第4話 心刃

 屋根裏部屋の垂木にゆるりとかかる蜘蛛の巣が力なく揺れ、薄汚れた硝子窓は朝の風に揺れて、悪態を吐く老人のように絶えず音を立てている。屋根裏を部屋らしく飾り立てるのは、藁敷の寝台と壁に打ち付けられた釘に掛けられた一張羅の擦れた黒い毛織の外套、巨漢がぶつかれば折れてしまいそうな支柱と、その柱に釘で止められたくすんだ手鏡のみ。その手鏡の前に立ち、写る己の顔を見ているその者は、嘲りを刷いた微笑を鏡の中の者に向けた。

「やるしかないんだよ」

 青年の声は鋭い剃刀のように己に跳ね返った。

 青年は一張羅の外套を羽織り屋根裏部屋を出た。一階には屋根裏部屋を只で貸し出している主人の倉庫があり、恰幅のいいその主人が朝早くから荷を確認していた。青年が階段を降りてくるのに気がつくと、押し出しの良い笑顔を向けた。

「おはようガリエル。今日は体調はいいのかね?」

「はい。お陰さまで」

「前から言っているが、なにも屋根裏でなくても貸せる部屋はあるんだからな」

 ガリエルは「痛み入ります」と瞼を重く瞑り言った。「ですが……」

 青年の視線が地面に落ちるのを見て、主人は首を引いて眉を顰めると、すぐに夕日にも似た笑みをはんだ。

「知ってるかね? 崖を飛び降りて獲物を狩る隼だって、ずっとあんな速さで飛ぶわけじゃない。まぁ、体を大事にしなさい」

「すみません……」

 ガリエルは胃が切れる思いで言葉を絞り出すと、倉庫から出ようとした。その背中を押すのは主人の陽気な声。

「払えないってなら、働けるようになったらここで働けばいい! 君はまだ若いんだから、ゆるりと待ってるよ」

 ガリエルは振り返り頭を下げた。

「ありがとうございます」

 朝早い街を歩けば、皆がガリエルに挨拶をした。ガリエルはその挨拶に応えながら目抜き通りの外れにある、それでも賑やかな町民御用達の通りを歩いて酒場を目指した。

「やぁガリエル! 今朝はいいきのこが入ったんだ。どうだい、持ってくかい?」

「いえ、申し訳ないですよ。それより、酒場の方へ行くのですが、手伝えることはありますか?」

 そうは言ったものの、ガリエルは腹の底が焼けるような感覚と力が抜けていくのを感じていた。

「なーに、お代はいらないっての。ちゃんと食べなきゃね。あんたはまだ若いんだから」

 ガリエルは芒のように力ない微笑で頷いた。

「ただで貰うのは気が引けるので、何かさせてくださいよ」

「そうかい? そんじゃあ、ちょいとお願いしようかね」

 ガリエルは頼まれた野菜を運びながら、ほどなくして寒気を覚え、通りの隅に腰を下ろした。垣根に咲く花を愛でる素振りとともに。

 動かねばならぬ——そう叱咤してガリエルは立ち上がった。折れる鍬が役に立たないのと同じことで、働けない人が生きててなんの役に立つと言うのか。折れた鍬はどうなるか? 無論、捨てられるだけだ。

 ガリエルが己の目的のために酒場にやってきた時にはすでに太陽が南の空の低い位置に、それでも目一杯高い場所にあった。一日のもっとも力溢れる時間だというのに、今のガリエルは萎びた人参のように力なかった。ガリエルよりも細い放浪者や老人などはいるが、彼はまだ三十手前の有望な若者だというのに。

 有望だったと表現されるのが彼の望むところだろう。誰しもが彼の町への貢献を覚えていて、そんな彼が雲に隠れた太陽のようだと思っているのは街の誰しもがそうだった。しかし、彼を例えるならば箒星こそが相応しい。夜空に瞬き消えるつまらぬ箒星ではない。言うなれば、大地に己がもつ渾身の最期を打ち付けんとする箒星。

 ガリエルは酒場に入ると、真っ直ぐに仕切り代の主人のところに向かった。

「主人、注文の一つもできなくてすみません。この前に頼んだ件ですが」

「おぉ、ガリエルか。また痩せたか? すまん、野暮なことを訊いた。それより、この前頼まれたやつ、見つけたぞ。こんなものを何に使うんだ?」油紙の包みが重々しく仕切り台の上に音を立てて載せられた。包みの中は一冊の革張りの本。「〈アルとドゥダスの神狩り〉。 手に入れるのにだいぶ苦労した。なんせ、何十年も前にこの町にいた考古学者の本とかで、難しい内容だとかで全然売れなかったらしいんだわな。本屋の話じゃ、著者も売ることが目的でもなかったみたいで、刷られることはなかったと言ってたな。これも、写本の一つだとよ」

「この前に言ってくれた値段でいいですか? それ以上は、なくて」

「もちろんだ。しかし、一ヶ月は暮らせる値段だ。これを何に使う?」

「これがあれば、町を救えるかもしれないんです」

 すでに頁を捲り、目を走らせているガリエルを横目で窺う主人は、グラスを拭く手を一瞬止めた。

「お前さんは若い頃から一直線に走って、この町に新たな風を運んでくれた。おかげで町には商人が行き交うようになり、賑やかになった。それのせいで体を壊したなんて報われない話だが、今は無理せず休むべきだろう。なんでも独りで背負おうとするな。この町の者はみんなお前に恩を感じてる。お前だけ、重い綱を引くことはないんだ」

