そして魔女は死んだ
見夜沢時子
そのDM
──新規メッセージが届いています。
『藤(ふじ)さん、こんばんは。もうおはようかな?
すごいことになっちゃってますよね(笑)
早く非を認めたほうがいいですよ。ちゃんと誠実に謝れば、その方が傷が浅いと思います。私藤さんのファンだから、藤さんのためを思って言ってるんです』
◆
軽やかなドアベルの音がして、私の視界は真っ暗闇に包まれた。ハーブみたいな花の匂いと、柔らかな薄煙の匂いが嗅覚を満たす。
「いらっしゃい。おや学生さんか、珍しい」
乾いた目を何度か瞬かせると、壁沿いに濃い橙色の灯りがいくつか灯っていることに気付いた。丸い花の蕾みたいなランプの中で、円形の蝋燭が穏やかに燃えている。
私は後ろを振り返る。ドアのガラス戸がおぼろげな光を帯びるだけで、半地下だからか店内に大窓もなかった。学生鞄が肩に食い込み、手提げバッグが掌の中で軋んでいる。
こんこん、と爪か何かで木を叩く音。
「まあおいで、取って食べはしないから。そこにお座りよ。どこってここ、スツールへ」
声のする方、右側にカウンターがあった。私は恐る恐る木目の床を踏み、背もたれのないスツールに辿り着く。その頃には目が慣れていて、そのカフェのマスターが声の通り女性であることと、すらっと背が高く、柔らかそうな黒髪で、両目は紫色が混ざったような色をしていることを確かめることができた。
細い鎖の装飾品に、ファンタジー映画で見た身体をすっぽりと覆うローブ。袖は肘までたくし上げていて、いくつもの指輪の嵌まった手で丁寧にポットへとお湯を注いでいる。
絵に描いたような魔女だと思った。お伽噺の魔女がカウンターに立つ喫茶店。こんなお店が通学路から少し逸れた裏道にあるなんて、もうすぐ二年生になるのに知らなかった。
「遠隔で引き寄せるくらいしてもいいのに、そのためにスツールに車輪が付いてるだろう? あとはそう、使い魔をカウンターに上げるのはやめて頂戴ね」
間違いなくぼんやりとしていた私をマスターはちらと見て、ケトルを傍らへ置いた。
「おや。きみは魔法を使えないのか」
「えっ、あの、すみません」
「なんで謝るの」
彼女は軽くふくようにして笑った。私は慌てて首を横に振る。
「あの、私ここ普通のカフェだと……コンセプトカフェ? なんですか。どうしよう、そこまでは持ち合わせがなくって、帰ります」
「待て待て」私の言葉をマスターが遮る。「ここをそういうのと一緒にしてもらったら困る。紅茶も珈琲も安心の四百五十円だし、正真正銘の地域密着型だよ。ただし、客のほとんどは魔法使いか魔女だ。私みたいなね」
「はぁ」
「ほら、座りな」
私は言われるまま座ってしまった。『四百五十円』の部分しか聞いていなかった自覚がちょっとある。鞄二つをどさどさ床に置く。
「非魔法使いも大変だねえ。はいおしぼり。ハーブティーは飲める? 今なら当店おすすめのカモミールブレンドを同価格でご提供しよう。嫌いじゃなければだけれど」
「えと。じゃあ、それで」
私の返事より早くマスターはお湯を沸かし始めた。思わずじっくりと眺めてしまう。変わっているのは確かだけれど、彼女自身は『魔女』の装いがとても似合っている。空間作りも効果的だった。このカフェの中では制服姿の私こそが浮いているようだ。
