最終話 新たなる試練







春喜は大きな木の下で眠り、自分を氷の中に閉じ込めていた。僕たちには自然とそのわけが分かっていた。



力を封じ込めるためだ。操られないように。



だから僕たちは春喜の周りに集まって、春喜を起こしていいものかどうか話し合った。


「もしハルキ様が起きたとして、それでまた神に操られはじめたとしたら、話にならねえぜ」


ロジャーは、彼が苛立つ時の癖で、頭をガシガシと掻いていた。


「それは確かだ。彼が自分を氷づけにしたのはその理由からだろう。だとするなら、我々が彼を起こせば、よからぬことが起こる」


兵長がそう言ったことは正しいと、全員が思っただろう。


「そんな…それじゃあどうしたら…」


ロザリーナが悲しそうに春喜を見た。タカシはさっきから、春喜を起こそうと氷を手でつっついたり押したりしている。


しばらくその光景を見て頭を悩ませていた僕たちに、タカシはくるりと振り向いた。その時僕たちは気が付いた。タカシが、犬の顔をしていないことに。


「まさか…!」



「来たな、人間よ」



それはまた、神の声だった。僕は「しまった」と思った。


タカシもまた、神の傀儡であったのだ。タカシをここに連れて来るということは、ここに神を連れて来るのと同じことになる。


それじゃあ春喜がここに隠れて、力を封じた意味がなくなるかもしれないじゃないか。なんてことを。


僕がそう思っていると、タカシがにやりと笑って、神は僕にこう言う。



「私はこの少年に力を分け与えた。だからこの少年は、私に背くことが出来たのだ」


神の力を得た者だけが、神に背くことができる。そんなことは僕たちは教わってこなかったのに、自然と全員がそれを飲み込めた。


神は先を続ける。


「少年がここで眠り続ける限り、お前たちが滅びることはない。私の力はお前たちには及ばない」


「少年は、私と、お前たち人間の間を力が行き交う道に、じっと立っている。お前たちはこのまま、ここを去るが良い」



春喜は神が人々を滅ぼさないように、神と僕たちの間の道を封じた。それも、僕たちにはあっさりと理解が出来た。



でも…じゃあ僕たちはここまで、何のために来たと言うのだろう?



春喜だけ見捨てろと言うのか…!?



