僕と少女と缶ビール

竜胆

第1話


 世には奇妙な病があると、昔話やいつか読んだ童話にはあった。嘘をつくと鼻が伸びるとか流した涙が宝石に変わるなど、様々な...あれは病なのかどうかは今の僕には定かではない。

 然し、僕は今そんな御伽噺のような奇妙な病にかかってしまったらしい。

もう幾日過ぎただろう、僕はぼんやりと滲む視界を窓に向ける、薄暗い部屋にポカリと空いた窓には澄み切った青空が覗いていた。


 何日も続く残業に執拗に怒声が飛ぶ小さな町工場が僕の職場だ。大学受験は失敗に終わり浪人生を許される程裕福ではなかった僕は、少ない求人の中から地元からはかなり離れた町工場に就職した。高校を卒業してすぐ、まだ幾らかの淡い夢や希望はあれども現実は歯痒いくらいに僕を打ちのめしていった。

 卒業から二年、毎日浴びせられる社長の怒声と当たり前のようにサービス残業を強いられる毎日。仕事には慣れた筈なのに出来ることが増えるほど毎日の作業はそれ以上に増える。

そのうちに僕は体力も精神も限界を迎えている事に気付いた。気付いてしまえば後は次の仕事を探すだけだ。

 旧友たちや学生時代の先輩たちに声をかけているうちに、同じく地元を離れこの街に就職していた先輩に行き着いた。人の良い学生当時から下級生からも信頼のあった先輩の口利きで飲食店での再就職のアテが見つかった。

 気さくなオーナーと多少癖はありそうだが人の良さを感じれる店長。何より従業員の明るさが僕を安心させてくれた。未経験でも良いというその飲食店は今より給料は落ちるもののキッチリとした福利厚生を出しておりその辺も好感が持てた。今の工場には有給制度すら形の上にしからなかったぐらいだったのだから。


 話が決まって町工場に辞表を出した日、朝礼を済ませ何時もなら真っ直ぐに現場に向かう僕はその日、錆びた階段を昇り事務室へと向かった。事務室に入るといつものようにスチール製のデスクに書類を出して忙しなく煙草を吸うの社長がジロッと濁った目を向けた。僕は社長が言葉を発する前に社長の座るデスクの上に辞表を出した。それを見て社長は眉を吊り上げ、怒鳴り溜息を吐かれ怒鳴られながらも僕の意思が変わらぬと見るやその場にあったペンを僕に投げつけた。結局社長は渋々と辞表を受け取った。

 そして僕はその日から暫くの間無職になってしまった、だが幾分か心は晴れやかだった。

 いつも仕事帰りに立ち寄り弁当を買うコンビニに向かう。昼間のコンビニは見慣れた夜のコンビニより生き生きとした空気がしたように感じた。僕はのんびりと店内を周り缶のアルコールドリンクが列ぶ陳列台を見た。惰性のように発泡酒と書かれたビールに伸びた手が止まる。昨日までの僕であればきっとこのビールを選んでいただろう。だが、今日は新しい一歩を踏み出した記念日だ。せめてよく頑張ったと褒めてやりたい気持ちになり伸ばした手を別の商品に滑らせる。普段より倍以上するそのビールを手にして僕はささやかな幸福を噛み締めていた。

 コンビニで買った缶ビールを手に僕は通勤で毎日通る河原の土手に初めて腰を降ろした。一級河川とされる河の幅は広く対岸はまるで別の世界の様に感じる。広めの河岸には小さなグラウンドが幾つかあり疎らな人影がみえる。

 僕は深い息を吐きながら手にした缶のプルトップを押し上げた。

 軽快な音がしてプルトップの隙間から泡が湧き出る、歩きながら手に持っていたためどうやら無意識に振ってしまっていたようだ。僕は溢れそうな泡を零さないように勿体無いという気持ちと一緒に口に含んだ。苦い泡が口の中に広がった。