ポットとティーセットを載せたトレイを手に、魔女(マスター)がカウンターから出てくる。行く先を目で追うと、テーブル席に誰かが座っていることに気付いた。隅の暗闇と同化していた。煤けた色のローブを着てフードを目深に被っている。タロットカードの隠者。あの図柄を不意に思い出した。
戻ってきた魔女は、そう間もなくしてできたてのハーブティーを私の前に置く。透明な薄緑色。繊細な作りのティーカップ。
私は礼を言いながらポケットを探る。けれどそこにはスマートフォンがないことを思い出し、そっと居住まいを正した。
「カモミールは心を穏やかにする。何かにお悩みのようだから、良かったら聞きたいな」
「……ひょっとして、それも代金ですか?」
「非魔法使いの悩みは我々の悩みに通ずる所があるかもしれない。大いに参考にしたい」
魔女に扮した店主の態度を表現するなら『堂々』と『飄々』だった。本業は舞台役者か何かなのかもしれない。
「もちろん、強制はしないさ。唐突な代金追加なんて犯罪だ。まあ、有り体に言えば――多分きみは泣いていたから、何かあったのかなあと魔女的に気になっただけの話だね」
言われて、私は鼻を啜った。カップを持つ手の甲に目を落とすと睫毛が一本ついている。頬はまだ熱を残していた。
「あの。お化粧室、お借りしていいですか」
「真実も嘘も口にしない鏡しかないけど、それでもよければどうぞ」
鏡は確かに寡黙だったものの、雄弁に私の姿を映し出してくれていた。地味な三つ編みの女子高生。今はたぶん、肩を突っつかれたらそのまま後ろに倒れてしまうだろう。
私がカウンターに戻ると、魔女はグラスを拭きながら口を開いた。
「本当に。今のご時世、魔法のひとつも使えないと不便で仕方ないだろう」
それがどうにも憂いを帯びた口調で、私は少し笑ってしまった。
「そうかもしれないです。そしたらテストの成績も上がるし」
「いいねえ、カンニング的な?」
「えっといえ、集中力が上がる、みたいな」
「なるほど。そんな風には見えないけど、学業不振でお悩みと。泣いてしまうほど?」
私はハーブティーを一口飲む。薄緑がかった透明のお茶は清涼で、少し薬っぽくて、蜂蜜のような甘い香りがした。
「そうですね。泣いてしまうほど」
「なら特別に魔法を掛けてあげよう」
私は思わず視線を上げる。魔女が魔法の杖をカウンターの内側から出してきた。小指くらいの細さの白い枝で、枝葉はなくすらりとしている。長さは二の腕くらいだろうか。
それを指揮者のような動作で振りながら、
「ネグロス・ゲウ・フラウ、クゥグ・エレイヴ、きみのー……あ、名前は?」
「ふ、環奏(わかな)です。桜木環奏」
「魔女リンネの名に於いて、桜木環奏の成績よ上がりたまえ-。グーテンノーン!」
ぴし、と杖の先が私を指した瞬間。
コルク栓を抜くのに似た軽い破裂音がして、杖の先から花がいくつも転がり出てきた。転がり出るという表現がきっと正しい。丸みを帯びた花がポップコーンのようにぽんぽん飛び出して、カウンターの上に落ちてくる。ひとつはハーブティーのカップの端に当たり、ソーサーの外へと転がった。
魔女は得意げな顔をして腕を組む。
「ふふん。きっとこれでキミは大丈夫。だってほら、今。頭が冴えているだろう?」
「むやみやたらに魔法を使うな、馬鹿もん」
