第2話 スバニアのディリア

 神から授かった神秘と使命によって世界の争いを平定するスバニア騎士国が、芸術の都プルッケル自由都市を護るために剣を抜き、いま眼前の敵を屠るために馬を走らせる。蹄を空高く掲げた漆黒の鬣を靡かせる戦馬のなんと雄々しい姿か。

 それを駆けるスバニアの騎士達もまた、非凡な才に恵まれたもの達であった。鎧を纏わず、つばが反り返った洒落た帽子に飾り羽根を添えて、華やかな霊銀糸の絹織物の装束に天鵞絨の外套をはためかせた。さながら蝶のように、蜂のように舞う剣術、宮廷魔法使いすら目を瞠る神秘を操る騎士である彼ら――エスはわずか十騎で草原を駆け抜けた。その顔に恐れなど微塵もない。轟く馬の蹄の音に合わせ、彼らの胸の内に沸き立つものが、その表情を彩る。

 傲慢ではない確かな自信に満ちた微笑を湛えるエスが迎え撃つは、クリマーレ山脈の鉄の王達が率いるクリマーレ連合軍。その数二千。たった十騎のエスは、しかし、これらを打ち破った。エスの剣は風を刃とすることも、炎の鞭として罪人ならぬ敵兵を切り裂くことも容易く、あるエスは地面を割って敵兵を生きたまま大地の割れ目へと閉じ込め、ある者は水の力で敵兵の体そのものを侵食し内部から破壊した。

 そのような人外なる戦法なき戦いをする彼らスバニアの騎士たるエスは無敵に思われたが、所詮は人。人が息切れを起こすように、はたまた寝てはならぬ馬の上で船を漕ぐように、肉体と精神の疲労により刹那の隙が生まれる。こうして一人のエスが、敵兵の刃を受けた。

 人外なる力を振るうエスは仲間を巻き込むのを避けるべく肩を並べて戦わない。それゆえ、この刃を受けたエスは孤立無援であり、次に起こることはさながらハイエナの奪い合いという渦中の人物である肉塊のごとき運命に終わると思われた。事実、そのエスはそうなると予感し、走馬灯なるものを脳裏で走らせたほど。

 しかし、一人のエスがこれを助けんと戦場を駆け抜けた。さながら風のように敵兵の間を縫い抜け進み、間一髪のところで致命的な一撃を阻止するに至った。そのような所業は褒め称えられ、感謝され、崇拝されるが、往々にしてそれを為した者は不運を被るのが世の常。例外なく、仲間を助けるべく、死地に飛び込んだこのエス――エス=ディリア・エル・ブリデンは、抜け目ない敵兵の一人に脇腹から深々と心の臓に向かって刃を突き立てられた。

 このディリアの犠牲によって助けられたエスはというと、奮い立つ思いから英雄の如く立ち上がり戦場に舞い戻った。そのエスの活躍はめざましいもので、この日この戦を制するに至り、その結果、長きに渡って続いていたクリマーレ連合軍との戦争への終止符となった。

 戦の勝利に沸き立つスバニア騎士国の王都スバニアでは、誰もがエスを湛え連日祝賀の音頭が鳴り響いた。パンは安くなり大盤振る舞いが行われ、高い花が飛ぶように売れて、街の通りに面する窓には青色の薔薇が咲き誇り王都を鮮やかなものに変えた。異国の商人が南の海を越えたペイポースト商国の品々をのせて来航し、金を地としながら青、緑、赤の鮮やかな金糸で織り上げられた錦織の壁掛けや装束が商人の懐をこれでもかと暖かくした。北国に数えられるスバニア騎士国では、南国の海に生きる者達の襟のない流線的で独特な美しさを醸し出す服は少々寒すぎたが、それでも皆こぞって買った。

 王都が賑やかなだけではない。戦勝の立役者にしてこの祭りの台風の目となるべきスバニアの騎士と、それらの目指すところである英雄たるエス達を讃える式典も開かれた。騎士王その人もエスを称えたが、臣民の前で開かれる式典に参列を赦されたエスは十人いるなかの九人のみ。

