第3話 失う前に

 ――ありがとう。

 この言葉を心から発したのはいつだっただろうか。そんなことを考えることすら忘れてしまった青年は、悪戯に吹き撫でてくる金色に染まった森の風に悪態を吐きながら襟元を寄せた。目の前には低い山々の稜線が望洋と並んでいる。そのさらに先である南には年中白い帽子をかぶったクリマーレ山脈が見える。風が吹けば黄金の波とざわめきを奏でる眼前の山々も、あと少しすればあのクリマーレ山脈が流行の最先端だと言わんばかりにその真似をすることであろう。

 ゆえに、青年は急いでいた。あと半月もすれば、風に揺れることを自らの生と見定めていた黄金や紅に染まるもの達が、生命の乾きを迎えてようやく自らの本質を見極め、大地こそが我の母と見出し、その腕に抱かれんと舞うであろう。そうなれば、あとは風すら防ぐことの叶わぬ枯れた山肌にて、純白清廉の衣を纏いし終焉の申し子の白き口付けが待っている。さながら冠を授かるようにそれらを受ければ、山の中で凍え死ぬのは太陽を見るより明らかなのだから。

 ようやく町へ辿り着いた青年は、鼻腔を突き抜けるすえた人々の臭いと屋台から溢れる肉の旨い匂い、耳を逆撫でするような濁声の老人の店主の声に、東方の抑揚のついた訛りのある話し声など、一斉に身を包む喧騒に、なんとも言えぬ高揚感を抱いた。行商人や辺境の村の者、出稼ぎに出ていた者達の多くが冬越しのために古巣に帰り羽を伸ばしているこの空気感は、一年の大半を遺跡にこもり世界の真実を収集する彼には飽きた食べ物を久々に食べたときのような心地良さを与える。

 しかしそれも一口だけでよい。

 屋台の一つに目もくれなければ立ち止まることはない。足を向けるべきところは決まっており、遺跡探索で儲けた資金で借り受けている宿の最上階――といっても三階――に向かった。

 五年周期で青年は宿と町を変える。これには常人では理解しえぬ理由ゆえ。彼は雪のように白い肌を首元に巻いたスカーフで隠すように鼻まであげ、帽子をめぶかにかぶる。旅人の多くはそうしていたが、彼はそれを見せないようにするためであった。ひとたびその外見を晒せば、忘れる者はおらぬ。年頃の娘が彼の姿を一目見れば頬を薔薇の香りの如く染めあげ、自慢気に友達に彼のことを知り合いかそれ以上の関係であるかのように話すことだろう。酒場付きの宿に行けば、美を纏う者をまるで罪人のように目の敵にする哀れな醜い酒精の権化とも言える無精髭と黄色い歯を惜しげもなく披露する饒舌とも言えぬ男達が、彼の顔に拳をねじ込むことを酒の肴にしようとするであろう。美はすべてのものが羨み求めるが、生まれつき備えた者にはときに毒となるのだ。彼は――ハウデンファールの愛し子の一人であり最後の生まれであるファルンは、生きるために己の美を隠し、住処を転々と変えるのであった。

 この住処も今年の冬を越えたら別れの時を迎える。歳取らぬ、いや、確かに時を重ね老いてはいるのであろうが、人から見れば一向に外見が変わることもなければ、薄気味悪いほどに白い肌をもつファルンは噂にはもってこいである。ゆえに同じ町に何年も留まれない。混血のアルやドゥダスの王がやってきた神狩りの影響は、三百年が過ぎた後でも色濃く根ざし、王国に承認されていない魔法使いや、王族貴族でないアルの末裔達には、常に村八分か追放という仕打ちがついて回る。

 そうであるから、ファルンは今回の遺跡に向かう前に既に次の旅の支度は整えてあった。純粋なあどけない笑みで悪さをする子供さながらの純白さをもちつつも性は冷たい死の権化が街道を覆えば、この町に三つの月も滞在せねばならない。それは狼の小屋にとどまる哀れな羊になるようなもの。長く町にいれば、ファルンの並々ならぬ美貌は人を惑わし、最初は賞賛であろうがひとたびそれが翳れば台頭するは嫉妬。積み木抜き遊びの一つのように、ファルンを崩れさせようと負の感情が次々と彼を陥れようとするであろう。行き着く先を想像するは容易い。いまだ、神狩りの名残ある世であるゆえ。

