中
ある日曜日、婆さんは、しばらく物置になっていた二階の掃除をしていた。
爺さんの
「そういえば……お爺さんはお亡くなりになったんでしたかな?」
「いえいえ。爺さんはまだ生きていますよ」
「そうですか。それにしても……この松は涙ぐましい影を伸ばしたかと思うと、次の瞬間には、猛り狂いそうな陰を地面に描きますね」
この家の爺さんは、自分の子が憎らしくてしかたなかった。が、あれだけ愛した子供だけに、どんどん明るさを取り戻していく様子を感じ取ると、ほんの少しだけ安心することも事実であった。
二階では婆さんが、以前に自分の夫が愛用していた囲碁盤を撫でていた。布をかぶせておいたのに、ほこりがうっすらと積もっていた。対局の相手は自分自身しかいなかった。黒と白の石を、右の手で交互に打っていた夫の姿。――
二階に病床が移った爺さんを苦しめたのは、窓の向こうに見える松の木のてっぺんだった。なるほど声はほとんど聞こえなくなった。が、自分を苦しめている松の木が、左を向けば目に入ってしまうのである。
この家に来る風流人たちは、松の木に芸術的な価値を見いだしているらしい。が、風流人とはほど遠い爺さんには、いつだって、なんら特別な感情が生まれてくることはなかった。
「お爺さん」
「……」
「林檎を食べませんか。安かったものですから……買ってきたんです」
「……」
もう爺さんは、喋ることさえ
「輝雄は……どうしている」
ようやく夫の声を聞くことができて、婆さんは安心した。
「いまは……誰と話をしているのでしょうかねえ。どうも見たことがないひとだから……外から来たのでしょう。まったくいろんなひとが来て、お爺さんも困るでしょう。私も……飲み物を用意しないといけないし……」
婆さんはいつしか、少し話すだけで、息切れをしてしまうようになっていた。
「……お茶菓子を出さなければいけないしで大変ですよ。でも……もう輝男は私をぶったりしませんから。このままだれかと結婚してくれると良いんですがねえ……」
どんどん沈んでいく太陽が松の木のてっぺんと重なった時、ふたりの姿を厳めしい影が覆った。――
その日の夜、爺さんは、妻と子供の喧嘩の声で目を覚ました。
「なにが、いいひとを見つけたら、だ! 俺の人生に口出しをするんじゃねえ!」
「でも……このままじゃ、輝男はひとりぼっちで生きていかないといけないよ……それは寂しいじゃない……」
少しの間、輝男は黙ってしまったようだった。両親が死んでしまえば、自分はひとりきりこの世に残されてしまう。そして、自分には自分の人生を支えていけるような
が――ピシャッと、頬をぶつ音が鳴り響いた。
「お前たちの育て方が悪かったんだよ!」
その言葉は、爺さんにとって、地獄の門が開く音よりはっきりと耳に響いてきた。
爺さんは重苦しい身体を起こし、ふらふらと立ち上がって、ほとんど足音を立てずに、階下へと降りていった。瞳の奥に、群れからはずれた孤独な野犬のような、陰惨な輝きをそこに宿しながら。……
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