文句を言ったのは私ではない。テーブル席に座る隠者のしわがれ声だ。
私はただ呆然としていて、柔らかなピンク色の花と魔女を見比べていた。
頭が冴えた。そう問われれば確かに、色々な問題が突然さっぱりと整理整頓されたような気もする。目の前で起きたことが全部を横へ押し遣った、とも言える。
「だって賢者様。泣いてる子には手を差し伸べる。それが善き白魔女というものでしょ」
「娘よ」
「はっ、はい」
私はぴんと背筋を伸ばして振り返る。
「ここのこと、リンネのことは決して、口外してはならんぞ。ここらの魔法使い達にとって、現代世界から断絶したこの場は最後に許された憩いの空間なのだ」
「最後に、許された……?」
「魔女狩りがあったからね」リンネさんが言った。「いや、今もだ。知ってるかい?」
「えと、はい。中世に魔女や魔法使い達が告発されて、たくさん処刑されたっていう」
「そう。そのほとんどが非魔法使いだったんだけどね。驚くことじゃないさ。今だってあるだろう、魔女狩りが。それも世界規模で」
リンネさんの言葉のどれにもすんなり頷けず、私は返答に詰まる。それを見越したように片眉を上げ、少しだけ口の端を緩めて、魔女は続けた。
「昔火刑台に上げられた非魔法使いは、誰かの恨みを買った手合いだけじゃなく、他より豊かだったり運良く商売が成功したり、つまり誰かに嫉妬された人間だった。今も根っこは同じかな。人を楽しませる才能があったり、善行に法則性や理屈がなかったり、真っ当な努力をひけらかしたりすると処されるのがトレンドのようだ。奇しくも炎上と言うらしい。それはきみ達の方が詳しいだろう」
私は瞬きと微かな頷きで同意した。
「少し話が逸れたね。中世でも本物が狩られることはあった。そして今は現代だ、あらゆる技術が進歩している。それは魔女狩りにおいても例外じゃない。つまり我々は狩られたくないのさ。分かったかな」
私は二度ほど頷いて同意した。残り少ないハーブティーはもう冷めてしまっている。
「それさえ分かってくれるならぜひ仲良くしよう、非魔法使いのお嬢さん。またおいで」
店を出て短い階段を上る。振り返る。
空の茜色に溶け込んでしまいそうな古い建物。半地下のカフェ。絡みつく植物の蔓に囲まれたその扉は、階段を上ってしまえばほとんど見えない。建物の壁面につけられた看板もまた、格子のような蔓に埋もれている。
歩き出す前に電子音がくぐもって鳴り始めた。先刻ハーブティーを撮ろうとした時のようにポケットを探りかけ、当然そこにないことを思い出し、急いで学生カバンのファスナーを開ける。教科書やペンケースなどをかき分けてスマートフォンを引っ張り出す。
『どこにいるの!』
通話を押した瞬間響いた母の声に、私は思わず音源を耳許から遠ざけた。鞄を肩にかけ直してから、帰り道を辿りながらの通話を再開する。大通りに出て商店街を抜けていく。
「ごめん。ちょっと図書館で勉強してた」
『そうなの? そうね、最近少し成績落ちてたしね……だからって携帯の電源切ることないでしょ! 心配させないでよ、もう』
もう一度謝ってから、私は液晶画面を見つめた。電源を切っていた覚えはない。
圏外だったのだろうか。だけど、地下街でも駅の中でもこの端末が圏外になったことはこれまで一度もなかった。
――「現代世界からの断絶」?
異空間?
