第5話 眼に勝る目

 古代のアルの亡霊の危機から町を救いしディリアは、遍歴なる人生という川の流れのままに町を後にした。

 腰に携える剣の刃は聖剣と言わせしめるほどの逸品。神と崇められ、人であるアスロスを導いたルヴァの技によって織り出されるこの業物は血統紋剣けっとうもんけんと云われ、王の宝剣にもなるもの。事実、多くの神とアスロスの混血であるアルの王が血統紋剣を家宝とし、また、己が血脈の正統さを太陽の如ししらしめるために誇示した。が、ディリアの聖剣は樫を削り出した質素な柄に、馬革の丈夫な鞘という華やかとは無縁の代物で、己の役目を弁えている朴訥な兵士を体現するが如し代物であった。

 その聖剣を携えるディリアもまた、擦れた毛織の外套にぱっとしないつばの広い帽子と、ただの旅人と思わせる装い。しかし、剣の腕は一流――アルの亡霊の繰り出す変則極まる剣技を牽制せしめるほど。それだけでなく、かつてはスバニア騎士国のエスという特別な地位に就いていた逸材であった。

 地位を捨てて己が騎士道に生きる過程で町を救ったが、その事実を知る者はただ二人。町を愛しながらも己の心の救済のために命を賭けた青年ガリエルと、ハルと名乗るネブリーナの不思議な吟遊詩人のみだった。報酬を払うはずの青年ガリエルはお世辞にも裕福とは言えない。寧ろ、死を覚悟して依頼をしてきたのだから、依頼の危険に見合う対価を払えたはずもない。それなのにディリアは彼の信念のために剣を振るった。結果、町を出たディリアの懐は冬の風を掴めずにいる枝のように軽い。

 雪解け間近の山の麓にある町は、いまだ身を切る寒さの衣を纏っている。もう少し町に居座ってもよかったが、懐が寒いまま町を出ることにした。昼夜問わず壁や窓の間を出入りする同居人に嫌気がさしたというのがひとつ。こいつは夜に窓をガタガタと言わせるだけでなく、人を怖がらせるような音を強弱つけて奏でるのだ。ときには下の部屋の住民の放屁の音を伴ってくることもある。つまるところ、宿屋に泊まっているのに隙間風を浴びせられるのにうんざりしていたのだ。それに、春間近に出れば北の山脈<世界の壁>の雪解け水によって濁流と化す川を渡れない。しかたがなく、ディリアは雪の外套を見せびらかす風を共に街道を歩いている。

 目的地はない。ただ己の信念である騎士道に殉じて生きることが目的であり、足を踏み出す方向など教えてはくれないのだ。剣の力で困っている人がいればその者の元へ向かっただろう。だが、この町の問題は片付けてしまっていた。剣を抜く信念――人を助ける己が身を護る剣――の出番もない秩序あるこの町に、ディリアの居場所はもはやなかった。

 しかし、南下することだけは決まっていた。北には故郷スバニア騎士国があるが、戻ることは叶わないだろうし、帰る気もなかった。もっとも、エスという階級にいながらその責務を放棄した逃亡者に、神ハウデンファールが課した贖罪を果たすことに敬虔なスバニア騎士国が受け入れるわけもない。故郷にとってディリアは面汚しのなにものでもなく、ディリアもそれを百も承知していた。そんな場所が帰るべき故郷にはなり得ない。ゆえに、南を目指した。

 南は北よりも多くのものに恵まれている。国、人、森、気候、生活水準、争い、すべてが肥沃であった。

 この肥沃な大地は神話にも息づいており、かつて、光神こうしん闇神あんしんが争った真の理由がこの大地をめぐってのものだったと論する学者が五万といる。論文として有名な学術院の教授もこれを支持することもあったが、そのどれも、神聖さを失いたくない五神教や神導しんどう教といったルヴァを神と崇める者の必死の弾圧によって耳にすることはほとんどない。光神が人のために闇神を退けたとしないのであれば、光神の子孫である王族たちは、農地を得るために狼を追い払った程度の権威しかもたなくなる。

 それでも、十年も経つとこの説が先触れの狂った声音になって人々の前に蘇り、光神であるルヴァと人間であるアスロスの混血アル——すなわち王族の権威を揺るがさんとする。先触れ復活の多くは北で見られる。貧しい北の者の心に妬みの炎を灯す南の暮らしの噂風が、妬みの炎の同志とでも言うかのように先触れを旗印として巻き上がるのだ。北で実る果実よりも豊かな芳醇を見目に宿す女達。旨味の権化と化した家畜。飢えから解放された国は秘術を用いて生活設備を張り巡らし、一層豊かな暮らしを享受し、繁栄させている。そんな噂が、南からやってくる商人の口々から溢れ出ては、北の地の酒場で妬みの炎を灯していく。

 南へと軍事的な遠征で一度だけ出向いたことのあるディリアは、南にも凶暴な霊獣の棲まう霊樹の森があることぐらいしか知らず、この噂を確かめてみたいとも思っていた。だから、街道を南下している途中で幌馬車に追いつかれ、護衛として運賃はただにするから乗って行かないかと誘われた時は、久しぶりに笑みを見せた。

