即興夜話

naka-motoo

さあ夜伽話を始めよう

 朝起きてそれが新しい日ならば幸福この上ないことだと思う。

 夕べの夜伽話を忘れてしまっているのだから。


 僕は祖母の夜伽話がとても好きで、特に地獄の話が面白かった。


「地獄に行くとな、鬼がまな板の上に人間を乗せてな、包丁でちゃちゃくちゃに切り刻んで刺身にするんよ」

「ははははは!」


 僕の反応が良い時には祖母は何度も何度も似たような話をしてくれた。


「閻魔大王さまはな、亡者を憎くて地獄にお落としになるんと違うんよ。閻魔帳って知っとろう?分厚~い帳面をぺら、ぺら、ぺら、と何度も何度もおめくりになってな、この人間が何かひとつでも良いことをしていないだろうか、って懸命に探してくださるのよ。でも人間、大概悪いことだらけだわなあ」


 昔話全般を祖母は色々としてくれた。

 僕が確信に至ったのはこういうことなんだ。


『全部、ほんとうのことだ』


 かさ地蔵のお話やら、龍のお話やら、鶴の恩返しのお話やら、祖母のしてくれたあらゆる夜伽話は比喩でもものの譬えでも教訓でもなく、事実そのものなんだって確信した。


 原子爆弾を本当に人間の頭上に堕としてしまうような世の中だから。


 なんでもアリなんだろうね、この世は。


「ピアノを習いたいんだけど」

「今から?」


 僕がそう両親に頼んだのは高校三年生の頃だから遅きに失したもいいところだろう。でも目的が目的だからそれでもいいと思った。


「即興演奏したいんだ」


 多分音楽を系統立てて学ぶ人たちからしたらバカ者呼ばわりされるだろう。あるいは音楽を舐めるな、冒涜するなと言われるかもしれない。


 けれども僕はピアノを、極めて原始的な楽器として弾きたいんだ。

 丸太を木の棒で打ち付ける打撃楽器のような感覚で、仮に鍵盤が何十あってその内のふたつかみっつしか僕が打撃することのできない技量しか身に付けられなかったとしても、ハンマーで弦を極限の圧力でぶん叩くような弾き方をしたいだけなんだ。


 僕はピアノの先生を自分で探した。

 場所は高校から近く、月謝は安く、ド素人で物覚えが悪い生徒にも呆れはすれど感情的に叱り飛ばしたりしないようなそういう先生を口コミで探した結果、ひとりの老先生に行き当たった。


 女性さ。


「キミはなんでこの年でいきなりピアノを弾こうと思ったの?作曲・演奏した曲をネットに上げたいから?」

「いいえ、全く違います。自分の耳と顔の肌でピアノの音の振動をビリビリと感じたいからです」

「どの曲が弾きたい?」

「え」

「もういい年だから基礎からなんていうのより弾きたい曲をいきなり練習していった方が却って効率的だと思うから。何が弾きたい?」

「・・・・・・どの曲を弾ければあらゆる応用が利きますか?」

「ラ・カンパネラ」


 無謀の極みだってことは知ってはいるのだけれども、僕と先生は挑戦した。

 そう、先生にとっても挑戦なんだ。


 先生は普段、幼稚園や小学生ぐらいの小さな子たちを主に生徒として教えていて、だからそういう子たちが高校生や大学生ぐらいに成長した時に、本人たちの自己申告でベートーヴェンやショパンの曲を指導することはあるけれども、いちから難曲を教えるという経験はほとんどないからだ。