まさか。
電話口で母が溜息をついている。もう一度謝ってから通話を切る。間もなくして先とは異なる短い着信音が鳴り始めたため、サイレントモードにしてバッグの奥に押し込めた。急ぎ足で帰途につく。
◆
「トップに返り咲いたじゃないか。よかったな桜木!」
完全な善意の声が教室の隅まで行き渡った。
ように思う。違うかもしれない。返却された先週のテストを折りたたんで胸に抱き、小走りで着席する頃には、その声は別のクラスメイトの点数について言及していた。
製図ペンのお尻で背中をつつかれる。後ろの席の佐倉山椿がぼそぼそと囁いた。
「うるさいよね、塚内。超余計なお世話」
「でもほら、ほんとに駄目なら言わないし」
「『赤点免れたな佐倉山!』は言わん方が良くない? ともかくお互い超おめでとー」
からかいへ遠慮がちに肩を縮めてみせる。
「魔法のおかげかも」
「魔法? なに、おまじないでもしてるの? 超なつい」
「ううん、えっとまあ、そんなとこ」
『決して口外してはならん』。隠者の言葉が耳に蘇り、私は反射的に誤魔化した。
成績が上がる魔法。――そんなに即効性があるのだろうか。
「まあいいや。一昨日はバイトで昨日は部活だったけど、今日は一緒に帰ろ。久々にウチ来て一緒に――」
「駅前のクレープ屋さんにしない? アイス屋さんだとちょっと寒いし」
椿は頬杖をついて私を見た。首を傾げると茶色がかった猫っ毛がさらりと目に掛かる。
「こらそこー、さくらコンビー。授業始めるぞー、漫画の話は休み時間に頼む」
私は慌てて前を向く。何かを言いかけていた椿の唇が、なんとなく昨日見たピンク色の花に似ていると思った。
市内有数の進学校に行こうと言い出したのは私じゃない。椿でもない。
ただ、母の勧めを呑んだのは私で、身軽についてきたのは椿だった。別に私のことがいきすぎた意味で好き――だとかそういう展開じゃない。調べてみたら彼女が今いる部活のOGに彼女の憧れの人がいた。それだけだ。
その椿はイートインスペースの隅に座り、ソファと壁にべたりと全身を預け、スマートフォンを硬く握り締めている。
「はー今週も最高に面白い。読んだ? 『真白の森』読んだ? あたし四回読んだ」
「まだ。面白いんだ」
「正直嫉妬する。うはは語彙力ないー」
椿は細い脚を振りながらチョコバナナクレープにかぶりつく。私は自分のスマートフォンを開き、『真白の森』が連載されているウェブコミックのアプリを開いた。
椿が隣から覗き込み、無言で時々頷きながら私のページ送りを見守ってくる。
天涯孤独の主人公。白いフードのローブ。雪道の足跡を辿って出会ったのは、真っ白な古城に住む人ならざる者。彼と主人公に隠された秘密と、城を訪れる者達の運命。恋心。
それを魅せるのは隅々まで描き込まれた繊細な線。豊かな表情、濃やかな人間味。
最後のページまで辿り着いたあと、甘い匂いのする溜息を零して椿が呟いた。
「いいよね。あたしも絶対、数年後にはこういうの描くんだ」
「いいね」
「何他人事みたいに。環奏だって描いてよ」
「私は無理だよ」
イチゴの入ったクレープをひと囓りして、アプリを閉じる。ホーム画面が表示された瞬間、私は即座に電源ボタンを押した。真っ暗になった画面に私と椿の顔が映る。
私の肩に手を置いていた椿が身を離す。
もくもくとクレープを食べ、指を舐めながら、彼女は再び口を開いた。
「一緒に漫画家になるって言ったじゃん。中学の時より沢山描こうねって。なのに環奏、高校になったら美術部にさえ入らないし。あたしだけ超絵上手くなってんの知ってる?」
「椿、勉強しないの?」
「クラスのトップってそんなに大事?」
クレープの包み紙が、椿の手の中でくしゃっとなった。
「いや大事かゴメン。環奏のママ成績に厳しいしね。昔から成績いいし、夏休みの作文で賞獲ったりさ。あたしはあれで環奏の書く話が好きになったんだけど」
「それ、関係ない……」