 ディリアを南まで乗せていくことになった商人エテュミアは、相乗りの相手を御者席の隣に迎え、幾度となく掛けてきた問いを手綱を握りながら問うた。

「寒さだけが取り柄のこことはおさらばってな。南に行くのは、あんた初めてか?」

 ディリアは邪魔にならないように剣を胸に抱えながら座ると、前を見ながら答えた。

「前に一度だけ」

 幌馬車の持ち主は首をかしげた。

「よくわからんな。そのとき南に残っちまえばよかったってのに。なんで北なんかに戻ってきたんだ?」

「仕事だ」

 エテュミアは納得いかないというように洟をすすり、手綱を握り直した。

「貴方もそうであろう。仕事で北まできて、南に帰る。わたしもそうだ。生業は違えど、よくあることだ」

 エテュミアは、納得したのか、しっかりと頷いた。

 町を孤立させていた遺跡の問題が解消されたからといって、真冬に山に入り込むものは少ない。しかし、商人エテュミアは殊勝にも真冬の山に入り込んで、霊樹の森付近に生える霊力豊かな薬草や、小型の霊獣が隠した木の実を集めていた。その護衛役としてディリアは冬を過ごし、エテュミアが一番に町を出る商人だと知って世話になったのだった。これも、南への用心棒としてだったが。

 澄んだ西陽が山の稜線にかかり、街道に寒さの帳が落ちると、二人は街道の脇で火を熾し暖をとりつつ鶏肉と香草の煮込みを味わった。冬の間にピンツァという木の実から取れる油に漬けておいた鶏の胸肉は柔らかく、熱が十分に通っても柔らかかった。香草の香りは舌の上で踊り、木の実とは思えないピンツァの柔らかい旨味が喉の奥で転がった。

「あぁ、ピンツァは美味いな。木の実とは思えないほどコクがある。つまみにしても最高だし、油で揚げて塩をちょいとかけるだけでも最高だ」

「まことに。ピンツァはルスに富んだ森に生息する。真冬の氷土月ひょうどつきに実をつけるこの木の実は油分と香りに富む。ピンツァの木に咲く花と果実は、この香りで小動物を誘うのだ。ピンツァの果実を食べた動物は、なぜか果実を実らせたそのピンツァの木から離れなくなる。そうして、小動物はその木の麓で一生を終える。ピンツァの木の麓の土は肥え、ピンツァの木は豊かな果実を実らせる。それを繰り返し成長した樹の実の大きさは変わらないが、やがて木の実とは思えないほど豊かな旨味を宿す種を落とす。そうして、小動物が……と生命の流れが続く」

 男は驚いて匙の手を止めた。

「ピンツァの木の実にどんな値打ちがあるかは知ってるつもりだが、あんたはまるで学者だな」

「森で過ごすことが多かったからだ。ピンツァの木は普通の樹とは違う。しかし、わたしが伝えたいことはそれではない。よいか、決して霊樹の森の影響を受けたものを生で食してはならない。このように、湯か火で熱を加えねばならない。なぜなら――」

「――なぜなら、グズリになっちまう。だろ?」

 エテュミアはディリアの言葉を引き継いで大笑いした。しかし、酷く真面目な視線をよこすディリアを見て、咳払いをして腕をさすった。

「まったく、賑やかな旅になりそうだ」

 腕を掻きながら意味もなく森の中に目を逸らしたエテュミアに、ディリアは手を差し出した。エテュミアはそれの意味に気がつくと器をディリアに渡した。湯気が立つ煮汁が器に装われていく。

「事実なのだ。グズリは霊獣ではない。霊獣の森に棲まい、人を襲う獣。悪魔、妖魔、色々な名で呼ばれるそれらは、元は人なのだ。あれは狡猾で殺しを楽しむ。知識だけでなく智恵をもつ。剣の腕に自信があっても、神秘や魔法の類が使えぬのならば、立ち向かうことはするな。逃げろ」

「だとしてもよ、俺にはあんたがいる。そうだろ? あんたがついてきてくれるところまでは、ひとまずは大船に乗った気分でいるとするよ」

 ディリアはエテュミアに器を渡しながら背後の荷台に目をやった。

「あの棺も商品の一つか」

 エテュミアは言葉を探すように声を伸ばすと首を振った。

「そうなんだが、妙な話さ。冬に死んじまった死体を故郷に運んでほしいって依頼だったんだ。だけどな、この死体が葬儀屋の話じゃ……」

 エテュミアはそう言って言葉を切ると、器の中に目を落として具を匙で弄った。そして、棺にでも聞かれたくないのか声を落とした。

「中に入ってんのがよ、依頼人なんだ」

「なぜわかる。中を見たのか?」

 エテュミアは首を引いてかぶりを振った。

「まさか! そうじゃない、葬儀屋に聞いたんだよ。葬儀屋も心底不思議がってた。棺を買いに来た奴をその手で棺に納めたんだからな。なんでも、遺書にその棺に入れてくれって書いてあったらしい。しかも、俺はその依頼人に棺をクリマーレまで運んでくれって依頼されてる。前金でな」