 最後の支度である手袋を探し、ファルンは櫃を開いた。いつもそこに置いてある大切な手袋であった。魔法の手袋であっただろうか――否。上質な革であつらえさせた舞踏会にくる貴婦人の前で着けるに恥ずかしくない己の表面を庇護するものか――否。かつて彼が神狩りの被害に遭って逃げ延び辿り着いた村。そこで得たものであった。

 ファルンは櫃の中身を出して探し仕舞い、数秒考えを巡らせて部屋の中を険悪な顔でぐるりと見回したが、再び櫃に目を向ける。

(ここ以外にはおかぬ)

 ふたたび、時間を戻したかのように、演劇の場面を繰り返すようにそっくりそのまま仕舞った物を櫃の外に出す。

「なぜない!」

 巧妙に滑り込み彼の心を我が物としたは増悪、欺瞞、妄想。そしてそれらが産み落とす子供は愛をもつ人の業とも言える醜き心。合鍵を持つのは家主のみ。家主は人、アスロスだ。自らが理解できぬものを神と崇めるか排除するかのどちらかしか知らぬ虫けらどものその端くれ。ファルンの思考はタールの如くそれでいて蛇のように醜い心を織りあげていく。しかしファルンは人の心持ちながら人ならぬ者。神と崇められるルヴァのハウデンファールがかつての敵と御身から拵えた造物。それすなわち、人の心の流れとはわずかに違う性質を持っている。ルヴァの手が加わったその体は、巻きあがる焚き火の焔のごとき人の魂を瞬時におさめる。これはルヴァの命の調律者としての冷たい性ゆえ。

 怒りと疑念に乗っ取られたと思われたファルンは、甘色の髪をかきあげると深呼吸をして硝子の格子窓を見た。その横の机の前にやってくると、机を撫でた。

(いつから手紙を書いていなかったか)

 ざっと思い返すだけで三年は経っていた。かつて、ファルンがその身に酷い切り傷を負って村に忍び込み、一晩だけでもと影差す場所に座り込んだ。まるで、己が死期を悟った猫がするように。力なく夜空を見上げ、そこに爛々と輝く月があるのを見た。月の明かりのせいで見えづらくなっていたが、その横にある星座と凶星の位置から宙を読み、ふと笑んだ。死の危険を表していたからだ。父であり創造主であるハウデンファールから星読みの術を学び、それが好きであったにもかかわらず、昨今己の出自を忘れ生きることに必死となり、己を支えてくれる真の存在に気がつくのは己の死の間際。

(なんと皮肉なことよ)

 忘れ去られていた宙が今一度恋人たるファルンの目を向けようと彼に死を賜うたなら、なんと宙は罪深き恋人か。しかし、それこそが万人の褥たる夜の宙の性であり、夜そのものが彼であり彼女であり、誰のものにもならぬ。しかしながら、夜の世界に包まれるすべては宙のもの。ファルンはさながら魔性の女である宙の輝きを目に焼き付けて息を引き取ると思われた。そこに手が差し伸べられるまでは。

 節くれだった乾いた手。わずかに背を丸めたふくよかなその老婆は、なんとも優しい慈悲の微笑を湛えてファルンの傍に佇み、見おろした。

 そのふくよかな老婆は宙の使者であるとファルンは比喩した。夜の帳が降りた世界が恋人である宙が、死の間際に恋人のひとつを我が身に抱くべくこの世に倣った形を成したのであろうと。迎えに来たのかと思いつつも、ならば、どうしてもっと夜のすべてをつめこんだかのような艶やかな黒髪ではなく、星々の純粋な輝きに満ちた目を持ってもいなければ、絶世の美女でも、冴えた果実のように若くもない、火花散らせうる情熱を渇ききらし、今もちうるは囲炉裏で眠りを誘う柔らかき抱擁の暖のみであろう老婆なのか? しかし、それを口にするファルンではなかった。傷の件もあって言葉すら発することができなかったことが要因の一つではあるものの、なにより、失礼であるゆえ。