僕はそう思って、絶望しかけた。他の全員も同じだった。




誰も、何も言うことが出来なかった。ロザリーナは膝から崩れ落ち、泣き始めた。兵長もロジャーも、ジョンもイワンも、呆然と立って、眠っている春喜の顔を見ていた。



僕はその時、あることを考えていた。そして、理子さんの顔を思い出す。彼女は今も僕を待っているだろう。



「…神様。もう一度、僕の夢で見た場所へ、僕を連れて行ってくれませんか」



僕がそう言うと、他のみんなは僕を見て、不安そうな顔をする。僕はその時、理子さんに向かって、胸の中で「ごめんなさい」とつぶやいた。



「いいだろう」



タカシの口からその神の言葉を聴くと、僕はみんなに向かって右手をかざした。その意味を知ったロジャーが、「待て!」と叫ぶ。


「ごめん」、僕はそう言って力を使い、自分の体が遥か空へ吸い込まれるような感覚を味わった。








そこは、真っ白い神の玉座の前だった。僕は白い地面に膝を抱えて座り込んでいて、神は玉座に座り、こちらを見ていた。


その目は冷たく、また温かく、厳しくて、柔和だった。


「仲間を元の世界に送ったか」


「…はい」


神は一度頷く。



僕は、みんなと居ては話せないことを神に願うつもりだった。だから、神と二人きりになりたかったのだ。


でも、あそこにみんなを残していくのは危険だった。だから元の世界へと戻した。



これで僕は戻れなくなった。ここは神の前だ。おそらく僕はなんの力も無いのと同じだろう。



僕は神の前で立ちあがる。



「お前の望みはなんだ」



「誰も滅ぼさないことと、弟も他の人も、元に戻してやることです」



神は眉をひそめて立ち上がる。そして怒りの目で僕を見た。でも僕は、今度はそんなに怖くなかった。



「お怒りはごもっともですが、どうぞ気を鎮めて下さい。僕から提案があります」



「言ってみろ」



僕は喉に溜まる唾液を飲み込み、震え始める両手を抑えた。



「僕一人を地獄におさめることで、溜飲を下げては頂けないでしょうか」



僕がそう言うと、神は僕を見つめて目を細め、一層顔をしかめた。



「お前が代わりに罪を被るということか」



「そうです」



しばらくの沈黙の間、僕は自分を必死に立たせていた。そして神から目を離さず、見つめ続けていた。神はやがてこう言った。



「…よろしい。それほどまで言うなら、私ももう少し歩み寄ってもよい。だが、一つ約束しろ。これを拒否すれば、お前の弟の命は無いと思え」



僕は驚き、恐れ、自分の願いが聞き入れられたことが、信じられないほどに嬉しかった。



「はい。なんでしょうか」



「お前の弟の残りの寿命の分、お前の命を削る」



僕は戸惑いはしなかった。



「わかりました。ありがとうございます。弟が助かるなら、それで充分です」



神はその時初めて僕に微笑み、頷いた。



「お前はよい兄だ。では、お前たちを滅ぼす話は白紙に戻そう」



僕は嬉しかった。本当に嬉しかった。


これですべてが元に戻る。命を脅かされる生活なんか、終わるんだ。



「だが、お前と約束をした印として、私はお前の弟の体から、あるものを抜き去る。目が覚めたら、すぐに弟に会いに行くがよい」



「あるものとはなんですか?」



その時風が吹いて僕の足元が崩れ、僕は奈落の底に、一気に墜落していった。


「わあーっ!」








「わっ!」


僕は叫びながら目を覚ました。そこは暖かくて、柔らかいベッドの上だった。


周りを見回すと、見慣れた小さなテレビと、それから本棚、あとはちゃぶ台のようなテーブルがあって、テーブルの上にはジュースのペットボトルがあった。



覚えがある景色、懐かしい景色だった。



ここは元の世界で、僕が住んでいた家だ!




「春喜!」


僕が急いで部屋を飛び出すと、僕の部屋の前を通ろうとしていた母さんが現れた。


「母さん!」


僕はもう会えないと思っていたものだから、母さんが居ることに大喜びして、急いで抱き着いた。


「きゃあっ!何よ!どうしたの!?」


「なんでもない…なんでもないんだ…!」


あの世界の墓地で、母さんのお墓に抱きついていたことを思い出した。それは冷たく硬い石だけだったけど、生きて息をしている母さんの温かさが、僕は芯から有難かった。


「本当にどうしたのよ、びっくりしたじゃない!」


僕は母さんを抱きしめる腕を解き、「そうだ、春喜は?」と聞く。


「まだ寝てるわよ、六時半じゃないの」


訳が分からないまま母さんが下唇を突き出した様子も、それが母さんであることだけで、僕は嬉しかった。


「そっか!」


僕はそれから、春喜の居る部屋目指して走って行った。そして春喜の部屋のドアを開けると、春喜は自分のベッドに居て、布団に包まっていた。


それを見つけて、僕は泣きそうなほど嬉しくて、駆け寄って春喜へと身を屈める。


「春喜…」


ゆっくりと、春喜が振り向く。僕はそれを見ると、途端に喜びがしぼんでいった。



春喜の顔はとても苦しそうで、脂汗を掻いていて、春喜は「お兄ちゃん、くるしい…」とだけ言って、そのまま意識を失ったように目を閉じてしまった。



「春喜!」








元の世界に戻った春喜の体は、重い病を患っていた。心臓の病気だった。


医師は、「方法は心臓移植しかありません」と僕たちに告げた。


母さんは悲しみに暮れ、父さんはドナーを探そうと苦心した。



僕は知っていた。春喜に心臓を渡すのが誰なのか。








ある日僕は、家で泣き続ける母さんに「食べるものを買ってくるから」と言い残し、外に出た。



そろそろ来るだろうな、と、なんとなく分かっていた。だから僕はこっそり健康保険証の裏面に、心臓を移植に提供することに承諾するよう、書き込みをしてある。それは僕のポケットにいつも入っていた。