「ねえ。ピアノ習い始めたの?」

「うん。先週からね」

「どうして」

「キミも同じこと訊くんだね」

「まさか今から音大目指すわけじゃないよね」

「たとえばどうにもならない日々をどうにかしたいとき」

「えっ」

「ギターを手にする人もいる」

「・・・・・・そうだね」

「ランニング・シューズを履いて、今すぐ自宅の玄関をスタートラインにして走り出すひともいる」

「そういうことか」

「分かってくれた?」

「うん。十分に。やっぱりわたしはキミが好き」

「それはどうも」


 ピアノが僕の生活の全てな訳じゃない。

 一応学校生活やらバイトやらそれから受験なんてものもどういうわけか『本分』みたいな感じでそれぞれの人生に割り当てられてる。


 むしろピアノはそれらから逸脱する行為だ。


「ねえ、観て観て!」


 いわゆるストリートピアノの動画だった。人口数百万人超の都市のメイン庁舎に設置されたカラフルなピアノの前にふたりの若い男女が隣同士に座り、女性が低音パートをベースラインのように、男性が高音部をメロディーラインとして連弾している。


「速っや!かっこい!」


 指がつりそうに見える。

 僕自身の鍵盤を打つ指の圧力を考えるとこのふたりはそもそも身体構造からして幼いころから錬磨してきているんだろうな、ってはっきりと思い知らされる。


 無謀か。


「大学、決めたか?」

「いいえ。まだ」

「早く決めろよ」


 担任は面倒くさそうだ。

 実際他人の人生に対して熱くアドバイスするなんてことは余程自分の人生が充実しているか投げやりになっていて相手がどうなっても構わないから無責任に夢を語ったりするかのどちらかだろう。


 まあこの担任はどちらでもないだけマシか。


 僕はホンモノのピアノを買ってもらうことはできなかった。

 バイト代で中古のシンセを買った。

 いにしえのコルグのマニュアル機だ。


「ピアノの練習になるの?それで」


 姉が僕にちょっかいをかけてくる。


「僕の部屋に居るな、って言ってるだろ」

「あ。エッチな妄想してんじゃないの?」


 姉のことは嫌いじゃないけど、姉のこれ見よがしに美人な容姿は嫌いだ。


「ねえ、アンタはどうなりたいの」

「別に。即興演奏したいだけ」

「それって誤魔化しじゃないの」


 痛い所を突かれたけど、先生のメンツのためにこう答えた。


「ラ・カンパネラを弾けたら即興にも説得力あるでしょ」

「ラ・カンパネラってそういう曲なんだ」


 たとえはものすごく矮小だけれども、例えばノーベル賞を受賞した研究者の吐く言葉は単にその事実があるだけで意味不明の説得力を持つだろう。


 大量破壊兵器を作る上でも、そういった研究者の言葉が説得力を持つだろう。


「即興の方が純粋で美しいんじゃないのか」

「アンタ・・・・・・・やっぱり何になりたいの」


 快晴の日曜日、僕は円形闘技場のような屋外公会堂にスタンドを立ててシンセをセットした。中古で買ったアンプに、ぞっ、とプラグをぶっ刺した。


 サックスやらコンガやらドラムやらを練習する人間たちに開放されている親水公園のこの場所に、今日は僕ひとりだ。


 やっぱり闘技場のスタンドのような観客席には愛を語るだけじゃなくて愛の行為をする恋人たちがまばらに何組か座っている。


 僕はラ・カンパネラを弾き始める。


 当然だけど、部分的なフレーズを弾けるのみだ。

 だから、そのロック・シンガーの真似を僕はした。


 彼は新曲を作る時、歌詞が未完の場合には、出鱈目英語のような音声を発する。


 それを、数万人の観客が集うロックフェスで披露した。


 完成した歌詞を載せた曲を僕は後で聴いたけれども、この不思議な、日本語として形になっていない、その脳を経由せずに脊髄と口腔・舌・喉・横隔膜が連動した原始の叫びが、僕の原始の魂を、ゴキン!、とハンマーで垂直に叩いた。


『いい迷惑だろうな』


 そう思いながらも僕は恋人たちの前でシンセの鍵盤をガララララララ!ドダダダダダダダ!と肘まで使って弾いた。


 ラ・カンパネラもどきの僕が瞬間瞬間に創り上げる新しい曲で。


 今生まれて、もう二度と再現できないその曲を。


 今日にも死んで地獄に行ってるかもしれないから。





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