 ディリアは無意識に顎先を撫でると喉の奥を鳴らした。

「クリマーレ地方まで行くということか」

「いや、そこじゃないだろ。俺の話を聞いてたのかあんたは」

「聞いていた。依頼人が棺をクリマーレまで運ぶように依頼した後に死に、自らが買った棺に入った。そうであろう」

「ん、まぁ、そういうこったな」エテュミアは思い立ったが吉日と言わんばかりに腰を上げると手をはたいた。

「なんだか拍子抜けしちまった。なんでびびってんだろうか」

 そう言うとエテュミアは荷台へと歩み寄り、棺の取手をむんずと掴み荷台から半分だけ引き出すと、ディリアを振り返った。

「中をあらためよう」

「なにを馬鹿なことを」

 しかし、エテュミアは躊躇することなく焚き火から火かき棒を取り出すと、棺の蓋の間に差し込もうとした。

「貝みたいにぴったりだ。こりゃあ、糊かなんかでくっつけてでもあるのか? 釘で止められているわけでもないみたいだ。入らねぇな、傷すらつきやしない」

 ディリアは男から火かき棒を取り上げると、諫めるように眉を寄せた。エテュミアはディリアの視線に肩をすくめて見せると取り繕うように視線を焚き火に向けた。

「いやまぁ、これから長いこと南へ下るのに得体の知れないもんと一緒には居たくないだろうに」

 エテュミアの言葉に取り合うつもりもないディリアはしかし、棺に目と止めた。焚き火の揺れる僅かな明かりに曝されて見える装飾に。

 この装飾は装飾ではないことに気づいたディリアは眉を顰めた。流線を組み合わせた川の流れを描いたようなそれは秘紋。魔法を顕現させる形式ばった魔紋とは違い個性が見て取れる自由なそれは神秘を顕現させるための紋様――つまり秘紋であった。

 秘紋は神であるルヴァが物に刻み神秘の効力を得るために施すものであり、人ではできぬ。人であるアスロスはそれゆえにルヴァを神と崇めたのだから。神秘を感じて扱える人と神の混血であるアルですら、ルヴァが遺した秘紋を流用するに過ぎず、生み出すことはできない。だからこそ、国は国宝と定めて厳重に保管、使用して国力の要としている。それぞれが国特有の秘術を有している。ディリアの故郷スバニア騎士国では、神ハウデンファールから授かりし秘紋がある。それは、騎士と契りを交わした聖剣歌の乙女を剣に変えて、契りを交わした騎士に超人的な力を授けるというもの。それがあるために、スバニア騎士国は他国の戦争の仲介役を千年以上も続けている。世界の剣として。

 ならば、特別の意味そのものである神秘を顕現させるための秘紋が、ただの棺に施されているとなれば、これはただの棺ではない。

 ディリアはその考えをエテュミアに話すと、商人は手のひらをかえしたかのように目に炎の揺らめきを輝かせた。

「なんだって? ってことはこれは相当な値打ちもんだな。中の死体は王族か? あの町にそんな大物がいたなんて聞いたこともない。いや、だが待てよ」

 商人エテュミアは首を捻って夜空を見上げた。星々の中に己の記憶でも閉じ込めているのか、一つの星に目を止めて眉を弾けさせた。

「ありえるな! 依頼人はひどく青っちろかったが、眉目秀麗でな。黙っていたら男か女かわからない。それに、ずいぶんとおかしな喋り方をしてたもんだ。本でも読んだことがあるが、大抵、アルの王族ってのはそう描かれるもんだ。ありゃ事実なんだな。あぁ、そうだ、あいつはきっと王族なんだ」

 エテュミアはひとりで納得し続けて太ももを叩くと、舌打ちして考えるように黙り込んだ。焚き火の元に戻り、鍋底を匙で擦りながら器に汁を装いぶつぶつと言っている。

「これならもっとたんまりもらっておけばよかったな。あぁ、ついてねぇ」

 ディリアはエテュミアの対面に座るも、考えるような眼差しを棺に向けていた。その表情からなにを見てとったのか、エテュミアは狐のような笑みを火の明かりに映えさせると、瓶の中で揺れる琥珀色の酒のように滑らかに言う。

「なに考えてるか、わかるぞ。それをするなら、もっとでかい町についてからだ」

 ディリアは引き戻されたかのように振り返り、目を顰めた。

「なにをすると?」

「おいおい、とぼける必要はない。旅の仲間だろう? いいか、大事なのは中身だ。外側はただの箱だ。中身が入りゃなんだっていい。そうだろう?」

 ディリアは焚き火の火を消しそうなほどに重く息を吐いた。

「ピンツァの実は北の地の特産の一つで高く売れると聞く。わざわざ盗賊がのさばる南へ行かずとも、マッケロ川を東に行くだけで辿り着くプルッケルでもよい値で捌けるであろう。プルッケルでは料理も芸術に類するという。芸術の昇華に金を惜しまないプルッケルは、その材料にも相当なこだわりがあるのだ。それを知らぬ貴公ではあるまい。なのに、旅の危険を冒してまで南に行くというのだから、実に商魂逞しい。しかし、死者の安らぎの繭を剥がしてまで金を得ようとするのは、外道にほかならん」

 エテュミアの笑みはとうに消え、焚き火の明かりすら呑み込むように狡猾な影を纏っている。

「商売は情じゃないんだよ剣士様。生きるには金がいる。生きるために商人やってるんだ」

「生きるために、か。それが貴公の信念」

 ディリアは腕を組んで、エテュミア視線を受けずに明暗に揺らぐ森に顔を向ける。

「ほぉ。あんたは人間の命を斬り捨てて食い繋ぐに値する崇高な信念があるんだろうな。おっと、そんな顔するな。もうやめとこうや。生き方を説教するほどお互い偉くもなければ善人じゃないはずだ。俺は商人、あんたは剣士、すむ世界が違うんだ」

「さもありなん。わたしは貴公を護衛し、貴公はわたしを運ぶ。取引通りにするとしよう。しかし、覚えておいてくれ。貴公が金を儲けるために誰かの命を奪うとき、その奪われる者に抗う力がなければ、わたしは喜んでその者の剣となることを」

 商人は今までて一番愉快そうな笑みを口に含んだ。

「あぁ、そうしよう。だけどな剣士様よ、しっかりと覚えててくれよ。あんたは護衛だ。俺はあんたのその腰にぶら下げたもんを信じて手綱を握る他ない、文字通り暴力に争う力をもたない者なんでね」