僕が進む歩道の隣には、車道がもちろんある。



ああ、そうだ。向こうから物凄いスピードでトラックが走って来るじゃないか。ちょうどこちらへ向かってる。



僕は目を閉じた。









「神様ですか?」


白い空間は、いまだに僕を置いてけぼりにするほど清浄だった。


「約束を果たす時だ。人の子よ」


僕は寝そべっていたので、起きて立ち上がる。


「ではこれから、僕は地獄へ送られるのですね」


神は眉も動かさずに、「そうだ」と言った。


「苦しかったり…痛かったりするんでしょうね」



僕のその言葉など意に介していないように、神は僕の後ろを指差した。


「船に乗れ。その船だ」



振り向くと、僕たちが居た真っ白な空間で僕の後ろに川が現れていた。


さっきまでそんなものは無かったけど、僕はそれをあまり不思議とは思わなかった。


その川岸には一艘そうの小舟があり、一つだけオールが付いていた。



「流れの無い川だ。櫂《かい》でかき分けていけ」



「わかりました」






僕は川の水をオールでかいて、水の中を進んで行く。


どこまで行けば地獄になるのかは分からないけど、ここはきっと、あの世とこの世の境の川なんだろう。


僕がそう考えていると、行く手に別の船が現れた。


その上には、とても年を取って、ぼろぼろの服を着たお爺さんが立っていた。



「そこを往く者。儂の川で何をしておる」


僕は迷わずこう言った。


「すみません。僕は地獄に行かなければいけないのです。少し通るだけですから、見逃して下さい」


「許さぬ。それに、元の岸へ帰ればお前の命は助かるぞ?なぜそうしない?」


僕はかまわずそのお爺さんの船の横を通り過ぎようとして、頭を下げた。


「僕はどうしても、地獄へ行かなければいけないのです」


「待て!」


そのお爺さんが慌てて追いかけようとするのをなんとか振り切り、僕は急いで船を走らせた。






しばらくすると、空から綺麗な女の人が二人降りてきて、僕の周りをふわふわと飛んだ。


「まあ、あなた。自ら地獄へ行くつもりなの?そんなことより私たちの宮殿へいらっしゃいよ。おもてなしするし、地獄へ行かなくて済むように神様に口添えしてあげるわ」


僕は迷ったけど、首を横に振ってまたオールに手をかけた。


「いいえ、結構です」





次に会ったのは、老婆だった。その老婆はじとっとこちらを見つめ、にまにまっと笑う。


「地獄へ行くのかえ。それより、私のところで仕事を手伝っておくれでないかね。報酬ははずむよ」


「いいえ、そういうわけにはいきません」





僕は、様々に声を掛けてくる、人なのか神なのか分からないものたちの言葉に耳を貸さないように、春喜の姿だけを思い描いていた。



助けるんだ。春喜を助けるんだ!





川の向こう岸にやっと着くと、僕は拍子抜けした。



「ここは…」



そこは、さっき神様と居た場所と、そう変わらない、真っ白な大地だった。



こんなところが地獄なのか?まだ真っ白じゃないか。それとも、ここから歩いて行かなきゃいけないのかな?



僕がそう思っていると、そこに生えていた白い木の後ろから、また神が現れた。



「あ!神様!どういうことですか?僕は道を間違ったのでしょうか?」


神はその言葉に、首を静かに振った。


「いいや、お前は正しい道を経た」


そう言われたけど、ここはどう見ても地獄には見えないし、「正しい道」というのが何なのかは、僕には分からなかった。


「自らの手で船を漕ぎ続け、誘惑にも負けずに真っ直ぐここへ来るならば、私はお前を元の世界へ返すつもりだった」


「えっ!では僕は戻れるんですか!?」


突然のことに驚いて喜び、でも僕は不安になった。


春喜の命は?人々はどうなるんだろう?


