ふたりはもう言い合いを続けてはいなかった。

 が、婆さんは、泣き出してしまっていた。


 それを見た長男は、今度は自分の行為の方に苛立ちを覚えた。そして台所にいるのが嫌になって、ふと松の木のある庭の方へと退いた。――




 間もなくのことである。


「なにやってんだ! じじい!」


 婆さんは、自分の子供の鬼気迫る声を聞いて、ぴたりと泣くのを止めた。そして、ただ事ではないと、急いで庭の方へと向かった。おぼつかない足取りで。……


 すると、ノコギリを持った爺さんが暴れ回っているではないか。


 我が子を殺そうとしているのだろうか。婆さんは慌てて、サンダルさえ履かずに、庭へと降りていった。が、両者に近づく前に、爺さんは自らの子供の平手を喰らってしまった。そしてそのまま、後ろに倒れた。


「大丈夫ですかお爺さん!」


 爺さんは悶えていた。


「ああ……松の木が」


 長男は呆然と松の木の前に立ち尽くすしかなかった。


 あの松の木は、静かな夜空のたもとで、妖しく浮かぶ月の光を浴びながら、その根元の方に、痛ましい切り傷をつけていた。――




 あれから時を経て、爺さんは死んでしまった。そしてまた、松の木の魂さえも、どこかへと飛んでいってしまった。


 松の木に切り傷がついてしまったことは、風流人のあいだで噂となった。すると、この町外れの家を訪れる客は、だんだんと減っていき、最後には古川家の門をくぐる者は、いなくなってしまった。


 するとこの家の長男は、また元の通りふさぎがちな性格になった。母親を口汚く罵倒したかと思えば、次にはぶったりした。が、もちろん、婆さんはそれに対して抵抗のひとつもしなかった。いや、それをするほどの気力は、婆さんには残っていなかったのである。


 間もなくして、婆さんも死んでしまった。


 親戚さえいない古川家の葬式は、長男ひとりで仕切らなければならなかった。そして、この家の処分のために、いくらかの気力を振りしぼるしかなかった。長男には、この家を維持するだけの財力や気力が、ひとつもなかったのである。――




 初夏の真っ青な昼下がり。古川家の解体は大詰めを迎えていた。風が全く吹かないものだから、作業をする者たちは、おしなべて惰性だけで働いていた。山々から乱響する蝉の声は、彼らを不快にさせるには充分すぎるものだった。


 もうあの松の木からは、蝉の声はひとつも聞こえてこない。


 バラバラになった幹と枝は、何台もの軽トラに運ばれて、どこか知らないところへ連れ去られてしまった。……

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松の木 紫鳥コウ @Smilitary

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