 その老婆はファルンが傷ついていることを認めると途端に人らしく振る舞った。人ゆえ。小さい目を瞠いて慌てふためいた。ファルンは男であるものの幸い美しさに傾いていたため体はしなやかで、すなわち老婆がかつげるほどであったために、家に連れて行かれた。傷を縫われ、あらゆる蜜を調合した老婆家伝の薬を与えられ、三たび太陽が大地を撫で終えるとファルンの傷は跡形も消え去った。それを見るや老婆は己の手際の良さと家伝の秘薬に、さながら魔女になった気分であった。または妖魔蔓延る霊樹の森に住まう呪術師か。宮廷で王の庇護にある魔法使いと微塵も考えなかったのは、やはり神狩りの影響にある土地であるからに。しかし、老婆は己にそんな力がないことは承知の上であり、したたかに生き抜いてきた魂の芯が考えを冷静にさせた。

 今、目の前で木の皿によそわれた煮物の羊肉を頬張る薔薇と宝石から生まれたような若者は誰ぞ?

 ファルンは老婆がありふれた人のような視線を向けてきたのを、目で見ずとも毛穴のすべてで感じ取るように察した。それを微塵も見せることなく煮物を平らげると、わずかな荷物をまとめ始めた。

「あんた、王族なのかい?」

 老婆の声には棘も罠の気配もない。あるのは純粋な疑問と、やはり包もうとする暖炉の明かりのごとし柔らかさ。ファルンは手を止めた。蛾が光に吸い寄せられるようなものがそうさせたのやもしれぬ。

「僕は、ネブリーナの吟遊詩人。追われている。ドゥダスの王の末裔が支配する土地で生きる哀れな人の獲物のひとつに過ぎぬから」

 老婆はその言葉を聞き取ったが、理解できたのはネブリーナの吟遊詩人だけ。

「ネブリーナの吟遊詩人と言えば、御伽噺に出てくる詩人さね。まぁ、旅人さんは旅人だけに、誰にでもなれるというけども」

 老婆は信じなかった。それもそのはず、神狩りが行われて三百年。その間にネブリーナの吟遊詩人でありハウデンファールが拵えし愛し子は姿を消していたのだから。それをいいことに物語と紡ぎ金子と変えてきた俗な吟遊詩人によって、ネブリーナの吟遊詩人は本の中の存在と化していた。それに、ファルンはネブリーナの吟遊詩人しか奏でることあたわぬハプートも持っていなかった。神秘を顕現させることできない彼が、どうしてネブリーナの吟遊詩人であると証明できよう? 証明する必要もないのだが、名乗ったはファルンの恩義の表れであった。または、己の居場所を求めたか。

「もしも、安心できる場所がないのであれば、もう一晩でも泊まって行けばいいさね。わたしの家はわたし独りのみ。この家も寂しかろうて」

 老婆の言葉は嘘偽りないように見えた。毛織の衣服を着込んだ背の曲がった老婆は、さながら刺繍針を刺す鞠のよう。その鞠が暖炉の蜂蜜よりも濃い灯りのなかで、陽光を瓶に詰めて熟成させたような芳醇な微笑みを向けて立っている。その背後の影は、老婆の心を写したものなのだろうか。微笑みの裏に寂しさが滲み出ていた。ファルンは心を奪われた。そして暖炉の前に舞い戻ると、もはや忘れたと思っていた歌と物語を老婆に聴かせた。ハプートは必要なかった。ハプートがあれば、幻想世界を老婆に見せて真の幻想体験を与えたことだろう。神秘のはかり知れない叡智のなかを泳がせてやることもできた。しかしながら、ファルンが与えられるは、美声と数百年によって織られてきた歴史という物語り。

 老婆はというと、本が好きだったことが幸いした。想像力もってしてファルンの物語りに入り込み一生を物語りのぶんだけ生きた。

 物語りを聴かせ、それを聴き喜ぶ。それが一年続いた。あっという間であった。束の間であったが、ファルンは家族という人の愛を初めて知ったのだった。老婆は、息子と夫を失い十数年ぶりにそれを味わい癒された。決して裕福でない老婆であったが、旅立つファルンに、一対の手袋を贈った。

 一年の間、匿い温もりを与えてくれた老婆からの贈り物に、ファルンは生まれて初めて涙した。それが涙なのだと初めて知った。それが幸せなのだということも。

「僕は町から町へと流れる風のように生きなければならない。今まで生きる意味さえ見つからなかった。それを見つけるために、遺跡を巡ってきた。これからは、あなたに物語りを贈るために、生きよう。そして、いつかふたたび物語りを贈ろう」