「苦...」

 思わず口をついて出た言葉はそのまま消えるはずだった。

 クスクスと鈴の音のような笑いが聞こえてボクは辺りを見回した。ひょっこりと土手に茂る草いきれから少女が顔を出した。

 見覚えのある制服はこの辺りの高校の制服だった筈だ。肩までかかる柔らかな少女の髪が陽に透けて薄く茶色く煌めく。眩しさに目を細めた僕を少女が屈んで覗き込み小首を傾げた。

「それ、美味しいの?」

「うん、美味しいよ」

「ウソツキ。さっきは苦いって言ったじゃない。」

 少女は笑いながら唇を尖らせてさらに僕の顔を覗き込んだ。薄い茶色の瞳に僕の間抜けだ顔が写る。

「こんな時間からお酒なんて、お兄さんは悪い人?」

 その問いに暫く考えて僕は手元の缶に目をやる。何時もより上等なそのビールは心做しかキラキラとして見えた。

「そうかもしれない」

 僕は人見知りしもせずいきなり屈託なく話しかけてきた少女を不思議に思いながらも、自然とそう少女に応えていた。別に『わるいひと』とやらになった気はしないが、こんな昼間から何時もなら買うことのない高いビールを贅沢に飲むそれだけで僅かな罪悪感が顔を出した。

「ふぅん」

 気のない返事をしながら少女は未だに呆けている僕の隣に腰を下ろすと両足を抱え込むように座って立てた膝に自身の柔らかそうな頬を乗せて僕の方をジッと見上げたその視線とぶつかった。

 僕は少女から慌てて目を離すと缶にまだ結構入っているビールを一気に喉に流し込む、その様子を少女は見ているようだった。

 横目にチラリと少女を盗み見れば少女はまだ僕を見ていた。クリクリと大きな瞳に長い睫毛が瞬きの度に揺れる。制服の襟首から覗く白い肌がやけに目について僕は視線を缶ビールに戻した。

「仕事をね、辞めてきたんだ」

 僕はついそんな言葉を少女に漏らした、少女の瞳が驚いたように見開かれた後ニッコリと口角をあげで微笑んだその笑顔は馬鹿にするでもなくただ美しいと僕は思っていた。

「そっか、じゃあ今日のソレはお兄さんのお祝いだったのかな」

「うん、何時もなら安いビールを買うんだけどね、ちょっとだけ奮発してやったよ」

 僕の言葉に少女が朗らかに笑う、夏前の強い太陽が少女の笑顔を更に眩しくした。

「明日から節約だな」

 そう言って僕にも笑みが浮かんだ、そういえばこうやって何も考えずに笑うのは何時以来だろう、ふと過ぎった思いに僕は過ぎた数年を振り返ろうとし、思い直した。そう、もう過ぎた。さっき辞表を出して僕は新しい未来を歩くと決めたんだ、今は振り返る時期じゃない。つい後ろを振り返ってしまう思考を切り替えるために僕は少女に問いかけた。

「君は...何をしていたんだい?」

 少女は笑みを崩さずまた頬を膝に乗せて僕を見つめた。暫く僕を見上げていた少女に聞いてはいけなかったかなと少し戸惑いだした頃、少女がポツと口を開いた。

「今日ね、私卒業式だったの」

 卒業式?僕は太陽を見上げた。もう夏前だというのに、こんな時期に卒業式とはきっと色々な事情があるのかもしれないと、迂闊な自分の言葉に僕は途端に申し訳なくなって俯いてしまった。そんな僕を少女はまだ微笑んだまま見ているようだった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか、時折河原に吹き抜ける風と遠く人の声がするだけの時間、河原に面した背後の舗装路に人が通ることもない。静かな時間が穏やかに過ぎていた。