 ガリエルは本から顔をあげると、口を堅く結んだ。そこから出す声音は、鉄を切るような、また、切られた声。

「もう、四年も経ちますよ」

 ガリエルは礼を言うと、何か言いたげな主人の視線を切るように背を向けた。別の視線を感じて店内に目をやると、昼間だというのにひとりだけ客がいた。壁際の端の席に、飾り羽根付きの、つばがそり返った洒落た帽子を被った吟遊詩人風の男、そう思ったが、帽子の下の顔は二度見するほど美しく、女かもしれないとも思わせた。瞬時に町のものではないことは理解したが、目抜き通りから外れたこんな場所になぜ外の者がいるのだろうかと、好奇心がガリエルの足を出口から逸らした。

「すみません。貴方は、旅人ですか?」

 吟遊詩人風はゆっくりと顔を上げた。そして、口だけ微笑んだ。

「さよう。こんどは我が問おう。その本を何に使う?」

 ガリエルは脇に抱えた本を見てから唇を湿らせた。

「これは、今、町を襲っている脅威への対抗策。と、でも言っておきましょう。それで、こんどは俺が質問してもいいですか?」

 吟遊詩人の男が席を指し示したので、ガリエルは会釈をしてその椅子に腰掛けた。して、男は顔の前で指を組むとガリエルを真っ直ぐと見据えた。なんと美しい顔だろう。そんなことを考えてから、男が問いを待っていることに気がついて、慌てて言葉をついだ。

「外の様子はどうでしたか? ここへ来る途中の街道で、妖魔や亡霊に襲われはしませんでしたか?」

 男は、ふっと笑った。笑ったように見えただけかもしれない。その僅かな広角の動きがあまりにも優雅で、なかば演技にも見えなくもなかったが、本人が醸す芳香のようなものなのだろうと勝手に納得し、ガリエルは男の答えを待った。

「妖魔は我によりつかぬ。亡霊は死を認めるよりも己の念に縛られし魂のことであり、妖魔同様、我に念の残滓で語らいはしてもなにも為せぬ。強いて言うなれば、人が切り倒し傷つけられた森こそが我の心を傷つけたと言ってよい」

 ガリエルは卓に視線を落とし、顎先に指を添えながら考え込むように俯いた。――なるほど、詩人だ。

「しかるに、その本は先に述べた脅威とやらを排除するための策を講じるためか。ならば喜べ。我がこの町にきたのも、その脅威とやらの出どころであろう遺跡へ参るためであるからに。多少なりとも力になれるやもしれぬ」

 二人は酒場を後にすると、旅立ちの用意をするために詩人が泊まる館へ向かった。その道中、詩人は自らをハルと名乗り、この町の酒場のいたるところで遺跡の話を聞いたと話した。

 この遺跡の語りの種は、人によって咲かす花が違う。それもそのはず、この話の発端となったのは、遺跡調査に出て行ったこの町の郷士が血だらけで帰ってきたことから始まる。事切れる前に最後の力を振り絞って顛末を門番に伝える様子を見ていた群衆が、各々の想像力で補填して語り継いでいるのだから。

 ある者は遺跡の入り口まで案内しただとか、野営の設営を手伝ったとか、ある者は郷士と共に悲劇に遭ったが自分は運よく逃げ出したとか嘘をつく始末。もしもそれらが事実であったなら、郷士は総勢五十人は連れて遺跡に行ったことになるはずである。事実、一緒に向かったのは紳士の傭兵と呼ばれる戦闘を生業とする集団――コンティーレであり、郷士は裏切られたと一言いったのみで、あとは事切れるその瞬間まで遺跡の状態を伝えようとしただけである。ともあれ、尾鰭どころか鶏冠までついた話には一貫して盛り込まれた味付けがあった。その遺跡がアル――人と神の混血――の貴族のものであり、神狩りを行い自らの神威性を高めて地盤を築いたアルの中のドゥダス――アルには変わりないが、かつて神のルヴァに称号を与えられし英雄達の誰かに殺されたということ。そして、雇ったコンティーレに裏切られたこと。

 尾鰭と鶏冠の物語に必ず出てくるこれこそが、郷士の置き土産だったに違いない。町民の話は飛躍して古代のアルのその貴族がなぜ殺されたかにまで及んでいたが、その頃には吟遊詩人ハルもこの話には飽き始めていた。そろそろ行動を起こそうとしていたときに、ガリエルを見つけたという次第であった。

 そうこう話している二人が路地裏の半ばに差し掛かったころ、二人の行手を無頼漢どもが塞いだ。道を挟む両方の壁に大儀そうに寄りかかり、手のひらほどの大きさしかない獲物で爪や歯の間を掃除している。鼠よろしく黄色い歯を見せてねばっこい笑みで歩み寄ってくると、距離をとって値踏みするように二人を取り囲み始めた。

「吟遊詩人じゃねぇか。それもずいぶん粧し込んで。さぞ立派な物語でも聴かせてくれるんだろうなぁ。あんたも歌いたいだろ? ここで歌わせてやろうか」

 無頼漢のなかでも体格に恵まれ、天性とも言える醜い顔をもつ男の岩肌から削り出されたような濁声に返すは、澄んだ空から生まれた冷たさを秘めた蜜酒のような天鵞絨の声音。

「我の歌は安くはすまぬ。払うべき対価がうぬらにあろうか?」

 ハルの宝石のように澄んだ翡翠色の眼が、飾り羽付き帽子の影の下で細められた。その瞬間に通りの空気が凍りついたかと思われた。本能であったのだろう。危険を感じ取った無頼漢は一斉に獲物を翻すと思われた。腰帯に隠していた手の平ほどのものでも、人を殺すには充分。しかし、獲物が獲物に辿り着く前に後ろで声が上がった。細身の体からは想像できないほどしっかりとしたガリエルの覇気ある声であった。

