松の木

紫鳥コウ

 この町で古川家を知らない者はほとんどいない。


 町の外の者でも多少は知っている。いや、もっと限定して言うべきだろう。古川家の庭の松の木を知らない者は、風流人としては失格である。


 ことの始まりは、別の寺から移ってきた住職が古川家におきょうをあげに来たときである。町の外れにある古川家に行くのは一苦労だから、たいていの寺の者はげんなりしてしまう。のみならず、彼らはみな、風流の才能を欠いていた。


 その老体の住職は、お経を唱え終わると、かろうじて座っている古川家の爺さんにこう言った。


「この庭の松の木は、いままでに見たことのないくらい美しいですね」


 爺さんは心臓をわずらっていた。が、この家に、彼に満足な治療を施すことができるほどの金はなかった。そのため、一階の床の間に、一日中、蒲団ふとんを敷いておくしかなかった。


「美しいだけではなく、力強い。いやあ、見事です。芭蕉なら三句、五句……いや、十句くらい詠んでいたことでしょう。北斎なら、十枚は浮世絵を描いていたことでしょう」


「いくらなんでも、そんなことは……」


 言い終わらないうちに、爺さんは咳き込んでしまった。婆さんは背中をなでてあげた。が、その右手すらも、この爺さんと同じように病的な色をしていた。


「ふたり暮らしとは大変ですね……お子さんは都会にでも出ましたか」

「いえ、そんなことはないのですが……」


 古川家には長男しかいなかった。


 だからこそ、この夫婦はひとり息子を溺愛し育ててきた。


 しかしながらその長男は、幼いときからいじめられるばかりで、友達さえろくにおらず、すっかりひととひとの関係を信じられなくなってしまい、高校をおえると家にひきこもってしまった。


 それゆえに古川家は、この老人ふたりの年金と、猫の額ほどの畑でとれる農作物の出荷による少しの利益だけでやりくりをしていくしかなかった。――




 その住職は、お経を唱えに行く家のほとんどで、古川家の松の木の話をした。


 するとこの町の風流人たちは、一目でもその松の木を見ようと思い、適当に用をこしらえては、古川家の門をまたぐようになった。しまいには、「松の木を見せてもらえませんか……」と訪ねてくる始末である。


「いやあ、本当に美しい……。美しいだけではなく、神秘的で神々しい感じもしますね」


 と、褒める者があったかと思うと、


「なるほど、うわさ通りだ。力強くて活力にあふれている松だ。色もいい。ほら……こう、えん側の右と左とでは、まったく色合いが違う」


 と、感嘆かんたんする者もいた。


 毎日毎日、何人も何人も訪れる客に、婆さんだけが応対していたわけではない。この家の長男もまた、次第に客の前に現れるようになった。実際、婆さんはほとんどの日を畑仕事に費やさなければならなかった。数キロ先の自分の畑まで、毎日のように歩いて出かけていくのである。それゆえ、ほとんどは長男が客の相手をするしかなくなったのである。


 が、そのことがこの長男をだんだんと明るくさせていったのも事実であった。昔から大して気の利いたことが言えるわけでもなく、そもそも話下手だったのだが、客の目的は庭の松の木であったため、そんな技術は必要なかった。ただ定型と化した常套句じょうとうくろうするだけで足りたのである。


 日々訪れる客と多少の会話をすることで、長男はどんどん自分の社交性に関して自信を回復していった。その社交性というものは虚構に違いなかった。が、長男は溺愛されて育てられたがゆえに、虚構を虚構たらしめる理屈にうとかった。


 しかし、だんだんと長男がいきいきするにつれて、この家の爺さんのいら立ちは高まるばかりだった。


 日中ならいつ何時だって、庭の方から客の声が病床にまで聞こえてくる。中には、町づきあいから自分をのけ者にし続けてきた者もいる。


 爺さんは、前よりもどんどんやつれていった。

 このままでは、松の木のために死ぬかもしれなかった。


 それを気の毒に思った婆さんは、何か手を打つしかなかった。……

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