 エテュミアは少し肩をすぼめて片目をつむったが、ディリアはそれを見なかった。


 商人の幌馬車はディリアの故郷であるスバニア騎士国の西マッケロ領の最南端にいた。満月を二回と遡ること雪土月ひょうどつきに、ディリアが町を救うために遺跡へと赴くに使ったのもこの街道だった。商人の情報の仕入れのうまさは密輸業者の手腕のそれ。商人は誰もいない街道をゆっくりと進むなかで、ずっと暖めてきたご馳走の包みを開くように、声を落としてディリアに囁いた。

「あんたらが町を救ったって聞いてるぞ。ここらの遺跡だったんだろう? 郷士が金をたらふくコンティーレに積んだが、結局裏切られてすべて取られたって話も知ってる。そのあと、あんたと数人が遺跡に向かって問題を解決した。剣を持つ者の解決方法はひとつ、そして解決した問題はなんだったんだろうな」

 商人エテュミアは視線を街道の先に向けているディリアに、自分の首に手を横に滑らせて舌を出して見せた。戯けるように笑うとディリアの腕をつつき、ふたたび、こんどは酒場の給仕を目で舐める獣のように、

「それで、いくら儲けたんだ?」

 これには石といい勝負の堅物ディリアも不快な色を目に湛えずにはいられなかった。その異臭を放つ汚物に向けた剣のようなディリアの視線に、エテュミアは一瞬空を見上げて慌てて尻ひとつぶん離れた。

「怒るなよ。誰だってわかってるんだ。郷士が死んでからも、あの遺跡の噂のせいで街道は封鎖されたまま。商人の間じゃあの町はもう終わったって話にもなってて、挑戦的な大馬鹿者はことごとく死に抱かれてった。ってことは、噂が耐えない間は遺跡になんかあるってことだろ? 俺たちは馬鹿じゃない。あの余所者の<紳士なる傭兵>ことコンティーレがもともと仕組んでたってことぐらいわかる。んで、あいつらの拠点が遺跡ってことだろう。そうなりゃ、郷士の町長から預かった大金は裏切り者のコンティーレが持ってるってわけだ。つまり、金はずっと遺跡にあった。そんで、腕が立ちそうな剣士がお忍びで遺跡に出向いて問題を解決した。しかし、金はどこに?」

 そう言って、どこに隠してあるのか探るかのように商人はディリアの装いを一瞥する。

「そういうことか」

 ディリアは、乾いた笑いを己がうちに漂わすほかできず、言葉を失い微笑した。

 あの遺跡調査に赴いたは、青年ガリエルの町を救いたいという強い想いに感服したからだった。ガリエルに命さえ投げ出させる心の活力はまた別のものであったことが最後にわかったが、ひとりの青年の正義の信念から生まれた行いが捻じ曲げられて真実だと語られている。

 己の心の闇から立ち上がり、いまも町の復興に燃えているであろうガリエルにわずかな同情を覚えたディリアは、怒りも相まって遺跡調査に赴いた時のことを、幌馬車の車輪が地面を転がるかのように淡々と語りはじめた。

 人ならざる霊樹の森まではエテュミアも信じているようだった。しかし、翡翠の城が現れ千段の階段が剣となり風のように三人を襲い、謎めいたネブリーナの吟遊詩人が硝子の風と鈴の合わさったかのような歌声の神秘によって大地を持ち上げ階段を創り上げたこと、城の中で禍々しい光の影の煙を纏う骸骨剣士と渡り合う話を聴き終えると、エテュミアは焦げたパンケーキでも食べたかのような顔をした。

「あぁ、なんて描写だ。帽子もない吟遊詩人のほうがまだうまく語るだろうよ。まず、あんたは詩人にはなれねぇな。それに、そんなことがあるわけないだろう。そこまで本当のことを言いたくないんなら、これいじょうは訊かんよ」

 そう言ってスキットルを呷るエテュミアの言葉はディリアの頭に入っていなかった。あの一件の出来事が脳裏を駆け巡っていたからだ。そのなかでもとりわけ謎として残っている吟遊詩人のハルがどうしてもひっかかる。

 眉目秀麗甚だしく、血相悪くも武人の如し気迫を秘める、唄わぬ詩人。語りもしないハルはアルでも難しい神秘を操る者で、神と崇められしルヴァであると言われれば信じてしまう不思議さをもっている。そして、酒場で仄かすかのように神かと問うたディリアの言葉に見せた深遠な微笑……。

「おい、聞いてるのか?」

 商人の棘のある声音に、ディリアは自分が物思いに耽っていることにようやく気が付いた。街道はいつしか曲がり道ではなくなり、延々と直進が続いている。エテュミアは「商人にもむかないね、あんたは」と洩らしてから、手綱を傍らに巻き付けて後ろにもたれかかった。

「あの棺に描かれた秘紋。読み解けそうな者に心当たりがあった」

 ディリアの突然の告白に、寝ようとしていたエテュミアの瞼が持ち上がる。

「なんだって今さら。ほんのちょっと三日前に言ってくれりゃいいことじゃあないか」

 エテュミアの言葉はもっともで、町を出るときに早く気づいておけばよかったし、そもそもなぜ今口走ったのかという後悔に、ディリアは剣を鞘に納めるが如く口を閉じた。

「きっと、あんたの前世は貝だ」

 エテュミアは押し黙るディリアを尻目に、寝てるとき以外は独り言のように話しては話題をころころと変えた。焚き火を囲むときも、御者席でスキットルの中身を味わうときも。やがて、焚き火を囲むときは静寂を選び、御者席では時折思い出したかのように尻の痛みをこう嘆くだけとなった。