「楽しみさね。からだを大事にするんだよ。寒さは大敵だからね」

 ファルンは手袋をした手で老婆の手をいちど握り頷くと、旅立った。町につけば便りを送る。そんな暮らしを続けた。老婆からの返事は受け取れぬゆえ、ファルンの一方通行ではあったが。いまや老婆のなけなしの財から贈られた手袋だけがファルンの生きるよすがであったが、時とはなんと薄情か、どんなに大切なものの重みを消し去ってしまう。ファルンがその重みに再び気がつくのは、冬至の旅たちの前。しかし、それを思い出したところで今はよすががなかった。

 ファルンは窓際の机を見つめながら、去年も手紙を出すのを忘れていたことに愕然とする。今年こそはと考えていたが、どうだ、もう冬至を迎えるではないか。それどころか、唯一の世界の温もりとも言えるよすがまでをも失っているありさま。ファルンは途端に寒気を覚えた。外気ゆえの寒さではない。創られた器に籠められた魂の純粋な哀しみによる魂の劣化であった。ファルンはこの三百年の遺跡と研究によって、神である創造主たるルヴァが死す原因を突き止めていた。それすなわち魂の劣化、感情の波によって生まれるものである。調律者たる神の心は無限の凍らぬ氷と化した凪の湖面さながら。その調律者に織られた愛し子であるファルンもまた神の一部をもっていたために、齢三百年を過ぎても二十半ばの美男子であったが、ここにきて激しい感情を呼び起こした。彼の体は神に創られたが神のものでも人のそれとも違う、長寿たらしめる氷のような魂に感情を逆立てさせたのはなにか。それは彼の美貌たる器に流し込められた人の魂。ゆえに、人の心と同じだけ感情を燃やし自らを苛んだ。

 初めて知った感情であった。そしてこの涙も初めてのものであった。老婆から手袋を渡された温もりの涙は、太陽がもたらす一雫の不死の蜜であったが、此度の涙は心を焼き潰し際限なく続く煉獄の毒。

 ファルンは涙で歪む視界のまま、洟水もそのままに櫃をひっくり返し、もとより少ない荷物を大袈裟な幼児の必殺技である駄々ごねのごとく部屋に撒き散らかしながら、よすがを探した。この時、部屋で彼を見るものがいたら、恐れ慄き「悪魔」と洩らしたであろう。ファルンの泣き顔には皺が浮かび始め痩せ細り始めていたのだから。

 いまや彼の心という広間は負の舞踏会の真っ只なか。賓客は後悔、懺悔、焦燥、それらに似た数多のもの。遅れてやってきたのは怒りであった。

「なぜだ!」

 その己の叫びに、ふとファルンは冷静に戻った。感情の吐き捨ても初めてであったゆえ。そして、ぽつんと寝台に寄り掛かり、目元にかかる前髪を掻き上げた。そして、もくもくと旅立ちの準備を始めた。荷物をまとめ、鍵をかけ、冬の旅立ちの際に着る羊毛の裏地の毛織の外套を羽織ると、部屋を出た。家主に鍵を返し、目星のつけてある次の町に向かうべく正門へと向かった。外の寒さに一度震え、ふと手袋を着けようと胸元に手を伸ばし、先程の感情が戻ってきた。しかし、同時に雷光閃くが如し、ファルンは呼吸を忘れて胸の内ポケットに手を伸ばす。

「なんと」

 いつも着る外套のポケットに入れておけば絶対に忘れない。去年の自分の思考が蘇り、ファルンは膝から力が抜けるのを感じながら手袋を手に取った。そして改めて見つめた。どこにでもある丈夫な手袋だが、その実は、細かい作業がしやすいように皮の裁断の方向まで考え抜かれた逸品だった。同時に老婆の笑顔が心に滲み出す。

 もうその時には、ファルンの心は決まっていた。

 見つかったが、一度は失ったのだ。しかし、ほんとうに失う前に手袋が教えてくれたのであろう。

「――ありがとう」

ファルンは手袋を胸に抱きとめると、歩き出した。もう寒さは感じていなかった。聴かせる物語りをどう味付けしようかと、寒ささえ物語りの登場人物として迎えていたゆえ。

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