「やめろ。衛兵を呼ぶぞ」

 無頼漢どもは一瞬きょとんとして、次いで嗤った。ガリエルが呼吸も荒く助けを呼ぼうと周囲を見回した。家々の窓から誰か一人くらいは見ているはずであったが、事実、数人はこの裏通りの狩りを窓布の後ろの部屋の影から、あるいは閉めた窓布を指でこっそりと押し上げて、心のうちで念仏のように預かりあ知らぬと唱えながら見物していた。しかし、ガリエルの願いが叶うことはなかった。

 引き返そうとしたガリエルはいよいよ顔を強張らせ、首にかけてある巾着袋を握りしめた。ハルはと言うと、先ほど見せた異様な殺気――虫を踏み潰すが如くのそれはどこへやら、困ったと言いたげにハルを見つめていた。

「逃げてください。俺が、なんとか俺が」ガリエルは巾着袋と本をハルに押し付けた。「これは依頼料にするつもりでした。この本で解決策を見つけてください。早く、逃げてください」

 ハルはその二つを受け取ると、優雅に脇の下に抱えて、尚もそこに居座った。

「なにうえそのような無謀なことをする? そなたでは勝ち目はない。それより、ここで大声をあげるなり、走って逃げるが定石のように思えるが」

「そんなことはいいんです!」

 ガリエルは道端の石を拾い、頭上に掲げながら手負いの獣のように無頼漢達を見た。そして始まった。近づいてくる男にガリエルの一撃が振り下ろされるが、それは無造作に受け止められ、男は黄色い歯を見せると無造作にガリエルの腹に短刀を突き刺した。ガリエルは自分の死を悟るなかで浮かんだ考えは、小説や物語のなかで人が死ぬ瞬間に叫ぶ描写がどれほど嘘で塗り固められたものかと言うことと、書いている奴らは一度刺されてみればいい、というものだった。

 ガリエルが呼吸もできずに引き抜かれた刺し傷を手で押さえながら、硬直したまま地面に倒れ込んだ。それと同時に硝子の割れる音が頭上でしたかと思うと、舞い落ちる硝子の破片と共に一人の剣士が参上した。その者は旅人の装いで騎士でも傭兵にも見えぬ流浪の者。それでも、町の中で帯剣を赦されるのは騎士か由緒ある傭兵のみ。それを知らぬ無頼漢ではない。

「おいおい、剣士さんが出てくるもんでもねぇよ」

 剣士は、青白い顔に冷や汗を浮かべて震えているガリエルを一瞥するや、剣を鞘から解き放った。

「たまたま窓を見下ろせばかようなありさま。他の者はこれを余興かなにかと思っているようだが」剣士は家の窓のいくつかウィ鋭い灰色の眼光で射抜いた。「わたしはこの町の者ではない」

「騎士を気取るにゃ人が足らんだろう。やめときな、剣士さんよ。俺たちはあの詩人と話があるんだい」

 その詩人はと言うと、参上した剣士に向かって帽子のつばをちょんと下げた。

「しがない吟遊詩人、ハル」

「流浪のディリアだ」

「ではディリア。この野犬どもの相手を任せてよいな」

「言われなくとも」

 ハルは満足そうに頷くと、剣士の見事な剣舞に咲く薔薇の飛沫の間を散歩でもするようにしてガリエルの元までやってくると、跪いてガリエルの目を覗き込んだ。

「なにゆえ、我を助けようとした? どう見ても、うぬでは太刀打ちできなかろう。こうなるのはわかっておったはず」

 吟遊詩人の言葉に一番同感だったのは、己の力不足を寒くなっていくなかで噛み締めながら、己の無力さを声なくして嘆き、なんの役にもたたずに命さえ失うことを目で詫びるガリエル本人であった。

 そして、ガリエルの目から光が消えていくのを見つめていたハルは、ガリエルの最期の言葉をそこに見た。

(あぁ、なんて人生だ)


 一振りで血糊を払い、己の騎士道を貫く相棒を腰に収めたディリアは、ハルが人ならぬ歌声で囁くのを背中越しに耳にして、はっとした。その歌、というか音の連なりは、かつて彼が仕えたスバニア騎士国で度々聞いた聖剣歌の乙女達の歌の神秘のそれと似ていたからだ。どんな理由であれ、騎士国を無断で抜けたディリアは逃亡者。騎士団にとっての汚点に過ぎない。誰もが敬う騎士階級のエスが汚れるなど抹殺に値する。であるから、ディリアがなにも言わずその場から去ろうとするのも当然であった。

「またれよ」

 澄んだ冬の冷たい声に、ディリアの足が地面に打たれた釘となる。

「わたしはこれ以上関わる必要もない。死体の片付けに刑吏でも呼んできましょう。では、これで」

「うぬの剣、それは人ならざるものも斬れると見受ける。しかれば我らと共に来ることになる。この町で噂になっている遺跡とやらの調査にな」

 ディリアはこの言葉に振り返り、目を瞠った。もとより、この町の噂を聞きつけ、自らが力になれるかもしれないと訪れていたために断る理由もなかったからだ。そして、何よりこの吟遊詩人に対する好奇心がこれを断る理由探しをやめさせた。彼の先の歌声を捧げられた青年が、今や身を起こしているではないか。

「生き返らせたと言うのか。貴方は、何者だ?」

 この問いの答えは問い。吟遊詩人の頼み事を受けるか否かの滝の如し有無を言わせぬ問い。川を上る鮭さながらにディリアは沈黙の反逆を試みたが、ひとつため息を吐くとそれを受け入れた。