「くそったれ!」

 そんなエテュミアも、二週間ほどかけてようやく着いた町で二日ほど休むと、口当たりのよい商人に戻った。機嫌が良すぎるほどで、市場でディリアが一瞬立ち止まっただけの店の商品——プルッケル産の優れた携帯食ピンナッタ——をわざわざ買ってきて友達面するほどであった。

「しかし、他にももっと美味いものなんてあるのに、それがいいんだな。あんたは、昔は兵士か? 兵士は手っ取り早くなんでも片付けたがる。おっと、過去の詮索はしないんだった」

「ありがたくいただくが、タダより高いものはない。商人の貴公にされれば尚更。わたしは、頼まれたこといじょうのことはしないつもりだ」

 エテュミアは目を丸くして顔の前で手を払うと、

「とんでもない! 命を護ってもらうんだからこれくらい当然だ。いざとなったときにお腹が空いて力がでないなんて言われたらたまらんからな」

 エテュミアは木箱を抱えて忙しそうに荷台に登り降りしている。荷台の奥には二日前まではなかった樽が幾つか積まれていた。

「この町で取引できるものもあったのだな」

 ディリアは屋台が離れて点在している街の広場をぐるりと見回す。

「あぁ、そうなんだ。ピンツァの実が結構高く下ろせてな。ここでは香辛料と薬品を少々。薬品なら道中のフレル院で下ろすのもいいな。まぁ、クリマーレで捌いたほうが高く売れるだろうから、街道の状態次第ってとこだな」

 それにしては売り捌いたものよりも積荷のほうが増えている気がして、ディリアは眉を顰めたが一番の理由はそれではない。

「棺はどうしたのだ?」

 ディリアの鋭い視線に、商人は腰を揉みながら臆することなく荷台からディリアを見下ろす。

「お互いの商売に口出ししないんじゃなかったかな、剣士様」

 二人は翌朝、春の兆しに活気を感じながらもいまだ眠る町を出た。

 ディリアが振り返った荷台の上には、昨日はなかったあの棺があった。そのディリアの視線に気が付いたエテュミアがにっと歯を覗かせる。

「売ったと思ったんだろう? ひどいなぁ剣士様。依頼人がいくら棺桶に入ってるからってそんな真似はせんよ」

「そうか」

 それっきり二人の会話は途切れた。町ではかなり気分の良い取引が行われたのだろう。エテュミアは我慢することなくスキットルを空にした。星の下で焚き火を囲むときには、小ぶりな酒樽を抱えて頬を紅潮させながら歌すら口ずさんだ。ひとり宴もたけなわになると、身の上話をディリアに話した。眠たげに瞼を下ろし始めたディリアに気づかず。

 エテュミアはゲピュラ皇国の三公が一人、カリエント公が治めるカリエント公国に生まれた。父はゲピュラ人、母はマッケロ地方からの商人の娘だった。ゲピュラ皇国でいうゲピュラ人とは、祖先にドゥダス——かつて神にドゥダスの名を贈られしアル——をもつ者で、言うなれば貴族と同等だった。エテュミアの父は富豪であったが、父と母は結婚していなかった。むしろ、エテュミアは愛人の間にできた隠し子で公然と父がいるとは言えなかった。

 やがて、ゲピュラ皇国の征服戦争にスバニア騎士国が介入してきた。世界の剣を謳い、他国の戦争に介入するスバニア騎士国に、自国に誇りを抱くゲピュラ人は敵愾心を抱くのは当然。母の故郷であるマッケロはスバニア騎士国の領土にあった。ゲピュラ人である父は、己の名に傷がつくことを恐れ、愛人であるエテュミアの母と、その間の私生児エテュミアを殺そうとした。エテュミアはその時十五歳。復讐に燃えるには純粋なほどよく燃える年頃だった。母を殺されたエテュミアはしかし、父親に巨額の手付金を渡されて復讐の炎を風に揺らがせた。

「臆病だったと思ってる。だけどな、俺はそのとき、金がすべてなんだと理解した。金はすべてを変えちまう。あの男が俺を子供と認めなかったのも、お袋を妻にしなかったもの、結局は金儲けのための道具である名声に傷がつくからだ。金のためなんだよぜんぶ。金はすべてを変えちまう力がある。金はすべてを変えられる。金は……裏切らない」

 エテュミアの最後の言葉は唇の下でもごもごとした音にしかならなかった。身の上話を最後まで聴いていたのは焚き火だけだった。

 その焚き火が爆ぜる音と同時にディリアの瞼が持ち上がり、その灰色の眼光が素早く焚き火の向こうの暗闇を射抜く。虫の知らせか歴戦の戦士のたまものか、エテュミアの身の上話の最中に吐かれた父への罵声にも気づかず寝ていたはずのディリアは、すでに覚醒していた。聖剣を抜く淀みない動作とともに立ち上がると、酒樽を抱えて船を漕ぐエテュミアの脚を蹴った。

 三度蹴ってようやく目覚めたエテュミアは、抜き身の獲物を見て舌でも飲み込みそうな顔で飛び上がると唾を吐き捨て叫んだ。

「ちくしょう! こんなことだと思った。積荷を奪おうって魂胆だったんだな!」

「なにを言うか。それならば寝首を掻けばいいだけのこと。そうではない。奇襲だ」

 言い切るが早く、暗闇から両手斧を獲物にしたならず者が狂喜を爛々と目に宿して襲いかかってきた。ディリアが聖剣の切先を焚き火に突っ込み筆を払うように手首を返す。飛ばされた熾火に燃える枝が両手斧のならず者の目玉に突き刺さった――刹那を稼ぐための目潰しだったのだが、運も実力のなんとやら。

