AQUARIUS

 ——円舞曲ワルツみたいに漂うの

 ——ドーナツ型の宇宙ステーション

 ——白いStar Shipあなたと銀河旅行

 ——ベルが鳴るわ

      (松田聖子「AQUARIUS」)


 冷気が下ってくる階段を上がり、事務所の自分の机にたどり着くと、すでに出社していた河上編集長が声をかけてきた。

 「再校ゲラ、昨日福田先生から返ってきてたよ。本山さんが僕の机に間違えて置いてて渡すの遅れちゃってごめんね」編集長は僕の机に置かれたレターパックを指さしながら言った。

 「あー、まだ届いてないかと思ってました。確認しますね」僕は編集長の、兵馬俑がマグリットの「ゴルコンダ」のようにあしらわれた空色のネクタイを見ながら返事をした。

 毎日退勤時に整理しているきれいに整頓された机の上にまっすぐ置かれたレターパックを手に取りながら席につき、パソコンの電源を入れた。

 パソコンを起動させている間に、机のペン立てからペーパーナイフを取り、レターパックを開封した。パソコンはPINの入力を求めていたが、ひとまず構わずにゲラを取り出した。

 ――調子が良かったので校正が思ったより早く済みました

と一筆箋が添えられたゲラは、朱字も少なく、僕は少し安心した。朱字が多かったらまた残業が増えるからだ。

 パソコンに手早くPINを入力し、メールボックスを確認すると、印刷所からのメールと著者からのメールが5件来ていた。

 ――『韓国語辞典 第2版』念校ゲラの件

 ――『韓国語入門(仮)』原稿の件

 ――Re:『韓国語入門(仮)』原稿の件

 ――『韓国語文法ドリル』校正

 ――『新訳 春香伝』原稿遅れます

 それぞれに返事を書くのに30分を費やし、やっとゲラの朱字の確認にとりかかった。昼休憩まではまだ2時間だ。



 國之語音、異乎中國、與文字不相流通。故愚民有所欲言而終不得伸其情者多矣。予爲此憫然、新制二十八字、欲使人人易習、便於日用耳。

 (わが国の音は中国のものと異なり、漢字と対応していない。だから愚民は言いたいことがあっても陳情することができない者が多い。予はこれを哀れに思い、新たに28字を制定し、人々に容易に習わせ、日々手軽に使えるようにするのである。)


 今担当している本の一つ、『ハングル学』は朝鮮半島の文字であるハングルに関する総合的研究書で、多摩外国語大学の藤原一也かずなり教授の著書だ。藤原教授とは、僕が戸山大学に通っていたときに、箱崎大学で開催されていた朝鮮語学会の定例会で知り合った。背丈は160cmほどで、色白で腹回りに少し肉のある体型で、丸メガネをかけ、少し茶色がかった黒髪の先生だ。知り合ったときは僕が19歳、先生は31歳で、ちょうど十二支がひとまわり違った。

 当時まだ藤原先生は多摩外国語大学の准教授で、学会の定例会では朝鮮語の外来語の音写、つまり海外の言葉をそのまま外来語として受け入れるときに、ハングルでどう書き表したかという研究についての発表をしていた。僕は発表と質疑応答を薄らぼんやりと聞きながら先生を見ていた。

 質疑応答が終わると藤原先生は発表で使った小さなノートパソコンを片付けて発表会場の教室をあとにした。その日の発表は藤原先生が最後で、次々と参加者が会場から立ち去っていった。僕は配布された資料の角をしっかりとそろえ、百済観音像の写真が大きく印刷されたクリアファイルに入れ、ゆっくりと立ち上がった。そのときにはもう会場に人は誰もいなかったが、廊下からかすかに参加者たちが話しているのが聞こえた。

 席を離れ、会場をあとにしようとしたところで教壇に首からぶら下げるタイプのカードホルダーがあるのに気づいた。

  多摩外国語大学 言語文化学部

  朝鮮語専修室准教授 藤原一也

 大会運営の係員に届けようとカードホルダーをつかんだそのとき、会場のドアノブが回る音が聞こえた。音のした方を見ると、さっきまで発表していた藤原先生が僕の方に向かってきていた。

 「あ、僕の教員証! いやぁ、忘れ物が多くて困っちゃうなぁ」藤原先生は恥ずかしそうに頭をかきながら僕に話しかけてきた。僕は藤原先生に教員証を手渡した。

 「えーっと、どこかの大学の学部生さんかな?」藤原先生は白いTシャツに膝下くらいの長さのベージュのズボンの僕を見ながら言った。

 「戸山大学文学部の朝鮮文学科2年生の徳益とくますです。淵川先生の勧めでお邪魔しました」僕はなで肩のせいでずり落ちかけた帆布の肩かけカバンを肩にかけなおしながら簡単に自己紹介をした。

 「戸山大か! てっきり箱崎大の学生さんかと思ったよ。僕も実は学部は戸山大出身なんだよ。いやあ、わざわざ東京から福岡まで来る熱心な後輩がいるなんて焦っちゃうなぁ」藤原先生は〝勉強熱心な学部生〟を前に目を輝かせていた。

 「出身が福岡なので帰省のついでなんですけど、淵川先生が『福岡に帰省するなら、ちょうど夏休みに朝鮮語学会の定例会が箱崎大であるから行ってみるといいよ。運営には一応話しておくから、会場で会えなくても多分大丈夫』とおっしゃったので」僕は正直に〝勉強熱心な学部生〟ではないことを自白した。

 「とはいっても先生に言われてちゃんと来てるんだから熱心だよ。僕が学部生の頃だったら多分来てないしね」藤原先生は僕の目をまっすぐ見ながら言った。

 「福岡出身ならここらへんは詳しいのかな? よかったらおいしいご飯食べられるところを紹介してくれたりすると嬉しいなぁ。今日は一人の予定だったから、よかったらご飯一緒にどうかな」先生は〝勉強熱心な学部生〟に興味津々の様子で僕をご飯に誘ってくれた。

 「出身は久留米なので、何でも知っているというわけではないですけど、何軒かは知ってますよ。僕もこの後は特に用事もないのでご一緒します」藤原先生の誘いに乗り、僕は福岡でおすすめの食事を考えた。

 「あのぉ……すいません、そろそろお時間なのでご退出願えますか?」白いシャツに真っ黒なスーツを着て「朝鮮語学会運営」と書かれた札を首から下げた、ヒョロヒョロとした男が僕たちに声をかけてきた。

 「すいません、もう出ますね」藤原先生は運営の係員に軽く会釈して「じゃあご案内をお願いしよう」と僕を促した。

 

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かんぷん 沖田 @kohejokita

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