かんぷん
沖田
プレイバック
——あれは真夏の出来事でした
——今から話すけれど
——もらい泣きなどしないでくださいね
(山口百恵「プレイバックPart 1」)
庭の松はうっすらと雪をかぶり、細い月の光を受けて、刺すような夜の冷たい空気の中に浮かんでいる。梅の木の方からは細い枝にかろうじて乗っかっていた雪が、地べたに降り積もったふかふかの新雪の上に落ち、ふぁさっと軽い音を立てた。
僕はここがどこだかわからない。多分僕が実際には来たことのない家、日本式の古い屋敷だ。風の抜け方からしてきっと広い部屋だ。三十畳くらいはあるだろうか。来たことがあったとしても、少なくとも今の記憶にはない。今、「今の記憶には」とわざわざ言ったのには理由がある。夢ではよく来る屋敷だからだ。そして僕は次の展開を知っている。そうだ。両手に握られた、ずっしりと重みのある、細い糸がぎっちりと巻かれた、指の曲がり方から小判型の断面になると思われる棒。長さは1.5メートルくらい。手の震えに少し遅れて応えるカチャカチャという金属音。僕が握っているのは日本刀かもしれない。そう思って縁側の方まで、震えで言うことを聞かない脚を少し引きずるように、すり足のように、張り替えたばかりなのか、いぐさの匂いを放つ畳をパリパリと音を立てて歩く。ほら、そうだ。雪明かりで見えてくるのはべっとりと血の付いた、赤く鈍く光る刀身。ここで僕は気付く。新しい畳の匂いより強い匂い。刀の
突如耳元で鳴り響くマリンバの音。東向きの、カーテンが半開きの窓からの朝日。クーラーが切れ、蒸し暑い、八畳ほどの広さのフローリング敷ワンルームの、ヤニで黄ばんだ、元は真っ白だったクリーム色の天井。僕はわかっていた。全て夢だと。雪明かりに浮かぶ松の木も、雪が柔らかく積もった庭も、しんと静まりかえった畳敷の広間も、血に塗れた日本刀も、手にべっとりとまとわりついていた血も。
アラームを止め、スマートフォンを摑んだままベッドの中で両手を、耳の横をゆっくり通過させながらゆっくりと伸ばし、バンザイのような恰好の伸びをした。夢の中での、口に広がった血の味は少しずつやわらぎ、ベッドから抜け出た頃には消えてしまった。クーラーをつけ、スマートフォンでLINEを確認しながら洗面所に向かう。洗面所といっても浴室にある、小さなもので、独立はしていない。
大学生の頃から住み続けている、中央線高円寺駅から徒歩10分、家賃7万円のアパートは大学まで電車で4駅で、就職した会社までは 7駅と乗り換えして1駅だ。そこそこ便利な立地で、そこだけは気に入っている。手狭な間取りをなんとかしたいところだ。
蛇口のハンドルを赤い印の方にひねり、お湯が出るまでの冷水で口をゆすぐ。カランからゆらゆらと湯気が出てくると、ハンドルを少し青い方にひねり、ぬるま湯にする。石鹼置きにちょこんと乗ったちびた石鹼で顔を洗い、出しっぱなしのお湯で泡を流す。部屋のクーラーから涼しい風が流れてくる。浴室の外の洗濯機にフックで掛かっているタオルを、足の指で器用に摑んで手に取り、顔を拭く。しっとりと濡れた、「阪本クリーニング」と藍色の字がプリントされたゴワゴワとした白いタオルを洗濯機に放り込み、部屋のB4ほどのサイズのテレビをつける。NHKの朝のニュースがパっと映る。
――福岡県久留米市田主丸町の民家で男性が血を流して倒れていると119番通報を受け、男性は病院に搬送されましたが死亡が確認されました。男性は久留米市田主丸町に住む公務員、
僕は「血」という言葉を聞いて、背中を一滴の汗がつたうのを感じた。うっすらと筋をのぞかせる広背筋の間の溝を流れた汗は腰のあたりをくすぐり、背筋が凍るような気持ちと同時に、数か月誰にも触れられていない僕の身体は不意に反応し、頰が紅潮するのを感じた。
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