 その奇跡の一撃、さも当然のごとく澄ましたディリアの様子も相まって、飛び出してきたならず者たちはたたらを踏んだ。臆病者足らしめるに充分すぎる声が暗闇から響いてきたのは、目から枝を生やした男が事切れてから。

「おい! こっちは話しをしたいだけだってのに仲間を殺しやがって! おい、ジミーは死んだのか?」

「あ〜、死んでるんだと思いますぜ」

 ならず者の一人が無精髭をさすりながら歯切れ悪く肯定した。

 男の声が聞こえるまでは、ディリアの外套の中に隠れそうな表情で周囲を窺っていたエテュミアが声の方に耳を傾けて一歩踏み出した。

「誰かと思えばその声、あの場にいた奴だな? こそこそしてないで顔を見せたらどうだ、え?」

 ディリアはエテュミアを睨みつけた。

「煽るな。守られるにたる理由を失う事になる」

 エテュミアは威勢よく張った胸の前で腕を組むと、不承不承といいたげに暗闇を見据えた。

「出てきたらどうなんだ。話しがしたいってなら話しをしてやる。こっちの剣士様は騎士のような御仁だ。闇雲に剣を血で彩るような真似はしないとよ」

 暗闇から出てきたのは、小皺が目立つ灰色の髪の細身の男だった。暗闇の方に、手で「攻撃するな」と示しながら焚き火の近くまで寄ってきた。目から枝を生やしたジミーの横を通り過ぎて仲間たちの近くにくると、指をすり合わせながらディリアを何度も横目で警戒する。しかし、その怯えたような態度にあるはずの色が、目にはない。割れた鏡の破片の鋭さを男に感じ、ディリアは止まった男にわずかに切先を向ける。

 男は顔半分で笑いながら目を細めた。

「エテュミアの旦那。人の商売を奪っちゃいけねぇよ。その積荷のために俺たちはこの冬を乗り越えたんだ。寒い冬だったよなぁ今年も。一儲けして、脂したたる肉と女で癒されるのをどれほど楽しみにしてるか。その鬱憤が晴らせないとなりゃ、他の手段でやるしかねぇ」

 エテュミアは腰の革帯に親指を引っ掛けて胸を張り顎をあげた。

「はっ。俺のほうがいい商売相手ってことだったからこうなってる。すまんが取引は成立してるんだ。俺に言うんじゃなくて、あの商人に言えばいいことだろう。あぁ、できないよな? そいつらと揉めればお前と商売してもらえなくなる。そうなれば、あんたはあんたの首領にどうされるか。あんたは自分の失敗を取り返したい。だから、こんなご苦労なことをしてる。まったく、自分の尻拭いをするとは、殊勝なことで」

 男は口の端を引き攣らせて啀むものの、すぐに笑みを見せてエテュミアを指さして頷いた。

「威勢だけは立派だなぁエテュミア。そこの傭兵がいなきゃお前は豚よりも簡単に死んじまう」男は厚い暗闇に沈黙する森をぐるりと見回して自慢げに腕を広げた。「だけど、いいか。不利なのはおまえだ。装填済みの弩が穴を空けるのをいまかいまかと待っている。そこの傭兵さんは黙ってここで夜を明かして、明日の朝には俺たちとさよならするだけだ。あんたには迷惑をかける気はない。傭兵は歩くのには慣れてるだろう?」

 男は森のほうに合図を出した。そろそろと弩を手にしたならず者たちが出てくる。下唇を湿らせてエテュミアは男に詰め寄り叫んだ。

「勝手な真似はするなよ、え? こっちだってやるんだぞ」

「へぇ、あんたが」男は丸腰のエテュミアを怖がって見せた。

 エテュミアは自らの守護者を振り仰ぎ指し示した。

「剣士がいる!」

「こっちには弩があるんでね。装填の早いゲピュラ製だ。あんたゲピュラ人だろう? ならよくわかってるんじゃないかい。いくら優れた剣士でも弾けないだろう。放たれた矢はあんたのここと、ここと、ここに突き刺さる」

 男の指で体を突かれ、エテュミアは数本後ずさった。エテュミアの視線にディリアは同情を誘うには逸品で、流石の石ころディリアもこれには少々心が転がった。が、しかし。

「荷を渡せば命は助かるような口ぶり。ここは穏便に渡して、命だけは助かることが最善なのではないか。わたしは、貴公が襲われ命が危なくなればこの剣を抜いたであろう。しかし、そうではない」

 エテュミアが歯を剥く横で、男は優雅にお辞儀をしてみせた。

「なんとまぁ、コンティーレよりも紳士な傭兵だ。いや、剣士殿。確認させていただくが、こちらが手を出さねばあんたも手を出さないんだな? それに、あんたは金で雇われたわけではなさそうだ」

「命を奪うような真似をしなければ。このまま鍋を囲み、夜を明かし、朝には一期一会の出逢いに感謝して別れる。しかし、馬と荷車だけは残してもらう。わたしには移動手段が必要だ」

 男はゆっくりと首を振った。

「積荷は歩けっつっても歩かねぇんだ。あんたは根なしの傭兵。歩くことは慣れてるんじゃないかい?」

「積荷は置いていく。荷を下ろすのも自分たちでやるといい。しかし、朝陽とともにわたしとこの者は馬車に乗り、ここを去る」

 ディリアの淡々と果物の皮を剥くような声音に、男の直感が毛を逆立てた。かくして、男はこの要求を呑み、剣の上に座っているとでも言うような宴会が始まった。宴会を彩るものは焚き火の明かりと、エテュミアの酒樽のみ。しかし、この酒樽に手を付けるのは後生大事に抱えているエテュミア本人だけであり、男たちはディリアの対面に座ってむすっとしていた。