 彼らは戦争の名残さえ見せぬ騎士らしい正装に立ち振る舞いで、臣民を熱狂の渦に巻き込み、そしてその姿はスバニア騎士国の栄光を確実なものと全ての者に理解させた。さすがのエスも戦場で無傷とはいかないが、彼らが傷つくことは国の威信に関わること。すなわち、神から力を授かり、世界の争いを平らげるために、他国の戦争に介入して力を振るうことこそがスバニア騎士国に与えられた神の意思であり、その意思を執行する彼らが傷つくことは、スバニア騎士国を揺るがすこと。ゆえに、超人的な力をもつと云われるエスとその頂点であるエクエスが傷ついたというところを見せるべきではないし、赦されない。

 だからこそ、この式典には立つべき本来の男、戦勝の影の立役者であり、真の勇気をふるった者――エス=ディリア・エル・ブリデンは参列を赦されず、人知れず設えられた病室で国が沸き立つ声を聞くことしかできないでいた。

 ディリアも神の力である神秘を操る者の一人として、神の意思を信じていたし、エスの矜恃がある。だからこそ、彼の顔は懺悔の深淵を覗くかのように険しい。騎士道を歩む彼の心の中には、己が怪我をし、人々に希望を与えられない存在になってしまったことへの自責の念が、深い刺し傷よりも彼を蝕んだ。

「わたしは、ふたたびエスとして剣を握れるのだろうか」

 ディリアは式典の音が間遠に聞こえる窓際で、ぽつりと呟いた。風が答えてくれるとでも思ったのか、はたまた自分を貶めたくて、敢えてかような弱気を口に出したのか、誰も知らない。当然だ。彼自身、その答えを探して口に出したのだから。その結果は、彼の自嘲の薄い笑みだけが知る。

 幸か不幸か、敵の刃は心臓を少し傷つけて止まっていたため、ディリアは命をとりとめた。しかし、怪我をした体はひきつり、思うように動かせず、心臓が己の役目を果たそうと激しく脈打つことあれば、破裂し命を失うという厳しい条件つきで繋ぎとめられた命であった。

 人のため世のためと教わり騎士道を歩いてきた彼にとって、剣を握れぬことは生きながらに死ぬことと同じであった。エスという階級に誇りを感じ、そこに甘んじることなく精進してきたのも、その姿が他者の道を照らす灯火となると信じていたからだった。ゆえに、剣を握れぬことが何よりも恐ろしく、すべてを奪う吹雪のように彼の命の熱を奪う。

 スバニア騎士国の王都内が、一つの戦勝の熱狂が覚めた頃、騎士団を纏める騎士のなかの騎士にしてディリアの夜道を照らす北極星であり、エスが目指すところであるエクエスが病室に訪れた。かつて、スバニアは彼に従士として見出され研鑽をつみ、彼を目指して騎士道を歩んできた。会うことすらままならぬ存在であるが、このときばかりはディリアの心を曇らせた。その曇らせた心に、彼は非情にも、あまねく人を何よりも深く鋭く切り裂くことができる刃を振り下ろした。言葉という刃を。

「ディリアよ。そなたの騎士道を歩む姿と行いは多くの戦士を照らし、従士に騎士がなんたるかを教え、エクエスである私に、今一度、騎士道がなんたるかを思い起こさせてくれた。かつて、黒銀から騎士団が生まれたように、騎士道精神は黒銀に帰す。〝闇に生きる小さな輝き、希望を灯し、闇を切り祓わん〟今のそなただからこそできることがる」

 すなわち、彼に与えられたのは武術指南役。城の石壁の中でこれから戦士になろうという者に武を教え騎士道を敷く。日にあたらぬ夜道を歩く者。エスとして人々の先頭に立ち、輝き続けることを生きる意味であり存在理由としてきたディリアに、それは死刑宣告と同等であった。

 しかし、ディリアを切り裂いた致命傷はそれではない。エスという称号を付けずに呼ばれたことが、彼の内側に残る淡い期待と希望、復活の活力を消し去ったのだった。それでいて、同時に、軽くなったようで疼く不思議な感覚をディリアは抱いていた。その複雑さに、ディリアは浮かべる表情と発するべき言葉を見つけられないでいた。