「私ね、今日このままあの河に入っちゃおうかなって思っていたんだ」

 そんな静寂を先に破った少女がポツリと話し始めたのをギョッとして振り返るが少女は相変わらず穏やかな顔をして微笑んでいる。

「この河ね、真ん中はずっと深くなっていて一度流されたら下流まで、ううん入江を抜けて海まで...上がっては来れないんだって」

「そ、うなのか?」

 情けなく震える声で僕が返すと少女がまた鈴を鳴らしたような声を立てて笑った。

「そうなんだって、昔おばあちゃんが言ってた」

 そう区切って少女は顔を河へ向けた、僕もまた少女の視線を追って河を見た。上辺には穏やかに見える河は岸に近い部分にはまだ幾分か透明で小魚の影が見える。

「真ん中まで行って向こう岸まで歩けたら私明日も生きよう、もし行けなかったら...」

「馬鹿な事を言うもんじゃない」

 言葉の意味を理解して僕は少女の言葉を遮って声を荒らげた。激しい動悸がし顔に血が集まるのがわかる。辞表を出した時にも社長に怒鳴られてもこんなに興奮も緊張すらしなかった。だが、僕は今目の前の少女が何をしようとしていたのか知ったただそれだけでこうまで興奮している、そして緊急している。止めなければならない、いや止まってもらわなければならない。そんな思いから僕は絞り出すようにけれど一ヶ月前の僕に諭したように少女に向けて真っ直ぐ言葉を繋いだ。

「なんで...嫌なら、嫌な事があるなら逃げたっていいんだ」

 言いながら鼻の奥がツンとして涙が溢れそうになる。そんな僕を目を丸くして暫く見ていた少女は薄く薄く微笑んだ。

「お兄さんはやっぱり悪い人だね、私もう少し早くお兄さんと会えたらよかった」

 そう言って少女が立ち上がった。

「うん、じゃあお兄さんの口車に乗って今日は止めておくね」

 頭上から言った少女の声は明るかったが僕は少女の顔を見れずにただその足元の革の靴を見ていた、小さな傷がたくさん入り、所々革が剥げて薄く汚れた靴は少女の無邪気さと少しの違和感を持たせた。

 僕は顔を上げたが少女の姿は見えなくなっていた。今まで少女の靴を見ていた筈なのにと、キョロキョロと辺りを見渡して気がついた。

 河原の土手の下に置かれた花束と幾らかの菓子やジュースに。


 あの日から僕は少女を思う度に涙が止まらなくなってしまった。壊れた蛇口のように、涙が止まらない。

新しく決まっていた仕事にもうすぐ初めての出社になるというのに、僕はあの日から止まらない涙を只管垂れ流していた。

 僕の脳裏にはいつでも少女の微笑んだ顔があのキラキラとした瞳が居た。寝ていても夢に出てくる少女は眩しい笑顔であの日のように僕に笑いかけてくる、そして立ち上がるとそのまま目の前の河に向かう。一歩河の浅瀬に入る二歩目にはすっかり膝までの水嵩になっているのを僕は土手から何度も少女を呼ぶ、だが止めるにも呼びかけるにも僕は少女の名前すら知らない。少女が一歩づつ河の流れを遮りながら河を進む。何歩か進んで立ち止まった少女に僕は懸命に声を振り絞り引き返すように何度も何度も叫んだ、そして少女が振り返ろうとした刹那少女の体は河に飲まれ流されて視界から消えてしまう。河には桜の花弁がクルクルと円を描きながら流れるだけで少女の姿は下流にただ伸ばされた手が空に向けられる。僕は途端に走り出し河に飛び込むとそこで目が覚めた。僕の顔は枕まで水浸しになるほどに涙に濡れていた。


 数日、泣いて過ごした。二週間が経つ前に僕はあの日帰宅してから小さな食事をする為だけの安いテーブルに乗せたままだったスマートフォンを手にした。『地名、河、女子高生』そんな単語に『事故』と加えて検索をする。程なくズラリと並んだ結果にギョッとしてスマートフォンを落としそうになった。僕はその沢山の結果の中からある一つの小さな記事を見つけた。そして予想は確信に変わった。その春先にあった少女の事故という記事に硬い表情で写る荒い写真は間違いなくあの日から毎日夢に見る少女に違いなかった。