「積荷がなんだかわかってるのか?」

 男の問いに、ディリアは焚き火の炎を目のうちに揺らすだけ。男は構わず話し続けた。

「俺だったら気になるね。馬車が盗賊に襲われるなんてことはざらだ。そればっかりは運任せだが、どんな商品を積んでいるかわかれば、どんな連中とつるんでるかがわかる。自分に降りかかる恐ろしいもんも想像がつくってもんだからな。まぁ、俺が気になるのは、あの棺だけどな。ありゃなんだ?」

「あんたには関係ないね」

 エテュミアの噛み付きに、男は眉を上げただけ。短刀の先で爪を掃除し始めた。

「なんだか変な模様があるよな。ありゃ、魔法使いとかが好むやつんじゃないか? なんつったか。おい、誰か覚えてねぇか」

 男の問いに、飽きもせず弩を握っている男が鼻の横を掻いた。

「呪文?」

「そりゃ言葉だろう」

「魔法の言葉だ!」

「模様のことを訊いてんだよ」

「魔法の模様?」

「もういいぼんくらどもめ。あぁ、思い出した。魔紋だ。そうだろ?」

 男の問いに、エテュミアは歯切れ悪く頷きながらスキットルを口に運んだ。

 秘紋である、とはディリアは口を挟まなかった。なんとなく、この男の言いたいことがわかったからだ。ディリアの内心を知るはずもない男は、もったいぶったように話し始めた。

「魔紋ってのは、そうだなぁ、魔具と同じくらい価値があるんじゃなかったか。魔具は大抵宝石が嵌まってるもんで、そりゃいいもんだ。満月を二回拝む間は寒さも飢えも寝台の上で忘れさせてくれるくらいになる。なぁ?」

 ならず者たちの笑みが炎の影を宿す。エテュミアだけは顔の下に炎を忍ばせたかの如く男を指さした。

「あんたらに渡すのは<歌の蜜>だけだ!」

「ただの棺だろう、そんなに喚くなよ。まるで闘鶏だ」男の言葉に笑い声が続いた。「死人のために命を投げ出すのも、おかしな話しだよなぁまったく」

 爪掃除を終えて、座り直す男にディリアが目を向けた。

「死人であろうと、あの者の帰りを待つ誰かがいるのだ。その想いを無駄にはさせん」

 男が口笛を吹いた。ならず者たちも続いて笑った。

「おいおい、騎士様でしたか。こりゃ失礼致しました」

 この宴で一度たりとも笑みを見せないエテュミアが、指を一本立てて初めて皆の視線を集めた。

「あんたは間違えてる。あれは魔紋じゃなくて、秘紋だ。秘紋ってのは魔紋よりもずっと価値があるもんだ。あんたらにはあの価値がわかっちゃいない」

 男は首を傾げた。

「わからんね。それを言って俺たちが興味を失うとでも?」

「なにを言ったって失わないんだろう? だとしても、これは忠告だ」

 男の顔に本物の疑問が浮かんだのを見て、エテュミアは初めて笑みを含んだ。

「秘紋てのは、それこそ国宝級なのさ。そんな物を運んでいる者が誰の後ろ盾も得ていないと思うか?」

 この話には、隣にいるディリアも耳を傾けた。そんな話は一度も聞いていなかったからだ。

「なにかを秘密にしたい連中は、それがバレそうになったときにどうするかな。それが、国宝だったら?」

 男は黙ったまま目を細めていた。

「なぁ、国を相手にするのはまずい」

 仲間の言葉と、急に座り直したりする姿を見て、男はディリアを横目で盗み見た。しかし、得たいものは得られなかった。顔の皮が石で出来ているのだろう。まったく思考が読み取れない。エテュミアがその場凌ぎで嘘をついているのなら、エテュミアの仲間の顔に何か感情が走るものだ。しかし、この剣士はまるで石だ。

「その場凌ぎの嘘にしちゃ、うまく出来過ぎだ。どこの国だそりゃ」

「どこの国? はっ。俺は南に向かってる。それでわからないか」

 エテュミアの額に汗すら浮かべずに滑り出す嘘に、嘘かもわからず男は黙り込んだ。その様子をみて、ならず者たちがそれぞれ考えを口走った。

「南って言っても、この街道は先で東と西に別れる。アランサとクリマーレのほうだ」

「クリマーレには鉄の国々。あそこは闇取引が盛んだ」

「アランサだって、あの赤ノ国がある」

「アルアランサ——赤き槍か。北の果てまで追って正義の槍を血で染める。そんなふうに詩人が歌ってたのを覚えてる」

「お前記憶力いいな」

 男は立ち上がると短刀を抜き放ち次いで空を見上げた。

「うるさい、黙れ! 俺たちの交渉はすでに終わってんだ。俺たちは<歌の蜜>を、あんたらは命と積荷を、だ」男はそう言って森を警戒するように一瞥した。「それに、もう空も白みはじめた。とっととこの宴を終わらせようじゃねぇか」

「いやいや、まてまて」

 エテュミアが伸ばした脚を組んで優雅に男を見上げた。

「俺が届けるのは棺の中身だ。いいか。これからこんなことが起こる。届ける最中、獣に襲われて馬車は街道から外れた。俺の手綱捌きでなんとか川に落ちるのは免れたが、おぉ、大変だ、大事な積荷のいくつかが川に落ちちまった。なんてこった、あの棺が浮いてるじゃあないか。俺は川に飛び込み、棺にしがみついて命からがら岸に引き上げた。無事かと確かめたが、そこには岩に当たったかなんかで棺は駄目になっちまってた。だけど、これは届け先に着く。無傷でな。依頼主は、俺にたんまり謝礼金を手に乗せる。〝よく、無事に運んでくれたな〟って言ってな」

