノが好きじゃない。『稲葉君はテクニックは最高かもしれないけど、あなたの音楽には心が感じられない』なんて、学生時代に彼女に言われてね。ははは、彼女の言うことは非常に的を射ている。僕のピアノはいつだって自己満足で独り善がりで…………孤高だ」


 ――――そんな。


 気がつくと私は彼に抱きついていた。


「私じゃ……ダメ?」


 彼は驚きのあまり一瞬身を引く仕草を見せたが、私は構わず彼をしっかりと抱きしめた。

 彼のシャツに顔をうずめながら、喉の奥からやっとの思いで声を絞り出し、彼に告げた。


「私に聴かせてよ、ツトムのショパンを。――せめて、最後に一度でも」


 彼はじっとしていた。

 抱きしめる私の腕に、彼の呼吸の動きだけが微かに伝わってくる。


「誰かのことを思って弾くピアノは、決して孤高なんかじゃない――そのヒトミって人、ツトムのこと、何にも分かっていない」


 長い沈黙があった。

 このまま時間が止まってしまうのではないかと思うほど――いや、いっそ止まってくれたならどんなに幸せなことか。


「いつになるか判らないけれど」


 彼は言った。


「彼女のために弾ける日が来ればいいと思ってるよ。それまではどんなことがあっても弾かない、と僕が勝手に決めているんだ」


 彼は最後まで私の背中に手を回すことはしなかった。

 軽く頭に手を載せ、ひと言。


「ごめんね」


 やはり。

 彼の弾くショパンの『幻想曲』を、私が聴ける日は永遠にやってこない。




 それから一週間後。

 彼はベルリンをあとにし、ニューヨークへ向けて出発した。

 私は見送りをしようと、空港まで列車で向かうという彼を捜し、広い駅構内をひたすら歩き回っていた。


 ――いた。


 冷たい風をしのぐようにトレンチコートの襟を立て、プラットホームのベンチに腰掛けている。

 荷物は小さなトランクのようなものが一つだけ。大きな荷物はすでにアメリカへ送ってしまったのだろう。身軽さはその辺のビジネスマンとなんら変わりがない。


「……楽譜を、大切な楽譜を破っちゃって、……ごめんなさい」


 私の声に気付いて、彼は顔を上げた。

 少しだけ驚いたようだったが、すぐに優しい笑顔を見せた。


「もう気にしないで、絵里香ちゃん」


 何となく気まずい空気が流れる。

 彼と顔を合わせるのは一週間ぶり。彼に抱きつき想いを告げ、しかし叶わなかった――あの夜以来だった。


「だって、だってね……私、ツトムのことが」


 彼は黙って、私の言葉にじっと耳を傾けていた。


「ツトムのピアノが、大好きだったの」


 やっとの思いでそう言うと――。

 彼は硬い表情を崩さぬまま、ゆっくりと頷いた。


 彼がいなくなってしまう。

 大好きな彼が、私の元から離れてしまう。

 もうこれで終わり。もうこれで……。


「ああ、そうだ――」


 彼は脇に置いていたトランクから、楽譜のピースを取り出した。

 そしてそれを私のほうへと差し出して――。


「僕から、これを絵里香ちゃんに」


 私は差し出された楽譜と彼の顔を交互に見つめ、どうしてよいのか分からず、ただ途惑っていた。


「この曲はね、僕がショパンの中で一番好きな曲なんだよ」


 ――僕の、一番好きなショパンの曲。


「君に、『この曲を僕に弾かせる権利』をあげるよ」


 屈託なく笑いながらそう言う彼の顔を、私はただ呆然と見つめた。

 権利? 権利って……?


「僕が、君のためだけに弾く曲。この先、たとえスポンサーがこの曲を弾けと言っても、弾かない。一生ものの権利だよ」


「えっ? あ、でもそれだとツトムが困るんじゃないの……?」


「どうしても弾かなくちゃならないときには、絵里香ちゃんの許可をね、ちゃんととりにくるから大丈夫だよ。僕のピアノが好きだって言ってくれた、ささやかなお礼さ」


 言葉にならない想いで、私の心は溢れていた。

 彼が一番好きなショパンの曲を、これから先は私の許可を得てから弾く、と。

 私は楽譜の表紙に視線を落とした。


 【Grande Valse Brillante】

  ワルツ第1番変ホ長調『華麗なる大円舞曲』


 ショパンの数あるピアノ曲の中でも、誰もが一度は聴いたことのあるほどの有名曲だ。

 おそらくこの先、幾度となく演奏する機会があるに違いない。

 その度に彼は、私のところに許可をとりにくるつもりなのだろうか?

 本当かどうか分からないが――しかし。


 彼はベンチから立ち上がりトランクを携えると、私に言った。


「『誰かのことを思って弾くピアノは、決して孤高なんかじゃない――』だよね? いい言葉だ、忘れないよ」


 彼は私に背を向け、軽く手を振りながら歩き出すと、そのまま列車の中へと消えていく。


 私は孤高のピアニストの背中を見送りながら、気が付くと楽譜をしわが付くほどに抱きしめて、その上にいくつもいくつも大きな滴を落としていた。


     (了)

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