Part 2  ⚠︎男性同士の性描写あり

 ——あれは昨夜ゆうべのあなたのセリフ

 ——強がりばかり言ってたけれど

 ——本当はとても淋しがり屋よ

   (山口百恵「プレイバックPart 2」)


 ——おばあちゃんのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんのころ、うちは、ありまはん有馬藩つかえとった、えらーいおさむらいさんやったとよ。

 ——イノくんのおなまえ名前ひよし日吉じんじゃ神社かみさまからもろうた、なまえ名前じゃけん、たいせつ大切にせやんよ。


 僕の肩に両手を回して肩甲骨の下辺を中指でなぞり、耳元で荒くて甘い吐息を漏らしているのは誰だろう。僕はなぜこの男の、がっしりとした筋肉にうっすらと脂肪をまとった尻を両手で摑むように揉んでいるのだろうか。

 「ノミくん……あぁ……そこ……」

 男は僕のことを「ノミくん」と呼ぶ。Twitterでのハンドルネームだ。ということは、この男は僕のフォロワーだろう。肩に顎を乗せて吐息の合間に僕の名前を呼ぶ男の顔は見えない。


 僕の名前は「猪巳いのみ」だ。曽祖母が付けてくれたこの名前は、曽祖母の家のすぐ近くにある久留米宗社日吉神社の主祭神、大山咋命おおやまくいのみことの「おおやまくこと」を頂いたものだと子どもの時に曽祖母から聞かされた。たしか小学1年生くらいの頃、曽祖母が、寝付きが悪くいつまでも眠らない僕を寝かしつける時に。曽祖母は僕をイノくん、イノくんといつもかわいがってくれていて、おばあちゃんっ子として育ったが、5年前に亡くなった。98歳、大動脈瘤破裂での大往生だった。

 Twitterのハンドルネームを考える時にも曽祖母の言葉が響いていた。登録する時は「イノ」にしようか悩んでいたが、なんとなく、曽祖母以外に「イノ」と呼ばれるのが嫌だったのと、曽祖母に「大切にしろ」と言われた名前だから猪巳という名前の一部は残したかったから、名前から「イ」を落として「ノミ」と名乗ることにした。のみと同音なのにはその時は気づかなかった。


 両脚を前に投げ出して、糊がかかりすぎて肌に触れるたびに肌の微細な凹凸に引っかかるようなリネンが掛けられた、少し身体の重心が動くだけでスプリングがパチンパチンと音を立てるへたり気味のベッドの上に座る僕の脚の上に跨り、モノのちょうど上あたりに尻を擦り付けながら座って抱きついている男は、僕の肩甲骨を下から撫で上げながら腕を解いた。お互いの左頰をかすめるように男の顔が僕の正面に来て、頰を赤く染め、恍惚に目尻を頰の方へ引っ張られ、目が閉じてしまっている、欲情に支配された表情が見えた。僕はこの男を知っている。いや、知っているどころではない。この男、いや、こいつは、3年前に僕に絶え間ない精神への呵責を加え続け、無間地獄のような苦しみを与えた男。僕があえて「元彼」とは呼ばない男だ。こんな奴は「あの男」とか「あいつ」なんて呼ぶのも嫌だった。人と見なしたくもない。これまで会った人の中でいちばん記憶から消し去りたい男だ。

 顔を見て、この男の正体に気づいた瞬間に心臓が大きく膨らみ、その勢いで締め付けられるように強く収縮し、身体の全ての産毛が逆立つような感覚が心臓のあたりから全身に、海の真ん中で地震が発生して津波が四周に広がっていくように伝わった。寒い。天井埋め込みの空調機からは乾いた温風が、うなじに当たり、さっきまで男の指になぞられていた肩甲骨の縁を伝って腰のあたりまで達しているのに寒い。何か不可思議な力で心臓を凍らされて、その冷気が動脈や毛細血管を伝って全身に広がっていくような寒さだ。

 思い返せば気づける瞬間はいくらでもあった。荒く甘い吐息に混じって聞こえた声、皮膚の上でフィギュアスケートでもするように滑らかに指を滑らせるような身体への触れ方、安いボディソープとシャンプーの匂いに混じった汗の匂い。僕は快感に溺れてこの男を受け入れていたのだろうか。それはないだろう。断じてない。改めて考えてみれば、さっきの行為に、僕に快感などあっただろうか。男はただ僕に跨って甘い声を上げ、僕は、一般的に人の身体の一部を握るのに適度と思われる力よりやや強い力で、男の尻の薄い脂肪の層の上から、大臀筋の流れに指を沿わせて規則的なリズムに不規則な動きを加えて揉んでいただけだ。そこに快感はなかった。ただの作業だ。


 ――まもなく、九段下です。足元にご注意ください。出口は左側です。Arriving at Kudanshita, T07.


 イヤホンと耳の微妙な隙間から車内アナウンスが聞こえてきた。高円寺から中央線に乗り、中野で東西線の西船橋行き始発列車に乗り換え、九段下に向かう。職場は神保町だが、九段下で東西線から半蔵門線に乗り換えて一駅進むだけなら九段下から神保町まで歩いても時間はさして変わらない。しかも、編集者の僕は運動不足気味だ。寝不足からか東西線に乗り換えて、座席に座った時に開いた、張愛玲の「傾城けいじょうの恋」の「范家の人々は彼をかたきのように思っており、このため彼は……」で始まる頁を開いたまま寝ていた。昨日は23時頃まで残業して担当している小説のゲラの校閲をしていからだ。時計は9時15分を指し、ラッシュのピークを過ぎた東西線は少し空き始めている。


 ――九段下、九段下です。半蔵門線、都営新宿線はお乗り換えです。


 夥しい数の乗客の乗り降りのために大きく、1800ミリに作られたドアがサイン音とともに一斉に開く。僕ははっとして慌てて『傾城の恋』を閉じ、去年妹に誕生日のプレゼントにもらったベージュ地に黒いポケットの付いた、イタリア製の肩掛け鞄のジッパーを開きながら座席を立ち、右手に持っている『傾城の恋』を鞄に押し込みながら、通路に立っている、フランス語の単語帳片手にぶつぶつと何かを呟いている大学生風のすらりと背の高い男やスマートフォンの画面を見ながらうっすらと笑みを浮かべている、茶髪を軽くアイロンで巻いた大学生風の女、なにやらせわしく、社用携帯だろうか、ガラケーで文字を入力している小柄な営業風の中年の男を「すいません」と小さく声を掛けながら押し退けて扉に向かう。爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」をアレンジした発車メロディが鳴り始めた。乗り込もうとする乗客たちを表情で退かせ、ホームに降り立った。少し早歩きで行けば9時半の始業時間には間に合いそうだ。定期入れを右の尻ポケットから取り出しながら改札に向かう。列車が駅を出発し、車体が空気を吸い取るように線路方向に強い風が吹いた。

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