「そうだ。私はわずかな善き者のため、お前たちを生かしておくことにした。果たしてお前は、その通りであった。では、しばしの別れだ、人の子よ」


そしてまた旋風が巻き起こり、僕は叫ぶ。


「待ってください!待って…」







体が痛い…腕が重い…。僕はそのことで自分がまた意識を取り戻したのを知り、薄目を開けた。


「ああ!起きたのね!」


「お兄ちゃん!」


目の前には、泣いている母さんと、元気に僕の体にのしかかる春喜が居た。ちょっとだけ春喜が手を乗せているおなかが苦しい。でも…。


「春喜…?お前、病院に居るんじゃ…」


「同じ病院よ。まだ入院中だから」


母さんが目元の涙を拭って、嬉しそうにそう言った。僕が体を起こそうとすると、痛みは少しあったけど、歩くことも簡単に出来そうなくらいだった。


「僕、治ったんだよお兄ちゃん!だからお兄ちゃんも早く治って!」


春喜は嬉しそうにそう叫んだ。



僕は一人、考えていた。




そうか。僕が自分の力で船を漕いでまで、誘惑してくる者たちを遠ざけて、地獄へ渡ろうとしたから…。




「お兄ちゃん、痛いの?大丈夫?」



僕は泣いていた。良かった。これでみんなが本当に、元に戻ったんだ。



「痛くない、痛くないよ…嬉しいんだ…お前が助かったから…」


「何を言ってるんだ。お前だって、一カ月も意識不明だったんだぞ」


気が付くと僕の隣には父さんも居て、そう言った。


「一カ月だって…?」


「そうだ。医者も首をひねっていたけど、お前がなかなか目を覚まさないのは、傷のせいではないだろうと言ってた」


「本当に心配したのよ!ああ良かった!春喜、お兄ちゃんはもう大丈夫よ!」


「良かったお兄ちゃん!」








僕が退院する前に、春喜は無事に家に帰り、自分の退院の日、母さんに迎えに来てもらって、僕は家に帰った。



世界が元に戻った時、僕の年齢も元の18歳だった。つまり、春喜が居なくなる前に戻ったということだ。


「久しぶりに、コンビニ行ってくるよ」と言って家を出る。





何を買おうかな、とりあえずポテトチップスの新しいのが出ていないか見るか。そう考えながら、僕は街を見渡す。



今はちょうど春休みの最中で、つかの間に花たちが咲き溢れて空気は暖かく、自動車の排気ガスの匂いを、僕は何年かぶりに嗅いだ。アスファルトの敷かれた歩道の歩き心地はさほど良くも悪くもない。



元通りだった。僕がずっと帰りたかった世界が、目の前にある。




涙が滲んでくるのを堪えてコンビニに入店すると、「いらっしゃいませー」と、高校生くらいの女性店員の声が迎えてくれた。ああ、日常。



僕はポテトチップスと、炭酸飲料を三本ほど持ってレジに向かおうとした。



でも、僕の足はレジの手前で止まり、僕はその場に立ち尽くした。



「あの…お客様、どうぞー…?」



目の前には、理子さんが居た。彼女はどうやら僕のことを忘れているらしかったけど、間違いなくそれは、高校生くらいの理子さんだった。



ああ、どうしよう。僕は心臓が痛いほど鳴って足元も覚束ないまま、レジへと進む。



淡々と会計が進み、僕は思い出していた。



神に向かって「僕の命と引き換えにこの世を戻してください」と願おうと決めた時、あの世界で彼女を置き去りにしてしまうことを後悔し、自分の気持ちを諦めたことを。



でも、今は彼女が目の前に居る。まったく知らない他人に戻ってしまったけど、僕はそれでも、また理子さんに会えた。



「五百円お預かりしましたので、六円お返しいたします。ありがとうございました」



そう言って頭を下げた彼女に、僕も「ありがとうございました」と言って、ちょっと会釈をしてコンビニを出た。





「さーて…どうしよう!?」



英雄でもなんでもない僕は、新たな試練を前に、途方に暮れた。







End.

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僕の弟、ハルキを探して 桐生甘太郎 @lesucre

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