ある日曜日、婆さんは、しばらく物置になっていた二階の掃除をしていた。


 爺さんの蒲団ふとんを二階に敷こうというのである。これなら聞こえてくる話し声も小さかろう。そう考えたのである。が、この家の長男は、十分に一回は休憩を挟まなければ掃除ができない祖母を放っておいて、庭の松の木を見に来た客の接待をしているのである。


「そういえば……お爺さんはお亡くなりになったんでしたかな?」

「いえいえ。爺さんはまだ生きていますよ」


「そうですか。それにしても……この松は涙ぐましい影を伸ばしたかと思うと、次の瞬間には、猛り狂いそうな陰を地面に描きますね」


 この家の爺さんは、自分の子が憎らしくてしかたなかった。が、あれだけ愛した子供だけに、どんどん明るさを取り戻していく様子を感じ取ると、ほんの少しだけ安心することも事実であった。


 二階では婆さんが、以前に自分の夫が愛用していた囲碁盤を撫でていた。布をかぶせておいたのに、ほこりがうっすらと積もっていた。対局の相手は自分自身しかいなかった。黒と白の石を、右の手で交互に打っていた夫の姿。――




 二階に病床が移った爺さんを苦しめたのは、窓の向こうに見える松の木のてっぺんだった。なるほど声はほとんど聞こえなくなった。が、自分を苦しめている松の木が、左を向けば目に入ってしまうのである。


 この家に来る風流人たちは、松の木に芸術的な価値を見いだしているらしい。が、風流人とはほど遠い爺さんには、いつだって、なんら特別な感情が生まれてくることはなかった。


「お爺さん」

「……」


「林檎を食べませんか。安かったものですから……買ってきたんです」

「……」


 もう爺さんは、喋ることさえ億劫おっくうになっていた。どんどん弱りきっていく夫を見ていると、婆さんは、もう平凡な幸せというものは二度と帰ってこないのだと、あらためて痛感してしまうのが常だった。が、自分の子供が活気を取り戻していくことは、せめてもの救いのように思えていたのも確かであった。


「輝雄は……どうしている」


 ようやく夫の声を聞くことができて、婆さんは安心した。


「いまは……誰と話をしているのでしょうかねえ。どうも見たことがないひとだから……外から来たのでしょう。まったくいろんなひとが来て、お爺さんも困るでしょう。私も……飲み物を用意しないといけないし……」


 婆さんはいつしか、少し話すだけで、息切れをしてしまうようになっていた。


「……お茶菓子を出さなければいけないしで大変ですよ。でも……もう輝男は私をぶったりしませんから。このままだれかと結婚してくれると良いんですがねえ……」


 どんどん沈んでいく太陽が松の木のてっぺんと重なった時、ふたりの姿を厳めしい影が覆った。――




 その日の夜、爺さんは、妻と子供の喧嘩の声で目を覚ました。


「なにが、いいひとを見つけたら、だ! 俺の人生に口出しをするんじゃねえ!」

「でも……このままじゃ、輝男はひとりぼっちで生きていかないといけないよ……それは寂しいじゃない……」


 少しの間、輝男は黙ってしまったようだった。両親が死んでしまえば、自分はひとりきりこの世に残されてしまう。そして、自分には自分の人生を支えていけるようなすべはひとつもないのだから。


 が――ピシャッと、頬をぶつ音が鳴り響いた。


「お前たちの育て方が悪かったんだよ!」


 その言葉は、爺さんにとって、地獄の門が開く音よりはっきりと耳に響いてきた。


 爺さんは重苦しい身体を起こし、ふらふらと立ち上がって、ほとんど足音を立てずに、階下へと降りていった。瞳の奥に、群れからはずれた孤独な野犬のような、陰惨な輝きをそこに宿しながら。……

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