片目を閉じて

吾妻栄子

片目を閉じて

「スーツを受け取りに来ました」


 カウンター越しに顔を出したのは、予想に反して俺と変わらない年頃の女の子だった。


 多分、十四、五歳だろう。眉が隠れるほど分厚い前髪を垂らしてきっちりお下げ髪に結った、仕立屋にしては垢抜けない子だ。


劉先生リウさん、ですか?」


 相手は円らな瞳をいっそう丸くして小首を傾げる。


「いや、代理の者です」


 そうだ、俺もこんな仕立屋で高値のスーツを仕立てるような風に見えるわけはない。


 苦笑いしつつ古着の胸ポケットから引き換え証を出す。


「確認致します」


 小さな、しかし、荒れた手が紙を受け取る。


 この子、ここのお針子かな? 女中かな?


 兼ねたような立場なのかもしれないが、死んだ母さんに似た手に少し胸に刺さるものを覚えた。


 田舎の湖近くのお屋敷で女中をしていて、奥様の縫いかけの晴れ着を机の上に置いたまま倒れて息を引き取った母さん。


 いつも奥様やお嬢様たちの絹や錦の着物を縫っていたのに、本人は息絶えた時も粗末な綿入れを纏っていた。


 こちらの思いをよそに相手はお下げ髪の背を向けて後ろの棚を探し始める。


 正面から見ても華奢だったが、後ろ姿だと貧弱というか体が育っていない感じが目立った。


 蛍光灯の照らし出す服の陰翳からも中身が詰まっていないというか、「これは脱いだら薄くてガリガリな体つきだろうな」と察せられる。


 あの古着のズボンの尻なんかダブダブで、俺よりもっと年下のガキみたいだ。


 兄貴の通う舞庁ダンスホールねえさんたちはピカピカした旗袍チャイナドレスを着て胸も尻もはち切れそうにふくよかなのに。


 彼女らの姿を思い出すと胸の奥が熱を持って高鳴るが、目の前にいる痩せっぽちの小娘は背を向けたまま自分の仕事に没頭しているのに何故か微かな小憎らしさを覚えた。


――あんたなんか私の目にすらどうでもいいよ。


 暗にそう告げられている気がして、古着のズボンのポケットに突っ込んだ手を知らず知らず握り締めた。


 目を落とした黒靴の爪先は砂埃で白く粉を吹いたようになっていて舌打ちしたくなる。


 いや、俺だって、今に出世して、仕立屋で立派なスーツを作る男になってやるんだ。


 睨み返すようなつもりで再び目を上げると、痩せっぽちな娘の後ろ姿が背が高く横に広い棚に吸い込まれるような錯覚に一瞬、頭がぐらついた。


 引き換え証に兄貴の名前も何もちゃんと書いてあるはずだけど、あの子、迷ってるのかな?


 実際、まるで迷わせるのが目的であるかのようにどの棚にも同じこの仕立屋の屋号が刷られた布袋が入っている。


 “倪朋誼ニエ・ポンイー醫生せんせい 十一月二十八日上午十点”


 “山下主税やましたちから中将 十二月二日下午四点”


 “金聖勲キム・チョルフン教授 十二月三日下午二点”


 “阮報國グエン・バオ・コック先生 十二月五日下午六点”


 ……


 棚の上に貼られた付箋で受け取り主と引き取り予定日時が分かる。


 随分と色々な客が利用して必ずしも予定通りの日時には受け取りに訪れていないようだが、俺が受け取るべき荷物は……。


 “劉慶徳リウ・チンドゥ先生さん 十一月二十九日下午三点”


 あれだ、と思った瞬間、荒れた小さな手が付箋をピッと取り外して二本のお下げ髪がユラユラと揺れた。


 蛍光灯の照らし出すその編み込まれた黒髪はうねるように滑らかに輝いた。


 一瞬、妖しいものを目にしたようにドキリとする。


「それでは、スーツ一式と冬物のコート一着になります」


 小さな荒れた手が袋から上等なスーツ一式と厚地の毛布じみた瀟洒なコートを取り出して見せる。


 そうすると、糊の効いた新しい布地の香りがさっとこちらにまで届いた。


 それはこの店全体にもうっすら漂う匂いなのだと今更ながらに思い当たる。


「ああ」


 自分ならこんな立派な衣装は却って気後れするが、背の高い兄貴が着たらさぞ見映えがするだろう。


――阿慶アチン!


 舞庁の姐さんたちが歓声を上げてまた群がる様が浮かんだ。


 自分にはそんな風になれる日は来るのだろうか。


 カウンターの向こうの小さな手が衣装を袋に再び収めるのを眺めていると、胸の中に陰が差してくる。


劉先生リウさんはいつもうちを贔屓にしていらっしゃるそうですね」


 不意に静かに温かな声がして、そちらに見やると、厚い前髪の下の円らな瞳が親しげに細まっている。


 蛍光灯が前髪にも白くうねる輪を描いた。


「私はまだ新しく入ったばかりでお会いしたこともありませんけど、親方がそう言っていました」


 この子も俺と同じでこの街の職場では新入りのようだ。


 そこに幾らか安堵を覚える。


 自分たちはこれから上に行くのだ。


「ああ」


 小さな荒れた手と手の間で受け渡しをする。


 袋に入れた冬物の衣装は少し重たいが、微かな温もりがあった。


「また来るよ」


 兄貴がお気に入りの姐さんにやるようにカウンター向こうの相手に微笑んで片目を閉じて見せる。


 やってから、急に気恥ずかしくなったが、ぐっと何でもないフリをする。


 自分はこれからそんな振る舞いが似合うように変わるのだ。


 相手は暫く戸惑った風に円らな瞳をこちらに向けていたが、幾分頬を染めてやはりパチリと片目を閉じた。


「お待ちしております」

(了)


◎注釈

文中の中国語について

*醫生→医師を「先生」と呼ぶ時の呼称。

*上午→午前

*下午→午後

*「~点」は「~時」の意味です。


ちなみに

倪朋誼醫生→中国人医師

山下主税中将→日本人軍人

金聖勲教授→朝鮮人学者

阮報國先生→ベトナム人社会運動家

というような設定です(敢えてステレオタイプな姓にしてあります)。

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