私のスマートフォンが通知音を鳴らす。目が眩む。何を言おうとしたのかを見失う。
「でもだからって『無理』はやめてよ。一緒にスターになろって言ったのに、気付けば走ってんのあたしだけかよ、みたいな」
私はクレープの中身を覗く。生クリームだけが残っていた。
「ごめん。がんばるね」
「そんでちょっと傷ついたとこあって。ほんと今さっき」
私は顔を上げる。そっぽを向いた椿が、大袈裟に拗ねたような口調で言った。
「SNSやってんじゃん。呟きのやつ。あたしの知らないとこで。しかも通知バッジすごいついてたの見ちゃった」
一瞬で指先から凍るような感覚を覚えた。ぴりりと二の腕まで走って、肩と背中、首を冷やしていく。
「プロの漫画家さんとか絵師さんもあれによく絵上げてる、ってか、あたしもやってるの知ってるよね、前言ったもんね。したらそんときは環奏、やってないって答えたから」
「ちが」
「そんときはやってなかったかもしれないけど、始めたなら言ってくれてもさ」
違うよ、椿。そうは思っても、何が『違う』のか私自身にも分からなかった。
椿もアカウントを持っているのを知っていたのは本当。その上で黙っていたのも本当。
なんで黙っていたのかだけが椿の知らないこと。でもそれだけはどうしても言えない。
「何十件も通知が付くくらいだもん。全然『無理』じゃないじゃん」
椿が立ち上がる。その膝が少し震えている。言葉なく見上げるだけの私をちらと見て、
「ごめん。がんばろ、お互い」
手を伸ばしたら指が制服の布地を掠めた。それきり私は何も掴めなかった。
◆
「おや、いらっしゃい。環奏ちゃんだったね。どうだい、効果が……あった? よね?」
誇らしげに凜とした魔女の声がどんどん窺い見る質感になっていく。私はスツールに身を落ち着けながら、急いで首を横に振った。
「ありました。成績、上がりました」
「え、あ、そう。ふうん」
前回と同じハーブティーブレンドを頼む。
店は変わらず薄暗い。心地よい香りが漂う。テーブル席には今日も賢者が座っている。
ポケットからスマートフォンを取り出して確かめる。画面の片隅にははっきり『圏外』と記されていた。画面ロックを解除するとホーム画面が目に飛び込んできて、私は瞬きをするように画面を閉じた。
「異界だからね。ここは」
私の心を読んだかのように魔女が言う。
「何の通知もこないだろ」
「普通に入れるのに?」
「でも今日も君以外の非魔法使いはいないだろ?
災いを退ける結界が張ってあるんだよ」
そうなのかもしれない。メニューが安くて美味しくて、静かで、そんな喫茶店なら長居したがるお客さんが沢山いると思うのに。
「通知とか知ってるんですね。魔女なのに」
「現代社会への適応くらいはするよ。ところであれから三日。願いは叶ったようだけど、全然嬉しそうじゃないね」
「そんなこと。実際、勉強ははかどってますし、今は一番、勉強がしたいくらいで」
「ふうん。じゃあ『前』の『一番』は?」
私は口を噤む。首を振る。何度も振って、
「やめちゃいました」
「いつ?」
いつからだろう。私は魔女の後ろにある棚をぼんやりと眺める。缶や瓶、グラスなどが几帳面に並んでいた。いくつかのラベルには見覚えのある絵画や見たことのない精密なイラストが印刷されている。
「……同じ夢を見てたすごい子がいて。その子には勝てないなあって」
「へえ。どうすごいの?」
「個性的でパワフルで、目標が高くて、でもその目標も簡単に達成できそうだなって思わせて。私なんかじゃとても敵わないなって」
「だからやめたんだ。その子がいるから」
すぐには頷けなかった。抵抗を感じた。
「リンネさん。こないだここに来たとき、魔女狩りの話、してくれたじゃないですか」
「うん」
「もし中世なら私もその子を、椿を、――火刑台に上げてたかもしれないなって」
カウンター内の魔女は悠然と珈琲を飲んでいる。窺い見た紫色の瞳は先を促していた。