 男の仲間たちは何を言っているのかわからないという様子だった。しかし、男は違った。

「あぁ、そうか。酔いすぎて、嫁と思って抱いた女が別人だったって話を後に聞いても、どうしようもないのと同じか」

 男の言葉に、エテュミアは微笑んだ。

「樽五つ」

「二つだ」

「四つ」

「三つだ」

「四つ」

 エテュミアの言葉に、男は唇を噛んで考え込んだ。その沈黙を、ひゅっという音が切り裂いた。

「エテュミアよ。貴公がそこまで見下げた男だとは思わなかった」

 剣を目の前に突き出されたエテュミアの顔が彫像のように色褪せた。そして、慌てて立ち上がり、懇願と怒りを目に宿す。

「わたしが、このようなことを黙って見過ごすと思ったか? その棺は、先の町で頼まれたものであろう。貴公は、わたしの話からあの装飾が秘紋であること、それが価値あるものだと知ったのではなかったか。死者までをも金儲けに、それだけでなく、それを待つ人の想いまでをも喰いものにしようとしている。それは、見過ごせない」

「だとしても、俺の命は守るんだろ?」

 焚き火も燃え切っていた。今や白み始めた空の淡い紺の薄絹と静寂が一行を包みこみ、静寂の剣が今かと息を潜めて答えを待った。ディリアが石の表情で聖剣を鞘に納めていく。エテュミアは口を開きかけ、石の前に縋る目を向けた。

「ってこたぁ」

 男は仲間の弩を指さして、そのままエテュミアに指を向けた。仲間が弩を持ち上げる。

「お、おい、待ってくれ。俺があんたに話したそれも、全部さっき言ったことを隠すための嘘なんだ。ディリア、信じてくれ。ちくしょう、おい、待て、何様のつもりで俺にそれを向けてる!今すぐおろせ! 俺が合図すれば森に隠れてる仲間がお前の目ん玉に矢が突き立てるぞ!」

「おぉ、怖い。合図してみてくれよ」男が耳を澄ました。「矢は飛んでこないみたいだぞ?」

「頼むディリア、一緒に冬のあいだ森に入ったろ? 護衛してくれたじゃないか。いいか、あの<歌の蜜>が売れれば一年は優雅に暮らせる! あんたがその剣でこいつらを殺してくれればいいんだ。俺の命を守るついでに――」

 戸口の鍵が外れるような音がしたのと同時に、エテュミアの肩に太く短い矢が突き刺さっていた。一瞬飛び跳ねそうなほど体を硬らせたエテュミアは地面に倒れて、呼吸に溺れるような浅い息で汗を顔に吹き出し始めた。

「胸を狙ったんだけどな」

「この下手くそめ。おっと、あんたには手を出さないぜ騎士殿。あんたの言う通り、俺たちは樽だけをいただく。あんたは積荷と荷車、馬車を持ってここを去る。取引通りだ。問題ないだろう?」

 ディリアは頷くこともせずに剣を鞘に納めた。それを見て弩を構える者がいたが、それは男が諌めた。

 男たちが荷車から樽を下ろすのを構わず、ディリアは小さく震えながら座り焚き火の跡を凝視しているエテュミアの元に膝をついた。

「動脈が裂かれている。助からん」

 エテュミアは震えながら笑った。

「守るんじゃ、ないのか。守れたろ、あんたなら。結局、あんたも、俺と、同じだ。騎士道を、歩んじゃ、いない。あんたは、人を、選んで、助けて、自分を満たしてる。俺は、金、あんたは、剣」

 エテュミアは薄暗いなかでもわかるほど青褪めた顔でディリアを見上げた。

 ディリアは反駁しようとしたが、言葉は出てこなかった。死ぬゆくエテュミアの目の光を見て、言葉が出てこなかった。

「図星だ。あんたは、見えてないんだ」

 エテュミアはほくそ笑んだままぐっと顎を噛み締めると、ディリアを見たままだったが、その眼には何も映さなくなった。

 ディリアはしばらくエテュミアの見開かれた眼を見つめていた。太陽が冬の乾いた大地に絵を描き始めた頃に、ようやくならず者たちが消えたことに気が付いた。

 そして、エテュミアを火葬した。ゲピュラ人は人が悪魔に体を奪われないようにするために火葬する。なんとなく、耳に残っていたエテュミアの身の上話が記憶に残っていたのだ。灰の上に、空になっているスキットルを置くと、ディリアはひとつ息をついて、小さく頷いた。

「図星だ。助けるに値せぬ人などいない。わたしは、貴公を助けなかった。選んだ」

 ディリアは剣の柄に手を乗せて目を瞑った。

「この剣は、人を助ける己が身を護る剣として鍛えられた。ならば、人を助けずして……わたしになんの意味があろう」

 ディリアは立ち上がり去ろうとして、ふとスキットルに目を留めた。そして、置いたはずのスキットルを手に取ると立ち上がった。

「ありがとう。貴公はわたしに見えていなかったものを見せてくれた。助けられる力があるのに、選ぶのは、己を満たしたいがため」

 ディリアは太陽が昇る街道の先を見つめて手綱を握った。見えない真実を詰めた空のスキットルを傍に。

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信念の剣 〜愁の鏡〜 彗暉 @SUIKI

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