 人の森、すなわち人が恵みを受ける森の中を進む一行は、ほどなくして闇が濃くなるのを感じた。梢の間から溢れる世界の母たる光は褪せていないというのに。まさに、それこそがさきほどまで一行が歩いていた森を人のそれと呼ぶゆえん。一行が足を踏み入れたはもはや人の領域に非ず、ここからは妖魔、霊獣、怪奇、幻想が生きる世界であり、その姿こそがこの星ネスフィルの本来の姿であった。

 異人かつ星にとって害悪のなにものでもない異物たる人間どもには、ネスフィルの森を異様なものとして感じ、目に映るのも道理。ましてや本能が警鐘を鳴らさぬことはあり得なかった。とくに、この中で唯一正真正銘凡人であるガリルエの肌がいまや芋でも削れそうなほどに本能を反応させているのを見れば、それは一目瞭然。

 凡人のガリエルの肌がいよいよ羽根をむしられた鶏さながらになった頃、横を歩くスバニアのディリアは神秘の源であるルスが水のように肌に纏わりつくのを感じて喉元の襟を緩めた。スバニアほどの神秘使いであれば、ルスを森の中を漂う花の香や、貴石に秘められたルスを暖炉の温もりのように感じるが、ここの森は喧しいと叫びたくなる貴婦人の香水さながらの気配を呈している。

「ガリエルよ。君は勇敢だな。頼る剣もなく、敵わぬ相手に立ち向かえる勇気は真の騎士に値する」

「騎士なんてたいそうなものじゃありません。できるできないではなく、やらない自分が許せないだけです。その結果、俺は死ぬことになったのです。それでは、だめですよ」

 ディリアは片方の眉を上げてその声音に含まれる唾棄の息の意味を探ろうとしたが、ガリエルは貝のように口を閉ざした。代わりに開いたのは、世界でも軽いと認知されている吟遊詩人――しかし、この吟遊詩人に限ってはべつ――の口だった。

「うぬは死んではおらぬ。死とは何かを定義するは愚の骨頂であるが、うぬらの感じられる命の循環に於いての死で見たとしても、うぬは死んではおらぬ。うぬらの死とは、魂と信じられるものが肉体を動かさなくなった時のことをいう。なればあの時、人生を悲観したその暗闇の中でも意志が灯っておったということは、脳たる器官の一部が機能していたということ。我はそれを刺激し、然るべき処置を施したまで。死んでいればいまここにはおらぬ」

「貴方の話の端々に見られる言葉には、まるで自分が人とは違うことを示唆しているように見受けられるが、貴方はアルか?」

 ハルは鼻で一蹴した。

「アスロスと交わり産み落とされたルヴァの血か。アルであったならどうするつもりなのだ? 剣士であるうぬが我を斬り伏せ、神狩りを神聖とする王に献上でもするか? 他ならぬ、アルである、うぬの手で?」

 ハルの愉快そうな声音に、ディリアは足を止めた。

「なぜ、わたしがアルだと?」

 森の住民でありそのものである樹々ですらハルを見たかのような静けさが漂う。それを楽しませることを楽しむように、ハルは言葉に芒の笑みをのせる。

「簡単だ。その剣の刃は鋼にあらず。神秘であるルスとオルスに反応する金属ならぬ霊銀から織りあげられた秘紋剣の一種であろう。秘紋剣には人が神の真似事をするために作り出した魔紋のように形式に嵌められた形を持たぬ。それゆえに、それを扱うには人ではなく、神秘を操る神の血をもつもの――すなわちアルでなければならぬ。ゆえに、その剣を扱ううぬは、アルだ」

 肩越しにディリアを振り返るハルの鋭く深遠を秘める眼が、暗い森のなか帽子のつばで影になっているはずなのに、翡翠の光を帯びているように見えたのは、ディリアだけでなくガリエルにも見えていた。それも束の間、ハルが薄い唇に笑みを刷くと消え失せた。

 一行は霊樹の森をさらに進んだ。辺りは霊樹の森らしく怪奇幻想に満ち始めた。空を覆い隠す葉の天井はさながら夜空のごとく覆い尽くし、その夜はまるで悦に浸るために拵えられた背徳の繭。繭のなかで悦に入るのは母なる太陽の光を忌み嫌うかのように燐光を発する霊樹の森そのもの。樹々の足元に生える青白い花は花弁に金色の光の流線を浮かばせて風もないのに身を揺らし、黒い樹皮をもつ夜の創造主たちは太陽を嘲笑うかのように月光の如く冷たく儚い光の脈を明滅させていた。蛍かと思わせる七色に光る虫が夜空の居場所を探すように宙を舞い樹冠に星座を作っては流れ星を描く。

 そこには生命の川の輪廻の欠片も垣間見れた。天鵞絨の毛並みをもつ猫のような獣の青白く光る爪が閃き、六本の脚をもつ羽根で全身を覆った豚のような獣を狩る姿も見られた。青白い牙に滴る獣の血は淡い黄金色の砂の輝きに満ちており匂いを感じさせない。虫か獣か区別もつかない生き物も多くあり、土を離れて獲物を狩る植物までもがいた。