「SNSって知ってますか、あの呟くやつ。椿も去年からやってて、沢山絵を上げて、何千もの人に支持されてるんです。世界中の人が椿の絵を『良いね』って認めてるんです」
「世界中まるごとではないだろうけどね」
「……悔しくて、だから私、だから……」
頭の中がぐるぐるしている。
悔しかった。認められたかった。椿と繋がって実の友人だと知られれば絶対に比べられる。そうじゃなくて――私自身の絵を、誰かに認めて欲しかったのだ。欲しかったのに。
「私が魔女狩りに遭ったんです。嫉妬なんかじゃない、正しく魔女狩りとして」
胸焼けがする。ぎゅうと締め付けられて、寒気を帯びて奥底から震える。
スマートフォンの画面。
アプリの通知数を知らせるバッヂは、きっと今も増え続けている。この店の外で。
きっかけはただの習作だった。
ファンアートの方が沢山の人が見てくれる。そんな話を聞いて、最初は好きな漫画の中からモチーフを選んで細々と投稿していた。
読者は比較的順調に増えてくれた。だけどある日、一枚のイラストに添付画像付きの返信がくっついた。
『これ、身体の大半がトレースですよね?』
トレースとは、既に完成された絵を下敷きに一部または全部をなぞって描き写すことだ。自分の線でも自分が考えた構図でもない、完成された絵ができあがる。もちろん自分の作品だと言い張って良いものではない。
その返信が別の絵に二回くらい続いた。
これまでぽつぽつと貰っていた好意的な感想が、灰色にくすんだようにしか見えなくなり始めた。
気分転換に一枚の漫画を描いてアップロードすると、
『某先生のネタ丸パクリ』
そんな返信がURLと共にぶら下がった。
全く見たこともない漫画だった。イラストだってそうだ。タイトルは知っていてもじっくり眺めたことさえない絵だった。
けれど、『たまたま』なんて言葉は一回で効力がなくなる。
軽率に反論してしまった。すると簡単に燃え上がった。通知音に怯え、通知をオフにするためにアプリを立ち上げることさえできなくなっていた。画面を見ることが恐ろしい。
「それは本当に『トレース』だったの?」
「違います」
「なのに君の顔は、言いがかりに怒るどころか悲しいばかりの表情をしているね」
私は魔女を見つめた。魔女は少し笑う。
「本当に君を傷つけた言葉があるはずだ。だから君はそんな顔をしてる。どうかな」
胸に突き刺さるものがある。魔女の手がその見えない杭に触れたようで、痛んだ。
「……リンネさん。絵が嫌いになる魔法って、ありませんか」
「ないよ」
魔女は軽やかに首を振った。
「好きなものを嫌いになる魔法なんてどこにもないんだ。代わりに別の魔法をかけてあげるよ。――非魔法使いは本当に、本当に大変だね」
店を出る。階段を上ると通知音が鳴った。通話着信ではない。母には図書館に行くと言ってあるし、そもそもメロディが違う。
心臓がもたない。そろそろアプリの通知を切ろう。そう決意してアイコンを押すまで、どれくらい立ち尽くしていたか分からない。
見なければいい。分かっているのに、極彩色の泥を混ぜ合わせて詰め込んだような返信タブを開く。今や私そっちのけで繰り広げられる批判と擁護。私は魔女の質問に答えなかった。その言葉は散見している。
『次もまた盗作だろ、わかる。盗作芸の藤』
"今度こそ"違うと言い切れない。
言い切れない私がここにいるから、私はもう、何も描けないのだ。
アプリの通知を切る。それでようやく、今までずっと心がざわついていたのを知った。
「環奏」
呼ぶ声に肩が震えた。振り返る。大通りの方から椿が歩いてきている。
「……やだちょっと、なんで泣いてるの」
私に差し出しかけた手を椿は一旦引っ込め、スカートのプリーツで拭く。部活帰りの指についた絵の具が深い紺色に紛れる。
「ごめんね、椿」
「なに急に」
「私、漫画なんて描けないの。ずっとずっと、小学生の頃から向いてなかった」