 無表情で木にでもなってしまったかのような彼を前に、騎士団の頂点にしてディリアの北極星は、いたたまれない表情を川面に写る刹那の如く浮かべると、部屋を後にした。

 ディリアはこの後、自分がどうやって病室から出て、王都を出たのか定かではない。覚えているのは、ただただ背中を押す羞恥心。彼は、エスとして与えられた豪華な全てを売り払い金子を工面すると、岩漿に含まれる神秘の源であるルスで育つ銀霊樹より織り出される奇跡の糸である霊銀糸の胴衣――己の心臓の手前で刃を防いだのは一重にこの奇跡の糸のおかげ――と、華美な装飾を売り払った、ディリアをエスたらしめた聖剣の刃のみを残して王都を旅立ったのだった。

 古着屋で揃えた旅装束を纏い、彼は自分をエスたらしめる神秘の力を顕現させる聖剣の刃を一刻も早く振るえる剣にするべく、最初の大きな町で鍛冶屋に寄った。そして、柄と鞘を所望した。これが鋼か鉄の剣刃ならば鍛冶師も仕事を請けたかもしれないが、聖剣の刃は神の技たる神秘で織られたもの。それがわからぬほど剣に無頓着な鍛冶師はいない。

 鍛冶師は刃を見て唾を飲み込むや、ゆっくりと金槌を握り締め、扉までの距離を測るようにディリアと扉口を交互に見た。そして、低い声でこう言った。

「盗人め。騎士団に突き出してやる」

 なんと従順な臣民であろうか。あわや金槌でどつかれそうになるのをディリアは躱し、鍛冶師の「盗人を捕まえろ!」という鬨の声に反応した善良な市民、またはお祭り騒ぎに便乗した祭り男達から、ディリアは這々の体で逃げ出すと町を出た。王都よりもっと遠い場所の田舎の鍛冶師にでも頼もう。そう考えて、ディリアは東へと放浪した。

 神なき混沌の時代に、護身用の剣ももたずに街道を歩く旅人がどうなるか、ディリアはよくわかっていた。しかし、スバニア騎士国の王都に近いところは安全だ。あの町が物語っているように、街道には多くの騎士団の警邏の者がいる。しかし、一週間ほど歩き、ひとつの川を渡ったところで、ディリアは気を引き締める。野営するために腰掛けた木で、全身に満ちる倦怠感を少しでも癒すべく葉擦れの音に首をあげると、なんとまぁ、頭上には縛られた縄のせいで顔が黒くなっている骸が揺れているではないか。ディリアは倦怠感を表す以上のため息を吐き出すと、街道から逸れて森の中にある大樹の洞で夜を明かした。

 やがて辿り着いためぼしい町にたどり着く。そこは、太陽がすぐに山にかかり、一日の大半が薄暗い山間にある町だった。

 宿を探すよりも早く、ディリアは町の外縁部を練り歩き、河の近くにあるであろう煙突のある家を探した。町に引いた河の近くに、やはりそれはあった。外には屋根だけの場所に大きな炉があり、炉の前には土壁の桶のような場所に石炭が敷き詰められ、熾のように赤く燃えて風に明滅している。火花舞い散るそこに刺された刃の一振りを取り出した鍛冶師が、炉の中に刃を入れ、橙色に近く赤熱したところで炉から取り出し、金床の上で叩き再び炉の中に入れること数回。焼き入れを終えた鍛冶師に、ようやくディリアは話しかけた。