 幾日かまた日が過ぎた。時間は容赦なく過ぎてしまい愈々明日は新しい職場へ出社しなければならない、何度も先輩からメールが来ていたそれに『大丈夫です』と返事を返して毎回スマートフォンを閉じる。明日は初出社を必ずしなければならない、二年で憔悴した僕を心配し新しい仕事を探すために奔走してくれた旧友たち、快く僕が新しい未来を歩けるために動いてくれた先輩、たくさんの人達のために僕は明日から無職を返上しなければならない。だが僕はまだ涙が止まらなかった。そして日も暮れた深夜に顔を隠すように大きなマスクをしコンビニでビールと炭酸ジュースを買って河原に向かった。

 あの日の土手に座りビールを空ける。隣には炭酸ジュースを置いておいた。

「ほら、やっぱりお兄さんは悪い人ね」

 鈴を鳴らしたような笑い声が背中から聞こえた。僕は答えずにただ泣いていた。僕が置いたジュースを手に少女は困ったような顔をした。違う、僕は少女に笑って欲しいのにと思った時ようやく僕は僕の気持ちに気付いた。少女の零れるような笑顔に僕は惹かれていたんだと。少女に笑って欲しい、そう思い何かを口にしようとするも上手く言葉を見つけられずにいると少女が先に口を開いた。

「全部、過去も未来も嫌になっちゃってふと河をこうやって見ていたらね、ちょっと渡ってやろうかなって。もし渡りきれたら何か変わる気がしたの。でも、河を渡り切れなかったから私毎日こうやって毎日私は河に入るの」

 そう言った少女がいつの間にか浅瀬に居た。僕は少女に駆け寄り止めたくて立ち上がろうとするのに、体はひとつも言うことをきかない。

「上手くいかないものね、同じ毎日の繰返しに疲れたから河に入ったのに毎日毎日河に入らなきゃならないなんて」

 少女は浅瀬から一歩二歩と足を進める、僕は少女を止めたくて声を出そうとするが体どころか声をも自由を失ってしまった。ただとめどなく涙が溢れていた。ただ涙だけが僕の体から流れていた。

「でもお兄さんが来たから今日も渡れないわ」

 少女が振り返り浅瀬を戻って僕の前まで来るとしゃがんで僕の顔を覗き込んだ、そうして冷たく冷えた少女の指が僕の涙を掬った。

「もう渡らなくていいんだよ」

 絞り出した声が漸く音を立てた。

「嫌なら辞めたって逃げたっていいんだ」

 震えそうな掠れて消えてしまいそうな情けない僕の声は少女に届いたのかわからない。けれど僕は少女にそう言わずに居れなかった。溢れる涙を何度も掬いながら少女が笑った。

「やっぱりお兄さんは悪い人だわ、決まりを守らなくていいなんて言うんだもの。でも、お兄さんがそう言うなら」

 そう区切った少女が悪戯っぽい今までとは違う笑顔を見せた、僕の心臓が激しく動いていつの間にか涙が止まっていた。そんな僕の耳元に顔を寄せた少女が僕に囁く。

「じゃあ逃げちゃおうかな」


 翌日はよく晴れていた。洗面所の鏡を何度も見ながら髪をセットする。剃り残した髭はないか、おかしな所はないか。まだ少し腫れぼったい瞼は流石に仕方がないけれど、僕の涙はようやく止まった。そして僕は真新し背広に袖を通しておろしたての革靴を慣れない手つきでやっと履くと勢いよく部屋の扉を開いてを飛び出した。眩しいくらいの朝の陽が目に痛い。

「いってきます!」

 出陣の声をあげ扉を閉めようとしたその扉が奥から動きを遮られた。

「いってらっしゃい!」

 部屋から声がして扉が優しく閉まる。そうして僕たち二人の新しい生活が始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕と少女と缶ビール 竜胆 @rindorituka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