 たった今、ディリアを襲った人ほどの大きさもある植物の花冠が地面に音を立てて落ちた。

「人を喰らおうとする植物など聞いたことがない。それでころか、この植物はルスを全体に纏いさながら鎧のように扱うとは」

「ディリアさんはルスを感じられるんですよね。王族なのですか?」

 ガリエルは背筋を伸ばした。

「畏まるようなことはやめてくれ。アルのすべてが王族とは限らん。アルもただの人であり、血に優劣を決める力はない。決めるは魂の清さのみ」

「ほぉ、血を神の力としない思慮深き言葉は、五神の一柱である神王ルグリオスのものであろう。魂の形は生きる上で形作られていくもの。なれば人生という道を歩く魂の道を知らなければならない。そうでありながらも、神王ルグリオスが興した国はそのような教えはしておらぬ。しかし、人を人たらしめるその道を唱え、標榜し、信じて疑わずに振りかざすものがこの世界にはある。星々から運命を読み解き人を導く星教のモルゲンレーテ、神をもたぬことによって人の勁さをしらしめようとする黒き太陽のバスダス。己ではなく人のためが世界救済への道だとして世界の剣として戦を平らげんとするスバニア。うぬは」

 ハルの視線が剣に落ちるのを見てディリアは柄頭を握った。

「いかにも。わたしは昔、スバニア騎士国の者であった。今は違う。道は歩むがスバニア騎士ではない」

「そう啀むでない。騎士のありかたなど気に止めておらぬ」ハルは翡翠の矢の如き視線をガリエルに移す。「はて、うぬがここにおるのは如何なる理由か。見るからに役に立たぬ粗朶のようなうぬが、己を顧みず本に金子を注ぎ、命を他者のためにどぶに捨てる。そうして今は、獣の牙を満たすことも叶わぬ滓になろうとしている。なぜか?」

 ガリエルは押し黙った。それも小一時間は。

 やがて、一行を包む七色の光の闇の天蓋が裂けて城が眼前に聳えた。空に手を伸ばすも叶わずに朽ち果てたかに見える城は、その身を空高く貫かんと先細り欠けている。見えるところすべてが深い色の翡翠からなっており、その頂にいくにつれて自分が何者であるかを忘れるかの如く澄んだ水晶へと変わっていた。その水晶の頂には太陽の光が集まり、目をつんざくほどに鋭く煌めいたかと思うと、その光が収束しさながら剣のように一行を薙ぎ払った。

 地面は焼かれ、燃えることも赦されぬまま砂となり、地鳴りを立てて穿ち三人を塵にすると思われた。しかし、ここでディリアが躍り出た。聖剣は光剣に対峙するにふさわしい輝きを放ち、風を光の刃として光剣の一撃を迎え撃った。強力な力の相殺による代償が波動となって周囲を均そうと拡がった。三人は石ころと同じように吹き飛び、腰や体を打ち身にして痛めたが、一様に無事であった。

 極限の戦闘を繰り返してきたディリアにとってこの程度のことは道の出会い頭で人とぶつかりそうになるようなものであったが、ガリエルは腰を抜かし目を見開くばかり。ディリアを驚かせたは、まるで立って本を読むかの如く澄ました佇まいでいるハルであった。

 一息ついたのもそれが最後。光剣が再び襲いかかった。いまやディリアは流浪を隠れ蓑にする一介の剣士ではなかった。剣を振るう凛とした佇まいに、淀みない氷柱のごとき一太刀は誰が見ても本の中の英雄にしか見えなかった。三人はディリアがいなす光剣の合間を狙って城に近づいた。城の前には百段はある翡翠の幅の広い階段が、大男を縦に並べて五人はある高さの門へと続いている。階段の麓にたどり着くや、百段の階段が音を立てて割れて百本の翡翠の剣へと変わった。欄干は槍へと変わり、百の剣と槍が空気を切り裂いた。聖剣を己の一部と言わんばかりに巧みに操るディリアの剣筋は幻影を残し、幻影はそのまま剣となって翡翠の城の剣を叩き落としていく。門へと続く階段はもはやない。

 門を絶望の眼で見上げるガリエルは、横でディリアの決死の剣舞を讃えるハルが歌うのを耳にした。人の歌ではない。歌詞もなければはっきりとした旋律もない。まるで濡れた硝子の縁を滑る風のような音の組み合わせ。森に棲まう動物たちの囀りやせせらぎ、自然の織りなす楽音を想像させるもの。ハルはガリエルの視線に応えるように翡翠色の眼を細めて微笑した。

 ハルの神秘はすぐさま顕現した。三人の立つ土の地面が柱となって突き上がり、一気に門へと上昇したのだ。その間も城の翡翠の剣は宙を翻り奇怪な軌道を描いて襲ってきた。それを凌駕するディリアの剣舞が踊り相手となって嘲笑うかのように翡翠の剣を折っていく。その度に硝子を砕く音が響いた。

 門までたどり着き、ハルが手を前に翳して何ごとか囁いた。翡翠の門に罅が入り、門は白く染まった。原子ひとつひとつの繋ぎを断ち切ったと誰が理解できただろう?

 翡翠の門は砂のように滑らかに音もなく崩れ去り、薄絹の窓布のように門から地面まで滝のように落ちていった。舞い上がる枯れ葉のように荒れ狂う翡翠の剣を背中にして門を潜ると、時間を絶ったかの如く襲撃がやんだ。静寂を際立てるは、幾星霜を重ねた大広間の沈黙と荒い吐息だけ。今はなき門から差し込む陽光に照らされた翡翠の間に、三人はしばし佇んだ。


 遺跡となった城のかつての栄華の名残がふんだんに遺された城の中を三人は歩いた。壁や廊下、窓枠からタペストリーの軸まで翡翠でできていて、城の中はすべてが魅せるために造られたかのようであった。不思議なのは、金による装飾が一切見受けられないこと。