「人の仕事を邪魔せんとは、いい心構えだな。あんた、どこからきた」

「旅人にそれを尋ねるか?」

 鍛冶師は静かに、ゆっくりと笑みを見せた。

「旅人の全員がわけありってわけでもなかろう? しかし、まぁ、いい。それで?」

 ディリアは柄の無い聖剣の刃を、包んでいた麻布を少しはだけさせて見せると、柄と鞘を所望した。装飾のない、ありふれた一振り。

 鍛冶師の目が、ちらりとはだけた刃を見て鋭く光った。そして、ディリアを素早く見る。その意味を察したディリアは、刃を手早く包むと踵を返した。

「おい、別になにも言っちゃおらんだろ。あんたは、あれか? コンティーレか?」

 ディリアは肩越しに振り返ると、その意味を尋ねずに問い返した。

「私は報酬はしっかりと払う。やるのか、やらないのか、どちらだ」

 鍛冶師は、もったいぶった様子で無精髭が生えた顎を太い指で撫でると、眉をあげた。

「いいだろう。だが、支払いはペイス硬貨で払いな」

「なぜだ。ここはスバニア領内でも東よりの場所。なぜ他国の、それも南のものを欲しがる」

「戦争のせいさ。戦争をスバニアが平らげても、その後の処理は依頼主の国が行う。東はクリマーレとの戦争が終わったが、すぐに安定するもんじゃない。ここは国境付近だし、国外のものを仕入れるにはペイス硬貨が一番安定だ。商人なら誰でも知ってる。もちろん、旅人もな」鍛冶師はぎろりとディリアの顔を覗くように見上げた。「あんた、見たところ王都のもんだろ。わかるぞ。立ち振る舞いで流れの傭兵でないのは一目瞭然だ。それに、その身なりの旅人が、どうして剣を簡単に拵えられる金を持ってる? それだけじゃない。あんたは健康すぎる。その服装のやつらはあんたほど食えるもんじゃない。なら、あんたは王都から流れてきた者だ。それにその剣だこはごまかせん。あんた、スバニア騎士国の戦士か? 給金に満足できず、エスから聖剣をくすねて逃げ出したのか?」

「盗みなどしていない」

「あぁ、そうかい。盗人はみなそう言う」

 鍛冶師は再び石炭で熱せられた刃をやっとこで掴むと炉に入れて火を見つめた。ディリアは、去ろうと考えたが次の町までどれほどかかるのかわからないうえに、剣無しで街道に出るのも気が引けた。

「わたしの出自を明かすつもりはない。しかし、剣をなんのために振るうかは明かそう」

 鍛冶師が理解するように頷いたが、その表情が意味するところを背中越しに察するのは難しい。ディリアは、少なくとも嗤ってはいないと認めて、続けた。

「スバニアの者として、騎士道がなんたるかは理解しているつもりだ。わたしは剣しか知らぬ。今までのように世のために剣を振るうことができないと知って、わたしは、確かに逃げ出した。しかし、騎士道から逃げるつもりはない。進むためにも、剣が必要なのだ」

 鍛冶師は、ふん、と鼻を鳴らした。

「そうかい? なら、なんでこんな御大層な刃に拘る。一介の戦士が持つには、高価すぎる。これを腰にぶら下げて歩く自分を想像して酔ってるんじゃないか? 上等な言葉をいくらこさえようと、あいつらとなんら変わりない。あんたはコンティーレだ」

 ディリアは先も耳にした聴き慣れない言葉に眉をしかめた。

「先ほども申したな。コンティーレとはなんだ?」

 今度こそ、誰が聞いてもわかるような嘲った笑いを鍛冶師が響かせて振り返った。

「紳士なる傭兵を知らんのか! スバニア騎士団を抜けて傭兵をやっている奴らさ。理屈をこねまわし騎士道を標榜し、それの下で己の暴力を金とする者達。他国の戦争に介入して、戦争を請け負うスバニア騎士国も同じことをしているかもしれん。しかし、騎士団は行き過ぎた国が起こす戦争を止める世界の剣として騎士道を貫いている。そのおかげで領土内は比較的安全だ。だが、コンティーレってのは、騎士道を個人的に都合よく振り回し、金を得ている傭兵だ。受ける仕事も賊まがいなことをしている。立ち振る舞いは王都で学んだのか紳士的で、それに知的なことから、紳士の傭兵を意味するコンティーレと呼ばれているが、所詮は欲のために人を殺すだけの奴らだ」

