帰っておいで
――都会の暮らしの中じゃ 疲れることもあるだろ
――そんなに遠くないんだ たまに帰っておいで
(ジッタリンジン「帰っておいで」)
九段下駅の6番出口の階段を、180センチの長身に付属した長い脚を生かして一段とばしで軽やかに上る。階段に人はまばらで、真っ直ぐ階段を上がれた。靖国通りの南側の歩道にある6番出口を上りきると、日本橋川にかかる、首都高速5号池袋線に日光を阻まれた
俎橋を渡り終え、専大前交差点の信号がちょうどよく青になったところで横断歩道の白い帯を踏んだ瞬間、ベージュのジョガーパンツの右前ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。スマートフォンを取り出そうと右手をポケットに伸ばすと、ポケットに赤いインクの染みが付いているのに気付いた。
スマートフォンを見ると、「志乃」からの着信画面が表示されていた。志乃は僕の祖母だ。つまり、猪巳という名前を付けてくれた曽祖母の娘だ。祖母もまた僕をかわいがってくれている。
「もしもし、お志乃さん?」
僕はいつも通り電話に出る。祖母を「ばあさま」と呼ぶのがなんとなく恥ずかしく、大学生になってからはずっと「お志乃さん」と呼んでいる。
「あー、もしもし、イノくん久しぶりやね、もう仕事しよると?」
祖母からの着信は久しぶりだ。そして話の出だしから悟った。大した用事はないことに。祖母の、何か要件があるときの電話には前置きも、「もしもし」もないからだ。
「別になんなかっちゃけどね、元気しとるか気になったけん。」
やっぱりだ。でも祖母のことは大好きだし、話すのも楽しい。特に要件はなくても一時間くらい電話することもしばしばだ。
「今会社行きよるとこ。こっちはまあ元気よ。そっちはどげん? 久留米はアホんごつ暑かっちゃろ?」
久留米市は九州でも有数の猛暑観測地として知られ、全国で一位をとり、全国ニュースで報道されることもしばしばだ。
「もう、っこー暑かよー、さっき東町公園の温度計ば見てきたばってん、38.5度げな!」
靖国通りの、隙間なくびっしりと立ち並んだビルが作る影の連なりに隠れて日差しを避けながら祖母と久留米の大雨や台風、東京の照り返しについて話していると岩波ホールの前の広場にたどり着き、お志乃さんとの話を終わらせ、「ならね」と電話を切った。神保町交差点に面した広場にはかなり高く上がった日の光が強く差し込み、白山通りを横断しようと信号待ちをしている人の、1.5メートル間隔くらいにまばらに立っている群れを焦がしそうなほど強く、アスファルトの上で十分に熱気を帯びた空気をゆらゆらと揺らす真夏の日差しが背中や頭を容赦なく突き刺している。スーツ屋の大きなガラス張りの自動ドアの奥には9時25分を指したアナログ時計が見えた。なんとか始業時間には間に合いそうだ。
神保町交差点の東西方向の信号が青になり、八月の陽光にじりじりと焼かれている信号待ちの人たちはアスファルトが熱せられて発する重たい油の匂いにまとわりつかれて足を取られたようにノロノロと動き始めた。岩波ホールのビルの影で信号が青になるのを待っていた僕も汗で貼り付くズボンの布地を摘んで剝がしながら歩き始める。九段下駅を出た時よりも更に高く上った太陽の、無数の針のような光線はほぼ真上からつむじに突き立てられているようで、熱で頭がくらくらする。会社に着いたら昨日冷蔵庫で冷やしておいたルイボスティーを飲もう、とぼんやりとしてきた頭の隅にある記憶のホワイトボードの右端のあたりに書き殴っておいた。
すずらん通りの銀色のゲートをくぐる。僕の会社はすずらん通りの中にある出版社だ。社屋はコンクリート造で、壁には小さな亀裂が走り、雨や排ガスで黒くシミがこびりついている。数年間灯の点されていない看板は、小虫や砂、土ぼこりで黒ずんでいる。最近僕が担当した小説の広告が貼られた自動ドアのセンサーの感知域に入ると広告ポスターが戸袋の隙間をかすり、しゃらしゃらと乾いた音を立てる。ドアが開くと、冷蔵庫を開けた時のように冷気が、入って正面の階段を伝って流れ下りてくる。冷気は僕のジョガーパンツと靴下の間の、あらわになっている足首から脛の、濃すぎず薄すぎない毛を撫でるようにそよがせ、足首を冷たい手に摑まれるように冷やした。編集長は早めに出社してクーラーをキンキンに強くかけているようだ。
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