「ルヴァは黄金を忌み嫌った」

 ハルはこの遺跡から見られる小さなことから歴史を紐解き紡ぎなおした。それは、ここのアルがルヴァを神と崇拝しながらも、それに媚びるような信仰は抱かずに暮らしたこと。そして、かつてはここの城主はここ一帯の支配者であり民への奉仕者であったことがわかった。廊下に飾られた数々のモニュメント——鎧や塑像、彫像、絵画、壁掛けはすべて献上品であり、城主の庇護に関する感謝の印そのものであったから。その中には、ガリエルの棲まう町の名が刻まれたものもあった。

 城の中に秘密の部屋や開けられる部屋はなかった。閉ざそうとしながらも道半ばに責務を果たせずに砕かれた扉しか見当たらなかった。それの意味するところはたったひとつ。尾鰭と鶏冠の物語に出てくるドゥダスによる襲撃の名残に他ならなかった。

 王の間とも呼べそうな謁見の間に鎮座する玉座のような椅子は、巨大な鎚に屈した時の姿のまま。三人は翡翠の床に散らばる人骨と染みと煤、そして砕かれた城主の座るべき場所の破片を、しばし眺めた。その傍には折れた剣が、いまだ燻ることを知らず折れながらも銀光を閃かせていて、その剣身に古代語が閃いたのをガリエルは見た。

 三人は領主の寝室へと進み、そこで領主の日記を見つけた。そこには、彼が神の血を持つとはいえ、人と同じように苦労することが書き連ねてあった。彼は神王ルグリオスが死ぬ前に遺した〝ルヴァは神にあらず〟という言葉を受け入れたアルの一人であり、自分を神聖なものとして扱うような人物ではなかったことが読み取れた。人の想いに応えるために力を使い、城主へと追い立てられたことへの苦悩が綴られ、晩年は人への恨みを抱く心と、責務を果たそうとする民を愛する心の葛藤が見られた。

「このアルは、領主の器ではなかったとみえる」

 ディリアの言葉に振り返ったのはガリエル。

「なんですって? 人々の期待に応えようとして生きてきた立派な人だ。領主であっても民の望みは絶えることを知らず、それに応えようと努力しています。寛容でしょう」

 二人のやりとりにハルは口を挟もうとせず、埃と破壊の跡だけが残る部屋を物色するかのように歩いている。

「そうか? ルヴァの血が流れるアルには、神秘という絶大な力がある。この城を造ったのもこの領主の神秘の力あってこそ。そして、あの護りの技を見たであろう。日記の後半を君も読んだはずだ。領主は侵撃してきたドゥダスの男、ゲピュラのことを話し合いも通じない獣と罵っている。それなのに、最後には剣を交えることを選ばずに話し合いを求めた。それだけならば、慈愛の深い者に見えるが、同時に彼は民への腐心を書き留めている。民を導く立場に追い立てられたのであろうが、如何なる理由があってもそれは己の決断というものだ。そして力があるアルは戦わねばならなかった。敵であるドゥダスのゲピュラに話が通じないのを理解しておきながら、最後には民を守るために戦うことをやめたということ。剣を持つ者が他者を守るために、他者を守り続ける存在として生きるために剣を抜くのと同じように、このアルも力を使い戦わねばならなかった。それをやめたこの領主は、つまるところ、自分のためにしか力をふるえなかったということ。民を守る領主には値せぬ」

「自分のためにしか? それはおかしいでしょう」

「何がおかしいと言うか。民への腐心を見てみよ。己が起こした行動への反応が気に喰わないからであろう」

「民が強欲なだけでしょう。それに応えようとこの領主は生きてきたんです」

「民の顔色を窺っているだけに他ならぬ。民の感謝に満たされることを生き甲斐とし、民の顔色に振り回されて生きた男ということ。己の心の刃を持たぬ男だったということだ」

「そんなことはない! 人のために生きるも者を馬鹿にするな!」

 鋼の鏡のようなガリエルの声が響いた。ディリアは片方の眉を僅かにあげただけ。ハルは、変わらず部屋を物色している。

「なぜ、そこまでこの領主を庇う? まるで、君は自分が馬鹿にされたかのような顔をしている」

 ガリエルは顎を筋立てて逃げるように視線を外した。ディリアはそれ以上問い詰めることはしなかった。ただ、その目に悟った色を湛えただけ。その色を見たものはいなかった。

「それより、ここの城が町にどんな危害を加えているのか、それに対する対抗策を見つけねばならない。ハル、ガリエルから預かっている本から何かわかったか?」

 ハルは窓の前で止まると、所在なく外を見下ろしながら答えた。

「アルは民に不満を抱きながらも、愛していた。だが、裏切られた。彼は戦わねばならぬとわかっていたとな。しかし、あの町の者どもがゲピュラに寝返った。領主に、戦わずに済むと進言し、犠牲を出して欲しくないと人の情による声で懇願し、領主に城での会合を開かせた。その結果が、これだ」ハルは破壊が横たわる部屋を示す。「アルは最期にこう言い死んだと記されておる。〝庇護は刃へと、血のみで贖われる〟。その言葉の怨念はその場で剣身に自らを刻み、言葉を聞いた謁見の間にいた民は八つ裂きになったそうな。その言葉を吐いたアルは後悔を目に浮かべながら、ゲピュラの振り下ろす鎚に抵抗しようと剣を掲げた。あとは言うまでもない」

 そう話し終えるが早いか、城が咆哮を立てたかのように振動し謁見の間から男の咆哮が轟いた。三人は三度の呼吸のあいだ様子を窺い、ディリアの後に続いて謁見の間へと進み出た。