 皆の目標であり手本となるべきエスは、騎士道に疑問を投じるような会話を仲間内でもしない。だからこそ、騎士団のもっともありふれた階級である戦士達が、自分の給金をどうやって稼ぐかということに貪欲なことを、ディリアは知らないでいた。家族を養うために精進する者の多くは知っていても、騎士道を捨てて騎士団を抜け、他者を貶めてまで己を満たそうとする者が、スバニア騎士団にいるとは考えてもみなかったのだ。だから、鍛冶師の話には耳を疑った。しかし、それ以上にディリアには先ほどの鍛冶師の言葉が心に引っかかっていた。

「騎士道を標榜し、庇護とし、その下で正義を執行する。しかし、真なる内は、理屈をこさえ己を満たすべく力を誇示する。それがコンティーレということか」

 なれば、とディリアは己の聖剣の刃を見下ろした。エスとなり下賜されたこの剣と共に戦場を駆け巡り、世のため人のためと思って生き抜いてきた。己をエスとして築き上げ、自分たらしめるに至ったこの聖剣を頑なに手放したくないと思うのは、なぜか。力の誇示ゆえだろうか?

 いや、とディリアは目を瞑った。スバニアの騎士であるエスが下賜され命を預けるこの聖剣は、人ならざる技で編み出された特別な剣。エスは神秘を扱う訓練を受けるが、その神秘を顕現させるにはこの特別な聖剣が不可欠であった。魔法使いに魔具が必要であるように、エスにはこの聖剣が必要だった。神がスバニア騎士国に与えた力、それがこの剣を織りあげる神秘なのだ。その神秘を生かせるのが、エスである自分――そう考えて、ディリアははっと目を開いた。

「あたかも正義かのように、理屈をこさえ、誇示する」

 ディリアの呟きに、鍛冶師は問うような視線を向けてきた。ディリアの心は決まっていた。

「神ハウデンファールの叡智によってスバニア騎士国にたらされた神秘、その一つであるスバニアの血統紋剣の刃と、あなたが鍛え上げた最高の一振りを交換してほしい。装飾はいらない。人を助けるための己が身を護る剣を、わたしに鍛えてくれ」

 鍛冶師は手を止めると、ひとときではあったが真剣な面持ちでディリアを見据えた。そしてディリアが差し出す麻布に包まれた聖剣の刃を受け取った。鍛冶師は、刃を直接見つめるや、幾千もの鋼を鍛え上げてきた指で水面の細波のような紋様を浮かばせる稀に見る鋼ならぬ剣刃を撫でると、感嘆の息をついて見せた。そして、ディリアを見ると、ゆっくりと黄ばんだ歯を見せる。

「交渉成立だ。二週間後にまたここに来い」

 そう言われ、ディリアはひとまずは安心して眠る夜を得たが、それもたったの一晩だけ。ディリアが暇つぶしに鍛冶場に寄ってみると、鍛冶師はいなくなっていた。ディリアは鍛冶場を何度も訪れた。街の者にも鍛冶師の居場所を問うた。そのうち、時折ではあるものの、鍛冶場内に灯がついていることもあり、何かしていることは理解できたが、正直、ディリアは不安だった。

 血統紋剣は、国が保有する神秘の力で織られたもの、いわば国宝のようなものであり、また、神秘は国力を左右するたいそうな力であり、それが他国に渡ればどうなるか分からない。神が織った神秘は神にしか紐解けず、人がそれを解き解明し、再び織り成すことなどできないゆえに、他国に渡ったとしても手に余る。そうとわかっていても、相当な値打ちになることは変わりなく、鍛冶師があの刃を持って逃げたのではないかと、三日過ぎたあたりから気が気ではなかった。

 しかし、二週間が経ってディリアが乱暴に扉を叩くと、鍛冶師が待っていた言わんばかりにディリアを中に手招いた。鍛冶師の顔は憔悴し、幾分か痩せたようにも見える。しかし、その削れたぶんだけ高揚しているようで、薄暗い家の中も相まって少々どころではない不気味さを帯びている。