椿が丸い目を瞬かせる。逸らしそうになったけれど、唇を噛んで堪えた。
「そんなことないと思うんだけど。こないだも言ったじゃん、クレープ屋で。あんたが小学生の時に出して賞獲った作文、あれで」
「あれ、っは、家族に書いて貰ったの!」
今度は耐えきれなかった。逸らした先、足元のアスファルトは茜色を帯びていた。
「六年生の、……夏休み、……夏風邪、すごいこじらせて。気付いたら三十日の夜だった。原稿用紙見ても、全然何にも浮かんでこなくて。今まで読書感想文も全部先生が褒めてくれたのに、こんなぐちゃぐちゃなの恥ずかしくて出せないって泣いて!」
祖父が話の整頓に長けた人間で、それを母が小学生らしい文章に編集して、文字だけ自分で書いた。それが賞まで獲った。獲ってしまった。色んな人から褒められた。
あんなものは自分の作品じゃない。あの後ろめたさが私の心の隅に張り付いている。
「……一回きりでしょ。中学の時は――」
「椿と一緒に描いてたよ、でも、全部椿の『こういうのいいよね』って呟きを拾っただけだったよ。展開に困ると椿が『こうなるといいな』って教えてくれて、私はそのまま、……そのまま描いてただけだった」
本当に描きたいものなんて私には何もない。自分の中から全然生まれてこない。絵を描くことだけが楽しくて、そのために椿を利用したとさえ言えるかもしれない。
褒めてくれる。物語をくれる。
――違う。私は椿から盗み続けていた。
炎上は正しく魔女狩りだと思ったからこそ、私は、怒りなど覚える権利がないのだ。
「盗作しかできないんだよ。私。椿なんかと一緒に走れるわけないじゃない」
暖かい手が肩に載せられる。
「バカだなあ。あたしの『読みたい』『描きたい』『読んで貰いたい』。全部完璧に応えてくれたのに、誰が一緒に走っちゃいけないなんて決めたわけ。あたし以外の誰が」
「……椿が考えた物語でしょ。椿が描けばいいじゃない」
そうぼそぼそと呟いた瞬間、間近に覗き込まれる。鼻先が触れそうな距離で椿が凄む。
「じゃああんた、自分の描いたものを手放しに最高だって、続きを読みたーいって思えるわけ?」
「ないけど。椿は、ないの。痛っ」
「あるか。そこに、線や台詞のひとつひとつにあたしの知らないもの、あたしの言葉に対する環奏の解釈――気持ちや想像が乗るからあたしは読みたかったの。『イケメンが見たい』って言って出てきたイケメンも、『主人公の重い過去が知りたい』って言ったら出てきたエピソードも、あたしには何もかも楽しかった。……それもどっかから盗んできたんですって言われたら、さすがに考えるけど」
「ちが、違う」
「よし」
自分からぶつけてきた額を撫でながら半歩下がり、椿はくるりとその場で回った。
「何でも言うからさ。描いてよ。テストの答えと違って、環奏にしか描けないんだから。あたしさ、環奏のファンなんだから」
魔女リンネの魔法が耳に残っている。
『この店を出た後、初めて君が名を呼んだ相手は、君の心強い味方となるだろう』。
背中を押してくれた魔法は必要なかったのかもしれない。だって椿は最初から私を信じてくれていた。
下り階段の先にある扉を振り返る。椿が首を傾げて言った。
「ここさあ、入ろうとしたんだけど」
――入れなかった? 先回りした答えが過る。異界の扉。魔法使い達の憩いの場。
「どんな携帯でも圏外になるって皆言うから一度も入ってないんだよね。噂によると強烈な電波妨害装置を置いてんじゃないかって」
「え? 皆? ……妨害電波装置?」
「そ。薄暗いし怪しいしヤバそうだねって」
帰ろ、と椿が手を握る。私はもう一度扉を振り返り、少し軽くなった足で歩き始めた。
魔女リンネが魔女であるかどうかは――YESというのが、私の『解釈』だ。
了
そして魔女は死んだ 見夜沢時子 @tokko
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