 そんな三人のことを与り知らぬ町の者どもはいつものように暮らしていた。もうすぐやってくる冬至に備えて薪を割る者、塩漬け肉を地下室から運び出す者。門番は酒類を積んで冬越しのためにやってくる商人を心待ちにして壁の上から見張りを続けていた。その見張りの期待ははなから叶うはずもない。それは門番もわかっていた。この町はとある遺跡の影響かわからないが、街道には妖魔や亡霊がうろつき誰も来ないからだ。しかし、そんな街道に影が押し寄せてきた。刹那、門番は来客に腰を浮かばせたが、すぐに腰を重く下ろし、槍に体を預けて寒さとは関係ない震えに耐えた。影は、すべて妖魔だった。

 町のためを思い遺跡へとなんとか侵入した三人は、いま、過去の亡霊と向き合っていた。折れた剣をもつ妖気に満ち満ちた骸骨が、砕かれた座を鎧と纏い襲いかかってきたのだった。ここでもディリアの剣技が冴え渡っていた。しかし、相手は骸骨と翡翠の鎧を持つ不死身の戦士。すでに死んでいるために二度は死ねない。ディリアの剣に砕かれた鎧は砕かれた翡翠をもとにさらなる精巧な鎧へと変わり、人で言うところの致命傷たる攻撃をゆうに十回は喰らった頃には、かつてアルが纏っていたのであろう鎧の装飾まで再現したかのような立派な翡翠の鎧を纏った骸骨になっており、いまや妖気は膨れ上がり魔王の如し外套へと変化していた。ディリアの冴え渡る剣技が不幸にも相手の剣技を上達させるに至り、ガリエルが息を呑むほどの攻防を繰り広げていた。

「ハルさん、これじゃきりがありません。なにか、なにか呪いを解く方法はないんですか? 貴方の不思議な歌でどうにか!」

 ディリアと折れた剣の怨念によって形を成している骸骨の怨霊が戦う様を眺めていたハルは、ここでようやく気がついたかのようにガリエルを見た。

「それならばひとつある。あの魂が抱える怨嗟は、裏切りに対してのもの。裏切り者の血によって呪いは解けるであろう。ここで言うなれば、うぬの町の者の全員の血が妥当であろうな」

「——なっ、なにを?」

「血だ。裏切り者の血。どんな絢爛豪華な貢ぎ物も、言葉も、魂には敵わぬ。血肉には魂が宿る。ルスがオスのなかで巡り、時を重ねて色を持ったのルスがオルス——つまり魂だ。故に、魂は血肉のすべてに宿っている。重要な臓器であればあるほど、オルスは濃いが、そこは名名の心次第」

「つまり、俺が——」

 ガリエルは逡巡した。もはや力仕事も叶わぬ体、歳は若くとも己自身がその将来を築くことに疲れ果てていた。しかしながら、いまや怨念の骸骨となったアルのようにはなりたくなかった。ディリアの言葉が響く——心の刃を持たぬ男。

 ガリエルは命のやり取りが丁々発止と繰り広げられるなかに飛び込んだ。ディリアに向かって振り下ろされる折れた剣が軌道を変えてガリエルに吸い込まれるように閃いた。血飛沫が翡翠の床に音を立てた。斬られたは、寸前で折れた剣の狙いを読み取ったディリアであった。

「君がこの哀れな魂を擁護する理由がわかった。君は、このアルと同じように町のためと思ってこの呪いを解こうとしているのではない、自分が救われたいからだ。君は褒められても、それを鞭のように受け取っている。そういう者は多く見てきた。そして、わたしもそうだった」

 ディリアは立ち上がり、聖剣に軽く口付けをした。聖剣はすぐさまそれに応えた。情熱的に冴えた薔薇色の焔を巻き上がらせ、ディリアが聖剣を翻すと焔は飛翔して鷹を象り骸骨に襲いかかった。ディリアは冷や汗を流しながら、静かにガリエルを見上げた。

「他人のためであれ。しかし、それを責務とするな。責務とすれば、他人の笑顔、他人からの感謝を尺度として責務が果たされたかを判断するようになる。果たせない己を許せなくなり、やがて他人のためではなく、責務を果たしたという安心感を求めて他人のために動くようになる。他人の顔色、言動に振り回されるようになる。生きるのが辛くなり、そうなったら、もはや潰れるしかない。そうであってはならぬ。己を守るための刃を心に持たねばならぬ」

 炎を燻らせて手を伸ばし、ディリアの喉元を狙わんと混沌を纏う骸骨が剣を振り上げる。ディリアに立つ力は残されていなかった。骸骨の折れた剣に刻まれた文字——〝庇護は刃へと〟が閃いた。その閃きを打ち消すように飛び込んだ彗星の如き影は、ガリエル。ガリエルの肩から胸に剣が走り、鮮血が火花さながら勢いよく飛び散った。血の火花は骸骨の眼窩に吸い込まれ滾る炎の目玉となった。炎の目玉はぐるりとガリエルを睨み、無造作に剣を引き抜くと再び空高く振り上げる。一刀両断、そう思われたが岩のごとく剣を封じたはハルの雪のような声だった。

「呪いは解かれる」

 言葉と同時に折れた剣の片割れが吸い付くように地面から飛翔して、骸骨が振り上げる剣に澄んだ音を立てて本来のあるべき場所に戻った。それが合図となって空気が変わった。止まった。今から起こることを見守るように。混沌の焔を熾のように透かし細工の体に抱く骸骨のそれが心臓に変わり、鼓動とともに臓器が織りあげられ生々しく脈打った。束なる赤色の筋が筋肉を織り上げて白い皮膚を纏い、それは翡翠の鎧を纏う一人の男へと変わった。

 いまや、かつてこの城主だったアルがそこに立って、振り上げていた己の剣に刻まれた文字を硝子の冷たさで見つめていた。ふと、そのアルが地面に視線を外す。そこにあるは、哀れにも魂にほかならぬいまだ温もりを持つ赤黒い血を垂れ流し、浅い呼吸を繰り返すガリエル。