「約束どおり、華美な装飾はない。過酷な状況にも耐えられるよう、柄の革はボサオン大砂漠の霊獣ナミルンのバット部分の皮。汗に滑らず吸い付くようになじみ、それでいて神秘を使ったときの耐熱、耐水、神秘による侵食を抑えてくれる。手を護る部分は、装飾はいらないということだったが、水流の透し彫りを施した。派手さを無くすために表面は金剛砂やすりで細い傷をつけて、雪花石膏のような滑らかさを施した。素材は、剣刃と同じ、銀霊樹から取られる霊銀。どうだ、気に入ったか?」

 ディリアは言葉が出なかった。まず、注文が違う。聖剣の刃と交換で、この鍛冶師が打つ最高級のものを所望しただずだったが、目の前に食えと言わんばかりに差し出された剣の刃は、見間違うはずがない、己が手放すと決めた聖剣の刃であった。それに、この鍛冶師のこの剣に対する入れ込みはなんであろう。ディリアのようなエスは、いろいろな国の軍と戦うため、それはそれは数多くの敵と出くわしてきた。稀代の呪術師と謳われる神秘使いや、神の遺物である魔具を操る大魔法使い、はたまた霊獣をどう手懐けたかは分からぬが、霊獣を駆る獣使いと戦うこともあった。そうであったから、この鍛冶師が言う霊獣ナミルンがどのような霊獣であるかも知っていた。かの大砂漠で、単独で狩を行う豹に似た獣で、鋼の刃はまず通らず、なんにせよ殺すことならず出会うことすら稀な霊獣である。それの最も高価な部分の革を使っているだけでなく、護りの部分には、どうやって手に入れたかは与り知らぬが銀霊樹から取れる霊銀。そもそも、霊銀は〈世界の壁〉と呼ばれる山脈に住む排他的な部族が採掘を行なっていて、神秘の力を顕現させるのに必要な金属であるために、国が交渉して仕入れるのが基本で、個人で手に入れるとなると、それはそれは調達が難しい。そのような数々の珍品で聖剣の刃を剣に変えたのはなにゆえかと、ディリアは剣を見ながら口を開いた。

「いろいろと、食い違っているようだ。これは、わたしが手放すと決めた刃であり、あなたが鍛えた最高の一振りと交換する約束だったと記憶している」

 鍛冶師は、ゆっくりと笑んだ。暗い部屋だというのに、黄色い歯だけはよく見えた。

「あんたの事情は知らない。しかし、これを手放させるほどのあんたの信念、間違いなく騎士道だ。コンティーレと蔑んだ俺を赦してくれ」鍛冶師はふと視線を外して俯いた。「あんたの言葉、焼き入れのように身に染みた。〝人を助けるための己が身を護る剣〟か。剣ってのは、そうあるべきなんじゃねぇかって、思わされた。人殺しの道具には変わりないけどよ、そういう想いを籠めた剣ってのが切り拓くものってのは、悪いもんにはならない。そう思った」

「騎士として当たり前のことを言ったまで。どうしてここまで」

 鍛冶師は重いため息を歯の間から漏らした。

「昔、コンティーレが俺の元に来たが、依頼を断った。俺は、騎士を辞めたコンティーレが嫌いだったからだ。機嫌を損ねたあいつらは、あることないこと吹聴して回ったんだ。とうぜん、仕事も減った。だが、俺にはどうでもよかった。だけどな、嫁は、それが赦せなかったんだろうな」鍛冶師は力なく笑いを洩らした。「俺が騎士道を持つ鍛冶師だと、そのコンティーレに面と向かって言ったんだ。背が小さいのに、うんと見上げてよ。そんで、騎士道を説き、俺がこの前言ったように、コンティーレを蔑んだ。その結果、わかるだろ? あいつは、死ぬより辛い目に遭わされて……」

 鍛冶師は、ぐっと剣を握って黙り込んだ。ディリアは、鍛冶師の堅い手に手を重ねて握ると、そっと剣を受け取った。そして、二歩離れると剣の出来栄えを確かめた。短く鋭い音が風を切る。ディリアは頷いた。

「見事なバランス。今まで以上に、よく手に馴染む。あなたのこの仕事に報いることが叶うかわからないが、わたしは全力で騎士道を歩み続けよう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る