「余の念が呪いと化していたとはな」

 アルは城につもるどの埃よりも擦れた重い声で呟いた。

「しかし、かつて裏切りし者の末裔が、こうして血を捧げにくるとは思わなんだ。己の輪だけを考え、他の者を裏切ったあの町の血が、しかしこうして他人を守るために己を犠牲とするとは」

 そう言ってアルは、屈して膝をついているディリアと、その背後で静かに佇む人よりも物に近い雰囲気を纏う男を一瞥した。

「そこの緑目の者。尋常ならざる力を秘めておる。その理由を問うことはせぬゆえ、力を余に添えてくれ」

 そう言うなり、アルは膝をついて己の手首を跳ね上げ血の噴水を迸らせた。迸る生命の力をガリエルに雨のように降らし、ハルが神秘を織り上げるのと同じ響きを持つ超自然の声音でなにかを繰り返し呟いた。その呟きが収束すると、今度はアルの体の瓦解が始まった。毛は光の粒子となって肌を伝い、皮膚は溶けて血肉とひとつになると炎へと変わり脈打ち、収縮し、薔薇色の燃えたつ水の心臓へと変わった。アルであったそれがガリエルの体に溶け込むと、ガリエルの傷がくっつき湯気を上げた。激しい嗚咽と痙攣を経てガリエルは息を吹き返した。目にはディリアの驚愕の表情が写り、ハルの微笑が写っていた。

「お、俺は……」

「君は、わたしを庇って死んだのだ。庇って死ぬことは喜ばしいことではない。しかし、ありがとう」

「アスロスのもつ感情の形容に於いて究極的な美化にあたるもの。それによって織り上げられた神秘によって、うぬのオスは修復と再生を強制的に促進させられた。同時に、あのアルのオルスの流入によって、うぬのオルスの停滞が破られて再び肉体であるオスを巡るようになった。今度こそは、死からの復活と呼べるであろう。まこと、不思議なことよ」

 ガリエルは喉を押さえて、苦しそうに唾を飲み込んだ。水を求め城を出て、人の森までくると一行はようやく落ち着いた。

「つまり、俺が呪いを解いて町の危機を救ったということですか?」

「さもあらん。君の活躍だ。わたしでも、ハルにもできないことを君はしたのだ。誇ってもいい」

「はぁ……。俺はあの骸骨と戦った記憶もないのですが」

「誰かを助けるためになにかを犠牲にすることは難しいが、命を文字通りかけるのは難しいということを凌駕する」

「ディリアさんは、常にそうですよね。俺は、死んでしまった」

「わたしはわたしだ」

 ディリアの砂のように滑る言葉を、しかし、ガリエルの心を流れてはいかなかった。それは、まるで川底で光る金のような輝きとして灯った。

「そうですよね。俺は、俺」

 ガリエルは、初めて感じる感覚にゆっくりと笑みを浮かべた。

 かくして、三人は町に帰るために最後の旅を始めた。霊樹が織りなす幻想の世界には、纏わりつくようなルスの気配は消えていた。それは、深々とした森の香りと、それに浄化されてさらなる幻想という美を放つ森と動物に溢れていた。城から霊樹の森へ、霊樹の森から人の森へと漏れ出ていたアルの怨嗟は清められ、アルの庇護の薄衣をこの地が再び纏ったことを表していた。

 妖魔もいない街道を辿って町に帰った三人は、ガリエルとハルが出会った酒場で卓を囲んだ。

「それで、君は今回の活躍の報酬に何を望むのか」

「なにも望みませんよ」

「しかし、町の救世主だ。君がその気なら、わたしは然るべき口添えをするつもりだ。このハルもそのつもりであろう」

 ハルは琥珀色のグラスに注がれた酒を揺らしながら、「この液体となるべく蒸留され続けた葡萄のルスは限りなく純粋。その純粋を琥珀に染めたてるは木材の記憶。かつてルヴァがオルスで試した技を酒という趣向に変えるとは、いったいどの者の仕業であろう。興味深いことよ」

 まるで聞いていないハルに目もくれることなくディリアは酒で舌を湿らせた。

「報酬を受け取らぬのならば、君はこれからどうする」

「昔のように、この町の流通が栄えるように動くつもりです。まずは他の町に商人たちを送ることから始めます」

 そうか、とディリアは深い笑みを浮かべた。そこから数時間は今回の冒険のことを語り合った。ハルはやはり独り物思いに耽るだけであったが。やがて、硝子窓に夕陽が射しこむと、ガリエルは席を立ち店を後にした。

「人はこの酒のよう。見目は美しく保とうとすれど、その内面にはいくつもの感情が織り交ぜり混沌を孕む。が、見せようとせぬ。伝え、伝えられ、ただ動けばよいであろうに」

「そう単純ではないのが人。最終的に立つのは自分自身。それに気づけぬ者は、生きるのが辛くなる。そうなっては欲しくないからこそ、人は情をかけるが、かけられた人は気づけないまま終わるのが世の常。だから、もっとも手を出したい時にこそ、見放すようなことをしなければならない」

「ほぉ、それが愛とな」

「そう、貴方が理解できない、いや、貴方たちが理解できない、人の愛」

「それが世を乱す業であろうに」

 ハルはそう言うと、今までで最も笑みらしいものを澄んだ宝石の目に宿した。それを見返すディリアは喉の奥で一つ笑いを転がすと、席を立ち、飾り羽根付きの帽子のつばに指をかける。

「それでは、ご機嫌よう」

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